この春娘が卒業した大分県の県立高校の教職員、PTAの不正常な状況や、違法行為による保護者からの強制的なカネ集めの実態をこのHPで紹介し、その主要な部分を拙著『公立高校とPTA』という書籍にまとめ、3月に刊行しました。昨日、出版元の不知火書房から、「公益社団法人 日本図書館協会選定図書」に選定されたという連絡を受けました。多くの図書館でこの本が読めるようになることを期待しています。
さて、この本にも書いていますが、高校の違法で強制的なカネ集めについて、別府警察署に2件について告訴し、2014年8月4日に受理され、検察に送られていました。まず、告訴状を示しておきます。
告訴が受理されてから既に10ヶ月以上が経過していましたので、どのような状態なのかを、昨日、別府警察署に出向いて確認しました。担当刑事によりますと、既に検察に送り検察の方で検討しているはずだが、警察では状況を把握していないということでした。
そこで本日朝、大分地方検察庁に問い合わせたところ、どのような状態かを調べて知らせるということでした。本日6時過ぎになって、担当検事から電話があり、開口一番「ちょうど、こちらからも連絡しようとしていたところでした。」と、誠に調子のいい(笑)話です。そして「ご期待に添えなくて申し訳ないのですが、不起訴にすることになりました。」と、まあ、予想通りの回答でした。
私は不起訴にした理由を説明するように求めたところ「被告訴人に対して事情聴取するなどした結果、起訴する必要がないと判断しました。」というのです。そこで、不起訴にしたことは分かりましたが、具体的にどういう理由で不起訴になったのかを教えていただかなければ納得のしようがないと、重ねて説明を求めたのですが、「被告人に事情聴取するなどした結果、不起訴としました。」と繰り返すばかりでした。私は「それは理由を説明しているのではないではないですか、理由を説明してください。」と繰り返したのですが、押し問答が続くばかりでした。正に安保法制の国会における政府側の答弁と同じです。「私が合憲と思うから合憲です。(笑)」
私は多少腹に据えかねたので「日本の司法など権力のためにあることがよく分かりました。司法など役立たずですね。」と捨て台詞を吐いたところ、しばし「・・・・・・」。まあ、木っ端役人をいじめても仕方ないので、そこまでとしました。
後日、正式の文章が届くようなので、また紹介することにします。
今回の件でも分かるように、行政・高校・PTAの明白な違法行為でも、個人で告訴して起訴にまで持ち込むということは非常に難しいことです。行政は高を括っているのでしょうが、起訴に至らなくても告訴し続けることが必要だと考えます。
熊本に下宿した娘のところにNHKが来たせいか、久々に私のところにもNHKからの依頼を受けた集金人が現れました。ふざけた話です。
私は2006年10月6日に集金人に「NHK放送受信契約および受信料支払い拒否の申告」を渡し、受信契約、受信料の支払いを行わないことを申告し、どうしても受信契約がして欲しいならば、申告書の内容に対して何らかな回答をした上で、改めて受信契約の勧誘に来るように通告しました。それから数回、集金人が現れましたが、NHKの職員が説明に訪れることは今日までありません。念のために、集金人が来るたびにNHKにもメールで連絡をしていますし、NHKからホームページへのアクセスが有りましたから、彼らが知らなかったわけはないのです。
前に拒否したとき以上にNHKの体質は遥かに堕落しています。現籾井会長、元経営委員百田などを見れば、およそ公共放送の名に値しないことを象徴しています。
今回も、集金人には何らかの回答がない限り話には応じないことを述べ、お引取り願いました。
No.230 (2006/10/06) NHKが来た!!
No.303 (2007/10/28) NHKが、また来た!
No.316 (2008/03/18)
NHKが、またまた来た!!
No.330 (2008/06/07)
改めてNHK受信契約を拒否する
No.332 (2008/06/13)
権力・NHK・司法〜鉄の三角形
No.944 (2014/07/11)
驕る安倍政権によるNHKに対する恫喝
No.967 (2014/12/04)
NHK・御用報道機関による争点隠しの誘導を憂う
No.998 (2015/05/25)
武田邦彦著『NHKが日本をダメにした』
No.1004 (2015/06/27)
安倍・籾井・百田・NHK=マスコミ潰しの鉄の三角形
NHK経営委員の“個人的”資質について
昨日の大分合同新聞の朝刊2面に小さな囲み記事が掲載されていました。まず記事を紹介します。
6月25日に開催された安倍晋三に近い若手議員の学習会に、安倍晋三のお友達であり、鳴り物入りでNHK経営委員に押し込んだ、大ヒット映画『永遠の0』の原作を書いた人気右翼作家百田尚樹が講師として呼ばれたそうです。
学習会に参加した安倍晋三に近い若手議員たちは、安倍晋三等のマスコミ対応に学び、この会合を開いたのであろうと思われます。そこで飛び出したのがマスコミ弾圧をどう実行するかということなのでしょう。
記事にはありませんが、百田尚樹は沖縄の基地問題に対して、「米兵によるレイプが問題視されているが、沖縄自身のレイプ犯罪の方が発生率が高い、沖縄の基地は畑ばかりのところに作られたが、米軍相手の商売で儲かるから自ら進んで基地周辺に移り住んだ、基地の地主は大金持ちで六本木ヒルズに住んでいる」などとも発言したようです。あきれ果てたものです。
おそらく、インフォーマルな学習会ということで参加者の本音が出たものでしょう。昨日の国会安保法制特別委員会の審議で民主党の質問で事実関係の確認が求められ、委員長が事実を確認した上で再開された午後の審議で、民主党の辻本氏が安倍にコメントを求めたが、私は直接知らないとして、一切反省の弁はありませんでした。それはそうでしょう。安倍晋三は本音では同じ気持なのでしょうから。
今朝、私が見たのは初めてですが、NHKの朝のニュース番組でこの事件の報道が流れていましたが、この学習会の講師が元NHK経営委員である百田尚樹であり、彼自身が沖縄の新聞社を潰すべきだと発言したことには一切触れませんでした。さすがです。またしてもNHK受信料を拒否するための理由が増えました(笑)。
通常国会の会期切れを前に、史上最長の95日間の会期延長が行われました。勿論この会期延長は安倍の悲願である安全保障法制の改悪を断行することだけが目的です。
既にここまでの国会論議において、安倍ファッショ内閣の提案している安全保障法案は完全に憲法違反であり、法律として見ても穴だらけのボロボロの法案であることが明らかになったと考えます。これ以上の審議など無意味です。会期を延長したところで、安倍政権はまともな国会議論を行う気は毛頭ないことが明らかです。いや、まともに論理的な回答をすればたちまち憲法違反の本質が露呈するから、正面から答えようがないというのが実情です。
95日間の延長は、まともな議論をせずに強引に数の論理で安全保障法案を強行採決して成立させることを想定してのことであることは明白です。
これまでの国会論議で、既にまともな法律ではないことが明らかです。会期切れで廃案にすることがまともな政府の対応ですが、駄々っ子のような幼児的な安倍ファッショ内閣は、何が何でもこの悪法を成立させる道を選んだということです。残念ながらこの内閣の暴走を制度的に抑止する装置は日本には存在しません。
この出鱈目な安倍政権を作り出してしまったのは、他ならぬ日本国民自身なのです。我々の子どもたちに対して取り返しのつかない大馬鹿者の内閣を作っってしまった責任を痛感しなければならないと考えます。
昨日、国会の参考人として招致された元内閣法制局長官二人は、安倍・安保法案に対して違憲であると考えると述べました。最早、安倍・安保法案は法論理による議論に堪えないものであることは明白です。
宮崎氏が述べているように、国連安全保障理事国をはじめとする好戦的なグループによる世界標準は、どのような紛争に対しても政権が国の存立を脅かすと判断しさえすれば“自国の権益を守るため”という名目で『自衛のため』に集団的自衛権を発動して先制攻撃を行っているのです。そんな好戦的な世界標準に準拠して、武力の使用を禁止している日本憲法を解釈するなど、あり得ないことです。
阪田氏が言うように、遠くホルムズ海峡の機雷掃海が許されるのならば、満州事変と変わるところはないというのが論理的な結論です。
日本国憲法は、あらゆる国際紛争に対して武力の行使を行わず、外交を中心とした非武力の手段によって問題解決を行うことを求めているのです。この世界初の画期的な憲法は、今や風前の灯となろうとしています。これは、人類にとって大きな、そして取り返しのつかない損失になるだろうと考えます。
エネルギー政策について、日本政府の中で矛盾が次第に顕在化しつつあるようです。
経済産業省は、人為的CO2地球温暖化対策で金儲けをしようとする企業とつるんでNEDOを使って再生可能エネルギー・ビジネスを先導してきました。NEDO曰く、風力発電や太陽光発電は化石燃料を節約するからどんどん導入すべきだ、当初は高コストでも普及すれば安くなる、云々・・・。
しかし結局のところ、再生可能エネルギー特措法以来、太陽光発電や風力発電の導入量が増えるにつれて賦課金の増加で電力料金は甘い予測以上に値上がりが続き、社会的なコストの増大が次第に明らかになってきました。
これは当然の話です。鉱物資源・エネルギー資源利用効率の高い既存の火力発電所をバックアップ用にまわして、鉱物資源・エネルギー資源利用効率が低い上に制御不能で不安定な発電装置を増やせば、発電部門に対する社会的な総支出は増大することは分かりきったことです。
仮に、金が有り余っていれば、同一目的を実現するためにできるだけ効率が悪く高コストの技術を利用するほど経済規模が大きくなります。当初は日本の重工・重電メーカーはその大きくなったパイを狙って再生可能エネルギー・ビジネスに参入しました。
しかし、この電気エネルギーという商品はあらゆる産業が利用しなければならないものです。その結果、電力料金が上昇すれば、重電・重工メーカー自身も高コスト体質になり、価格競争力を失うことになることは避けられないのです。
そこで、経済産業省のエネルギー政策は現実的になり、次第に再生可能エネルギー導入から原発再開にシフトすると同時に、新設の火力発電推進に向かっているのであろうと考えます。原発再開は論外ですが、再生可能エネルギーを減らして、火力発電推進に向かうのは極めて合理的な判断だと考えます。
一方、環境省は未だに人為的CO2地球温暖化の虚像を脳天気に信じ続けている結果、エネルギー政策の現実を全く顧みていないようです。年末の国連気候変動に関する枠組条約締約国会議(COP21)に向けて、カッコつけることばかり考えているようです。
そのような中で、電力小売り自由化を控えて、新規参入企業は当然ながら最も低コストで効率的な発電方式を選択することになります。山口県で電源開発・大阪ガス・宇部興産という企業連合が石炭火力発電所を計画しています。この事業に対して、環境省が噛み付いたという記事を紹介しておきます。
いずれにしても再生可能エネルギーを電力供給の20%を担わせるということは、日本の産業の価格競争力を崩壊させるか、産業の海外移転・日本の国内産業の空洞化に向かわせることは必定です。
もともと人為的CO2地球温暖化という虚像を使って国連気候変動に関する枠組条約の締約国に発展途上国・低開発国を巻き込み、彼らに対してもCO2排出量削減を義務付けることで、先進国の環境技術という付加価値・高額商品を売り込むことが目的であったわけですが、どうもCOP21は先進国の思惑通りには行きそうもありません。発展途上国や低開発国がCO2削減義務から免除されれば、彼らの国の工業製品が世界市場を席巻することになり、先進国の凋落は決定的になるだけです。
そろそろ人為的CO2地球温暖化の利用価値はなくなり、産業に対する悪影響のほうが顕在化してきたのです。そろそろ人為的CO2地球温暖化で儲けてきた気象学者の首を切って、まともな議論が再開される時期に来ているのではないでしょうか?
本日の衆議院憲法審査会は憲法学者を招致して安保法制について意見聴取を行いました。与党推薦の参考人を含めて全ての憲法学者が今国会に提案されている安保関連法案について集団的自衛権は違憲との判断を示しました。新聞報道を紹介します。
当然の判断です。憲法学者でさえ違憲と解釈する法案を、政府がどのように屁理屈をこじつけても、我々国民には違憲ではないという理論構造が理解できないのは当然です。
しかし、理論的に違憲だとわかっても、日本には立法府から独立した違憲の法律を作らせないという有効な公権力が存在しないため、安倍自民党政権の暴走を止めることは出来ません。日本の最高裁判所は法の違憲性について判断し、立法そのものを差し止める権限はありません。
2015/06/06 追記
戦後日本の社会システムを構想した先人たちは、まさか憲法に違反する法案を平気で提案するような破廉恥な政権が現れようとは夢想だにしなかったのだと思います。安倍のようなナチス・ドイツを彷彿とさせる政権が登場した今日、日本の司法制度の欠陥が露呈したのです。やはりまさかの場合を想定して、ドイツのように憲法裁判所を置くべきでしたが、今となってはどうしようもないのですが…。
今回の安保法制改正の焦点である、武力行使を容認する新事態についての政府見解を紹介しておきます。
いずれの事態も、その特徴は直接日本の領土を侵害するような武力行使が行われていなくても、条件が揃えば日本が武力を行使する、しかも先制攻撃として武力を行使する要因になりうるとしている点です。存立危機自体は、どのように言い繕っても、日本が単に経済的に甚大な影響を受けることをもって武力行使の要因になりうるという、とても危険で乱暴なものです。これではならず者です。この点について、いみじくも維新の党の松野委員が質疑において述べた通り、論理的には北朝鮮に対する経済封鎖に対して北朝鮮が武力で反撃するのと同じです。
しかも、政府からはいずれの事態につても具体的な判断基準は示されず、時の政権が総合的に判断するというのですから、事実上政権にフリーハンドを与えるというものです。
安倍政権を見ていて思うのですが、日本では武力行使に対する文民統制(シビリアンコントロール)は全く機能しないと考えます。そこには2つの理由があります。
第一に技術的に、一旦軍隊が戦闘地域で活動を始めれば状況の変化に応じて自律的に活動せざるを得なくなりますから、いちいち政府や国会の意思確認をすることが困難となり、政府や国会は実質的に事後追認しか出来ないことは明白です。
しかしここで述べたいのはそのことではありません。文民統制という発想は、現場の軍隊組織は暴力的で暴走の危険性があるのに対して、政治は冷静であり、武力行使に対して抑制的であることを前提として、軍隊組織が政府・国会によって統制されることで、徒な武力行使を抑制できるというものです。
しかし、日本の安倍をはじめとする好戦的な政治家、外務省などは、武力行使に対して前のめりであり、むしろ退役自衛官の方が兵士の安全を憂慮し、武力行使に対して抑制的だからです。委員会質疑において、野党委員が繰り返し兵士の安全性についてどう考えるのかを正すのに対して、安倍は「政治家や政府は木を見て森を見ずという瑣末な議論はせず、大所、高所から国全体の安全を議論しなければならない」という暴言を繰り返しています。
戦場の一線で命がけの業務を強いられることになる兵士を単なる将棋の駒のように考え、安全について全く無頓着なこの安倍晋三という危険な人物は一国のリーダーとして不適格だと考えます。しかしこれも元を正せば、恐ろしい人物を行政のリーダーにした国民自身の責任なのですが…。
特別委員会で開始された安保法制論議における安倍晋三ならびに内閣の答弁は極めてふざけたものです。特に安倍晋三は野党委員の質問に対して、まともに答えようとせず、徒に説明も求めていない持論を長々と述べ、委員の質問時間を浪費させる姿勢は国会や国民を愚弄する態度です。しかも、言を弄して法案の本質を糊塗し、国民を誤解させようという姿勢がありありと見えます。この不誠実極まりない人間が内閣総理大臣とは…、絶句。
新法案における最も基本的で大きな変化は、これまでの専守防衛というとき、日本に対する直接的な武力攻撃を受けた場合の反撃する権利を対象としていたのに対して、日本と防衛協力関係にある他国に対する攻撃に対する反撃する権利をも含むという点であり、これは大きな変更です。この点について安倍晋三はこれまでと変わらないというのです。ふざけた話です。今までと同じならば法改正は必要ないというのが論理的帰結です。
次に、必要最小限の武力行使とは何か?これについては一切具体的な限度は存在せず、結局のところ時の政権の恣意的な判断というしかありません。攻撃に対する均衡における必要最小限とは事実上無制限です。必要最小限とは全く具体的な戦闘規模に対する制約には成り得ないということです。
地理的に遠く離れた遠方、例えば中東地域における戦闘によって、日本国民の生存権を脅かすような事態が起きることなどあり得ません。ホルムズ海峡が封鎖されたとしても、日本に資源を売りたい国はいくらでもあるわけであり、複数のチャンネルを確保しておく事こそ日本外交あるべき姿であり、武力行使以外に解決手段がない状況など皆無です。
今回の安保法制の改正の究極的な目的は、日本が米軍の世界戦略の一部を肩代わりすること以外に合理的な理由はないということです。
このHPでは、主に自然科学・環境問題、特に人為的CO2地球温暖化に関するNHK報道の非科学性、それによる社会的な害悪について、このコーナーの不定期シリーズ(笑)「NHKお馬鹿番組の記録」などで告発しています。
武田氏は、TVのバラエティー番組などにしばしば登場する方ですが、ブログなどを見るとお分かりの通り、自然科学者としては筋を通す方だと考えております。武田氏も私や槌田敦氏同様、人為的CO2地球温暖化脅威説に対して批判的な立場をとっています。このHPで報告している東京大学IR3S/TIGS叢書No.1「地球温暖化懐疑論批判」において、私や槌田氏と並んで謂れ無き中傷の対象になっています。槌田氏が「地球温暖化懐疑論批判」を巡って東大を被告とした訴訟において、原告側の立場から参考意見を述べてくださいました。
東京大学裁判 武田陳述書
その武田氏がNHKの報道姿勢に対して問題提起をしている本が出されました。武田氏も述べている通り、NHKは受信料をとって運営されている放送局ですから、本来は受信者である一般国民の立場から権力を批判的に吟味し、正確な内容を報道することが第4権力としての使命です。現NHK会長籾井曰く「政府が右といえば右」などというのは許されないことです。
一般国民がNHKを徹底的に馬鹿にするようになれば、日本という国は少しは良くなるであろうと考えます。
最近の報道番組の戦争報道には、とても違和感を感じています。毎日異なる華やかな衣装に身を包んだ若いカワイイ女子アナが“米国・有志国連合による空爆で、ISの◯◯◯人のテロリストを殺害したと発表しました。”だとか“ISに対する作戦は中途半端の様に感じます。”などと、にこやかな顔で人ごとのようにさらりと述べる様子は、いかにも不条理と思えてならないのです。現地では血みどろの命のやりとりが行われているのです。
前回少し触れましたが、日本の政治家をはじめ、裕福な資本家や特権階級にとって、そして平均以上の経済的に恵まれた生活をしている日本国民にとって、異国での戦闘=殺し合いによって死んでいく兵士たちは、単に数でかぞえられる“モノ”でしかないようです。
それどころか、現在安倍政権によって進められようとしている安保法制の改変による事実上の日本の交戦権の合法化、つまり前回述べたように、日本人兵士の死を前提とした法改正に対してさえ、“国際貢献として必要ではないのか”などと事務的な論評を加えるマスコミや街頭インタビューに答える人の姿を見ると、ゾッとします。
彼らは、たとえ日本が安保法制を改変して戦争をできる国になったとしても、自分や身近な人が兵士となって死地へ赴くことや、日本本土に対する攻撃で直接戦争の被害者になることなど、ほとんど想定していないようです。
確かに、日本が安倍政権による戦争立法によって交戦権を持ったとしても、日本がかつての国家総動員法下の様に、国家システム全体が戦争体制になることは考えられません。兵士も徴兵制度ではなく自ら志願する形で集められることになるでしょう。
では志願兵による戦争なら、国家による人権侵害あるいは生存権の制限には当たらないと言えるのでしょうか?
現在、主要国の中で徴兵制度を実施している国はほとんどありません(下図の赤・橙色が徴兵制を実施している国)。実にグロテスクで反吐が出そうなのですが、主要国では戦争の工業化・自動化によって強大な殺傷能力を獲得しているために、かつてほど多くの兵士が必要なくなっているのです。
少し脱線しますが、戦争の工業化・自動化について少しだけ述べておきたいと思います。
現在既に先進国の無人の殺人機械が敵国の生身の人間を虫けらのように殺戮しています。おそらく日本の再軍備においても殺人兵器の開発が強力に推し進められるでしょう。ドローンや自動運転自動車、そして原発事故処理ロボット等の技術はすぐに兵器に転用されることになるでしょう。最も危険な職種である兵士の安全を確保するために…。戦争の初期段階では、正にテレビゲームのように自らは戦闘と関わりない安全な場所で、敵国兵士を追い回すという状態が普通になるでしょう。おぞましいことです。
No.529 (2011/02/23) 暴走する科学技術 そのG
No.749 (2012/05/01)
米国無人機によるパキスタン爆撃
No.860 (2013/05/26) ふざけた米国・オバマの人権感覚
こうした戦争の工業化・自動化によって、人命に対する尊厳の軽視が進み、一般社会でのまともな人権感覚が破壊されるのではないのか…。
話を元に戻します。仮に戦争立法が成立した場合、戦争による戦死や傷害のリスクを国民はどう負担するのでしょうか?
国民の権利・義務の平等を重視するのならば国民皆兵、あるいは一定の年齢範囲の成人全てに対する徴兵制ということになります。しかし、これは国家の強制による実質的な人権・生存権の剥奪を意味します。これは、国民による抵抗が強く、また既に述べたように戦争の工業化・自動化によって、現実的には徴兵制度で兵士を募るほどの戦時国家体制が直ぐに必要となることは考えられません。
現実的には現在の自衛隊の延長線上にある志願兵によって日本軍が組織されることになります。ただし、これまでの自衛隊と決定的に異なるのは、安倍政権による安保法制改悪後の自衛隊=日本軍は外国における交戦権を持つことになり、兵士は業務の一部として戦死のリスクを負うことになります。
一般論として、一部の戦争マニアや病的に殺人に興味のある人を除けば、戦死のリスクを負ってまで自ら好んで軍隊に志願する人はそれほど多くはないでしょう。そこで、特別職国家公務員である兵士の給与などの条件は一般公務員よりも優遇されることになります。他国では退役後の職種の優遇や、学生になる場合には奨学金制度なども充実させています。
その結果、キャリアの士官を除いた戦場の第一線で危険な兵役に従事する兵士の多くは一般社会では経済的に貧しい環境にある人々やその子どもたちが中心になることは明らかです。過去の歴史から見ても国の内外を問わず、社会的に貧しく弱い立場にいる人が、その境遇から抜け出すための手段として、命がけで兵士に志願するのです。
一方、日本は、かつて“一億総中流”などと呼ばれた時代とは隔世の感のある格差社会になっています。その主要な原因の一つが労働者派遣法による非正規雇用労働者の増大です。多くの若者が低賃金、不安定雇用のために結婚すら出来ないという時代になってしまいました。
穿った見方をすれば、安倍・保守党政権が財界の意向を受けて更に派遣労働を普遍化しようとしている背景には、社会の一部に貧困を固定化させて、そこから志願兵を容易に集めることが出来る社会状況を作るという狙いがあるためかもしれません。
米国や日本のような経済大国が戦争立法によって交戦権を持つ場合、兵士の大部分は経済的に貧困な家庭環境にある人や社会的に迫害されている人、あるいはその子息によって賄われることになります。戦争立法によって、実質的には社会的な弱者が兵役に就くことが社会的な制度となり、その人権・生存権が軽視ないし剥奪され、国民の中に経済格差によって命の重さに差別が生まれるのです。貧者の命を消耗品として消費するグロテスクな社会を認めることになるのです。
15世紀の西欧諸国の大航海時代に始まる西欧諸国による世界分割支配の歴史は、20世紀の2度にわたる世界大戦を経験した現在でも、本質的に変わっていません。残念ながら今なお世界を牛耳っているのは武力を背景とした支配構造であり、愚かで野蛮な人間社会は未だに“勝てば官軍”、すなわち、戦闘による勝者は正義であり、敗者は悪者となるのです。
現在、この世界体制を牛耳っているのが米国を中心とした第二次世界大戦の戦勝国=国連安全保障理事会の常任理事国です。米国は“世界の警察”になり、世界が米国の思惑で動く状態=パクス・アメリカーナを目指しています。
しかし、世界における米国の国力の相対的な優位性は低下傾向にあり、世界中を米軍によって直接支配することには物理的・経済的に無理が生じています。米国は第二次世界大戦後に日本の交戦権を一旦放棄させましたが、東アジア地域における米国の忠実な下僕となった安倍自民党保守政権に対して、再び交戦権を付与して、同地域における米軍の肩代わりをさせようというのが新ガイドラインの狙いです。
日本は明治以降はこの西欧の世界支配の潮流に便乗して、富国強兵政策で急速な軍事国家化を成し遂げ、自ら侵略される者から侵略する者へと変貌し、東アジアにおける武力による覇権を確立しようと大東亜共栄圏という侵略国家建設に邁進しました。
幸運にも、第二次世界大戦の敗戦によって、武装解除され、野蛮な侵略国家連合から離脱する契機を獲得することになりました。その象徴が日本国憲法第9条の平和条項です。これによって、日本の国民は日本という国家の名において他国の人々を殺傷することを放棄する平和国家となったのです。
さて、普通の人間生活の場において、他人を殺傷すれば殺人という第一級の刑事犯罪になります。人々は人を殺すなんて、なんと残虐な行為だ、と殺人者を非難します。
ところが、交戦権を国家として合法化することによって、国家が戦闘状態にあると判断すれば、他国の国民を殺害することが合法化されるのです。それどころか戦場において顕著な功績=敵国人を多く殺害することが英雄として賞賛されるのです。
国家は、国家の名の下に兵士という自国民に対して、他国の人々を殺害することを強制することが合法化されるのです。また、国家は兵士という自国民に対して戦闘において殺されることを業務として受認することを求めるということです。
言うまでもなく、命あるいは生存権とは人間個人に帰属する最高の権利です。交戦権を国家的に合法化するということは、突き詰めれば、国家によって自国の兵士に対して他国民の生存権を奪う権利を付与すると同時に、自国の兵士自身の生存権の放棄求める、ということです。
このように、交戦権あるいは戦争を合法化するということは、取りも直さず、人間の最も侵すべからざる権利を剥奪することを意味することなのです。私はこのような人間性を蹂躙するような法律には絶対賛成できません。
安倍晋三は14日の会見後の記者からの“自衛隊員のリスクが増大するのではないか”という問いに対して、“これまでの自衛隊の活動にリスクがなかったわけではない、自衛隊の任務において1800人の自衛官が殉職している”というとんでもないすり替え答弁を行いました。
これまでの自衛隊員の殉職とは平和憲法の下で行われる非戦闘の業務における事故死であり、これは一般の職種における業務上の事故死と同じものです。ここで記者が質問した内容は戦闘行為による死、殺すか殺されるかを任務とする戦闘における死のリスクを質たものです。
安倍晋三の答えは、不真面目極まりないものです。あるいは、彼ら政権党国会議員を含めた特権階級にとって戦場に赴くことなどなく、彼らにとって戦闘は単なる通常業務と変わらないものであり、戦場における死と通常業務における事故死は変わるところがないというということを表明しているのでしょう。彼にとって、一兵士の人権などとるに足らないことだということを表明しているのでしょう。
安倍晋三極右政権による日本の軍国主義化に対する意見は既に述べてきました(下記関連記事を参照)。
No.849 (2013/04/26)
安倍政権の政策を考える@〜国家観と外交
No.850 (2013/04/29)
安倍政権の政策を考えるA〜国家観と憲法
No.852 (2013/05/06)
安倍政権の政策を考えるB〜国防軍と日米安保条約
No.853 (2013/05/08)
安倍政権の政策を考えるC〜核武装と原子力発電
No.854 (2013/05/13)
安倍政権の政策を考えるD〜経済政策
No.868 (2013/06/11)
日本が紛争地帯に直接介入を始める日
No.874 (2013/07/16)
参議院選挙の争点A憲法改正と自衛隊の国防軍化
No.882 (2013/08/20)
安倍政権で加速する平和主義日本の崩壊
No.896 (2013/09/26)
積極的平和主義とは無制限の侵略?
No.905 (2013/12/11)
安倍・秘密保護法・ケネディーと脳天気な日本人
No.934 (2014/05/17)
安倍ファッショ政権で崩壊する平和・法治国家ニッポン
No.939 (2014/06/19)
国際法・憲法・集団的自衛権、そして公明党
No.943 (2014/07/02)
集団的自衛権閣議決定/立憲国家崩壊の始まり
No.944 (2014/07/11)
驕る安倍政権によるNHKに対する恫喝
No.945 (2014/07/19)
安倍政権で崩壊する日本
No.947 (2014/08/08)
平和国家か戦争国家か?
とはいえ、憲法違反の安保法制の改悪法案が提出された今、この問題に触れないというわけには行きません。
14日、安全保障関連法案の閣議決定後の安倍晋三の会見を聞いても、このペテン師野郎の発言は全く現実離れした、論理不明・意味不明の虚言ばかりでした。
曰く、“日本は軍事力に頼るのではなく、外交による関係改善に最善を尽くしており、その上で最小限の武力行使を容認しようとするもの”といいますが、第二次安倍政権は、遠く離れた米国とは慣れ合いのベタベタの関係である一方で、隣国である韓国・北朝鮮・中国との関係は極めて悪い状態であり、未だに訪問すら出来ていないのが現状です。積極的な外交努力など全く行っていません。外交が出来ないのは相手国の問題だと尊大な態度で嘯いて(うそぶて)いるだけです。それどころか、まともな外交交渉もせずに隣国の侵略を前提として島嶼防衛を強化する方向にシフトしています。これでは関係は悪化するばかりです。
また、曰く“安保法制の改悪によって、米国の戦争に巻き込まれることは絶対ありません”と語気強く言いますが、言いっぱなしで、その論理的な背景については一切説明しません。バカなことを言ってはいけません。アメリカが日本に求めているのは、正にアメリカの戦争の一部を自衛隊に肩代わりさせることであり、戦闘によって自衛隊員が死亡する危険は現実のものとなるのは明らかです。
細かいことを言い出せばきりがありません。まずは15日の朝刊の第一面を紹介しておきます。
法案の細部については、新聞記事やこれからの国会論戦で明らかになると思います。ここでは少し大局的な観点から暴走安倍晋三全体主義・軍国主義待望内閣について考えることにします。
まず、最も今回の安全保障に関する法律案の閣議決定、そして法案提出の基本的な問題は、憲法第9条違反であることです。最近の報道では、今回の安保関連法案の違憲性についてほとんど報じられなくなりましたが、この問題を抜きにすることは出来ません。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
これまでの戦後日本の歴代内閣は、専守防衛の下に、日本が直接攻撃を受けた場合には、これに応戦する正当防衛としての武力行使は、憲法9条1項にいう戦争や武力の行使に当たらない、憲法9条は自衛のための武力行使までを制限したものではない、という解釈のもとに、自衛隊を容認するというものでした。
しかし今回の閣議決定された法案では、日本が直接攻撃されなくても、日本以外の地域においても、防衛のためという名目であれば条件によっては先制攻撃すら許すというものです。直接日本の国土が攻撃されていなくても交戦権を容認するものであり、いかに解釈した所で憲法9条に違反することは明白です。
今回の安倍政権の暴挙の本質は、立憲主義の法治国家である日本という国のシステムを、国会における与党の圧倒的多数という数の暴力を背景として、憲法の規定を逸脱した内閣や国会の行動が許されているということです。
ファシズムの代名詞となっているナチス・ドイツは、第一次世界大戦後の時期において、世界で最も民主的な憲法であったワイマール憲法の下で、国民の圧倒的な支持によって樹立された、“極めて民主的に成立した政党”でした。その結果、ナチス・ドイツは圧倒的な数の暴力によって、ワイマール憲法を失効させ、ナチス党が法律を制定するようになりました。
いみじくも麻生太郎が言ったように、安倍政権は与党議員の圧倒的な数を以って、ナチス・ドイツ的手法で憲法を形骸化させ、立憲主義国家日本を崩壊させようとしています。これは、歴史的にかつて経験してきた全体主義国家への道程をそのまま彷彿とさせるものです。
憲法は、あれば安心というものではありません。国民が憲法を政治の中に絶えず反映していく不断の努力を怠れば、実にあっけなく崩壊してしまうのです。立憲主義の崩壊は、権力の暴走、就中(なかんずく)戦争を遂行する国家への変質の指標と考えてよいでしょう。
戦後70年の節目の年に、皮肉にも武力侵攻によるパクス・ジャポニカ=大東亜共栄圏を再び夢見る戦前回帰の侵略戦争を肯定するファシスト政権成立への岐路に立たされているというのが日本の現状です。
このHPで検討してきたように、人為的な二酸化炭素の排出によって大気中のCO2濃度が顕著に上昇することは科学的・論理的にあり得ないことです。
更に、大気中のCO2濃度の上昇によって地表付近の大気温度が顕著に上昇するという現象を示す観測事実はありません。逆に、観測事実は大気温度の上昇の結果として大気中のCO2濃度が従属的に変動していることを示しています。
したがって、温暖化を止めるという目的のために人為的な二酸化炭素排出量を削減することには全く科学的な合理性は存在しないのです。
ではなぜ日本を含む"先進各国"はCO2温暖化の危機を煽って政策を立案するのでしょうか?それはまず第一に気象研究者にとって、CO2温暖化は研究費を引き出す『打ち出の小槌』であり、第二に企業にとっては、エコ商品という"付加価値(?笑)"のついた高額商品を売り込むための大義名分を与えるものだからということに尽きます。
そのために私たち一般生活者は、虚像の『人為的CO2地球温暖化の脅威』という国家的ペテンによって、謂れのない金員の支出を強制され、企業はボロ儲けをしているのです。全くふざけた話です。
一体いつまで脳天気な国民諸君はこの茶番劇に付き合うつもりでしょうか?このバカバカしいペテンは、まともに理科教育を受けていれば、高校生にとっては自明のことがらのはずですが・・・。小・中・高校の理科教師の責任は万死に値すると考えます。まずは新聞記事を紹介します。
さて、国のCO2排出量削減政策の中核が発電事業です。内容は2つです。一つは再生可能エネルギーを用いた発電の導入促進です。もう一つは『安くて発電時にはCO2を排出しない原子力発電』の運用です。
しかし、現実的には、再生可能エネルギー発電も原子力発電も化石燃料消費を削減することにはならず、むしろ総合的には化石燃料消費を加速させます。したがって、これらの発電方式の電力原価は著しく高価になります。
そこで、再生可能エネルギーについては、高価であることを認めた上で、電力会社に強制的な買い取りを義務付け、その見返りとして高価買取り費用を電力販売料金に賦課金として上乗せさせることを認めています。
制度の実施された2012年から賦課金額は急速に上昇し、2012年度には約0.2円/kWhであったものが2015年度には約1.5円/kWhへ7倍にも急上昇しています。
2014年度については、一般家庭で月平均225円だったものが、2015年度は一気に2倍以上のの474円になるのです。これは5月分の電気料金から値上げが実施になります。
現在の総消費電力量に対する再生可能エネルギー発電電力量はほんの数%です。記事にあるように22〜24%にまで本気で上昇させることになれば、賦課金額は現在の10倍のオーダーに達することになるでしょう。冗談ではありません。
しかしもっとひどいのは原子力発電です。日本政府の公式見解としては、未だに原子力発電電力は最も発電原価が安いことになっています。ふざけてはいけません。福島原発事故を見ても分かるように、原発のように危険な発電方式の単位発電電力量当たりの施設規模は火力発電よりもはるかに大きくなることは当たり前です。
電力各社による廃炉や高レベル核廃物処理費用などを無視した極めて不適切な内容の算定であっても、発電原価は既に20円/kWh程度あるいはそれ以上であり、高価な発電方式です。
通常の発電方式であれば、発電施設の発電期間中に供給する電力料金に発電施設費用(原子力であれば廃炉費用や高レベル放射性廃物処理の施設建設・運用費などを含む)の償却分を載せて販売するのが当然です。
ところが、2013年度の原子力発電会計制度の改定で、原子力発電所に関しては、廃炉費用の償却費を原子炉の運転を停止した後も、電気料金に含めることが出来るようにされました。バカバカしい。
要するに、安い原子力発電電力とは、本来ならば原発で発電した電力の料金の原価に算入すべき廃炉その他に係る経費を計上せず、原子炉の運転が終了した後に「コッソリ」原子力発電以外の発電方式で供給される電力の料金に上乗せして徴収することで、ダンピング販売しているということです。原子力発電が安いなどというのは国家的なペテンなのです。
更に、電力の小売が名目上自由化される2016年度以降は、配送電事業者が電力小売事業者から徴収する利用料金に、原発処理のための賦課金を上乗せして徴収するなどして、結局全ての供給電力に対して原子炉の後処理のための費用を上乗せすることで、すべての電力利用者が負担する仕組みになるのです。
再生可能エネルギー発電賦課金、原子炉廃炉賦課金が上乗せされることで、供給電力の価格は、電力自由化によって上昇することがあっても、安くなることはないでしょう。これでもあなたは、再生可能エネルギー発電、原子力発電をすべきだと考えますか?
この稀代の大馬鹿者、売国奴の米国訪問における言動は、あまりにもバカバカしく、筆舌に尽くしがたいものがあります。米国の見え透いた下心のある国賓待遇に有頂天になって、リップサービスをする安倍晋三の姿は、滑稽であり、見るに耐えない醜悪なものです。
オバマとの首脳会談では、普天間基地移設問題について、沖縄の翁長県知事から『地元は辺野古への基地移設に反対である』と言われたが、安倍は『私は辺野古への移転が唯一の解決策であると考える』と述べたと言う。日本の国民、地元の意見を無視して米国の意向に沿う発言をする安倍は、日本の首相に値しない、米国の傀儡であることを見事に示してくれました。
更に、米国議会における発言では、日本国内では閣議決定されただけで、未だに国会における一切の議論が行われていない、事実上憲法を形骸化する内容を持つ安保法制の改悪について、法案も出されていない現段階で『この夏までに必ず成立させる』などという暴言を吐きました。何という破廉恥な男でしょうか。国会を軽視するこの男は根本的に日本の首相としての資質に欠けています。
しかし本当の問題は、このような大馬鹿者をのさばらせ、自民党・公明党に多数派を形成させることを許している日本国民自身の多くが、取りも直さず、思慮浅く、弱者を無視する大馬鹿者で醜悪であることです。
南米チリでは3月4日に南部の火山ビジャリカ(Villarrica)が噴火しました。4月22日、23日には、同じくチリ南部のカルブコ(Calbuco)火山で大きな火山噴火がありました。噴火規模について、詳細な情報があまり報道されていないために、今後どの程度の影響が現れるのか分かりません。チリ南部は火山活動の活動期に入ったのかもしれません。
カルブコ山の噴煙は高度15km以上、成層圏にまで達したようです。1991年のフィリピンのピナツボ山の噴火に比較すると、かなり規模は小さいようです。ピナツボ山の噴火では、成層圏に放出された火山灰の日傘効果で、噴火後数年間、世界的な規模で気温の低下傾向が現れ、日本でも冷害が起こりました。
図でわかるように、世界平均気温偏差は、エルニーニョが発生すると高くなり、ラニーニャが発生すると低くなります。ピナツボ山の大噴火の後にはエルニーニョが発生しているにもかかわらず顕著な気温の低下傾向が現れました。ピナツボ山の噴火で成層圏に吹き上げられた火山灰による太陽放射に対する日傘効果はかなり大きかったことが分かります。
今回のカルブコ山の噴火規模は、世界規模で観測できるような気温の低下が現れるかどうかは不明ですが、少し注目しておきたいと思います。
九州電力の川内原発の再稼働の差止を求めを求める鹿児島地方裁判所に対する仮処分申請が22日に却下されました。これを伝える新聞報道を示しておきます。
この鹿児島地裁の判断の前には、関西電力高浜原発3、4号機に対する同様の原発再稼働差止の仮処分申請に対して 福井地裁が14日に再稼働差止の判断を下していただけに、落胆した方々も多いのではないかと思います。
このHPでは一貫して軽水炉原子力発電に対して、エネルギー供給技術として利用することに科学・技術的に合理性がないことを主張している通り、原発の再稼働には反対です。
これを前提として、その上で敢えて誤解を恐れずに言えば、原発に対する再稼働差止の司法に対する戦略は根本的に間違っていると考えています。
司法とは、法律に照らして当該行為が妥当かどうかの判断を行うものであって、科学・技術的な評価の別れている問題に対して、科学・技術的内容にまで踏み込んで判断を下すものではないからです。
その意味で、第一に、福井地裁が原子力規制委員会のまとめた科学的・技術的な新基準に対して、妥当性がないという理由で再稼働の差止の仮処分の決定をしたことは、司法の範囲を逸脱した科学・技術的な問題に対する不当な介入だと考えます。
第二に、原子力発電所の将来の操業期間における安全性を科学的・確定的に証明すること、逆に安全ではないということを科学的・確定的に証明することは、両方とも不可能です。このような問題に対して、問題の専門家ではない司法が一方の主張を採用し、他方の主張を却下する判断を行うことはとても危険なことであり、非科学的な判断です。
原発の安全性を争点として司法に科学的判断を求めることは、そもそも司法にはなじまない問題提起であり、福井地裁と鹿児島地裁で判断が別れたように、統一的な見解を期待するのは元々無理なのだと考えます。
このHPに関連して、気象学会誌『天気』に対する槌田氏と私の共著の科学論文の取り扱いの問題があります。槌田氏は気象学会員として科学論文を『天気』に投稿し、査読意見に対して対応したにもかかわらず、気象学会が最終的に投稿論文の掲載を拒否した事件について、学会員としての権利を守ることを求めて裁判を行いました。
これに対して、本来ならば司法は、学会と学会員の権利関係についての判断をすべきところを、科学論争の内容にまで言及して槌田の申し立てを却下しました。これは気象学における意見の分かれている今日的な科学論争に対して、司法が一方の主張を正しいとした判断を示したものであり、近代の法治国家の司法の範囲を逸脱した中世のガリレオ裁判の再来です。
法治国家の司法は、あくまでも法令に従って判断を下すことをその権能とするものであって、それ以上のことにまで介入することは厳に慎むべきだと考えます。
規制法というものは、対象となる行為が社会的に存在することを前提に、それに対して出鱈目な操業が行われないように社会的に規制すべき範囲を示すという形になります。したがって、原子力規制法は原子力発電所を作ること、稼働することを前提にまとめられた法体系であり、原子力規制法を以って、原発の操業を差し止め、これを廃止することを求めることはそもそも論理的に矛盾しています。原子炉設置を求める者が、規制をクリアーすればこれは許可されるのです。法令を順守している事業者の操業を差し止めるということは司法権力の濫用です。
司法は、法律が適切に運用されているかどうかを判断するのであって、法律の内容にまで介入する機関ではないことを理解すべきです。それは立法機関の権能です。
したがって、原発の操業を差し止める運動は、現行の不十分な原子力関連法令の内容を変えることを選挙行動・陳情などで立法府に求めること、あるいは立地自治体の政治的判断に選挙行動・陳情などで意見を反映させることをその中心にすべきだと考えます。その中で、事故や廃炉処理の問題を含む原子力発電の実像を科学的・論理的に明らかにしていくことが最も大事だと考えます。司法に過度の期待を持つことは誤りであろうと考えます。