まず、誤解を避けるために最初に述べておきますが、原子力発電に対するこのホームページの立場は、繰り返し述べてきているように、即刻原発の運用を停止し、その後処理に全力を傾けるべきである、というものです。
その理由は、@原子力発電は、技術として自立できない低劣・低効率な発電技術であり、A原発の本質的な危険性は人間社会の中では克服できないものであり、B高速増殖炉技術が破綻した現在、完全にその存在の必然性が消滅したからです。詳細は既に繰り返し述べてきたので、例えば次の論考をお読みいただきたいと思います。
■ 再考・原子力発電 (2013/02/22−04/18)
■ 脱原発は科学的な必然 (2011/04/25−05/05)
■ No.591 (2011/05/01)
連載 脱原発は科学的な必然
そのG 人間と物理現象のライフサイクル
■ No.1211 (2017/12/28)
支離滅裂な日本の原子力発電に対する対応
科学的な問題に対する危険な司法の介入/破綻した核燃料サイクル
■ No.1235 (2018/08/31)
日本の合理性を欠いた支離滅裂な電力政策を憂う
福島原発汚染水処理・高速増殖炉もんじゅ廃炉・風力発電アセス緩和
さて、現在の日本における原発再稼働の動きについて、これを止めるためには、国民世論を喚起し、立法府に働きかけて原子力発電に対する国家戦略の見直しを行わせ、脱原発を立法化することが脱原発運動の本質であると考えています。
しかしそれには「時間がかかりすぎる」というのであれば、緊急避難として、原発立地自治体やその住民に対して再稼働に同意しないように働きかけることが、現実的でしょう。
しかし、現実には脱原発運動は、緊急避難的・安直な方法として司法の場に原発の安全論争を持ち込むことを主要な運動にしているように見えます。
私は、たとえ緊急避難的な対応であるとしても、このような対応には同意できません。それは、@既に前掲のNo.1211でも触れているように、原発再稼働の手続きに対する法的な判断を越えて、自然科学による安全性の判断に司法が介入することは権能の逸脱であり、自然科学の独立性を司法権力が対立する一方の主張に立って侵害することであり、Aその当然の帰結として、たとえ一旦原発再稼働差し止めの仮処分が出されたとしても、最終的には対立するもう一方の当事者であり、より大きな権力を持つ国や電力側の主張が採用されることになるのは分かり切っているから、本質的に原発再稼働を止めるために何の役にも立たないと考えるからです。
さて昨日、No.1211の中で予測した通り四国電力伊方原子力発電所に対する再稼働差し止めの仮処分が取り消されました。この件について少しコメントしておきます。
伊方原子力発電所の再稼働が原子力規制委員会の判断のもとに容認され、正規の手続きによって許可されているわけです。原子力規制委員会の判断の過程において、再稼働をしたい者からの賄賂などの不法な行為が認められない限り、手続きに瑕疵がなければ、原子力発電の自然科学的な安全性そのものに対しての判断を問題にして司法による再稼働差し止めの仮処分を申し立てること自体に無理があります。事業者から見れば、正規の手続きを踏んだ再稼働に対して、司法が差止を行うことこそ不当です。
しかも、前回の広島高裁の仮処分の判断では阿蘇山の巨大噴火を対象として、「伊方原発が操業する今後数十年間において、9万年前の阿蘇山の巨大噴火に匹敵する巨大噴火が起こる蓋然性が小さくない」ことを理由に再稼働差し止めの仮処分がだされました。しかしながら、これはあまりにも荒唐無稽な判断だというしかないと考えます。自然科学的かつ公正な判断として、今後数十年間の期間において、9万年前の阿蘇山が活動期にあった時代と同規模の巨大噴火が起こる蓋然性は極めて低いとする判断の方がはるかに妥当だと考えます。
もちろん、原発の再稼働を阻止するための緊急避難的な一つの手段として司法を利用するという戦術は否定しません。しかし、もう少し別の観点から問題を提起すべきだと考えます。
註)原子力規制委員会に対して、反原発運動の中に「原発の運転を抑制する組織」だという勘違いをして、過大な期待を寄せる者がいます。以前も述べたように、原子力規制委員会という国家の組織は、原発再稼働を目指す国家の意向をスムースに実現することを目的として設けられたものです。つまり、原子力規制委員会の承認によって、国民に対して原発は安全であるという「印象」を与えることによって、反対運動を抑え再稼働を納得させるための組織なのです。冷静に考えてみてください、国家が原発の再稼働を断念し脱原発を政策とするならば、そもそも原子力規制委員会などという組織は必要ないのです。
昨日の大分合同新聞の夕刊に、現在の日本のエネルギー政策のでたらめさを示す記事がまとまって報道されていましたので、少しコメントしておきます。
1.福島原発汚染水処理についての公聴会の茶番劇
まず、新聞記事を紹介します。
この公聴会はまったくの茶番劇です。記事の見出しにもある通り、これは「結論ありき」の単なるセレモニーにすぎません。
すでにこのホームページでは事故後の早い段階から、穴の開いたバケツのような原子炉から溶け落ちた核燃料に対する冷却を水冷で行うことの愚かさを指摘してきました。溶け崩れた核燃料に水をぶっかければ、冷却水に放射性物質が溶け出すだけでなく、冷却水自身が放射化するなどしてトリチウム水になることはわかり切ったことでした。トリチウム(三重水素、質量数3の水素)3Hは科学的には水素と同じようにふるまうため、汚染冷却水から取り除くことが極めて困難です。
つまり、事故原子炉を水冷で冷却するとした段階で、トリチウムやその他の放射性物質を含む放射能汚染水が限りなく増加することは既定の事実であったのです。取り敢えず汚染水をしばらくほとぼりの冷めるまでタンク貯蔵したあとは、「環境基準以下に希釈して海洋投棄する」というのが当初からの筋書きだったのです。今回の公聴会は、汚染水放出のための通過儀礼であり、たとえどのような意見が出されようとも「最も現実的で、コストの小さな処理法」であることを錦の御旗として、海洋投棄が実施されるのは間違いありません。
放射能汚染、その危険性には濃度による閾値は存在せず、総量が問題だとされています。福島原発事故によって日本は地球の表面環境を長期間にわたって放射能で汚染するという大罪を犯すことになるのです。
2.日本の原子力利用政策の破綻を決定づけたもんじゅ廃炉と、
処理方法も定かではない廃炉
まず、新聞記事を紹介します。
まず、日本の核エネルギー利用政策における高速増殖炉もんじゅ廃炉の意味を確認しておきます。もんじゅは、運転を開始した1991年以降事故続きで、1995年の冷却用ナトリウム漏れ事故以降、長期間にわたって運転停止を余儀なくされ、運転再開のための改修が続けられ、2010年に運転を再開したものの再び重大事故を起こし、2016年にそのまま廃炉になることが決定しました。
日本の原子力発電の「表向きの理由」は、資源小国日本が自前の電力供給を目指すというものでした。しかし、軽水炉ウラン燃料に使用できるウラン資源(ウラン235、235U)自体はほぼ100%輸入に依存しており、しかも埋蔵量は限られており、燃料資源として石油よりもはるかに短命だと考えられています。
日本の戦略は、天然ウランの99%以上を占めている非核分裂性のウラン238を高速増殖炉の運転によって核分裂性のプルトニウム239(239Pu)に核種変換することによって「自前の無尽蔵の核燃料」を生み出すことでした。したがって、日本の原子力平和利用政策における中核的な技術とは、高速増殖炉の安定運用と高速増殖炉核燃料サイクルの安定運用の二つなのです。
しかし、実際には高速増殖炉の運転後の燃料から効率的にプルトニウムを回収する技術はまったく未完成であるどころか、高速中性子を減速させない冷却剤として液体金属ナトリウムを使う冷却系の技術的な困難さを克服できずに、今回もんじゅが廃炉されることになったのです。付け加えれば、核燃料再処理技術も全く確立されておらず、六ケ所村の核燃料再処理施設はいつまでたってもまともに稼働していないのが現状です。
つまり、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉とは、日本における原子力平和利用の中核技術の一つを実質的に放棄することを意味し、これは同時に日本の軽水炉を含む原子力平和利用が最早無意味になったことを意味しているのです。すでに、福島原発事故以降、日本の電力供給は原子力発電所なしでも十分可能であることが示されたのですから、早急に原子力発電から完全撤退することこそ合理的な判断なのです。
電力供給技術としてもはや存在の必然性を失った軽水炉及び軽水炉核燃料サイクルの残された存在理由は、まさにこれこそ日本の原子力発電導入の本来の目的ですが、日本が自前の核兵器を保有することを技術的に担保するためだけということになりました。
さて、ところで「もんじゅ」の廃炉作業ですが、冷却剤として極めて反応性の高い液体金属ナトリウムを使用していることから、廃炉は潜在的に極めて危険が大きいといわなければなりません。現在の楽観的な工程表通りに作業が進むことは到底考えられません。現状では、廃炉費用として4000億円ほどが計上されているようですが、放射化されたナトリウムをはじめとする高濃度放射性廃棄物や核燃料の保管処理技術も全く未解決であり、一体安全な廃炉が可能なのか、どれだけの社会的なコストがかかるのか全くめどが立っていないのが現状です。既に作ってしまったものを何とか処理するのは現在に生きる私たちの世代の責任ですが、果たしてどうなるのか、暗澹たる思いです。
3.欠陥発電施設の増設を目指す風力発電アセスメントの緩和
新聞記事を紹介します。
すでにこのホームページでは繰り返し述べているように、風力発電は発電して電力を供給するのではなく、むしろ電力を食いつぶすだけの装置であり、発電システムとして失格です。風力発電の導入によって、むしろ化石燃料消費が加速されるというのが実態です。
記事にもある通り、風力発電の導入が政府予測を大幅に下回っているのは、それだけ風力発電が低効率、不安定であり、その結果として高コストであるからです。こんなものは経済原理にゆだねて淘汰すべき技術なのです。
それを、経済産業省ならいざ知らず、環境省が導入促進のために環境アセスメントの緩和を検討するなど言語道断です。
今回、三件の電力供給に関する記事を見てきましたが、日本のエネルギー政策は科学的な合理性を欠いた行き当たりばったりの支離滅裂な内容であることに、ほとほと呆れざるを得ません。日本の科学技術政策の自然科学的な合理性は、政治によって捻じ曲げられ見る影もなくなっています。日本の科学者・技術者・研究者は、権力と『金』に完全に屈してしまっているようです。
先日の台風20号の直撃で、淡路島の北淡震災記念公園に設置されていた風力発電風車が倒壊したことが報じられました。国内でもこれまでに台風被害による風力発電の倒壊事故などが繰り返し起きています。再生可能エネルギー発電として太陽光発電と同時に導入が進められている風力発電ですが、その『温暖化防止のため』という導入根拠には反対であることはこれまでも繰り返し述べてきましたが、ここではあえて触れません。
今回は、土木の構造設計屋としての興味からこの事故について考えてみたいと思います。倒壊した風力発電の性能諸元の概略は次の通りです。
●定格発電能力 600kW (13m/sec)
●カットイン風速 1.3m/sec
●カットアウト風速 25m/sec
●塔の高さ 37m
●回転翼を含めた全高 60m
●設備認定日 2009年9月18日
風力発電風車としては、それほど古くはなく、また大型でもないようです。まずメディアに紹介された倒壊した風力発電の状態を紹介します。
風力発電鉄塔が途中で折れたのではなく、付け根からぽっきり折れていることがわかります。更に倒壊部の拡大写真を紹介します。
もう少し寄ってみましょう。
これらの倒壊写真を見た方の印象として、大多数の方が、風力発電風車本体の上部工(地上部分全体)に対して、あまりにも基礎が貧弱だと感じたのではないでしょうか。
写真から、倒壊した底面を見ると平滑であることから、おそらくこれが基礎(フーチング)の底面だと考えられます。しかし、よく見ると基礎の周囲には明らかにコンクリート断面が破壊していることがわかります。
塔状構造物の基礎では、杭基礎であるか直接基礎であるかは別にして、多くの場合フーチングが設けられています。
今回の破壊状況は、風力発電鉄塔本体を基礎に取り付けた部分で、フーチングの張り出し部分から引き抜かれるように破断したと考えられます。
塔状構造物の場合、基礎に求められる要件は、上部構造の重さによる垂直方向の支持力よりも、物理的な形状から地震や風などによる水平方向の力ないし、転倒に抵抗する力です。そのため、上部構造の断面に比較して広い基礎面積が必要になります。軟弱な地盤であれば杭を併用する場合もあります。
いずれにしても重要なのは、上部構造と基礎構造が完全に一体化するような適切な構造を持つことです。例えば、次の施工写真のように。
フーチングが一体となって外力に抵抗するためにはこの程度の鉄筋の配置が必要なのです。
もう一度今回の基礎の破断状況を見てください。塔の取り付け部分の8角形の部分の厚さに比べてフーチング本体部分の厚さがあまりにも薄いように感じます。また破断面に見える鉄筋量があまりにも少なすぎるようです。これでは上部工の取り付け部分で剪断破壊して倒壊するのも当然というしかないでしょう。
大型の風力発電が建設されるようになって30年以上が経過しました。しかし、当初は風力発電鉄塔に対する明確な設計基準が整備されておらず、海外の基礎形式をそのまま国内に持ち込んだり、メーカーが独断で設計を決定していました。その結果、台風などによって構造的な欠陥が原因となって倒壊事故が相次ぎました。
学生時代、瀬戸大橋の耐風安定性の実験していましたが、卒業後に恩師を訪れた時にも風力発電鉄塔のずさんな構造について話したことがありました。
そのような経緯から、土木学会で風力発電風車に対する設計基準がまとめられ、2007年 11 月 27
日に『風力発電設備支持物構造設計指針・同解説 2007 年版』が刊行され、その後何度か改定されているはずです。
北淡震災記念公園風力発電風車は、設備認定が2009年9月18日になっていますので、おそらくギリギリのところで設計基準に関係なく建設されたものではないかと思われます。
今回の北淡震災記念公園風力発電風車の倒壊事故を見ると、少なくとも2009年以前に建設された風力発電施設の多くにおいて、潜在的に倒壊の危険性が考えられます。塔状構造物の倒壊では周囲に思わぬ被害が及ぶことになります。特に初期の風力発電風車は、見世物、モニュメント的に人の集まる場所に建設されたものも少なくありません。早急な基礎構造の総点検が必要だと考えます。
このところ、近郊の山道を車で走るたびに、新たに大小さまざまなソーラー発電所を見かけるようになりました。この数年、別府市周辺、ないし大分県内の太陽光発電所建設の増加は目に余るものです。あるものは耕作放棄された田畑、果樹園であり、あるいは里山の経済林や雑木林に建設が行われています。
一昔前、列島がリゾート開発ブームで乱開発されていたころであれば、環境保護運動に携わる人たちは里山や農地の乱開発に対して、何のためらいもなく反対の意思を示していました。
ところが、人為的CO2地球温暖化騒ぎが始まると、リゾート開発に反対していた多くの環境保護運動家たちは、CO2排出量削減のために太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーを積極的に導入しようと言い出してしまいました。かつて大分県内でリゾート開発反対運動をしていた仲間たちの多くも、今では『人為的CO2地球温暖化教』に洗脳されてしまいました。
もともと環境問題に強い問題意識を持っていた人たちでさえこれですから、多くの日本人たちは人為的CO2地球温暖化教の研究者や企業、国家による宣伝に易々と騙されてしまいました。その結果が今のメガソーラー発電所建設の乱開発です。
今週初め、関東圏に住む家内の知人が大分に遊びに来たので、別府市近郊をドライブすることにしました。郊外の十文字原展望台に行き、別府市周辺の景色を楽しみました・・・。ところが無残にも、山肌の植生が剥ぎ取られ、土がむき出しになった南斜面を散見することになりました。
写真は、展望台から北方に当たる日出町方向の山肌の様子です。
Googleの写真で確認すると、私が撮影したのはおそらく“カナディアンソーラー”のメガソーラー発電所建設予定地ではないかと思われます。「日経XTECH」の関連記事を紹介します。
記事によると、日出町のメガソーラー発電所で使用される太陽光発電モジュールは、CS6Uというタイプで、サイズは1.96m×0.99mです。これを単純に16万枚敷き詰めると、パネル面積は31万uになります。ソーラー発電所の敷地面積をパネル面積の1.5倍程度とすると、約45万uにもなります。マスコミ的に表現すると(笑)、甲子園球場11.5個分の広さということになります。
また、九州電力の買取価格(カナディアンソーラーの卸電力価格)は40円/kWhというバカ高いものです。私の家の電力の購入価格(電力小売価格)は、24.5円/kWh程度です。一般の消費者が電力を購入する市場価格よりもはるかに高い買取価格を設定させて、太陽光発電事業者は濡れ手に粟のぼろ儲けする一方、九州電力の再エネ電力買取の赤字分を補填するために、すべての電力消費者に対して再エネ賦課金が電力料金に上乗せして徴収されているのです。再エネ発電業者の利益を確保するためのしわ寄せが、電力消費者に付け回されているのです。
さらに言えば、40円/kWhで卸さなければ経済的に成り立たない太陽光発電は、多大なる資源の浪費と化石燃料の浪費を行っていることを示しています。こんな高価な電力では、とても化石燃料消費を削減することなどできないことは明白です(参考:例えば、No.624
(2011/06/22)自然エネルギー発電幻想 )。
太陽光発電モジュールは電力集約的な工業製品ですから、電力価格の安い国で製造されるほど安価になります。工業用電力ではありませんが、主要国の電力料金を示しておきます。
ご覧のように、韓国と並んでカナダの電力料金は最も安いことがわかります。ちなみに、日本の電力価格はカナダの2倍以上ですから、単純に考えれば国内製造の太陽光発電モジュールを使用しては、経済的に全く成り立たないことがわかります。
蛇足ながら、デンマークやドイツの電力価格が高いのは、言うまでもなく、政策的に再生可能エネルギー発電を無理やり導入した結果です。
環境保護運動に一緒に取り組んだかつての仲間たちよ、今一度温暖化問題を科学的に考察すべき時期に来ていると思うのだが、どうお考えだろうか?