なんとも無様なことです。24日に公開した放射性物質の簡易拡散シミュレーション結果に誤りだそうです。この一事をとっても、今回の拡散シミュレーションは形ばかりのやっつけ仕事だということを示しているように思います。
●拡散シミュレーションの試算結果(修正)【PDF:25MB】
●拡散シミュレーション結果の修正点について【PDF:5.8KB】
●放射性物質の拡散シミュレーションに基づく97%値の市町村名について(修正)【PDF:374KB】
10月24日に原子力規制委員会が国内の原発が重大事故を起こした場合の放射能の拡散について『簡易的な手法でシミュレーションした結果』が公開されました。
原子力規制委員会のHPに公開されている関連文章を見てもシミュレーションの具体的な条件や解析方法が明確ではなく、一体公開されている結果がどういう意味を持つのか、明らかではありません。しかしながら、相変わらずマスコミ報道機関の報道は、このシミュレーションの前提条件を抜きに論評を加えています。このような無意味な科学報道はいつまでたっても変わらぬようです。
詳細がわからないので、私の解釈にも誤りがあるかもしれませんが、現時点で疑問点を記しておきます。
シミュレーションは、1年間の風向・風速などの観測データを元に16方位の風向の出現確率で風向ごとの拡散範囲に重みをつけているようですが、防災計画に利用するのであれば、これは過小評価であろうと考えます。防災は相対的な発現確率ではなく、最悪の条件について立案すべきです。確率論的な期待値については、当然現実にはこれを超える可能性があるのです。確率論的に評価するのであれば、せめて月ごとの風向の特性、最悪でも特徴的な季節ごとの風向の特性について個別に条件を設定すべきでしょう。
次に、放射性物質の放出源が地上0mであるというのも非現実的な仮定です。福島の事故が示す通り、大量の放射性物質を環境中に放出する場合は爆発的な現象を伴うと考えるべきであり、放射性物質は原子炉の上空にかなりの高速で吹きあげると考えるべきです。この場合、放射性物質の拡散範囲は地上に放出源がある場合に比べてはるかに広範囲に広がることになります。
相変わらず「とりあえず」形をつけるだけの原子力行政には本質的な反省の姿勢はないようです。今回の発表は時間がないので簡易手法で放射能の拡散範囲を推定したとしていますが、本来ならば、いくら時間がかかっても信頼しうる最良の手法でシミュレーションを行うことが必要であり、結果が出るまでは原発再稼働などあり得ないとすべきだと考えます。今回の対応も早期原発再稼働ありきの対応としか思えません。
●放射性物質の拡散シミュレーションの試算結果について、平成24年10月、原子力規制庁
●拡散シミュレーションの試算結果、平成24年10月、原子力規制庁
2012年11月3日 追記New!
この原子力規制委員会のシミュレーションについて、四国電力の伊方原子力発電所と豊予海峡を挟んで対岸にある大分県の佐賀関の本神崎校区自治委員連絡協議会の会長が的確な批判をされている記事が大分合同新聞に掲載されていましたので紹介します。
日本は四季があり、季節によって風の特性は著しい変化を見せます。それだけでなく日々の気圧配置によってあらゆる方向から風が吹く事を考慮しなければなりません。年間を通して確率的には豊予海峡を東から西に吹く風の出現確率は小さいかもしれませんが、記事にある通り、「春は東から風が吹く」こともあるわけです。もし不幸にもその時に伊方原発が大事故を起こしたとしたら、佐賀関は果たして安全だといえるのでしょうか?
下の図は今回のシミュレーションにおける福島第二原発の結果です。おそらく第一原発も同様の傾向を示すと考えられますが、確率的には内陸側である南西側への拡散は殆ど無いことになります。
しかし、福島第一原発事故では南西側の北関東一円にも広く放射性物質による高濃度汚染地帯が出現したのです。
繰り返しになりますが、防災計画という観点からは、風向・風速の統計データから風向ごとの発現確率によって拡散範囲に対して重みをつけるなどという操作は無意味です。過去の風向・風速データから着目する方向に対する最悪のケースに対して放射性物質の拡散範囲を推定すべきなのです。
この幼児性格の駄々っ子のような極右政治家をのさばらせて来た東京都民にはあきれ果てていましたが、今度は任期途中で都政を放り出して国政復帰だそうです。東京都民こそ好い面の皮です。こんな男が衆議院選挙に出ることで日本という国の行方が変わるようでは…。
冒険主義的で軽率な妄言を繰り返す馬鹿者の動静をトップニュースで扱う日本の報道にも改めて呆れるばかりです。自分を沈みゆく日本の救世主だと思い込んでいる誇大妄想の老人は無視しておけばよいものを…。
イタリアで2009年に308人の死亡者を出した大地震について、同国の大規模リスク予知・予防委員会のメンバーだった6人の科学者と1人の政府関係者に対して、イタリア中部ラクイラの地裁は22日に有罪判決を下しました。
これに対して日本では批判的な論評が多いようです。それはそうでしょう、我が国の地震予知に携わる地震学者、あるいは地球温暖化の脅威を吹聴する気象学者にとってはこれを日本の世論が支持しては大変なことになりますから(笑)。
しかし、これは地震学という学問に対する弾圧ではなく、あくまでも『大規模リスク予知・予防委員会』という、おそらくイタリア政府の国家機関に属する委員が、その業務である地震による大規模リスク予知・予防という業務を遂行しなかったことを罰したものであり、極めて合理的な判決だと考えます。有罪になった科学者は、この委員会に課せられた業務を遂行可能であるという認識で参加したのですから、判決を甘受すべきです。
もとより、このHPでは地震防災という観点からの地震予知などというものは科学的に不可能であるという立場です。巨大地震の発生のような人間のライフサイクルを大きく超えるタイムスパンで考えるべき問題に対しては、これをピンポイントで予測して防災に活用することなど、金輪際出来ないことなのです。まともな地震学者であるならば、イタリア政府から『大規模リスク予知・予防』を業務とする委員会の委員への参加を打診された時に、そんなことは科学的に不可能であるというべきだったのです。
本来ならば、東北地方太平洋沖地震を予測できなかった日本の地震予知連絡会議や、原子力安全委員会、原子力保安院などの関係者に対しては司法が有罪判決を下すべきであり、与えられた業務が執行不可能というのならば即刻解散すべきなのです。
彼らは嘘と知りつつ地震が予知できると言い続け、原子力は安全だと主張し、人為的CO2地球温暖化の脅威を煽って莫大な国家予算を食い物にしてきたのです。国家機関に属して国家政策に係る科学者に対しても『行政』責任は取らせるべきなのです。それが嫌ならばこの種の国家機関に属さず、地道な研究を続けるべきなのです。このまま彼らを野放しにしていれば、彼らによって今後も「研究費」という名目で血税が食い物にされるだけなのです。
ラクイラの地裁の判決に喝采を送るものです!
秋田県でオイルシェールの試掘が行われたことが大きく報道されました。いつまでたってもこの国のエネルギー政策は非科学的な愚か者たちに振り回されっぱなしのようです。また間抜けなマスコミの諸君ももっと本質的な問題点に気づいてもらいたいものです。まず大分合同新聞の記事を紹介しておきます。
まず言葉の混乱ですが、通常、板状の層構造を持つ堆積岩の一種である頁岩(シェール)で油母という石油の元になる成分を含有する物をオイルシェールと呼びます。ここで言うシェールオイルとはオイルシェールから得られる油分のことを指すと思われます。
オイルシェールから油分が取り出せることは当たり前のことです。日本で初めてシェールオイルを取り出せたからといってなんの意味もありません。問題はそれがエネルギー資源として利用価値があるかどうかという問題です。
さて、有効なエネルギー資源の条件とは何でしょうか?このHPでは繰り返し述べてきたことですが、たとえ莫大な燃料となる物質が地下に埋蔵されていたからといって、それを利用することに価値があるかどうかはまったく別の話です。
有効なエネルギー資源の最低満足すべき条件は、自らを拡大再生産することができることです。いくら大量の燃料資源が地中に埋蔵されていたとしても、それを利用可能にするために投入されるエネルギー資源量の方が大きくなれば、それはもはやエネルギー資源として無価値なのです。
シェールオイルは固体である頁岩層に油母が閉じ込められているため自噴することはなく、頁岩層を物理的、化学的に破砕した上で水などを圧入することで油母と母岩の混合物を取り出し、これを遠心分離機で分離することによって油母を取り出すというものです。
このようにシェールオイルの採掘と精製には多くの手間がかかるため、必然的に投入エネルギー量が多くなることから、
エネルギー産出比=(産出エネルギー量)/(投入エネルギー量)<1.0
になる可能性が高く、有効なエネルギー資源になる可能性は極めて低いと考えるべきでしょう。また、地下水の汚染や地下構造の不安定化などの悪影響も懸念されます。あわてふためいて、再生可能エネルギー同様に、拙速に無意味な開発に無用な政府資金の投入が行われないように祈るばかりです。
このコーナーNo781 (2012/08/31)東大IR3S名誉毀損訴訟判決速報で概要を報告しました。まったく東京地裁の判決文はあきれ果てた内容でした。この判決に対して、槌田さんから控訴の方向で検討する旨の連絡を頂いておりました。
近藤様 9.1
8月28日、東京地裁の判決がありました。完敗でした。
ご支援をいただきながら、敗北したことをお詫びします。
国策としてのCO2温暖化対策を押し進めるために、
東京大学は私を含む12名の学者に対して人身攻撃したので、
不正には「黙っていない」ために反撃の裁判にしたのでした。
ですから、もともと裁判での勝敗を問題としていないので、
判決はどうでもよいことでした。
しかし、この判決文は、弁明をほとんどしないだらしない
東京大学になり代わってその最終書面を代筆したものです。
つまり、東京大学は、『地球温暖化懐疑論批判』の正当性を
積極的には主張しないので、温暖化対策という国策を維持するために
東京大学を支える東京地裁の判決文になっています。
東京地裁は、原告に再攻撃を仕掛けてきたのです。
攻撃されたら黙っていないという趣旨を貫くため、
高裁に上告しようと思っています。
ただし、東京高裁は、「地裁判決を全面引用する」だけで何もしないし、
最高裁は、判断理由も示さず、いわゆる「三行判決」でしょうから、
高裁での小宮山、M田、住の証人尋問が拒否されたら、
公正な裁判は不可能として取り下げることを考えています。
ご意見をお願いします。
槌田敦
槌田敦 様
メールを拝見いたしました。
> 高裁での小宮山、M田、住の証人尋問が拒否されたら、
> 公正な裁判は不可能として取り下げることを考えています。
●一審において、使い捨ての鉄砲玉である明日香のみの尋問で、主犯である小宮山、そして実行犯である住、そして彼らの行動を支持した濱田に対して尋問も行わずに判決を下すなど、裁判としての不備であると思っています。もし彼らに直接尋問できるのであれば二審をやる意味があると思います。
●ただ、裁判で救済されることは金輪際ないでしょうから、小宮山らに対する尋問ができないようなら、時間の無駄なので即刻取り下げることに賛成します。
近 藤 邦 明
そして去る9月27日に控訴することを決定した旨の連絡を受けました。これを受けて、遅くなりましたが、東京地裁の一審判決文と、槌田さんの控訴理由書を公開いたします。
●2012年8月28日 東京大学IR3S『地球温暖化懐疑論批判』名誉毀損訴訟 一審判決文
●2012年9月27日 控訴理由書 槌田敦
原子力行政の秘密主義は福島第一原発事故後も全く変わっていません。福島第一原発事故の影響で生じた放射能が8,000Bq/kg以上の高レベルの放射性廃棄物の最終処分地が秘密裏に選定されています。まず関連記事を引用しておきます。
原発事故:「指定廃棄物」の最終処分地候補 茨城県に提示
毎日新聞 2012年09月27日 11時17分(最終更新 09月27日 12時45分)
指定廃棄物最終処分場の候補地
東京電力福島第1原子力発電所事故の影響で生じた「指定廃棄物」(放射性セシウム濃度が1キロ当たり8000ベクレル超)について、横光克彦副環境相は27日、茨城県の最終処分場建設候補地を高萩市上君田堅石の国有林野にすると、橋本昌知事と高萩市の草間吉夫市長に提示した。草間市長は「被災市なのに、なぜ決まったのか。市としては断固反対する」と反発した。国による候補地提示は栃木県矢板市に次いで2例目。
候補地は国有林野1.1〜1.4ヘクタール。高萩市によると1日現在、上君田には202人が住んでいる。茨城県によると、県内に保管されている該当廃棄物は計3113トン。うち環境省に指定されているのは1709トンだが、最終的には全て指定される見込みだ。
県庁での会談で橋本知事は「丁寧な説明をお願いしたい」と要望。横光副環境相は会談後に「面積、地質、水系への影響がなく、民家から遠いことなど、いろいろと勘案して選んだ」と述べた。
処分場を巡っては、矢板市への事前説明がなかったことについて地元が反発し混乱を招いた経緯がある。このため環境省は茨城県に事前打診し26日、高萩市に概要を説明していた。【杣谷健太、臼井真】
埋設地選定の判断基準やそのデータを一切公表せずに、候補地を決めた後に結果のみを公表するという、とても信じられない話です。一体どのような検討が行われたのか、行われなかったのか、不信は募るばかりです。むしろ国有林野というお手盛りで何とでもなる場所が選定されていることから、選定場所の最終処分場の適格についての科学的妥当性よりも地元住民の反対を押さえ込める場所が選ばれたのではないかという疑問は拭えません。
放射性廃棄物は基本的に拡散せずに、発生源付近で出来る限り限定された地域に集めて集中管理すべきです。福島第一原発事故によって拡散した高レベル放射性廃棄物は福島第一原発の周辺に最終処分地を設けることが基本です。
福島第一原発に限らず、今後寿命を迎えて廃炉になる原子炉が数多くあります。事実上高速増殖炉の実用化は断念され、核燃料サイクルはもはや無意味になったのですから、廃炉に伴う放射性廃棄物はそのまま最終処分することになります。現状ではどのような最終処分が最良であるのか難しい判断ですが、基本的に放射性廃棄物は原子力発電所内で移動せずに状態を絶えず監視できる環境下で管理すべきです。
今回の高萩市の国有林野のような人目につかない山の中に地下埋設による最終処分地を作るなど愚かな判断です。おそらく埋設処分してしまえば、埋めっぱなしでその後の管理はまともに行うことはないでしょう。高レベル放射性廃棄物のような数万年にわたって毒性が続く特殊な廃棄物を埋設処分すれば、長い年月の間に必ず周辺への漏洩、地下水の汚染が起こると考えるべきです。
漏洩した時のことを考えれば、できるだけ拡散の可能性の低い海抜の低い平地で管理し、漏洩することを前提に監視体制を整え、漏洩を最小限に食い止める対処が可能な管理方法を取るべきです。その意味でも、原子力発電所敷地内あるいはその周辺に放射性廃棄物処理施設を作って常時監視することが次善の策であろうと考えます。
原発が立地している地方自治体は、最終処分地は別のところに持って行くように主張するかもしれません。しかしそれはわがままというものです。愚かな判断で原発を誘致し、その見返りに経済的な恩恵を享受してきた自らを恨むしかありません。電源立地の恩恵もなく、今後大きな雇用が生まれることもなく、何も生み出さない最終処分場をほとんど未来永劫に押し付けられる自治体が新たに生まれることのほうがよほど不条理というものです。科学的に考えても、あえて高レベル放射性廃棄物を人為的に拡散させるなど愚かな選択です。政府は、廃炉に伴う高レベル放射性廃棄物は原発立地点において管理するという方針を決めるべきだと考えます。
このコーナーNo786 (2012/09/16)民主党政権の支離滅裂な脱原発政策でも述べた通り、経済団体や原発立地の地方自治体の手前勝手で非論理的な横槍、そして民主党の支持団体である電機連合を中核とする連合の古賀も反対を表明しました。
彼らの主張は、原子力発電の安全対策や事故処理費、そして今後顕在化してくる廃炉と放射性廃棄物処理という莫大な社会的・国民的負担を全く発電コストに含めないという出鱈目な原子力発電原価をこれまで通りに踏襲することを前提としたものです。福島原発事故の経験から全く何も学ばず、反省もしない出鱈目な主張です。
野田民主党政権は将来世代に負担を負わせないために消費増税を行うということを言いながら、一方では原子力発電の尻拭いをすべて先送りにして将来世代に押し付けようとしているのです。全く支離滅裂です。
そして昨日の閣議において、予想通り、そしてまたしても野田民主党は新エネルギー政策でも前言を翻して腰砕けの決着を図ることにしたのです。
またしても野田民主党は国民の期待を裏切ったのです。こんないい加減なほとんど虚言症とでも言うべき人物に国政のトップを務められてはたまったものではありません。なぜこんな不誠実な人物を再選しようとするのか、民主党というのも俗な政党のようです。民主党代表選に名を連ねる原口、赤松、鹿野の各氏は民主党を後にすべきだと考えます。
7月に通称”再生可能エネルギー特措法”が施行されて以降、全国でメガソーラー発電所の建設計画が雨後の筍のように持ち上がっています。当地、大分県では何を血迷ったか再生可能エネルギー立県(笑)を目指して県が率先して再生可能エネルギー導入の旗を降っています。新聞記事は工業団地誘致に失敗した大分臨海工業地帯の埋立地の空き地の廃物利用でソーラー発電所を作ろうというものです。
この話を聞くと、私が就職した当時に頓挫した“むつ小川原開発計画”を思い出します。これは青森県に一大重化学工業地帯を誘致しようと公金を投入して工業用地を開発したものの、オイルショックによって工場誘致に失敗し、何でもいいからその穴埋めをしたいということで、六ケ所村に再処理工場を誘致することになったのです・・・。六ケ所村の二の舞にならないと良いのですが。
さて、最近太陽電池パネルの市場価格が大幅に下がっています。今年2月に紹介した太陽光発電装置価格のグラフを再掲しておきます。
この図を見ると、1kWあたりの太陽光発電装置価格は70万円程度で推移しています。この価格はおそらく日本国内生産の太陽光発電装置の価格ではないかと考えます。ところが最近計画されているメガソーラー発電所の予算額を見ると格段に安くなっているのです。
紹介した新聞記事の大分臨海工業地帯のメガソーラー発電所計画では、平均すると
35,000,000,000円÷125,000kW=280,000円/kW
ですから、半額以下になっています。これは、太陽電池パネルの製造プロセスが改善されて製造原価が半額にまで下がったわけではありません。例えば記事の中の丸紅の計画を確認したところ、中央日報の記事がありました。
ハンファ 日本・丸紅に太陽光モジュール供給へ
2012年08月02日16時01分
【ソウル聯合ニュース】ハンファグループ日本法人のハンファ・ジャパンは2日、総合商社の丸紅が建設を計画している日本全域の太陽光発電所に、向こう4年間で約50万キロワット分の太陽光モジュールを供給することで丸紅側と合意したと明らかにした。近く本契約を締結する。
供給されるモジュールは全てハンファソーラーワンの製品で、売上額は6000億ウォン(約416億円)に達すると見込まれる。
日本への太陽光モジュールの供給が本格化したのは、東日本大震災が発生した昨年3月以降だ。
ハンファグループは震災後、鳩山由紀夫元首相の支援要請に応じて太陽光発電システムなど10億ウォン相当の支援を実施。これを機に金升淵(キム・スンヨン)グループ会長が日本を訪れ、野田佳彦首相や丸紅の朝田照男社長と面会し、太陽光発電事業での提携を協議した。
日本のメガソーラー発電所景気で、外国製の格安太陽光発電装置が大量に輸入され始めることになります。おそらく国内の太陽光発電市場価格は暴落することになるのではないでしょうか。スペインやドイツ以上に急速に日本の国内太陽光発電メーカーは衰退していくことが懸念されます。
かつてこのコーナーの記事No640(2011/08/04)脱原発と自然エネルギー発電において海外からの自然エネルギー発電装置の購入について次のようにコメントしました。
しかし本当は、日本のCO2排出量を減らすことが第一の目標であるのならば、自然エネルギー発電システムを海外からすべて購入することが一番合理的なのです。なぜなら、国内で自然エネルギー発電システムを製造すれば、工業的生産過程で莫大な化石燃料の投入が必要ですが、海外製品を購入するのならば、必要なのは札束だけです。発電用の化石燃料の代わりに自然エネルギー発電システムを購入すればよいのです。
ただし、たとえ輸入したとしても今のような不安定なシステムでは国内で運用するためには追加の化石燃料消費が発生しますので、あくまでも海外で安定運用可能な自然エネルギー発電システム技術が確立された場合に限られることは言うまでもありません。
つまり、自然エネルギー発電技術に関しては技術開発も製品製造も全て海外に任せて、将来的に火力発電に比較して絶対的に優れている自然エネルギー発電システムが完成した段階で日本はシステム全体を購入することが最もCO2排出量削減という目的の達成のために合理的な判断なのです。海のものとも山のものとも知れない現段階で自然エネルギー発電システムに莫大な国費を投入し、消費者に負担を押し付けることなど断じて許されないことです。
日本国内におけるCO2放出量を減らすためという目的のためには、太陽電池パネルの輸入は誤った選択ではありませんが、その条件となる太陽光発電の不安定電力を安価で効率的に安定運用する技術は確立されていませんから、この時期における大量輸入は時期尚早です。
現在、民主党代表選挙と自民党総裁選挙が行われています。私は民主党野田政権には全く信頼をおいていません。できる限り早く辞めて欲しいと思っています。ではそのあとはどうすれば良いのか…。これは悩ましい問題です。
自民党は野党となり、少しは学習して民意を汲む努力をしてきたかと思えば、討論会や街頭演説を見る限り全く無為に時を過ごしていることが露呈してきました。石破や安倍を筆頭に、揃いも揃って子どもじみた米国の威を借りた稚拙な似非国粋主義=米国傀儡の愚かな外交感覚は、日本を確実に軍事的な脅威に晒す危険を大きくするでしょう。独立国としての責任のある毅然とした外交とは、沖縄県民を米国の横暴から守ることであり、領土問題は粘り強い外交交渉で実力的なぶつかり合いにならないように務めることだと考えます。東京都の石原の愚かな挑発行動に対して、賛辞を送るようなバカには外交を託したくはありません。
また、民意の大多数を占める脱原発に対して、全員が原発維持を主張しています。この感覚は、もしかすると民主党打倒の好機を逃すことに繋がるかもしれません。石破にいたっては子供じみた軍事マニアの本性を丸出しで、核兵器保持のためにも原子力は維持すべきと公言しています。
民主党もひどいが、自民党は更に出鱈目なようです。昨日のTBSの番組に登場した元自民党総裁であった河野洋平にして「今回の総裁候補は揃いも揃って改憲論者で原発推進という選択の幅の狭い政党になった。かつて自民党は幅の広い保守政党であったのが今は右翼政党になった。」というほど、今の自民党は民意を汲むことの出来ない独善的な右翼政党へ変質しているようです。
民主党に関しては、とりあえず野田以外の代表になれば、少しは希望(?)が持てるかもしれませんが…。無理なのでしょうね。
福島原発事故を受けて、民主党政権の新たなエネルギー政策がまとめられようとしています。その中核的な内容は、脱原発と再生可能エネルギー発電の導入促進というものです。
まず、科学技術的、そして経済合理性から見て、脱原発は当然です。しかしながら、原発の代替として再生可能エネルギー発電を大規模に導入するという政策は、科学技術的に不合理であり、その帰結として経済合理性がありません。これを大規模に導入することになれば既に西欧の経験から明らかなように、電力価格の暴騰によって経済システム(産業と国民生活の両方)を破壊することになります。今回は新エネルギー政策の中の原発政策について簡単にコメントすることにします。
民主党政権は、当初脱原発と言ってきたのですがその内容は次第に変質しているようです。「2030年代に原発をゼロにする」として、原発の運用期間40年を厳守するとしながら、個別に判断して安全性に問題がなければ(??!)運転期間の延長を認めるというのは理解し難いものです。更に、現在建設途中の原発は計画を続行するというのです。これでは最低でも2050年代までは原発が存在することを意味しています。そして、高速増殖炉の実用化は断念するがもんじゅは当面廃炉にせず、実験炉として運用を続け、使用済み核燃料再処理工場は運用し続けるというのです。この非科学的・非論理的・支離滅裂な政策は理解不能です。
民主党の脱原発ないし脱原発依存政策は科学性・論理的一貫性が欠如した支離滅裂な内容です。このようなめちゃくちゃな内容を実行に移せば将来的に無意味になる財政的な支出が増大するばかりです。
民主党の原発政策がこのように支離滅裂なものになる背景の一つには、これまでの国の原子力政策によって恩恵を受けてきた地方自治体、企業、研究者の福島原発事故を経験しても全く反省していない現実と、既得権益への執着があります。福島において原発事故によって被災した人々の悲惨な現実が今も継続している中で、原発やその関連施設の存続や既得権益の保護を求める地方自治体が主流であることに愕然とします。
住民の将来的な安全を考えれば、原発立地自治体こそ率先して脱原発運動の先頭に立つべきものであるはずですが、彼らはそんなことより今眼の前にある刹那的利益を確保しようとしている大馬鹿者です。目の前の自国の原発事故の経験からさえ何も学ぼうとしない愚かな自治体首長には絶望します。例えば、原発事故時の住民の安全を確保するためのEPZの範囲拡大に対して見当はずれの懸念を示す福井県の姿勢には呆れ果てるばかりです。
企業の中に露骨に台頭してきた早期原発再稼働と原発維持の主張は、全く手前勝手で刹那的欲望の産物です。経団連の米倉など財界だけでなく日本政府もそうですが、福島原発事故を経験したこの期に及んで、福島第一原発事故に対する処理費も含めて、本来ならば当然大原発事故に備えてやっておくべきだった原発に対する安全対策の投資、事故も含めて廃炉や放射性廃棄物の管理・処分費など将来的に発生する莫大なバックエンド費用を全く発電経費に含めず、これらすべての費用を将来の世代に先送りした上での原発の“経済性”を振りかざして、「安くて安定した電源としての原発は必要」などという愚かのことを言っているのです。このような無責任極まりない連中の言うことなど全く耳を貸すに値しない戯言です。原発を維持するというのならば、財界は福島原発事故処理費用や今後必要になる廃炉費用や放射性廃棄物処理施設の建設・運用費用をすべて引き受けるだけの覚悟を持っているのか、明確に答える必要があるでしょう。
原発を続ければ続けるほど使用済み核燃料という高レベル放射性物質は行き場もなくあふれることになるのです。事実上高速増殖炉は技術的に実現不可能と判断したのですから、即刻使用済み核燃料再処理施設は運転を停止することこそ合理的な判断です。同時にこれまでは再処理によってMOX燃料の原料になるとして資産とみなされていた使用済み核燃料は不良資産となり、高レベル放射性廃棄物という最悪のごみとなることが確定したのです。電力会社と国は、出来るだけ速やかに、技術開発を含めて、原子炉の廃炉および放射性廃棄物処理に踏み出すことこそ論理的整合性のある方向です。
民主党政権の新エネルギー政策における原子力政策は支離滅裂ですから早晩矛盾が露呈することになりますが、それ以前に原発・核武装推進の新たな政府ができる可能性が高く、実効性は全く期待できないというのが現実のようです。
民主党代表選、自民党総裁選、橋下新党の旗揚げ・・・。民主党:野田、自民党:石破・石原・安倍、日本維新の会:橋下。揃いも揃って全体主義・タカ派・好戦的な面々が顔を揃えたものです。
折しも領土問題で中国との対立が次第に先鋭化してきており、不気味です。自民党石破は総裁選の公約に自衛隊の軍隊への改組を公言し、安倍は首相として果たせなかった改憲論をまたしても持ち出しています。維新の会の橋下の民主主義を無視した自治体運営から、全体主義的強権政治が見え隠れするばかりでなく、改憲をめざす自民党安倍と近い関係にあるようです。
どう転んでも、日本の平和国家としての時代は終わりに近づいているように感じます。
このコーナーではいわゆるエコ自動車技術についてすでに検討して結論を出しています。例えば、
既に発電技術でも述べた通り、エコカーとしてハイブリッド車、電気自動車、燃料電池車についても、その価格によってCO2排出量の概略を推定することが出来ます。価格的には次の関係があります。
燃料電池車≫電気自動車>ハイブリッド車>内燃機関自動車(ガソリン、ディーゼル)
従って、概ねCO2排出量は、燃料電池車≫電気自動車>ハイブリッド車>ガソリン・ディーゼル車と続きます。
註)熱効率から言えば、ディーゼルエンジン車のほうがガソリンエンジン車よりもさらに優れています。
(No.456「電気自動車」異聞?!そのA 2010/01/26)
今回は、最近の自動車技術を含めたエネルギー技術の動向を考慮して、もう一度整理しておきます。
自動車技術は、一つの工業的エネルギー技術ですから、石油利用効率によって技術の優劣を決める事が可能です。まず、一般的な内燃機関の熱効率を示した図を紹介しておきます。
熱効率から見て、最も優れているのはディーゼル車、これにガソリン車が続くということになります。ディーゼル車についてはかつて排ガスの問題がありましたが、すでに問題解決の技術が確立しており、現状では最も望ましい形式であることは間違いありません。
このHPでは、ハイブリッド車については、ガソリン車との比較で微妙な位置にあるとしていましたが、昨今のガソリンエンジン車の技術の進歩(例えばマツダの新エンジンなど)によって、ハイブリッドシステムを持たない通常のガソリンエンジン車の熱効率が改善され、燃費においてもはやハイブリッド車のアドバンテージはないと考えています。同時にガソリン車のほうが単純で資源節約的な構造ですから、総合的にはガソリン車のほうが優れていると考えて良いでしょう。
最近のガソリンエンジン車のトピックスとしては、鈴木自動車がガソリンエンジンの軽自動車に回生ブレーキを搭載することで燃費を改善する技術を導入したことが話題になっています。これはおそらく有効な技術であろうと思いますが、それほど革新的な技術ではありません。かつてこのHPでは次のように述べておきました。
最後に、回生ブレーキの効果ですが、その総合的な省燃費効果は10%程度(10・15モード走行の燃費)といわれています。また、近年のガソリンエンジン車はご承知の通り、電動装置やライトに始まり、電子機器を数多く搭載しています。もちろんガソリンエンジン車にも発電機があり、これをガソリンエンジンで駆動しています。つまり、ガソリンエンジン車においても回生ブレーキは利用可能であり、通常走行時の発電機によるエンジンに対する負荷を小さくし、制動時に回生ブレーキを利用することで燃費を向上させることが出来るのです。つまり回生ブレーキの有無が電気自動車とガソリンエンジン車の本質的な違いではないのです。
(No456「電気自動車」異聞?!そのA 2010/01/26)
そこで掲題の電気自動車です。このHPにおけるエコ自動車に対する総合的な評価はNo.491自動車駆動システムの評価(2010/10/21)ですでに示しており、大きく変わるところはありません。
当時から大きく変わったのは電力供給における日本の社会情勢です。3.11の東北地方太平洋沖地震によって、それまで民主党政権がCO2放出量削減政策の中核においていた原子力発電所の大増設路線が頓挫し、それどころか既存の原子力発電所さえほとんど停止するという事態になったのです。
3.11までは電力会社はこぞってオール電化を謳い、供給過剰でだぶつき気味の電力供給能力を儲けに結びつけることに躍起になっていました。更に民主党政権下では、CO2放出量削減対策という名目で原子力発電所の大増設が考えられていましたが、仮に計画通りに原発を増設することになれば、夜間電力が使い道もなく余ってしまうため、これを消費するために考えられたのが、夜間余剰電力のダンピング販売の安価な電力を狙った“究極のエコカー=電気自動車”の導入だったのです。このことはすでに何度もこのHPでは紹介してきました。
ところが福島原発事故後の日本の電力供給体制は、原発の不良資産化の影響と再生可能エネルギー発電という使いものにならない高額発電装置の導入費用の電力料金への価格転嫁によって暴騰することになるのは必至です。ただでさえ石油利用効率の低い高価な自動車であった電気自動車は、電力のダンピング販売を前提としてのみ「燃料費の経済的優位性」がなんとか担保されていましたが、日本の社会情勢はその前提が既に崩壊しようとしているのです。ここに電気自動車の命脈は既に尽きているのです。
福島原子力発電所事故後、民生用の発電技術としての原子力発電という虚像に次第に気づく人が多くなりました。脱原発を求める世論はいまや主流派になりつつあります。このままでは原子力発電を行ってきた本来の目的である核兵器保有を実現できなくなる可能性が出てきました。これを危惧した日本の好戦的な勢力、防衛相、タカ派議員たちは、野田というタカ派・核武装論者の総理大臣の下で次第に日本の核武装論を表舞台に登場させようとしているようです。
これを象徴するような森本防衛相の核武装論を紹介した記事が新聞に載っていましたので紹介しておきます。
日本の野田民主党政権をはじめとする好戦的な勢力は、原子力の平和利用という虚像の仮面をかなぐり捨てて、いまや露骨に核武装のために原子力を維持していくことを主張し始めています。このような時期に来て、いまだに日本の反核平和運動はこの現実を見ようとしていないのは何なのでしょうか?
このところ竹島や尖閣諸島の問題に対して東京都の石原のような好戦的な勢力は徒にこれを刺激することで周辺国との緊張関係を演出して国内のナショナリズムを高揚させようとしているように思えます。もしかするとこの動きは核武装のための原子力維持というシナリオの下に絵を描いている輩がいるのではないかと想像させます。
杞憂という言葉をご存知だろうと思います。まずこの故事を紹介します。
杞憂(きゆう)
出典は『列子』の天瑞篇にある寓話です。
杞(き)は、周の武王が殷をほろぼしたとき、
夏(か)の禹王の子孫の東楼公(とうろうこう)を封(ほう)じて禹の祭事をおこなわせた小国で、
今の河南省杞県がその故都である。
その杞の国に、
もし天が落ち地が崩れたなら身の置きどころがなくなるだろうと心配して、
夜も眠れず食べ物ものどにとおらずにいる男がいた。
すると、その男が心配していることをさらに心配する男がいて、
出かけていっていいきかせた。
「天というものは気の積み重なったものにすぎない。気はどこにでもあるものだ。」
人が体をまげたりのばしたり、息を吸ったり吐いたりするのは、
みんな一日中、天の中でやっていることだ。
どうしてその天が落ちてくるなどと心配するのかね」
「天がほんとうに気の積み重なったものなら、日や月や星は落ちてくるだろう」
「日や月や星もやはり気の積み重なりで、その中のかがやきを持ったものにすぎないのだ。
だからたとえ、落ちてきたとしても、あたって人にけがをさせるというようなものではない」
「地が崩れたらどうしよう」
「地というものは土の積み重なったものにすぎない。
土は四方にみちふさがっていて、どこにでもあるものだ。
人が歩いたり踏(ふ)みつけたりするのは、みんな一日中、地の上でやっていることなのだ。
どうしてその地が崩れるなどと心配するのかね」
心配していた男は釈然としておおいによろこんだ。
それを見るといいきかせた男もおおいによろこんだ。
この寓話のあとには、さらに、古(いにしえ)の長廬子(ちょうろし)という賢人がこの話をきいて、
「天地がくずれはしないかと心配するのは、
あまりにもさきの心配をしすぎるといわなければならないが、
くずれないと断言することもまた正しいことではない」といったという話を付し、
そして列子の、「天地がくずれようとくずれまいと、
そんなことに心をみだされない無心の境地が大切なのだ」
という言葉で結ばれている。
この寓話から、無用の心配をすること、取り越し苦労をすることを「杞憂」といい、
それをたとえて「杞人(きじん)の憂い」「杞人天を憂う」などともいう。
『中国の故事と名言五〇〇選』(平凡社版)
この寓話には現代に生きる教訓が含まれていると思います。
先月末、国は南海トラフの巨大地震によって最大32万人の死者を含む大災害が起こる危険性があると発表しました。まず紹介記事の一つを紹介しておきます。
南海トラフ巨大地震:最悪で死者32万人…国が被害想定
毎日新聞 2012年08月29日 17時05分(最終更新 08月30日 14時08分)
南海トラフ地震が発生した際に被害が想定される和歌
山県新宮市市街地=本社ヘリから大西岳彦撮影
南海トラフ巨大地震による震度の最大値の分布
東海から九州沖を震源域とする「南海トラフ巨大地震」について、中央防災会議の作業部会と内閣府の検討会が29日、死傷者や浸水域など被害想定を発表した。
関東から九州の太平洋側が最大34メートルの津波と震度7の激しい揺れに見舞われ、最悪のケースでは死者32万3000人、倒壊・焼失建物が238万6000
棟に上り、1015平方キロが浸水する。内閣府は「発生確率は極めて低く、対策を取れば被害を減らせる」として冷静に受け止めるよう強調している。
国や自治体は想定に基づいた防災対策を迫られる。中川正春防災担当相は記者会見で南海トラフ巨大地震対策特別措置法を「制定していく」と明言し、来年の通常
国会に法案を出す意向を示した。
駿河湾から九州沖に延びる浅い海溝・南海トラフ沿いで複数の震源域が連動してマグニチュード9級の地震が発生したと仮定。被害想定は、駿河湾から九州沖までの四つの領域について、それぞれ最も大きく断層が動いた場合をシミュレーションした。その上で発生の季節や時間帯を変え死者数96パターン、全壊棟数48パ
ターンの想定を出した。
死者数が最悪となるのは冬の強い風(秒速8メートル)の深夜に駿河湾から紀伊半島沖の断層が大きく動くケース。23万人が津波、8万2000人が建物倒壊、1万人が火災で死亡する。都府県別では静岡県の10万9000人が最多。負傷者は62万3000人で、要救助者は33万人に上る。
一方、全壊・焼失棟数が最も多くなるのは四国沖−九州沖の断層が大きく動くケース。深夜よりも火を使う夕方の方が被害が大きく、揺れで134万6000棟が倒壊、火災で74万6000棟が焼失し、津波で15万4000棟が流失したり壊れたりする。
浸水域の最大想定は東日本大震災(561平方キロ)の約1.8倍。県別では高知県の157.8平方キロ、市別では宮崎市の37.1平方キロが最も広く、高知
県は深さ10メートル以上の浸水面積が最大で19.1平方キロに及んだ。
津波の高さは今年3月公表のデータを精査した結果、高知県の黒潮町と土佐清水市で最大34メートルとなった。静岡県下田市のように約8メートル高くなり33メートルとなった所もある。沿岸全域の平均は黒潮町の19メートルが最大。震度7地域は従来とほぼ同じ10県151市町村だった。
防災対策による被害軽減も試算した。建物の耐震化率が現状の79%から100%になった場合、建物倒壊による死者は約8割減少。迅速に避難した場合の津波による死者も、そうでない場合と比べて最大で8割減った。【池田知広、八田浩輔、鳥井真平】
私は土木の技術屋で、地震に対する構造物の設計については馴染みがあります。まず、自然災害に対して完璧な土木構造物は存在しないというのが基本的な立場です。
それでも公共の利用を前提とする土木構造物がやたらに壊れるようでは困ります。そこで、構造物の重要度に応じて、過去の統計的なデータに鑑みて、50年に一
度だとか100年に一度くらい起こる大きな自然災害を想定して構造物を設計しましょう、というのが基本的な設計思想です。不幸にして構造物の耐用期間中に、想定を超える自然災害が起これば構造物が崩壊してもそれを甘受するということです。これは現実的に極めて妥当な判断だと考えます。
「そんなことを言っても、構造物は壊れたら困る、絶対安全でなければ困る」という方もいるのかもしれませんが、それは科学・技術的に不可能なこと、考えても無駄なことです。
まず第一に、考えうる最大の自然災害など、たかが知れているのです。その意味で今回公開された南海トラフ巨大地震などというものも地球の歴史から言えばそれほど大きな災害ではないかもしれません。
第二に、人間の作れる構造物の強度など、たかが知れているのです。
第三に、人間社会が防災用の土木構造物に投入可能な資材には限界があるのです。現実的にはこれが公共事業のボトルネックになります。
究極的には、国家財政の運用として、現在を生きる生身の人間に対する福祉の向上への支出と、いつ起こるかもわからない、あるいは起こらないかもしれない自然災害の対策への支出のバランスを社会的合意としてどの程度にするか、というのが判断基準になります。財政的に対応できないような巨大自然災害を想定しても、それは無意味でしかありません。
南海トラフ巨大地震の報道を聞いて大変だと慌てふためく大衆は、正に『杞人天を憂う』に等しい愚行だと考えます。
私は、「天を憂う」原因を作った地震学者たちの行動に不信感をいだきます。東北地方太平洋沖地震を境に突然彼らの地震予測の規模が極端に大きくなりました。それまでの彼らの主張は虚偽だったのでしょうか?東北地方太平洋沖地震前の彼らの主張が不正確だったのと同様に、今回の新しい認識も信頼するに足りぬと考えることこそ科学的判断だと考えます。地震のような超長期間のタイムスケールを持つ問題を人間社
会の防災政策に反映させるようなことは不可能と知るべきです。彼らは、人為的CO2地球温暖化脅威説で人々の恐怖心を煽って甘い汁を吸ってきた気象学者や関連産業の真似をして、今度は土建業界と結託して甘い汁を吸おうと画策しているのであろうと推測しています。
土木屋として考えたとき、最も現実的で有効な対策とは、国家機能・経済機能・人口の集中した巨大都市を解体して全国土にバランスよく分散させ巨大自然災害が起こった場合の社会的リスクを分散させる国土利用を行った上で、その国の国家財政事情から無理のない範囲の支出で防災対策を行い、平穏に暮らすことだと考えます。
決して巨大自然災害が起こらないというのではありません。しかし、いつ来るかもわからぬ巨大災害を憂えて生活しても無意味なのです。運悪く巨大自然災害に遭遇した時は甘んじて受け入れ、状況に応じて最善を尽くして対処することです。
その意味で、冒頭に引用した寓話の最後の一節は正に真理だと感じます。
この寓話のあとには、さらに、古(いにしえ)の長廬子(ちょうろし)という賢人がこの話をき
いて、
「天地がくずれはしないかと心配するのは、
あまりにもさきの心配をしすぎるといわなければならないが、
くずれないと断言することもまた正しいことではない」といったという話を付し、
そして列子の、「天地がくずれようとくずれまいと、
そんなことに心をみだされない無心の境地が大切なのだ」
という言葉で結ばれている。
いつ起こるかもしれない、また人間の手ではどうしようもない自然災害を憂うのは愚かなことです。しかし、いつ起こるかわからない原発事故を憂えることはまったく意味が違います。原発は人間の作った構造物であり、これを止めれば確実に事故発生のリスクを軽減することが出来るのです。確実にできることに対しては全力で実行することが科学的に正しい判断です。
今週冒頭から、東京大学や環境省、農林水産省など、日頃はあまりご訪問のない方たちが頻繁に訪れてくださっているようです(笑)。思うに、東大裁判の判決が28日に言い渡され、これに対してどのような対応を取るのかを探りたいのかもしれません。彼らは当然判決内容は既にご存知だと思いますので…。
結論的には、あまりにも予想通りの原告側の完全敗訴です。この裁判は、『小沢鋭仁環境相は「温暖化が人為的、あるいはCO2が原因という科学的根拠が揺らげば国民、産業界の対応も変わってくる」と、この問題の行方を懸念する。(東京新聞2010/02/21朝刊)』でも分かるように、国として負けるわけに行かないものだったことは裁判所も十二分に感じていたでしょうから、裁判所は国や東大の意志を慮って、あるいは圧力を受けて、被告を免罪するために判決文を書いたのでしょう。
フクシマ後の司法の対応から見ても明らかですが、この国の司法は国家や権力組織からの独立性などまったく意に介さず、あからさまに国家権力と結託していますから、あまりにも当然過ぎる判決でしたが、暗澹たる気持ちは拭えません。
私個人としては、気象学会や東大による学問・言論の自由に対する妨害行為と彼らの無茶苦茶な理論を裁判所の公文書に残すという最低の目的は既に達したので、これ以上無能な裁判官に関わって無駄な時間を費やす必要はないと考えています。ただし、私は裁判の当事者ではありませんので、今後の対応は槌田さんの判断を待ちたいと思います。
前回までの検討で、人為的CO2地球温暖化は実在しないことが分かりました。故に、温暖化対策という文脈において、人間の社会活動から放出するCO2を削減する政策は無意味であり不要なのです。
現在の日本における温暖化対策の中核的施策の一つが火力発電から再生可能エネルギー発電へのシフトですが、これも温暖化対策としては無意味であり、不要であることが確定しました。しかし、有限の化石燃料による発電を無尽蔵の自然エネルギーに置き換えることが出来れば、石油文明の壁を破れるのではないかという別の意味もありますので、一概にこれを否定することはできません。
今回は、再生可能エネルギー発電を始めとする石油代替エネルギー技術を科学的に評価する視点を示すことにします。
7.エネルギー技術の科学的評価
7−1 工業生産の理論
工業生産とは、原料資源を工業生産システムに投入して、工業的に供給されるエネルギーや洗浄・冷却用の低エントロピー資源あるいは副次的な鉱物資源などを投入して、原材料資源から不純物を取り除き、工業製品を生産する過程です。工業生産の熱物理学的な解釈について、槌田敦は著書『熱学外論』(1992年、朝倉書店)において工業生産過程を次のように説明しています。
一般には,鉄は原料の鉄鉱石より作るとして,図(a)のように表現する.しかし,この表現で忘れられているのは,石油,電力,水などの消費であり,また廃物と廃熱の排出である.これをあらわに表現すると図(b)が得られる.ここで,横軸は生産を示している.これに対し,縦軸は消費を示している.この図は,生産は必ず消費と結合して成立し,全体としてエントロピーの増大であることを表している.
生産活動における資源から製品への流れと廃物・廃熱 への流れ
つまり、現在の石油に支えられた工業生産過程では、製品の直接的な原料となる資源のほかに、必ず石油や電力などのエネルギー(資源)と冷却・洗浄用の低エントロピー資源(水や有機溶剤など)が消費されているのです。槌田の図をもう少し具体的に示してみます。
横方向の流れは製品の直接的な原料資源から製品への流れを示します。生産プロセスにおいて不純物や不要な部分が取り除かれて廃物になります。低エントロピー資源の中には冷却・洗浄用の水や溶剤、それに工業的なエネルギーも含めることにします。低エントロピー資源は原料資源からの不純物や生産プロセスの排熱を取り除きます。鉱物資源には直接製品には含まれない副次的な原材料や工業生産プロセスの機械設備の償却分を含みます。
工業生産とは、原料資源から製品を作り出すだけではなく、その過程で廃物(排熱を含む)を生み出し、総合的にはエントロピーを増大させる物理・化学的なプロセスです。
7−2 発電
工業製品の製造には必ず工業的に供給されるエネルギー資源の消費があります。その結果、工業製品の製品原価の一定割合が投入エネルギー量に対する費用になっています。製品原価に対するエネルギー費用の割合は製品の種類によって概ね決まっています。
発電とは、原料としてエネルギー(資源)を投入して、これを工業生産プロセスを通して更に工業的なエネルギーや副次的な原材料資源を投入して加工し、最終的な製品である電力というエネルギーを生産するのです。エネルギー(資源)を投入してエネルギー(電力)を生産する極めて特殊な工業生産プロセスです。
そのため、発電のために投入される工業的に供給されるエネルギー資源の総量に対する製品としての電力の総量の比率=“エネルギー産出比”によって、工業生産プロセスとしての優劣を比較することができます。現在の工業
化社会を支えている基本エネルギー資源は石油なので、石油換算のエネルギー量として比較するのが合理的です。
ここでは例として石油火力発電に対して検討することにします。石油火力発電の電力生産図を示します。
<算定の仮定>
●燃料石油価格 25円/リットル
●燃料石油エネルギー量 9Mcal/リットル = 37.8MJ/リットル = 10.5kWh/リットル
●発電施設建設・運用費用の内のエネルギー費用の割合 20%
石油火力発電の発電原価は10円/kWh程度とします。
石油火力発電の燃料として投入した石油の燃焼熱に対する発電の効率は40%程度なので、電力1kWhを生産するためには燃料石油を2.5kWh消費します。
その燃料費は、(2.5/10.5)×25円≒6円
になります。残りの4円/kWhは発電所の建設費と耐用期間中の運転・維持に投入される費用を総発電量で均等に償却するとした場合の費用です。発電所の建設費や運転・維持
費の一定割合はエネルギー費用です。ここでは割合を20%とします。それ以外の80%は発電所建設や運転・維持に投入する原材料資源の費用=固定設備費用とします。
以上から、石油火力発電における発電電力量1kWh当たりに投入される工業的なエネルギー量の合計は、
2.5+0.33=2.83(kWh)
あるいはこれを経済コストで表すと
2.83(kWh/kWh)×25 円/10.5kWh=6.73円/kWh
エネルギー産出比=(発電電力 量)÷(投入エネルギー量)=1/2.83=0.35
7−3 自然エネルギー発電と発電コスト
現在、原子力発電所事故の影響もあり、代替発電システムとして自然エネルギー発電を導入すべきであるという主張が広がっています。ただし、自然エネルギー発電の唯一の問題はコストが高いことであると言われます。これを科学的に検証することにします。
まず、一般的な自然エネルギー発電の電力生産図を示します。
自然エネルギー発電では、電力の原料は環境中に普遍的に存在する“自由財”である自然エネルギーです。工業生産システムとし
ての優劣を判断するエネルギー産出比を求める場合、自由財=無価値である自然エネルギー量は投入エネルギー量に算入する必要はありません。
自然エネルギーの例として、太陽光発電の電力生産図を示します。
自然エネルギー発電では電力の原料である自然エネルギーは自由財ですから、発電システムの本質とは工業製品で構成された発電装置の製造・建設ないし運用・維持なのです。
家庭用小規模太陽光発電の場合、標準的な耐用年数を17年間程度とした場合の総発電量に対して、発電装置価格を単位発電量当たりに均等割した値を発電原価とすると50円/kWh程度になります。太陽光発電装置はメンテナンスフリーとして、運転・維持経費は無視することにします。
太陽光発電装置は工業製品であり、その価格の20%は製造段階に投入された工業的なエネルギーの費用とすると、太陽光発電電力1kWhに対する工業的なエネルギー投入費は10円/kWhです。これは、太陽光発電という発電方式は、石油という工業的なエネルギー資源を燃料として発電を行う石油火力発電(6.73円/kWh)よりも大量の工業的なエネルギーを必要とすることを示しています。太陽光発電のエネルギー産出比は、
1/4.17=0.24<0.35
であり、火力発電よりも低いのです。つまり、同量の石油を石油火力発電と太陽光発電に投入した場合、太陽光発電は石油火力発電の0.24/0.35=0.69倍の電力しか供給できないのです。
水力や地熱を除けば、一般的に自由財である自然エネルギーの持つエネルギー密度は極めて低く、非定常に変動しています。その結果、工業的に利用できるようなエネルギーを得るためには例外なく巨大な発電装置が必要になります。その巨大な発電装置という工業製品を製造し、運用・維持するために莫大な鉱物資源と同時に工業的なエネルギーを消費するのです。その結果、電力の原料として工業的なエネルギーを必要としないにもかかわらず、発電装置の製造・建設・運転・維持に投入する工業的エネルギー量が石油火力発電を上回るのです。
このように、直接的に発電燃料として石油や石炭などを使用しなくても、発電施設が工業製品である限り、必ず石油を始めとする工業的なエネルギーの消費を伴うのです。このような分析に基づき、槌田敦はあらゆる工業的発電装置は全て間接火力発電であると述べていることは妥当だと考えます。しかも、太陽光発電の分析でも明らかなように、その間接火力発電の大部分はエネルギー産出比において火力発電以下の低効率な発電装置であるばかりでなく、膨大な鉱物資源を浪費しているのです。
通常、熱力学におけるエネルギー効率は発電システムに投入される電力の原料となるエネルギー量に対する最終製品である発電電力量ですが、工業生産システムとしての優劣を判断するためにはまったく役に立ちません。あくまでも工業技術としての発電技術の優劣を判断する基準は、発電を行うために投入される工業的なエネルギー量に対する発電電力量なのです。
エネルギー供給技術が高コストであるということはエネルギー産出比が低いことを示しており、発電技術として致命的に劣っていることを示しています。高コストの発電システムの導入は科学的な合理性を欠いた判断なのです。
また、再生可能エネルギーと呼ばれているエネルギー供給技術は、既存の化石燃料によるエネルギー供給技術よりも低効率であり、呼称とは裏腹に、化石燃料に支えられた工業的な生産システムがなければ自らを単純再生産することも不可能であり、化石燃料の代替システムには成り得ません。
7−4 自然エネルギー発電規模の試算
冒頭の写真は横浜市のハマウィングという愛称の2MW風力発電装置です。この風力発電装置は、総工費5億円程度、年間の運転・維持費5,000万円程度です。ハブ高さ78m、ブレード直径80m、上部工(地上部の構造物)の重量は250t程度です。定格出力は2MWですが、設備利用率の実績は12%、平均発電能力は250kW(=340PS)程度です。
例えば、340PS(仏馬力)程度といえば、ちょっとしたスポーツカーの出力程度です。また250kW出力のディーゼル発電機やガスタービン発電機の重量は6t程度です。風力発電装置がいかに巨大な発電装置が必要であるのかが想像できるのではないでしょうか。そればかりではありません、風力発電電力はあまりにも不安定でそのままではとても使えないのです。ハマウィングの発電実績データを示しておきます。
次に、同じ仕事率を得るために必要な太陽光発電装置=メガ・ソーラーの規模を考えてみます。250kW出力の装置が1年間稼動した時の総発電量は
250kW×24h/日×365日/年=2,102,400kWh/年です。太陽光発電パネルの日本での平均的な運用実績は100kWh/年・m2程度ですから、必要な太陽光発電パネルの面積は2,190,000kWh/年÷100kWh/年・m2=21,900m2≒148m×148m程度、野球場ほどの広大な面積になります。定格出力1kWを得るために必要な太陽光発電パネル面積が10m2として、その価格が100万円程度とすると、太陽光発電パネル価格は21,900÷10×100万円≒22億円程度になります。
日本の年間の最終エネルギー消費量は1.6×1019J=4.444×1012kWh程度です。仮にこれをすべて2,000kW級の風力発電装置で賄うとした場合、必要な基数は
4.444×1012(kWh/ 年)÷2,190,000(kWh/基年)=2,029,224基
ということになります。47都道府県で均等割すると、43,175基/県ということになります。太陽光発電ならば148m×148mのメガ・ソーラー発電所が43,175箇所/県必要ということになります。あるいは4.444万km2、
国土面積の12%に太陽光発電パネルを敷き詰めることになるのです。
しかもこれはエネルギーの絶対量だけに着目した少なめの見積であり、実際には更に不安定電力の安定化や電力需要に対応するための巨大な蓄電装置やバックアップ用発電施設、広域大容量送電線網などが必要になります。
風力発電や太陽光発電の耐用年数が20年とすれば、1年あたり2,159基/県の風力発電装置あるいは2,159箇所/県のメガ・ソーラー発電所を常に更新し続けることになります。例えばメガ・ソーラー発電所の更新費用は、
22億円/箇所×2,159箇 所/県・年×47県≒223兆円/年
これを実現するためには、工業生産設備を飛躍的に拡大しなければとても賄うことはできません。現実的にはこの生産設備の増強と莫大な発電装置生産の経済的な負担だけで現在の日本の国家予算を超えることになり、実現不可能なのです。
7−5 固定価格買取制度の失敗
現在欧州では金融危機が進行中です。その原因の一つが科学的な合理性のない自然エネルギー発電の大規模導入なのです。スペインは言うに及ばず、ドイツでも再生可能エネルギー発電に対する全量高額買取制度=FITは既に破綻しました。今年4月からは買取価格が大幅に引き下げられ、来年からは全量買取制度は破棄され、部分的な買取制度になります。
ドイツでは、FITの導入によって個人契約の電気料金は日本をはるかに越えて世界最高額になっています。産業用電力もFIT導入前の3倍程度に高騰し、日本と同程度になっているのです。
科学的な合理性のない再生可能エネルギーの政策的な導入は社会・経済システムまで破壊することになります。
※ 連載記事をもとに、『高校生のための環境問題講座』というコーナーを開設しました。
連載記事に加筆して『高校教科書と環境問題』というレポートを公開しました。
前回までの検討で、人為的な原因による大気中のCO2濃度の増加によって温室効果が増大することによって地球規模で気温が上昇するという現象は存在しないことが明らかになりました。
しかし、私たちが日常生活で感じている高温化の一つの原因が人間活動であることは間違いありません。それは、都市化による局所的な気温の上昇現象であるヒートアイランド現象です。ヒートアイランド現象は明らかに人為的な環境の改変によって起こる現象ですから、これを解決する方法も明らかです。後は私たちがそういう社会構造の変革を決断するかどうかという、政策判断の問題です。今回はヒートアイランド現象の主要な原因と構造を紹介しておくことにします。
6.ヒートアイランド現象
6−1 都市の乾燥化
暖められた地表面は、赤外線放射と熱伝導、そして蒸発潜熱によってエネルギーを放出しています。
いわゆる都市化によって農地を含めて植生が取り除かれ、地表面が舗装で覆い尽くされています。これは大都市ばかりでなく地方都市にまで及んでいます。更に流域下水道の整備によって、雨水は速やかに地表から排除されて暗渠から河川に放流されます。その結果、都市化・舗装された地域では地表面からの水の蒸発量が激減しています。これがヒートアイランド現象の主要な原因です。
上図は341.5W/m2を100とした時のエネルギーフローを示しています。図の蒸発による潜熱の放出は、地球の平均降雨量を1000mm/年として、それが地表面から蒸発するとして求めたものです。都市化によって地表面からの蒸発量が半分になり、減少した潜熱によるのエネルギーの放出をすべて地表面放射が担うとした場合の地表面温度をステファン=ボルツマン式で近似的に求めてみます。
341.5W/m2×(113+12)/100=426.875W/m2
∴T={426.875÷(5.67×10-8)}1/4=294.6(K)=21.6℃
つまり、地表面からの蒸発量が半減するだけで平均気温が15℃から21.6℃へ6.6℃も上昇することになるのです。
例えば、パラグライダーに乗る知人の話によると、山の緑の中で確実に上昇気流があるのは木のない舗装道路の上に行くことだといいます。
また、近年臨海部の大都市部で猛烈な豪雨が頻発するようになりました。これは水蒸気に富んだ海から吹き込む風がヒートアイランド現象で高温化している都市部で加熱されることで強烈な上昇気流となり積乱雲を発達させるからです。
東京などの巨大都市ではこれに加えて人工的なエネルギーの集中消費や高層建築物による気流の阻害が高温化をさらに助長していると考えられます。しかし、大部分の地方都市における高温化の主因は地表面環境の乾燥化なのです。
6−2 ヒートアイランド対策
ヒートアイランド現象の原因は明らかですから、対策は簡単です。本質的な対策は地表面からの蒸発量を回復することです。できる限り表面舗装を剥ぎ取り、生きた土壌を復活させて豊かな植生を取り戻すことです。また、熱容量の大きな建造物を撤去することも有効です。
つまり、巨大都市を解体して社会的な機能・人口を分散させ、生態系の豊かさの中で生活を営むような社会構造を構築することです。
都市を野放図に巨大化させながら、ヒートアイランド現象を緩和するような虫のいい技術はないのです。高校教育では、技術の限界を科学的に評価するための基礎的な能力や視点を培うことが必要だと考えます。
(続く)
前回の検討で、産業革命以後に増加した大気中CO2量の主因は人間活動とは関わりないことが分かりました。それではどうして大気中のCO2量が増えたのか、原因を探ることにします。
5−4 ヘンリーの法則と化学平衡
高校の化学で習うヘンリーの法則を紹介しておきます。
「一定温度のもとで,溶解度の小さい気体が一定量の溶媒に溶けるとき,気体の溶解度(物質量,質量)は,その気体の圧力に比例する。」
ここではヘンリーの法則を化学平衡という視点から考えることにします(HP『未来への化学』石黒泰氏の解説から紹介します。
)。
今、CO2を含む空気と水を接触させて十分時間が経過して、空気中のCO2量と水に溶けているCO2量が平衡状態に達しているものとします。
水溶液中のモル濃度:[CO2(水)]=m
空気中のモル濃度 :[CO2(気)]=n
今、平衡状態にあるので平衡定数Kは、K=n/mになります。
一方、気体の状態方程式より、P=nRT(∵nはモル濃度)になります。以上から、
K=n/m={P/(RT)}/m ∴m=(1/R){P/(KT)}
上式を解釈すると、水に溶解するCO2のモル濃度=CO2量は、気温が一定の場合(KTが一定の場合)空気の圧力に比例することになります。これがヘンリーの法則です。
逆に、水に溶解するCO2量は、空気の圧力が一定の場合、平衡定数Kと気温Tの積に反比例するのです。気温の変化が小さくKの変化が無視できるのならば、Tに反比例することになります。つまり、気温が上昇するほど水の中からCO2が放出されることになるのです。実際のCO2の溶解度は次のグラフの通りです。
5−5 大気中CO2濃度上昇の原因は気温上昇
前節では、水圏における化学的あるいは無生物的なCO2の挙動を考えました。
更に、気温≒海水温が上昇することによって浅海部での生物・化学反応が活性化されることで浅海部における有機物の分解や呼吸が増加し、海洋表層水中へのCO2の供給量が増加しCO2濃度は高い状態が維持されることになるでしょう。これによって、更に海から大気中に放出されるCO2の放出速度が上昇することになります。
これまで見てきたように、大気中のCO2濃度が上昇したから気温が上昇したのではなく、気温が上昇したから大気中のCO2濃度が上昇したのです。No.776で紹介した観測事実はそれを事実として示しているのです。
以上を総合すると、小氷期が終わって以降、200年間程度続いている気温の回復過程=継続的な気温の上昇によって、第一に海洋からのCO2放出速度が上昇し、あわせて陸上生態系の活性化、あるいは有機堆積物の分解速度の上昇などが大気中のCO2濃度上昇の主要な原因だと考えられます。
(続く)
前回までの説明で、オゾンホールによる健康被害はまったく杞憂であること、二酸化炭素地球温暖化は論理的にも観測事実からも存在しないことが明らかになりました。これまで、高校教科書の現代社会の記述を中心に検討してきましたが、ほとんど同様の内容が地理の教科書にも記載されています。
さて、生物の教科書においても気温上昇の主要な原因を大気中二酸化炭素濃度の上昇による温室効果の増大が原因であるとしていますが、まがりなりにも科学系の教科なのですから、社会科の教科と同レベルの説明しかせずに、二酸化炭素地球温暖化を正しいものとして説明していることは、怠慢の誹りを受けても仕方ないように思います。
また、仮に二酸化炭素の温室効果による温暖化が『事実』だったとしても、大気中の二酸化炭素濃度の増加の主因が人為的な影響でなければ、現在温暖化対策として政策化されている各種の事業はすべて無駄ということになります。その意味で、大気中の二酸化炭素濃度と化石燃料の燃焼による二酸化炭素の人為的な放出との関係を科学的に明らかにしておくことが必要です。
この点についても、高校の生物の教科書では論理的な背景の説明抜きで国家の主張を追認しています。例えば次のような主張です。
この点について検討することにします。
5.大気中二酸化炭素濃度はどのように決まるか
5−1 IPCC2007年報告における炭素循環図
上図はIPCC2007年報告に記載された炭素循環の概要です。黒の文字は産業革命以前の“自然の炭素循環”であり、赤い文字はその後の“変化量”を示しています。
図の数値をまとめると、地表環境(海洋、陸域、人為的な放出を含む)から炭素重量に換算して年間qin=218.2Gt/年(Gt:ギガトン=10億トン)の二酸化炭素CO2が大気中に放出されています。その内、119.6Gt/年は生物の呼吸であり、90.6Gt/年は海洋からの放出です。
同様に地表環境は大気中から年間qout=215Gt/年のCO2を吸収しています。その内、120Gt/年は光合成による吸収であり、92.2Gt/年は海洋による吸収です。
その結果、大気中には概ねQ=762GtのCO2(炭素重量換算)が存在し、年間3.2Gt/年程度増加しています。
さて、生物の教科書の記述では『大気中の二酸化炭素濃度は、おもに光合成による吸収と呼吸による排出によってバランスが保たれている』としていますが、これは誤りです。海域における無機的なガス交換によって光合成や呼吸に匹敵するCO2が大気と海面の間で循環しているのです。また、当然ですが光合成や呼吸という生物反応に比較して無機的な反応の方が環境変化に対する応答が早く、大気中のCO2濃度の変動に対して海域におけるガス交換のほうが迅速に対応して変動を緩和すると考えられます。
また、教科書の記述では『近年の二酸化炭素の増加は石油などの化石燃料の大量消費による排出量の増加と、大規模な熱帯林の破壊による吸収量の低下がおもな原因と考えられている。』としていますが、化石燃料消費、土地利用の変化によるCO2放出増加量はそれぞれ、6.4Gt/年、1.6Gt/年程度と小さく、大気中に含まれるCO2量を劇的に増加させる要因ではありません。この点について以下に検討します。
5−2 CO2循環モデル
炭素循環図から明らかなように、大気中に含まれている762GtのCO2の内、年間215Gt/年ほどが入れ替わっています。大気中に含まれるCO2量Qの時間tに対する変化率と、地表環境の年間CO2放出量qinと年間吸収量qoutの間には次の関係があります。
dQ/dt=qin−qout
qoutとは大気に含まれるCO2に対する物理・化学的あるいは生物的な吸収反応によるCO2吸収量の合計値です。無機的な物理・化学反応速度は質量作用の法則から大気中に含まれるCO2分圧に比例します。また、大気中CO2濃度の低い現状の大気では光合成も大気中濃度に比例すると考えられます。そこで、比例定数をrとして
qout=r・Q と表すことができます。故に
dQ/dt=qin−r・Q
この微分方程式をqin、rが一定という条件のもとに解くと一般解は次のように求められます。
Q=qin/r+C・exp(−rt)
t→∞として定常解を求めると次の通りです。
Q=qin/r
厳密には、qin あるいは r は t
の関数と考えられますが、変化は小さいのでこの定常解を使って現状を解釈することが可能です。
IPCC2007年の炭素循環図の数値から、qout≒qin=218.2Gt/年として近似することにします。
1/r=Q/qin=762(Gt)/218.2(Gt/年)≒3.49年
1/rを平均滞留時間と呼びます。一般解において t=0、Q=762Gt、qin=0、つまり、現状の大気中CO2濃度を初期状態として、地表環境からのCO2供給を止めた場合について、その後の大気中のCO2量がどのように変化するかを示す式を求めると次の通りです。
Q=762exp(−t/3.49) (Gt)
上式から、平均滞留時間が経過すると大気中のCO2残留量は、
Q=762exp(−1)=762×0.368 (Gt)
つまり初期状態の(1−exp(−1))=63.2%が入れ替わります。平均滞留時間の3倍が経過すると(1−exp(−3))=95.0%が入れ替わります。現状の地球大気では、10年も経過すれば大気中に含まれるCO2はほとんどすべて入れ替わるのです。
一旦大気中に放出されたCO2は放出源の如何、あるいはいつ放出されたのかを問わず、同一の確率rで地表面環境に吸収されます。人為的CO2地球温暖化仮説では、産業革命以後の200年間に人為的に化石燃料の燃焼によって大気に放出されたCO2の半量程度が“選択的に”毎年毎年大気中に蓄積され続けた結果として大気中CO2濃度が急上昇したと主張していますが、そんなことはありえないのです。
5−3 化石燃料の燃焼量を減らしてもCO2濃度の変化は微小
現在、人為的CO2地球温暖化対策として、化石燃料の燃焼を削減する政策が取られていますが、その効果を検証することにします。前節で求めた大気中CO2量の一般解から、現在の大気中に含まれている人為起源のCO2量は、年間放出量の3.49年分程度ですから、6.4(Gt/年)×3.49(年)=22.336(Gt)程度、全体の22.336(Gt)/762(Gt)=2.93%に過ぎません。仮に、人為的CO2放出量を20%減らすことができた場合、
qin=218.2(Gt/年)−6.4(Gt/年)×0.20=216.92(Gt/年)
故に、定常状態に到達した時の大気中CO2量は次の通りです。
Q=216.92(Gt/年)×3.49(年)=757.05 (Gt)
現状の大気中CO2濃度を390ppmとした場合、人為的CO2放出量を20%減らした場合の大気中CO2濃度は
390ppm×(757.05/762.0)=387.5ppm
わずか2.5ppmしかCO2濃度を減らせないのです。人為的なCO2放出量の削減対策などまったく役に立たないのです。
(続く)