さて、熊本地震の救援活動に対する米軍機オスプレイによる物資輸送について、中央のテレビ報道では概ね好意的な評価をしています。今に始まったことではありませんが、テレビ報道の愚劣さ、無能にはあいた口がふさがりません。
さすがに、新聞報道ではもう少しまともな報道が行われています。大分合同新聞2016年4月19日朝刊の記事を紹介しておきます(おそらく共同通信の配信記事と思われます)。
記事にある通り、5年前の東北地方太平洋沖地震では、北関東から東北一円にまで被災地が広がり、絶対的な運搬手段が足りない状況や、原発災害に経験のない自衛隊に対して核兵器の取り扱いをふくめ核について知識の豊富な米軍が協力することには合理的な理由がありました。
しかし今回の熊本地震の場合には、自衛隊幹部も言う通り、敢えて自衛隊以外にまで協力を求めるような状況にないことは明らかです。要するに、米国の要請を受けて、火事場泥棒的に日米軍事同盟の強固さを誇示すると同時に、普天間基地のオスプレイの投入によって辺野古移転問題の閉塞状況を好転させることを目論む日米両政府で仕組んだ猿芝居だということは明らかです。ふざけるんじゃない!!
追記:
ネット上ではこの話題が賑やかなようです。紹介した共同通信の比較的冷静な配信記事に対して、業を煮やした産経新聞が、社会情勢についての何の分析もない、個人的感情論による反論記事を配信しています。
「今日の新聞を見て、本当に腹が立った。われわれ被災者が怒っているということを、知ってもらいたい。自分たちこそ『露骨な政治的パフォーマンス』をしているのではないか!」
19日、熊本県甲佐町の団体職員、北川和彦氏(63)は、配達された地元紙を手に声を震わせた。
という地元住民からの伝聞という形をとっていますが、これは安倍応援団の産経新聞の主張を代弁してくれる住民を探したことは明らかです。甲佐市の団体職員が言う我々っていうのは一体誰なのでしょうか?
昨週末から熊本・大分を中心に内陸性の地震が襲っています。当地別府市でも16日午前1時過ぎの本震では震度6-を記録し、現在も市内には避難者がいる状況です。
さて、勿論国家の総力を上げて被災地を救援することは必要です。しかし耳を疑いました。この時期に軍事演習に参加していた米軍の普天間基地所属のオスプレイを熊本地震の救援物資輸送という名目で投入するというのです。
現実的にオスプレイ数機の派遣が必要である状況とはとても考えられません。これは普天間基地・辺野古移転で閉塞状態にある状況を打開したいと考える防衛省中谷防衛大臣等によって演出されたデモンストレーションのための派遣であることは見え透いています。
今回の地震についてはいずれじっくり検討したいと思いますが、あまりにも無神経な日本政府の対応に腹がたったのでこの点だけ、述べておきたいと思います。
昨日の報道番組、そして今朝の新聞の第一面にはG7外相会議後に参加国外相が広島の原爆資料館を訪れ、米国ケリー国務長官が主導する形で予定になかった原爆ドームの見学が行われたことが報道されました。日本の大部分のマスコミ・報道機関の対応はこれを好意的に受け止め、核廃絶が一層進展するかのような報道が行われました。
私には全く理解できません。8年前、核軍縮を掲げて登場したオバマに対して日本の反核団体は過大な期待を寄せ、そして裏切られました。オバマ政権時代は9.11以降のブッシュの前のめりの中東への介入からの脱却を期待したようですが、テロとの闘いは泥沼化し、それどころか世界化したのが実情です。米国の核兵器開発はオバマ政権下でも確実に行われてきました。これは最初から分かりきったことでした。
このような世界で最も好戦的・暴力的な米国がそんなに簡単に変わるわけはありません。つい最近開催された核セキュリティー・サミットでは、ファシスト安倍とオバマは普天間基地問題の唯一の解決策は辺野古移転であることを確認しました。冷静に考えれば、辺野古問題で閉塞状態にある安倍政権が、常套手段である外交によって国内世論を封殺する目的で米国に働きかけて日本の国民世論を懐柔する手段として原爆資料館訪問を要請し、したたかなケリー米国務長官はサプライズとして原爆ドーム詣でを提案したと考えるべきでしょう。
これによって、沖縄の地元住民は無理としても脳天気な日本国民の大部分に対して米国の誠意を印象付け、普天間辺野古移転の外堀を埋めたというのが現実でしょう。いよいよ辺野古移転反対運動の切り崩しが本格化することになるのでしょう。
そもそも、戦争状態にない独立国家に他国軍隊が専用の基地を持ち常駐するなど、異常なことです。日本に米軍基地があることが異常なのです(韓国は北朝鮮と戦争状態にありますから、韓国の米軍基地と日本の米軍基地の性格は全く異なります)。本来ならば、沖縄返還において米軍基地は全て撤去すべきであったし、その他の国内の基地も撤去すべきことはいうまでもありません。普天間の基地返還や沖縄北部演習場の返還のためにわざわざ代替施設を差し出すことこそ異常なのです。
日本国内に安保条約地位協定に守られ、日本の法秩序の及ばない米国の基地があるかぎり、日本は本質的には米国の属国であり、独立国とはいえない状況が続くことになるのでしょう。
やっと春らしくなってきました。温帯の日本の比較的南部に位置する九州別府ですが、やはり寒い冬よりも暖かい季節のほうが断然快適だと思います。窓から見える山肌には山桜が花盛りです。なんとなく浮き浮きする季節です。
私には、日本よりも遥かに寒冷な西欧・北欧や米国北部、カナダなどの「自称」環境派の連中が地球温暖化を危惧している精神構造が理解できません(笑)。
このところ、電力小売自由化を題材に、温暖化やエネルギー政策について報告してきました。世の中は、無能な官僚、その玄関ネタを垂れ流すマスコミの非科学的な論理構造による扇動記事によって、とんでもない方向に向かおうとしています。
私のように人為的CO2温暖化は嘘っぱちで、再生可能エネルギー発電はクズ電力などという輩は、まんまと無能なマスコミの主張に飲み込まれ思考停止した小人大衆によって人非人として極悪人のレッテルをはられることになるのでしょう。正に、戦中・戦後のヒステリックな思想弾圧と変わるところのない状態です。
我が日本人諸君は歴史に学ばず、またしても重要な問題について自らの頭で考えることを放棄し、国家・権力に身を任せているようです。人為的温暖化と再生可能エネルギー発電導入の馬鹿騒ぎと憲法無視の安保法による軍事国家化へ向かう状況に対して唯々諾々と従う日本人の行動は同じ根っこがあると考えます。
今回は、マスコミに代表される自称「進歩的環境保護派」の論理構造についてその非科学性・非現実性についてまとめておきます。ここでは、大分合同新聞の社説を題材にすることにします。
まず自称「環境保護派」の主張の原点が20世紀の気温上昇の主因が人為的に放出されたCO2による温室効果によるという「人為的CO2地球温暖化脅威説」であることが明白に読み取れます。この主張が自然科学的に破綻していることは既にホームページ上の数々の論考で述べてきましたので、ここでは触れません。自称「環境保護派」にとって、この主張は最早宗教であって、科学的な議論を行うことは「タブー」となっています。
宗教を科学によって屈服させることほど困難なことはありません。それでも、観測事実という普遍的な客観情報から見ても、2000年以降、気温はそれほど上昇しておらず、むしろ低温化傾向が顕在化しつつあることから、少なくとも、コンピューターシミュレーションによる気温上昇の予測が明らかに誤りであったことは事実として認める態度が必要でしょう。また、NASAの観測から20世紀において南極氷河が増大していたという事実によって、温暖化によって南極氷河が解けて南海の小島が水没したなどということは実在しなかったことを認めなければならないでしょう。
人為的温暖化・再生可能エネルギー導入・脱炭素社会というとんでもない主張による混乱状態に対して、本質的な問題解決には、人為的CO2温暖化仮説について徹底的に科学的に吟味することが絶対必要であることだけは主張しておきたいと考えます。
大分合同新聞の論説では、京都議定書以降に取られた国内対策によって、CO2排出量が全く減らず、総排出量も一人あたり排出量も増えたという事実は認識しているようです。しかし、その理論的な考察が全く欠落しています。
つまり、この間採られてきた太陽光発電・風力発電などの再生可能エネルギー発電などの導入は、CO2排出量削減に寄与しなかったということです。それはなぜか?これらの技術がエネルギー利用効率が低く、その導入のために大量の石炭・石油をはじめとするエネルギー資源、そして膨大な鉱物資源を浪費したからです。
ところが、自称「環境保護派」やマスコミの愚か者たちの主張はこうした理論的な考察を欠いているために別の総括をしています。つまり、効果が出ていないのは導入量が少ないためだ、と。電力会社は再生可能エネルギー発電の不安定電力はこれ以上受け入れがたいというのに対して、自称「環境保護派」は、不安定電力への対応は電力会社の受け入れ体制の強化によって対応し、更なる再生可能エネルギー発電の導入を要求します。これはとんでもない誤りです。
ただでさえエネルギー利用効率の低い再生可能エネルギー発電に対して、不安定電力の安定化対策にハードウェアを導入することによってシステム全体はさらに肥大化し、単位エネルギー当たりのエネルギー・資源浪費は更に大きくなるのは必然です。
論説では、パリ協定の削減目標について、1990年に対して日本の削減目標18%でありEUの40%に対して見劣りすると言っています。これはあまりにもためにする議論です。1990年当時、日本は既に1970年台のオイルショックを経験して、産業のエネルギー利用効率を徹底的に改善しており、欧州各国に比較して圧倒的に優れた省エネ国家となっていました。折しも冷戦構造の崩壊直後の旧東欧諸国の産業のエネルギー利用効率は劣悪を極めていたため、旧式の生産設備を更新するだけで労せずして大幅なCO2排出量削減が実現する状況であったことを確認しておかなければなりません。
その後欧州諸国では近代化が進み、ようやくGDP対エネルギー消費において日本に追いつきつつあるというのが現在の状況なのです。
さて、この論説の致命的な欠陥は、CO2排出量削減について科学的な検討が欠如しているため、日本で対策が進まないのは、厳しい規制などの制度的な枠組みがないからだとしているところです。
しかし問題の本質はそのようなことではありません。前回紹介した通り、日本の一次エネルギー消費の9割程度は石炭・石油・天然ガスであり、工業的産業はこれらのエネルギーを利用することによってのみ成り立つのです。これは日本に限らずあらゆる工業国とて同じです。
もう少し科学的に考察してみましょう。再生可能エネルギー発電によるエネルギー供給で現在の石炭・石油・天然ガスに支えられた工業的産業を維持することは不可能なのは、再生可能エネルギー発電では、エネルギー供給システムを単純再生産することすら出来ないからです。工業的生産を支えるエネルギー供給システムの最低の条件とは、システムから生み出したエネルギーで自らを再生産した上で更に産業を駆動するだけのエネルギーを供給できることです。自らを単純再生産することすらおぼつかない再生可能エネルギー発電では工業的生産が行えないのは当然です。再生可能エネルギー発電は、石炭・石油・天然ガスという優れたエネルギー供給システムを前提とした単なる高価な玩具にすぎないのです。
論説では、脱炭素社会の競争に勝ち残ることがビジネスチャンスなどととぼけたことを言っています。科学的考察の欠如によるたわごとに過ぎません。西欧諸国や米国が敢えて無理筋の軍事的な介入までして中東地域に関与し続けているのかを冷静に考えるべきです。彼らはそこに石油・天然ガス資源がある中東であるからこそ介入し続けているという事以外に、合理的な理由など存在しないことは明らかでしょう。脳天気なマスコミ諸君はこんなこともわからないのでしょうか?
マスコミや自称「環境保護派」の皆さんが、本気で(笑)CO2排出量削減をしようと考えるのであれば、せめて現状について自らの頭で再生可能エネルギー発電・産業構造について自然科学的な再検討を行うことが最低の前提であろうと考えます。
環境省は、IPCC2015年パリ協定を受けて、2050年までにCO2排出量を80%削減するという内容の「長期低炭素ビジョン」を策定すると発表しました。先ずはその記事から。
御存知の通り、このHPでは繰り返し述べているように、人為的CO2地球温暖化という現象は実在しません。大気中のCO2濃度の上昇は気温上昇の結果であって、原因ではありません。
しかも、地球は既に3000年ほど前から低温化傾向が現れており、現在考慮すべきは気温の低下に対しての対処です。
したがって、人為的CO2地球温暖化に対する対策としてのCO2排出量削減は全く無意味です。それだけではありません。前回も触れた通り、現在進められている温暖化対策は例外なしに工業生産規模の拡大、鉱物資源の浪費を招き、地球環境を悪化させるものであり、速やかに中止すべきです。
以上の前提の下で、今回環境省が提示した長期低炭素ビジョンについての技術的な可能性について絞って検討しておきます。
まず、日本のエネルギー事情の概略を示します。最初に、石炭、炭化水素燃料の使途について考えます。
代表的なものとして、石油についての使途ですが、発電部門で消費されているのはわずか12%程度であり、微々たるものです。たとえ電力供給を100%石油以外で供給したとしても、減らせる石油消費量は1割程度にすぎないのです。
天然ガスについては発電用は60%程度です。これも発電用をゼロにしたとしても減らせるのは60%です。
石炭については発電用は43.1%程度です。したがって、発電用をゼロにしても半分ほどの削減に過ぎません。
以上を総合して、一次エネルギーの最終的な消費傾向を示しておきます。
上図の一次エネルギー消費(カロリーベース)において、石炭・石油・天然ガスの占める割合は
(4926+9116+4654)/21147=88.4%
と9割近いのです。更に、一次エネルギーに含まれる石炭・石油・天然ガスに対して電力供給に消費される割合は
(2975+456+1981+31+231)/(4926+9116+4654)=30.3%
3割に過ぎないのです。したがって、電力供給においていくら石炭・石油・天然ガス消費量をゼロにしたところで、CO2排出量は3割しか減らすことは出来ないのです。
以上から、環境省の今回の長期ビジョンは全くの絵空事に過ぎません。
京都議定書以降、日本は太陽光発電、風力発電、ハイブリッド車などの技術を投入してきました。電力に関しては既に既存の電力調整能力が限界に達し、これ以上再生可能エネルギーのクズ電力を受け入れることが難しい状況になっていますが、一体どれほどCO2排出量≒石炭・石油・天然ガス消費量を減らすことが出来たのかを見ておきます。
図に示す通り、1997年の京都議定書以降の時期を見ても、一向に減少傾向を示していません。2008年以降の減少はリーマン・ショックによる経済的な要因による減少であり、2011年は東北地方太平洋沖地震・福島第一原発事故による影響です。2011年以降は原発停止を受けて石炭・石油・天然ガス消費は顕著な増加傾向を示し、2013年にはリーマン・ショック以前の水準を超えています。
現実の統計データからも明らかなように、温暖化対策技術を導入したことによるCO2排出量削減の効果などどこにも存在しないのです。
このような状態で、一体どのようにしてCO2排出量を80%減らすという長期ビジョンが可能なのでしょうか?CO2排出量削減と称して行ってきた施策の徹底的な科学技術的・定量的な検証を行わないまま、あるいはCO2排出量削減対策の費用対効果を検証することもないまま、毎年数兆〜数十兆円の国家予算が雲散霧消している(実際はCO2排出削減効果の無い工業製品を製造するメーカーを肥え太らせている)現状を継続していくことを許してはならないでしょう。日本国民もこのような出鱈目な長期目標についてどうして批判しないのでしょうか?日本人の思考停止・知性の崩壊には歯止めがないようです。
電力小売自由化を巡って、どう選べばよいかというハウツー番組が花盛りです。バカバカしい。このコーナーのNo.1084で触れた通り、今回日本で行われる電力小売自由化とは名ばかりの自由化であって、再生可能エネルギー賦課金あるいは原子力発電の廃炉・後処理費用は発送電分離・電力小売自由化した後も全ての電力消費者から徴収されるため、市場での自由競争など始めから画餅にすぎないのです。
電力小売自由化の最大の積極的な意義は、自由な小売電力価格競争を通して電力供給システムの効率化を図ることです。電力供給システムの効率化とは、必要な電力を最小のハードウェア規模、エネルギー資源消費で実現すること、総じて電力供給に対する社会的費用を最小化することです。
この観点から最初に淘汰すべき発電方式こそ、原子力発電と再生可能エネルギー発電です。然るに、正に淘汰すべき発電方式に対して制度的・経済的に優遇する仕組みを前提としている今回の電力小売自由化は、本来の目的を台無しにするものであり、全く無意味です。
原子力発電は、たとえ重大事故が起こらなくても廃炉・放射性廃棄物処理に対して、現時点では処理技術さえ確立しておらず、莫大なな費用が必要になることは火を見るより明らかです。この発電後の後処理のために莫大な費用とハードウェアが必要であり、現在ある発電システムの中で最も非効率的=社会的費用の大きな発電システムであり、最初に淘汰すべき発電方式です。まして一度重大事故を起こせば、その社会的費用は爆発的に大きくなります。
再生可能エネルギー発電は、元々エネルギー密度の低いエネルギーをかき集めて有用なエネルギーを得ようとするものですから、必然的に供給電力に対する設備規模が巨大なものになるのは当然なことです。更に、再生可能エネルギー発電の致命的な欠陥は、不安定で制御不能だということです。正に「お天道さままかせ、風まかせ」のクズ電力ですから、安定供給が前提の電力供給装置としてはそのまま単独で利用することなど出来ません。
註)不安定な再生可能エネルギー発電を商業送電線網から切り離してスタンドアローンのシステムとして、費用を全額自己負担して個人で利用するのであれば、それは全く個人の自由であり、一向にかまいません。また、災害時の非常用電源、あるいは電灯線を引けないような孤島の電源として自己負担で再生可能エネルギー発電を利用することには、一定の合理性があるかもしれませんが、そのような場合でも、おそらく内燃機関式の発電機と燃料を備蓄しておく方が優れていると考えられます。
ここで反対しているのは、通常の電力供給システムとして敢えて非効率的≒高コストの不安定電源を導入することであり、そのコストを全ての電力消費者に負担させることです。
このクズ電力を使うためには、出力変動に即応できる安定した電力供給システムによる巨大なバッファーの存在が前提になるのです。したがって、再生可能エネルギーだけで電力供給の大部分を代替することなど技術的に不可能なのです。もしそのようなことをすれば、供給電力の不安定化、巨大停電の頻発を覚悟することになります。それが嫌ならば、再生可能エネルギー発電電力専用の巨大な容量の蓄電システムを追加することが必要になります。現実的には日本中に揚水発電所でも作ることになるでしょう。
したがって、「再生可能エネルギー+蓄電システム」から成る純粋な再生可能エネルギー発電電力の市場価格は途方も無く高いものになります。
ちょっと考えてみてください、現在の電源構成において、再生可能エネルギー発電の割合は2%程度です。これに対する再エネ賦課金の額は1.5兆円程度です。仮に再生可能エネルギー発電の割合を20%にすれば、単純には15兆円の賦課金が必要になります。しかし、不安定電力が20%にも膨らめば、現状の送電線網では堪えられないため、新たに送電線網を追加し、蓄電システムの導入も必要になりますから、送電業者はそのコストを送電線使用料金に上乗せします。これと賦課金額を合計した社会的費用は15兆円では収まりません。仮に20兆円とすれば、現在の電力市場規模が20兆円程度ですから、電力価格は2倍以上に跳ね上がることになります。
さて、それでも「環境にやさしいのだからそのコストを負担すべきだ」などと脳天気なことを宣う似非環境保護派の皆さんもいるでしょうが、論理的かつ冷静に考えてください。
工業社会の中で、この20兆円という追加の社会的費用の内訳の大部分は工業製品の生産とエネルギー消費なのです。したがって、再生可能エネルギー発電を大きくすることは工業生産規模を爆発的に大きくすることを意味し、同時に化石燃料消費を増大させることになるのです。現在、工業生産額に占めるエネルギー費用は15%程度です。したがって追加の社会的費用の内3兆円程度がエネルギーに対する費用です。思い出してください、福島原発事故後に、原子力発電電力を火力発電で代替する時に燃料購入に必要な費用が2〜3兆円と言われていたのです。この時原子力発電電力量は全体の30%程度を占めていたのです。つまり、再生可能エネルギー発電は、火力発電以上に化石燃料を消費するということです。
参考:単位GDP当たりのエネルギー費用の目安
算定の前提条件を次のとおりとします。
●一次エネルギー消費量 21000PJ=21000×1015J
●名目GDP 480兆円
●石油の熱量 38MJ/g=38×106J/g
●石油価格 100円/g
一次エネルギー消費量を石油に換算すると
(21000×1015J)÷(38×106J/g)=552.6×109g
一次エネルギー費用は
552.6×109g×100円/g=55.26×1012円=55.26兆円
以上から、名目GDPに対するエネルギー費用の割合は
55.26兆円÷480兆円=11.51%
以上から、おおまかな目安として、GDPの1割程度がエネルギー費用だと考えてよいでしょう。製造業では平均よりも多いエネルギー消費があると考えられます。
火力発電を再生可能エネルギー発電のクズ電力で置き換えれば、工業生産規模が爆発的に増加し、化石燃料消費も増加するのです。太陽光発電パネルは生きた農地や雑木林に除草剤をばらまき、コンクリートで固めて不毛な大地にし、風力発電は里山を荒廃させ、沿岸漁業を破壊します。蓄電用の揚水発電所建設は川を殺し山村を消滅させます。再生可能エネルギー発電は環境破壊そのものです。
脳天気な環境オタク曰く「再生可能エネルギー発電電力だけが買いたいのに買えない制度だ!困ったものだ。」などとバカなことを言っています。クズ電力だから自立できないので既存の優れた電力供給システムに支えられて、いや、紛れ込んでやっと発電しているというのが実態なのです。
単純に考えてみてください。太陽光発電システム(太陽光発電装置、蓄電装置などあらゆる付帯設備製造ならびに、建設も含む)を太陽光発電装置から得たエネルギーだけを使って再生産することが可能ですか?巨大な風力発電システムを風力発電から得た電力だけを使って再生産することが可能ですか?単純再生産すら出来ないエネルギー「供給システム」はエネルギーを供給するのではなく余計に浪費しているだけです。
再生可能エネルギー発電の導入という国家政策の本質は、関連する工業生産市場を拡大し、重電・重工メーカーなどを肥え太らせるための経済政策だということを見逃してはいけません。その費用は、全て電力消費者が支払わされることになるのです。
一昨日、彼岸ということもあり、県内に住む大学の時の恩師の奥様の仏前に線香を上げるためにお宅に伺いました。恩師と言っても歳は10歳ほどしか違わないため、どちらかと言えば同窓の先輩の様にお付き合いしています。リタイアして増々元気で、毎日畑仕事や山仕事に汗を流し、地元の小中高校のコミュニティースクールの講師として参加し、何と観光協会の役員までしているとのこと(笑)。
そんな恩師との再会の挨拶が、「なんとも物騒な時代になってきましたね・・・」です。戦後の日本は結局第二次世界大戦・太平洋戦争から何も学ばず、元A級戦犯の総理大臣に可愛がられた孫によって再び戦火に近づきつつあるのですから。脳天気な国民たちも、未だに民主主義の何たるかを理解せぬまま、日本の再軍備・軍事国家化の傍観者となっています。
恩師と私は元々土木屋ですので、昨今の公共事業についても話題になりました。日本は人口の減少局面に入り、経済規模が縮小することは明らかです。このような時代、高度成長期の負の遺産である過大なインフラの更新にあたり、不要なインフラは更新せずに出来るだけ廃棄し、社会インフラは規模を縮小してメンテナンス可能な本当に必要なものだけを残すべきことは明らかです。しかし、未だに巨大公共事業をぶちあげ、刹那的な経済成長を目指しているこの国の政治屋とそれに追随する技術屋たちには幻滅です。東京オリンピック招致絡みの東京圏の再開発、東北の復興計画にしても巨大な防潮堤の建設やかさ上げ工事はムダとしか言いようがありません。
ご当地では、新大分市長が九州四国連絡橋実現をぶちあげ、新年度予算に調査費を復活させました。このコーナーで2003年にこの計画が断念されたことを報告しましたが、大分市の新市長佐藤樹一郎という元経産省官僚は何を考えているのやら。実現を目指して副市長に国交省の天下りを登用するとか…。
実は、2003年に頓挫した豊予海峡の架橋の技術検討委員会の座長をしていたのが、恩師です。私自身も学生時代は本四連絡橋の構造実験に従事していました。豊予海峡ルートは本四連絡橋に比べてスパンが大きく、しかも水深が大きいため、たとえ技術的に可能な計画であったとしても建設費用は本四連絡橋の比ではない、とんでもない計画になります。恩師曰く、予算も必然性もないこんなゾンビー計画を復活させようと言う市長の馬鹿さ加減には呆れたものだと。計画そのものは政治判断だが、技術屋はその困難さについて率直に具申すべきだとも言っていました。技術屋の倫理的荒廃も情けないことです。
だいぶ前ふりが長くなりましたが、日本を全体主義的な戦争国家にしようとする現安倍政権の動きについて少しまとめておきます。
日本に限ったことではありませんが、軍事行動・戦争が現実のものとなれば、文民統制など画餅であることは当然です。国会すら事後承諾で軍部の行動を追認することになります。まして国民は完全に蚊帳の外になるのは当然です。
昨年成立した安保法の施行を前にして、いよいよ文民統制の形骸化が顕在化してきました。
軍部の独走は起こるべくして起こるものであり、政治が軍事行動を制御できるなどと考えることは幻想です。
一方、原子力利用についての日本政府のデタラメぶりを示す行動が続いています。日本政府は福島原発事故を経験した今でも、原子力政策を反省する気は毛頭ないようです。NPT体制に反するインドの核実験・ミサイル発射実験は容認して、原子炉まで輸出しようとしています。福島事故を海外に紹介することは日本政府の原子力政策と相容れないとして否定的です。
安保法による日本の軍事国家化や原発推進政策を掲げ、憲法改正で国の公益性を優先して国民の権利・自由の制限にとても熱心な安倍・自民党政権は、着々とその準備を進めています。軍国教育を彷彿とさせる学校教科書に対する検定強化、国家政策の教科書への書き込みの強化が進められています。
教科書による生徒への洗脳を進めて、選挙権を18歳に引き下げ、保守党政権の地盤を固めようとしているとしか思えません。
その一方で、文科省の通達を受け、高校生の政治集会への参加を届出制にする校則改訂が広がっているようです。これは実質的な思想調査に他ならないでしょう。
日本の軍事国家化は進み、検定教科書≒国定教科書による洗脳教育と思想調査によって、この国はますます息苦しい国となり、誠に物騒な国に変質しようとしています。
そのような中、最も現実的に安倍政権による軍事国家化の影響を受けることになるのが戦地に赴くことになる自衛隊員の若者たちです。おそらく、今この国で最も真剣に軍事国家化の動きについて考えているのが彼らでしょう。
防衛大学校の卒業式を伝える報道で、卒業生で任官を辞退する若者が急増したことが報じられていました。これは当然でしょう。安保法に拠って、身分的な保証も曖昧なまま、戦闘地域への派遣の可能性があるのですから、普通の神経の持ち主であれば、当然の判断です。
運転を再開した直後の高浜原発に対して、滋賀県民の申し立てによる運転差し止めの仮処分が大津地裁によって決定されました。いかなる理由であろうと、原発の運転が停止されることは喜ばしいことです。新聞報道を紹介します。
このHPのスタンスとしては、危険で非効率的・資源浪費的=劣悪な発電システムである原発は即刻全面停止して廃炉すべきであるというものです。
福島原発事故についてハード的にもソフト的にも全く処理が進んでいない現状で、刹那的な経済性や面子のために拙速な原発運転を再開しようとしている国や電力会社、原発関連の資金でシャブ漬け状態になっている原発立地自治体のあり方は許せない行為だと考えます。原発運転再開を正当化する一つの理由付けに使われているのが、安倍曰く「世界最高水準の新安全基準」というバカバカしい現実と乖離した作文です。
新安全基準はともかく、どのように考えぬかれた安全基準を作ったとしても、それをクリアーした原発の安全性が100%保証されることはなく、事故は起こりうるのは当然です。原発を動かすということは事故が発生することを前提として、事故が発生した時にどのように対応するのか、住民の安全・健康・生活がどのように保証され、回復するのかということが本質的な問題です。
福島の現状を見る限り、電力会社も国も本気で住民の救済を考えてはおらず、放射能汚染被災地復興は技術的にも社会的にも極めて困難な現状を見れば、原発を再稼働するというのはあり得ない選択肢だと考えます。
しかし、福島原発事故後の国政選挙において、国民は原発再稼動やむなしとして、原発運転再開に最も積極的な自民党政権を選択したわけであり、自民党政権下で原発運転再開のために新基準を策定し、法的手続きが定められたのです。
さて、そこで今回の大津地裁の決定についてです。仮処分の決定内容を全文読んでいないために憶測を含みますが、報道によると差し止め理由として「たとえ新安全基準を満足しても現実に安全が保証されるものではない」という内容があるようです。運転再開の法的手続きに違法性や瑕疵があるならともかく、拠って立つべき基準の科学・技術的内容にまで踏み込んで運転再開を差し止めるということは、法に則って判断を下すという裁判所の権能を逸脱しており、司法権の濫用、立法権、行政権に対する権利侵害だと考えます。
勿論、私自身、前述のとおり原発運転再開の法手続きは不十分であるどころか、本来ならば国家政策として脱原発・廃炉・後処理を推進すべきものだと考えています。
しかし、現状では国は原発再稼動を目指しており、そのような国の政策を国民が支持している状況であり、原発再稼動の手続きが決められているのです。いくら今回の原発運転差し止めを決めた裁判官がエネルギー政策について精通しており、崇高な理念を持っていたとしても、原発安全基準の内容にまで踏み込んで判断を行うことは著しい越権行為であり、許されざることだと考えます。
もしこのような行為が容認されることになれば、技術的・自然科学的判断について、司法が介入することを許すことになります。たまたま今回の原発運転差し止め決定は国民にとって好ましいものであったかもしれませんが、逆の場合も起こりうるのです。
今回の司法による原発運転再開差し止めという決定は、極めてイレギュラーなものです。脱原発運動は困難でも、国民に対する運動の拡大、それを背景にした行政に対する働きかけ、立法府に対して脱原発法の制定を求めることを目指さなくてはならないと考えます。緊急避難的には司法判断を仰ぐということもあるかもしれませんが、それを良しとすべきではないと考えます。
今日から米韓による軍事演習が開始されました。韓国軍は30万人規模、米軍は1.5万人規模と過去最大規模の演習が4月30日まで続くという。米軍は中東地域などで要人暗殺に携わった部隊が、北朝鮮要人排除を想定した訓練も行うといいます。
これは米韓合同軍による示威行動であり、紛れも無い挑発行為です。考えてみてください、日本の近海の見えるところで、必ずしも友好的な関係にない外国の30万人を超える規模の軍隊が2ヶ月間も軍事訓練を行う状況を。これを軍事的挑発と言わずして、何が挑発なのでしょうか?
当然北朝鮮はこのような軍事訓練に対して、強い反発の声明を上げるのは当然でしょう。この北朝鮮の反発を事もあろうに『挑発』と表現する日本のNHK・報道機関は完全に米国寄りの偏向した報道姿勢をとっています。このようなスタンスでは、日本を東アジアの中で危うくする状況を見誤ることになるのは明らかでしょう。
本来、日本の安全という視点から考えれば、北朝鮮との間に軍事衝突勃発の危険性をはらむ米韓合同軍事訓練の中止を求めること、徒に北朝鮮を挑発する米韓の行動を批判することこそ報道機関の取るべき対応であると考えます。
追記:ちょうど天木直人氏も私と同じ視点からの文章を書いていましたので、紹介しておきます。
□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】
□■ 天木直人のメールマガジン2016年3月7日第201号
============================================================== 北朝鮮に戦争を仕掛ける米韓合同軍事演習とそれを許す日本
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きょうから米韓合同軍事演習がはじまるという。
過去最大の規模という。
4月30日まで続くという。
きょうの各紙が報じ、NHKは早朝からそのニュースをトップニュースで繰り返し流していた。
すさまじい演習だ。
まさしく北朝鮮に戦争を仕掛けているようなものだ。
米韓が逆の立場だったら即座に反撃で応じるに違いない。
なぜそのような演習を今行なわなければいけないのか。
その前の、対北朝鮮制裁決議もそうだ。
かつてないほど厳しい内容の制裁だ、などと米国の国連大使が自慢げに公言していた。
しかし、厳しい経済制裁が北朝鮮を戦争に追い込む危険性があることは、日本が日米開戦に踏み切った過去を振り返ればあきらかだ。
いま米国が行っている事は国連憲章違反だ。
戦争国家の米国がそれを行う事には驚かない。
その米国と軍事同盟を結んで、いまでも朝鮮戦争を戦っている韓国は、愚かで、気の毒だが、それしか選択の余地はない。
しかし、戦争を放棄し、軍事的威嚇は決してしないと誓った憲法9条を持つ日本が、その米韓と軍事同盟を強化して北朝鮮を追い込む。
これはまぎれもない憲法9条違反だ。
そのことについて、メディアはどこも書かなくなった。
日本の政治は沈黙したままだ。
憲法9条は議論の対象にとどめてはいけない。
ましてや政局の玩具ではない。
この国のあり方である。
共産党でさえも、護憲を叫ぶだけで、日米韓軍事同盟を止めろと言わない。
この国から真の護憲政党はなくなったということだ。
憲法9条が泣いている。
だから新党憲法9条なのである。
新党憲法9条は、本気で憲法9条を守ろうとする国民のための政党である。
いまほどそれが必要な時はない。
国際政治の現実がそれを求めている。
民・維と共産党の共闘がどうにもならなくなった時、その時こそ、新党憲法9条が立ち上がる時である(了)
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編集・発行:天木直人
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環境相丸川珠代の除染についての暴言について検証しておくことにします。
その前に、現在の福島県の放射能汚染状況の概要を確認しておきます。
図に示すように、未だに放射線レベルが高く、日本国民の居住環境に適さない広大な地域が広がっていることが分かります。ここで言う「日本国民の居住環境に適さない」というのは、正に年間追加被ばく線量が1mSv/年を超える地域という意味です。
そもそも人工放射能を扱う事が出来るのは許された特別な事業所や研究機関に限られています。したがって、通常の国民の居住環境において追加被ばく線量などあり得ません。そこで、日本の放射線防護に関する法体系では、放射性物質を取り扱う事業所境界における追加被ばく線量を1mSv/年以下にすることを求めています。これは逆に見れば、一般国民の居住環境では追加被ばく線量が1mSv/年よりも小さくなくてはならないということを意味しています。付け加えれば、放射性物質を扱う事業所内において、3ヶ月で1.3mSvを超える場所は放射線管理区域に指定して一般大衆の立ち入りを禁止し、18歳未満の就労が禁止されています。
以上の法体系から見て、原発事故直後の緊急時ではない、期限を区切らない居住を前提とする帰村の判断をするための基準は、年間追加被ばく線量が1mSv/年を下回ることであることは当然です。したがって、被災地域住民が除染目標値として1mSv/年を求めることは当然のことです。これを『反放射能派』などと揶揄する人物が環境相丸川珠代です。仮に5.2mSv/年を超えるような場所があれば放射線管理区域として18歳未満であれば就労も規制しなくてはならないのです。
さて、以上は法的な問題整理です。丸川珠代は国会答弁において、100mSv/年よりも小さい追加被ばく線量では放射線障害が確認されていないので、100mSv/年よりも小さい線量を定めることに科学的な根拠が無いというお馬鹿なことを主張しています。自らの認識の浅薄さを露呈しています。放射線障害は、便宜的に確定的な影響と確率的な影響に分類されています。エステー化学のHPから説明を紹介します。
説明にある通り、強い放射線を短期間に浴びた場合の急性的な影響という意味ではおおむね被ばく線量が100mSvが閾値とされています。それ以下の低線量被曝については個人差があること、あるいは被ばくから影響の発症までに長期間を要し、またばらつきがあること、そして何より疫学的な調査研究データが少ないために影響が十分確認されていません。丸川珠代は科学的にデータがまだ不十分で「疫学的に確認できていない」ことを『影響がない』と勝手に解釈しているのです。
では、低線量被曝による影響について本当に影響がないのか、被害が確認されていないのかを考えてみます。新聞報道などでご存知でしょうが、例えば福島第一原発事故処理の過程において吉田昌郎所長が事故後2年でガンで死亡されました。その他にも現場労働者の中に放射線被曝によるとみられる健康障害が複数発生しています。更に、福島以外の原子力発電の通常業務に従事していた複数の労働者が被爆によるがんの発症が労災として認められ、10例中9例は追加被ばく線量は100mSv未満でした。最低ではわずか5.2mSvでした。
こうした事実から、日本の放射線防護の法体系は合理的なものであると考えます。除染地域の線量レベルは1mSv/年よりも小さくすべきことは当然であり、居住環境だけでなく山林や原野の除染をも含めなければなりません。拙速な帰村判断は慎まなくてはなりません。
前回、この4月から始まる小売電力の自由化について少し触れました。電力の自由化の最大の積極的な価値は、発送電分離による一般電力事業者による地域独占体制を解体し、卸電力市場、小売電力市場の価格競争によって非効率的・危険・不経済な発電方式=社会的費用の大きな発電方式を淘汰することで、社会的費用を最小化する効率的な電力供給システムを構築することです。
それを台無しにするのが自由競争を有名無実なものにする国家による市場への介入です。その具体的な政治的介入の一つが全ての小売電力価格に含まれる再エネ賦課金です。これによって、本来ならば自由な市場経済の中で経済合理性によって淘汰されるべき発電方式の一つである再生可能エネルギーによる発電方式が温存されることになります。
今回は再生可能エネルギー発電による社会的な費用がどれだけ大きいのかを示し、再生可能エネルギー発電の政策的導入の愚かさを考えていただきたいと思います。これまでこのHPでは、技術的に細かい効率の話をしてきましたが、ここでは費用の面から実体を把握しようと思います。
まず、最近の日本の電源別電力構成を示します。
2013年で「地熱及び新エネルギー」の占める割合は2.2%です。
9397億kWh×0.022=206.7億kWh
この内、地熱発電量は
2605GWh=26.05億kWh
したがって、再生可能エネルギーの割合は以下のとおりです。
(206.7−26.05)÷9397=0.019=1.9%
再生可能エネルギー発電で概ね2%の電力を供給していることになります。この再エネ電力の固定価格買取のために徴収された再エネ賦課金は、今年度は1.5兆円を越えるようです。仮に、再エネ電力で電力供給の20%を供給することになれば、単純には再エネ賦課金は15兆円を越えることになります。実際には、再エネ電力のような不安定電力を供給電力の20%にまで増やせば、電力安定化のための付加的な設備規模が大きくなりますから、とても15兆円では済まないことになります。
一方、小売電力の現状の市場規模は15〜20兆円と言われています。つまり、再エネ電力を供給電力の20%にまで増やせば、電力価格は2倍に跳ね上がるということです。跳ね上がる費用は全て再エネ電力を利用するための社会的費用の増加なのです。
この15兆円の社会的費用とは、再エネ施設の建設・運用にかかる経費ですから、15兆円規模の産業規模の拡大=資源の浪費が発生することを意味しています。再エネ関連企業はこれによって15兆円の新たな市場を獲得してぼろ儲けする一方、本来再エネを導入しなければ必要のないこの費用を電力消費者が全て支払うことになるということです。
さて、東北地方太平洋沖地震・福島第一原発事故から早くも節目の5年目になります。そんなわけで、このところ福島原発事故関連の報道が目につきます。
しかし、福島第一原発事故の事故処理は遅々として進まず、5年も経過しているのに放射能汚染水対策さえまだ全くめどの付かない状態です。遅れに遅れている地下水遮蔽のための凍土壁は莫大な初期コスト、ランニングコストが必要ですが果たしてまともに機能するのか…。
一方で日本政府の連中ときたら、原発事故による被災者たちを不十分な除染のままに半ば強制的に帰村させようとしています。丸川珠代の様に、日本国民として当然の権利である除染目標1mSv/年以下を求める住民を、『反放射能派』などと揶揄する神経には驚くばかりです。
事故から5年が過ぎたこの時期になって、東電は社内に原発炉心溶融の社内基準があり、福島第一原発事故後3日めには炉心溶融が判断できたと、抜け抜けと発表する始末。
この空前の原子力災害を引き起こした当事者たちは、未だ誰ひとりとしてその罪を裁かれていません。検察審査会によってようやく旧東電幹部が強制起訴されましたが、果たしてまともな裁判になるか、全く疑わしい限りです。
このように福島第一原発事故は物理的にも社会的にも全く処理が進んでいないというのに、原発再稼動が目白押しです。一体この国の役人や電力会社、金融資本は何を考えているのか。
その一方で、原発の新安全基準に合格したという高浜4号機が再稼働3日で、マスコミ関係者を招待した目前で緊急停止する、無様な姿を見せています。
福島第一原発事故の経験から、事故が起これば言うに及ばず、事故が起きなくても技術的なめども全くついていない廃炉、放射性廃棄物処理費用などのバックエンドの費用まで積算すれば、原発こそ最も高価な発電方式であることは明白になったはずなのに、なんという愚かなことでしょうか。
国と電力会社は結託して、福島第一原発事故の前と変わらず、原発電力原価にバックエンドの処理費用は全く含めないダンピング価格で原発電力を安い電力と偽って販売を続けてぼろ儲けして、廃炉や放射性廃棄物処理費はコッソリ気づかれないように全て国民に費用負担させる仕組みを法制化しているのです。バカバカしい。要するに電力会社と関連企業、それにぶら下がる役人や議員たちが甘い汁を吸うために原発を再稼働させるのです。
誰が儲ける・得をするという観点を除けば、長年にわたって危険な廃棄物管理を国民に強い、最も発電コストの高い発電システムを再稼働するということは、最も多くの社会的費用を浪費することを意味しています。その費用は全て国民が負担することになるのです。社会全体の効率から考えれば原発を再稼働させるほど愚かなことはないのは、分かりきったことです。
そこで電力の自由化です。本当に日本の電力市場が自由化されるのならば、危険で高コストの原発や非効率的な再生可能エネルギー発電は市場の中で淘汰され、効率的な電力供給システムが実現するはずです。
ところが、人為的CO2地球温暖化対策という錦の御旗のもとで、発送電分離して卸売電力市場、小売電力市場を民間に開放したところで、全ての小売電力料金に再生可能エネルギー電力の固定価格買取制度を維持するために再エネ賦課金が上乗せされ、送電事業者が小売電力事業者から徴収する託送費には原発の廃炉費用や放射性廃棄物処理費用が含まれており、結局すべての電力消費者から原発事業者がダンピング販売で大儲けするための穴埋めの資金が巻き上げられるのです。
日本の電力自由化とは、原発と再生可能エネルギーという非効率な発電システムを温存するための茶番劇にすぎないのです。