No.497 (2010/11/27)異様な日本社会 そのD
米韓合同演習と日本外交

 既に前回も書きましたが、黄海において明日から予定を上回る規模の米韓合同演習が始められる予定です。

 まず、そもそもこの軍事演習自体が米韓軍事同盟が中国と北朝鮮に対しての軍事的な示威行動であることは論を俟ちません。要するに武力による中国・北朝鮮に対する恫喝です。ことに米軍は、海軍力を増強しつつある中国に対して、これを封じ込めることを目的に同海域で軍事演習をすることを強く望んでいたわけです。勿論この海域における軍事的覇権を争う中国も米国も、ともに覇権主義に侵された軍事国家であることが本質的な問題です。
 米国は、北朝鮮の無謀な砲撃に対する牽制という口実を使って、今回の軍事演習で中国の口を封じてこの期に乗じて東アジア海域での米海軍の覇権拡大を目論んでいることは明らかです。

 北朝鮮は体制移譲を控え、過去の歴史を見ても最も、国内世論をまとめるために冒険主義的な傾向の強くなる時期にあります。このような時期に、北朝鮮が自身の領海と主張する海域で北朝鮮の中止要求を無視して韓国軍が敢えて射撃訓練をすれば、形はともあれ、何らかの報復が行われることはほとんど確実なことでした。
 その意味で、前回の北朝鮮によるヨンビョン島への砲撃の原因は、北朝鮮の中止要求を無視した韓国軍の射撃訓練実施という軍事的な挑発行為でした。

 そして明日からの規模を拡大した米韓合同軍事演習です。米韓両軍は、圧倒的な軍事力による示威行動で力を見せ付けることによって北朝鮮の無謀な軍事行動を制圧すると述べていますが、むしろ北朝鮮を更に挑発する行為となることは明らかです。北朝鮮が冒険主義的な無謀な報復措置をとらない保障などどこにも存在しません。穿った見方かもしれませんが、米国としてはそれを見越して報復してくれることを願っているのかもしれません。北朝鮮が軍事的報復に出たときには、米軍が北朝鮮本土を攻撃する大義名分を手に入れることになるからです。

 そこで日本の立場です。日本は日米軍事同盟の片方の当事者ですが、まがりなりにもいまだに平和憲法を持つ国であり、国際紛争の解決において軍事力の行使を否定する国なのです。勿論北朝鮮が軍国主義的独裁国家であり、潜在的な危険性があることは否定しませんが、前回のヨンビョン島への砲撃にしても、韓国の主体的な対応によって事前に回避することが出来た事件でした。その意味で韓国の射撃訓練の実施は非難されるべきものです。
 このような時期に、予定を拡大した米韓合同演習という軍事的な示威行動によって、この問題を武力によって北朝鮮を屈服させることによって解決しようとする米国・韓国に対して、中国と協力してでもこの軍事訓練を中止させることが最も理にかなった日本の外交であると考えます。

 残念ながら菅民主党政権は米韓両国の武力的な挑発行為を無批判に追従し、対症療法的に『不測の事態』(この場合、不測の事態とは北朝鮮による更なる軍事行動という意味ですが、これは”不測”どころかかなりの確度で予測可能な事柄であり、日本語の用法として誤りですが・・・。)に対処すると言う愚かな選択を下しました。日本が主体的に動いて米韓合同軍事演習を止めることが出来れば、 『不測の事態』は起こりようが無いのです。米韓両国のつまらぬ面子のために東アジアにおける軍事的な緊張を増幅する今回の軍事演習を認める民主党の外交姿勢にはまったく失望です。

No.496 (2010/11/24)
『北風と太陽』・・・か

 また愚かな軍事衝突が起きました。日本の報道では、北朝鮮の無謀な軍事行動という論評が主流のようです。しかし、この武力衝突の直接の原因は、韓国軍が北朝鮮が自らの領海であると主張する海域で軍事演習を行ったことであり、更に軍事演習を行った場合には報復を行うということを北朝鮮は事前に通告していたことを明記しておかなければ公正な報道ではないでしょう。
 北朝鮮と韓国・米国はいまだ朝鮮戦争の休戦中であることを理解しておかなければならないでしょう。その中で今回軍事衝突の起こった海域は北朝鮮と韓国の主張する領海が重なる場所であり、敢えてこのような場所で軍事演習をすれば、北朝鮮としては報復行動をとらざるを得なかったことは容易に推測できたはずであり、第一の原因は韓国の軍事演習という挑発行為であることは明らかです。韓国は同海域での軍事演習は通常の射撃訓練と述べているようですが、なぜ韓国がこの時期に同海域で演習をしなければならなかったのか理解できません。

 金大中、盧武鉉の太陽政策は韓国内で批判があったことは承知していますが、やはり今でも最も現実的な対応であったのではないかと考えます。
 日本は、今回の事件に対して米・韓と強調して北朝鮮包囲網を作り、今朝の報道では日本独自の経済制裁も検討するなどという拙速で愚かな対応を検討しています。民主党のタカ派議員や自民党の軍国主義者どもがこの事件を利用して勢いを増すことが心配です。

追記:
 本日の昼のニュース番組によると、文部省は朝鮮学校への授業料補助制度の見直しの可能性を表明しました。なんと愚かなことを!このような対応によって日本政府に対する北朝鮮ないし在日の方たちの不信感が増幅されていくのだということにどうして思い至らないのでしょうか。このような時こそ、日本独自の友好政策を行うことが必要だと考えます。

追記2:
 夕方のニュース番組によると、韓国軍と米軍が、当該海域で28日から合同演習を行うと発表したという。なんという愚かなことをするのだろうか!?一触即発の状況になる可能性も否定できない。これはマッチポンプである。米軍の暴挙に対して国連の安保理など何の役にも立たないのは毎度のことであるが・・・。

No.495 (2010/11/19)NHKお馬鹿番組の記録08
風力発電の破綻と太陽光発電

●2010年11月18日NHK総合テレビ19:30〜20:00 クローズアップ現代『エコで赤字!?特別会計の実態』
●キャスター:国谷裕子

 

 久々のシリーズの更新です(笑)。古い話になりますが、NHKはちょうど2000年頃から新エネルギーの導入促進の旗振り役として扇動的な番組を開始して現在に至っています。その最初の特番がこのHPの開設初期に批判しておいた『NHKスペシャル/エネルギー・シフト』という番組でした。この番組の頃には、まだNHKを完全に見切っていませんでしたので、再三にわたって番組内容の問題点を指摘しましたが、無視され続けました。
 このエネルギー・シフトという番組については、既に書庫にしまってある古い記事『「クリーンエネルギー社会」のシナリオを検討する』として評価しておきました。既に2001年の段階においても、冷静に風力発電を技術的に評価すれば今日の風力発電の破綻は必然的な結果であったのですが、無能なマスコミ・NHKの諸君には物事を科学的に判断する能力はまったくなかったのです。
 やっと事業仕分けによって経済的に破綻した風力発電が続出してきた現在に至って、これまで風力発電導入を煽ってきた自らの行動は棚に上げて、なぜこんな杜撰な風力発電の導入が行われたのかなどと、正にとぼけた論評をするわけです。あきれ果てたものです。

 番組の中で紹介された京都府企業局の太鼓山風力発電所につきましては、本編のレポート『APU学生起業家による風力発電計画を考える(2003年)』の中の事例検討において取り上げて検討し結論として次のように評価しておきました。


 いずれの場合も、売電価格11.4円/kWhの2倍以上の発電経費がかかることになり、経営的には全く成り立たないことは明らかです。
 風力発電施設は、発電装置自体が環境中に曝されているため、常に自然災害と隣りあわせと言ってよいでしょう。太鼓山風力発電所、その他の風力発電施設においても、落雷事故が発生しています。自然災害による事故が発生しなくても、発電施設が直接環境中にむき出しになっていることにより、一般の機械設備に比較して、苛酷な環境下での機械設備の損耗は激しく、メンテナンスコストは高くなリ、場合によっては天災による甚大なる事故が起こる可能性も低くないことを考慮しておかなくてはならないでしょう。モデル計算における操業時の発電経費は過小になっている可能性があることを付記しておきます。


 放送によりますと、現在京都府ではこの太鼓山風力発電所の存続か廃止かを巡って検討がやっと行われているようです。その中で、このまま継続した場合、今後10年間の維持管理費用は5.5億円に上り、売電収入の98%になると報告されています。つまり売電収入は全て維持管理費で消えてしまうということであり、初期投資を回収することなど不可能ということです。

 

 これが京都府企業局の単独事業であればまだしも発電所廃止の可能性はあります。しかし、それでも発電所を整理するためには多大な支出が必要です。風力発電装置の撤去費用は一基あたり推定8000万円が必要といわれます。
 それだけではありません。この事業は天下り組織であるNEDOをトンネルとする国の補助金が投入されており、事業を中止する場合には補助金を返納することが求められることになり、これが事業を中止することを更に難しいものにしています。

 

 それでも財政規模の大きな京都府であれば、補助金を返納しても廃止する決断を下すことは可能です。しかしもっと小さな町や村規模の地方自治体では補助金返納が足枷となって、完全な不採算事業であっても風力発電を続けざるを得ないのです。最悪の場合は、風力発電施設の耐用期間後は撤去もされずに廃墟がそのまま残される可能性が高いと考えるべきでしょう。

 この所、風力発電については操業に伴う超低周波雑音による健康被害の問題がマスコミにも少しずつ報道されるようになり、今回の財政破綻の問題でも明らかなように採算性の問題も明らかになってきました。
 NHKの今回の報道は、財政破綻の経済問題としての風力発電の問題を紹介しているわけですが、その本質は、ばら色のクリーン・エネルギーともてはやされて導入された風力発電の本質が、システムとして見た場合、有効なエネルギー供給など覚束ない、低効率・不安定な欠陥発電装置にすぎないことに起因しているのです。
 本来ならば、今回の財政破綻を契機に低効率で不安定な故にまったく資源の浪費に過ぎない風力発電、しかも周辺住民に健康被害をもたらすとも言われる風力発電事業から国や地方自治体は全面撤退し、国庫からの補助金制度を全面的に廃止すべきです。NEDOも廃止すべきでしょう。

 ところが、現実には愚かな民主党菅政権は自然エネルギー発電電力に対する全量高値買取という愚かな政策に向かっています。

 

 仮にこの全量高値買取制度が実現すれば、風力発電の本質的な欠陥が隠蔽され、廃止されるべき風力発電が維持されるばかりでなく、この濡れ手に粟のあぶく銭を狙って、新規の風力発電施設が更に増設されることすら予想されます。

 さて、そこで太陽光発電の問題です。この間、風力発電がクリーン・エネルギーの主役として一世を風靡した背景には、太陽光発電はあまりにもコストが高すぎて、とても石油節約になるなどということが技術的に考えられなかったからです。
 この所勢いを失った風力発電に替わって、太陽光発電が勢いを増しています。しかし、技術的には太陽光発電の高コスト=石油多消費の問題が本質的に改善されてはいないのです。おそらく現在でも太陽光発電の石油利用効率は、破綻している風力発電よりも更に低いと考えて間違いないでしょう。あくまでも、国の温暖化対策による財政的補助、あるいは余剰電力の高値買取の電力会社への義務付けによって、これによって儲けをたくらむ官僚と企業によって作り出された活況なのです。
 太陽光発電の問題は、その設置主体の大部分が設置者個人であって、風力発電を導入して個別事業が破綻する自治体とは異なり、『家計の破綻』にならない限り、太陽光発電の非効率性の問題が社会的に顕在化しないことです。
 太陽光発電電力に対する全量高値買取で日本経済の破綻が明らかになったときには、日本の産業・社会構造は取り返しのつかないほどに疲弊することになるかもしれません。

No.494 (2010/11/18)異様な日本社会 そのC
暴力装置・・・

 相変わらず、柳田氏の発言に象徴されるように菅民主党政権の閣僚の無能振りには情けなくなるのは事実です。しかしながら、自民党の諸君のほとんど難癖としか言うしかないような瑣末な質問、曲解による議論の捻じ曲げには辟易してしまいます。もう少し日本という国がどうあるべきかという本質的な議論を行って欲しいものです。

 さて、本日の参議院での議論で仙石氏が自衛隊を「暴力装置」と表現した問題です。これは何も仙石氏が自衛隊を無法者集団である暴力団と同一視して作った造語ではありません。この言葉は、おそらくウェーバーの著書を翻訳した折に生まれた言葉であろうと思われますが、対象に対して本人の意思を無視して加えられる物理的な強制力一般を暴力と呼び、これを組織的に行使する集団を暴力装置と定義したものです。
 暴力装置の内、国家機関として存在する暴力装置、具体的には警察組織、軍隊組織は「合法的」暴力装置です。国家とは、国家体制を維持するために暴力装置を合法的に専有する唯一の組織です。この定義に従えば自衛隊は明らかに暴力装置です。
 仙石氏にとってはこの常識的な事柄について、自民党の丸川とか言う女性議員は知ってか知らないでかは定かではありませんが、ヒステリックに『自衛隊に対するシビリアンコントロールの否定』であるとか訳の分からぬ難癖をつけて、またしても罷免要求・・・。丸川氏は己の無知をさらけ出したような、まことに聞いていて情け無い質問でした。
 本質的に暴力装置である警察や自衛隊というものは、潜在的に暴発する危険性をはらむ組織であることは、日本の過去の歴史だけでなく、今日においても軍政が存在していることからも事実です。それ故にこれを民主主義的に選出された国民の代表たる国会・内閣による文民の統制下で運用することが求められているのは常識でしょう。丸川という議員の戦前の軍国の母的な自衛隊に対する礼賛は時代錯誤と言わねばならないでしょう。徴兵制度の無いわが国において、彼らは国家公務員としての仕事に従事しているだけです。

 仙石氏は開き直って暴力装置という言葉で間違いないと堂々と胸を張っていれば、無駄な時間を割く必要もなかったものと考えます。

No.493 (2010/11/17)異様な日本社会 そのB
刑事訴訟裁判員制度

 このHPでは、以前から刑事裁判における裁判員制度について反対してきています。このコーナーのNo.350で次のように述べておきました。


 まず第一に、刑法に関する個人的な犯罪とは社会性においては余り重要ではなく、専門馬鹿(=裁判官)に任せておいても特段問題はないと考えるからです。手続き等を考えれば、裁判員制度を導入することによって、審議が迅速になり、より正当な判断が出来るなどと言うことは考えられません。
 第二に、これは考えようによっては体制を維持するためのかつての五人組制度のように国民相互を監視させる制度となるからです。


 基本的にこの考えは今もまったく変わっておりません。
 さて昨日、裁判員制度が始まって最初の死刑判決が下されました。これは凶悪刑事事件に対して裁判員制度が適用されるのですから、当たり前のことであり、制度開始前から当然予想されたことです。
 それにもかかわらず、この裁判の裁判長は判決後に被告に対して上告するように勧告したというのですからあきれてしまいます。これは事実上裁判員を導入した一審判決を無意味にする行為です。

 裁判員制度など、結局ショーであり、時間と金の無駄です。即刻この制度を廃止することを強く望みたいと思います。

No.492 (2010/11/11)「もんじゅ」をいつまで延命させるの?

 今年の5月に運転を再開して以来、事故が続発した「もんじゅ」がついに臨終を迎えようとしているようです。この件につきましては、核開発に反対する会ニュースNo.35の槌田氏の記事『「お釈迦」になったかニセもんじゅ』を既に掲載していますので、参照してください。

 さて、現民主党政権は温暖化対策の中核として原子力発電を推進することを明らかにしています。単に国内におけるエネルギー供給の電力化の中核とするばかりではなく、周辺アジア諸国に原子力発電プラントを輸出することによって金儲けをたくらんでいます。三菱総研の小宮山宏などが民主党政権内に強固な足がかりを作っています。
 また、民主党の中には自民党以上にタカ派の核武装を否定しない好戦的な勢力が存在することも周知の事実です。

 こうした意向を受けて、現政権は事業仕分けにおいても超兵器級プルトニウム製造炉である高速増殖炉「もんじゅ」に対して開発計画を続行することを承認しました。
 こうして今年5月に長期運転停止状態からの危険な運転再開を強行しました。その結果、予想通り運転再開当初から事故が頻発しました。
 そして8月の燃料交換用の『炉内中継装置(3.3t)』の落下・変形事故によって事実上運転は完全に停止することになりました。

 既に槌田氏の報告にあるとおり、事故状況を把握するためには高速増殖炉の一次冷却材である金属ナトリウムを抜き取ることが必要ですが、金属ナトリウムを取り除くことは「もんじゅ」が事実上使用不可能になる可能性が高いといわれています。

 2010年11月10日の大分合同新聞の朝刊の記事によりますと、日本原子力研究開発機構は9日、炉内中継装置は変形のため取り出し不能であることがわかり、原子炉本体の大掛かりな分解を伴う作業が必要なことを発表し、40%出力試験が数ヶ月から1年程度の遅れが生じるとマスコミに発表しました。しかしながら、実際には作業の目処はまったく立っておらず、事実上打つ手が無いことが明らかになりました。

 この15年間、まったく発電することなく金属ナトリウムが固まらないように加熱するためだけに年間200億円、合計で3000億円以上を費やしてきた木偶の坊の「もんじゅ」に対して、今後一体いつまで延命措置を続けるつもりなのでしょうか?プルトニウムを拡大再生産するなどという根も葉もない嘘で塗り固められた高速増殖炉を後生大事に一体いつまで抱え込むつもりなのでしょうか。

 出来るだけ速やかに「もんじゅ」を排炉にすることこそが最善の対応なのです。

参考:核開発に反対する会ニュースNo.36 (槌田敦/2010/11)New!

No.491 (2010/10/21)天晴れ!マツダ/電気・ハイブリッド車は不要!
〜自動車駆動システムの評価〜

 まず二つの新聞記事を紹介しておきます。


大分合同新聞2010年10月?


大分合同新聞2010年10月20日夕刊

 これまで、このHPではいわゆるエコカーについて、無意味であることを主張してきました。ただし、ハイブリッド車と通常の内燃機関の自動車の比較については意見を保留しておきました
 その理由は、ハイブリッド車の運用中のガソリン(=炭化水素燃料)消費削減効果と、ハイブリッド車のハイブリッドシステム、大型蓄電池システムの資源浪費の絶対的な評価に値するデータが存在しなかったからです。しかし、本質的には単純で迂回過程の無い内燃機関のほうがより優れているであろうと考えていました。

 そこで二つの新聞記事です。ホンダの新型フィット・ハイブリッドの燃費が30km/Lであるのに対して、マツダの新ガソリン・エンジンを搭載する新型デミオの燃費が30km/Lです。カタログデータですから色々と意見はあるでしょうが(笑)、いずれの発表も信頼できるとすれば、これで完全に決着がつきました。燃費が同等であれば、より単純な構造を持つガソリン・エンジンによって駆動されるデミオの方が明らかに石油消費量、資源消費量、メンテナンス費用の全ライフサイクルにおいて省資源的であり、したがって環境に与える負荷が少ないのです。

 トヨタやホンダをはじめとするハイブリッド車あるいはプラグイン・ハイブリッド車グループ、三菱などの電気自動車グループが、日本政府のCO2温暖化対策の補助金にタカって、通常の市場では売れそうも無い同機能のガソリン車よりも高価な車を作って売り込もうという、自動車技術屋としては誠にサモシイ根性であるのに対して、シンプルで高機能という自動車技術者の本道を行くマツダの技術陣、そしてこれを許したマツダの経営陣の決断に喝采を送るものです。
 このマツダの決断は、自動車メーカーの経営方針としても正解であろうと考えます。環境政策(勿論これは金儲けのためのでっち上げの環境政策にすぎませんが・・・)のために高経済負担を受け入れることの出来るのは、欧米や日本などごく一部の国のごく一部の富裕層だけなのは明らかです。

 今回の新聞記事によって、自動車駆動システムについてのこのHPの意見を確定することが出来ましたので、今一度総括的にまとめておくことにします。

●自動車駆動システムの総合評価

@燃料電池車

 燃料電池とは水素を利用して水の電気分解の逆反応で電気を取り出す装置であり、燃料電池車は燃料電池の電気を使って電動機を回して走る電気自動車である。
 本質的な問題は、水素製造が極めてエネルギー集約的な生産プロセスの産物であり、水素製造に投入したエネルギーに対して、最終的に自動車の駆動力として有効利用可能なエネルギーが小さすぎてまったく使い物にならない。おそらく投入エネルギーに対する利用可能エネルギーの比率は、通常の内燃機関の自動車の1/10のオーダー程度と考えられる。
 更に、現在試作されている燃料電池車の価格が数千万円〜数億円という途方も無い価格であることから、その製造プロセス自体が極めてエネルギー消費量が多く、白金などの希少金属やレア・アースと呼ばれる希土類元素等の希少資源を大量に必要とすることが推測される。とても社会の基幹的運輸手段として普及することはありえないのである。

A電気自動車

 これは、日本の次世代エコカーとして導入推進されている中核的な自動車である。しかし、電気自動車は、他の発電システムで作られた電気を車載蓄電池に蓄えて走るという迂回過程を取るため、エネルギー利用効率=石油利用効率において内燃機関の自動車を上回ることは無い。
 電気自動車は燃費が廉いといわれる。確かにガソリン車に比べると、同一の走行距離に対しての電気料金はガソリン料金より安くなる可能性がある。これはエネルギー利用効率=石油利用効率とはまったく別である。発電用重油の単価は20〜30円/Lであるのに対してガソリンは130〜150円/Lであり、5倍程度の開きがある。

 また、車体価格が高いことからも、製造プロセスのエネルギー消費量が大きく、レア・アースなど希少資源を大量に必要とすることが分かる。更に蓄電池寿命は短く、車両を長期的に運用する場合のメンテナンス・コストも非常に大きくなる。このようにエネルギー装置として評価すればまったく使い物にならない電気自動車であるが、政府や電気事業者はこれを次世代自動車の中核にどうしてもしなければならない「わけ」がある。これは後述する。

Bハイブリッド車

 ハイブリッド車はガソリンエンジン車にハイブリッド・システムを付加するため、迂回度が高くなり、構造が複雑になる。更に、電動モーターを駆動するための蓄電システムも大きくなる。通常、迂回度が高くなるほどエネルギー利用効率は低下するが、内燃機関で駆動する従来の自動車では、出力変動によるエネルギー・ロスが大きく、ハイブリッド車に燃費においてアドバンテージがあるとされてきた。しかし、今回紹介した記事のように、ガソリンエンジン車の燃費がハイブリッド車の燃費に肩を並べるまでになってきており、最早ハイブリッド車の優位性は存在しないといってよい。
 燃料費以外の運用コストで内燃機関の自動車に劣るハイブリッド車は、全ライフサイクルを考慮すれば圧倒的にガソリン車のよりも資源・エネルギー浪費的である。

 以上の検討より、小型運搬手段の動力装置としては内燃機関を利用することが最適である。

●なぜ日本において電気自動車の導入が促進されるのか?

 自動車の駆動装置としては大型蓄電池+電動モーターによる電気自動車は純粋に技術的に評価すれば、使い物にならないおもちゃである。しかし、政府や電気事業者は電気自動車の普及を待ち望んでいる。
 民主党政権のCO2温暖化対策としてのエネルギー政策の中核は、脱石油・石炭ではなく、電気エネルギー化政策あるいはエネルギー供給の電力化政策である。つまり、エネルギーの消費段階の形態を電力に移行することである。
 一時期、戸建用自然エネルギー発電電力は電気自動車の車載バッテリーに蓄えて運用するなどという愚かな構想があった。ところが、戸建用自然エネルギー発電装置とは太陽光発電装置であり、太陽光のある昼間でなければ発電できない。ところが、自動車は圧倒的に昼間に利用されるものであって、自動車の車載バッテリーを太陽光発電の蓄電装置として利用することは現実的ではない。
 また、風力発電や太陽光発電は発電出力が制御不能であり、将来的にも使い物にならないことは明らかである。脱火力発電の実質的な発電方式は原子力発電であるというのが電気事業者と政府の本音である。
 ところが、原子力発電は定常運転できるがこまめな出力変動には適さない発電装置である。そのため、これ以上原子力発電を増設することは夜間余剰電力が増えることを意味し、発電コストを押し上げる。原子力発電を増やし、この夜間余剰電力を消費するために考えられるのが自動車を電気自動車に置き換え、夜間の電力需要を大きくすることである。

 即ち、日本における電気自動車の普及とは、原子力発電増設のための露払いなのである。

No.490 (2010/09/25)中学校教育における非科学的な理科教育を憂う・・・

 娘は現在中学生です。義務教育課程で環境問題、とりわけ人為的CO2地球温暖化問題がどのように扱われているのかは、父兄としても非常に気になる問題です。そこで娘に理科の教科書を借りて内容を確認することにしました。
 その結果はかなり悲惨なものでした。例えば次の図をご覧ください。

 

 上の図は、理科2分野「自然環境はどのように変化しているか」という単元に示された人為的CO2地球温暖化仮説を説明するための模式図です。
 この図はおそらく環境省の模式図をたたき台にしたものでしょうが、これはむちゃくちゃです(笑)。おそらく人為的CO2地球温暖化論を主張する研究者でもこの図は否定するはずです。
 もしこの図のように、入力としての太陽放射と出力としての地球放射の間にこれだけ極端な

太陽放射≫地球放射

という関係にあれば、地表温度は熱暴走状態になり、限りなく上昇し続けることになります。いくら模式図といってもこれではひどすぎます(笑)。 

 例えば次の図に示すように、太陽からの入射が342W/m2であれば、地球から宇宙空間への放射の合計も342W/m2=(107+235)W/m2にならなければならないのです。(出典:IPCC第4次報告書)

 

 義務教育における理数科教育の一つの柱は論理的で科学的な思考方法を習得させることであろうと思います。ところが、理科で扱う環境問題の記述では、現象の生じる自然科学的な背景を論理的に説明せずあるいは非論理的な一面的な知識として紹介するという愚かなことを行っていました。これでは理科ではなく、社会化教育、しかも体制の視点から見た洗脳教育の謗りを免れないものと感じました。

 そこで、娘の通う中学校の理科担当教師に主要な疑問点を列挙し、回答を求めることにしました。これについての回答はいまだに受け取っていませんが、娘の理科担当教師から、市内の理科担当教師の集まりで温暖化問題について話してくれないかという打診があり、約一月ほど前に温暖化問題の争点のアウトラインを話す機会がありました。
 その折の質疑応答で非常に落胆しました。まず、当日話した内容について自然科学的な視点からの本質的な質問がほとんど出なかったことです。授業で教える内容について、ここまで無関心でよいのだろうか・・・。
 当日の話の中で、Climategate事件の概略にも触れたのですが、驚いたことに、ほとんどの参加者がClimategate事件の存在すらほとんど知らなかったのです。
 更に、この温暖化問題では、特に日本の主要報道では一方的な情報しかなく、ネット上で情報を探しても一体どれを信じれば良いのか分からないという意見がありました。これに対して、「信じる信じないは宗教であり、あなたは理科の先生なのですから、情報を自ら科学的に吟味して納得の出来る情報を探せばよい」と答えたのですが、「教える内容を教師は全て理解しておかなければならないのか?」という質問が返ってきたのには、正直、愕然としました。
 私は他者に対して何かを教える場合には、相手が大人であろうと子供であろうと、自分が理解して論理的に納得した上で教えるのは当然の義務であると考えます。相手が子供だからといっていい加減な対応をとることは職業教師として許されないことだと考えます。自らが論理的・科学的に理解できない、説明できない事柄を敢えて子供に教える必要など一体どこにあるのでしょうか!

 とてもこの日の話だけでは温暖化問題についての理解を得ることは出来なかったと感じましたので、継続的な学習会を開くことを提案していますが、残念ながら今のところ反応はありません。学習会はともかく、近いうちに娘の通う中学校の理科担当教師には回答を求めようと思います。

 最後に、大分県内では、人為的CO2地球温暖化を正しいものとした温暖化対策としての太陽光発電の公立学校への導入が進められています。少なくとも理科担当教師はこの無益な税金の無駄遣いに断固反対して欲しいものです。かなわぬならば、せめて太陽光発電の稼動実績を自然科学的に分析して、如何に愚かな施策であるかを子供たちに教えてやって欲しいものです。


大分合同新聞2010年9月22日朝刊


No.489 (2010/09/25)中国船拿捕事件で見えた菅政権の無様な外交姿勢

 なんとも拙い対応である。今後どうなるかは予断を許さない状況ですが、これまでの菅政権の中国船拿捕事件への対応は最悪でした。

 問題の尖閣諸島の領有権問題ですが、日本政府の公式見解は、領土問題は日中中間線で確定しており日本の明白な領土であり、「領土問題」は存在しないというものであることは周知の通りです。
 しかし、領土問題というのは利害の対立する相手が必ず存在する問題であり、関係国の同意が得られていない限り、いくら正当な主張であっても、実質的には領土問題は存在すると解釈すべき問題でしょう。
 特に近年では海底資源の開発問題と絡んで、当該各国の同地域における権利確保は重要な国家戦略にもなっていることが領土問題をより複雑なものにしています。
 尖閣諸島の問題では、中国だけでなく台湾も領有権を主張している問題であり、極めて複雑な領土問題が存在する海域です。このあたりの歴史的・国際法的問題は複雑ですので、コメントは控えることにしますが、関係各国はこの海域における領海確定のために継続的な努力をしなければならないことだけは事実でしょう。さもなければこの海域で今回と同様の問題が繰り返されることになります。特に事件後は日本漁船の操業にはかなり不安が増したことは否めないでしょう。

 問題はこの事件を巡る菅政権の外交戦略の稚拙さです。この事件が起こる前から、菅改造内閣の外務大臣に前原が指名された当初から、中国は親米、対中国強硬派である前原の就任を警戒する報道をしていました。
 このような状況を考えれば、尖閣諸島海域で中国船の拿捕事件が起きた段階で、中国政府がこれに強硬に反発することが予測可能だったはずです。しかも、外交カードとしては圧倒的に中国の方が多くのカードを持っていることは明らかでした。
 最も望ましかったのは日本政府がイニシアチブをとって当初から事件に介入し、衝突事件について事実関係を聴取した上で、早期に船長を中国へ『強制送還』するとともに、外交チャンネルを通じて中国政府に対して領海侵犯について抗議し、領海問題について同様の事件の再発防止の議論の場を設ける提案をすることでした。
 ところが、実際の対応では日本政府は「領土問題」は存在せず、つまり外交的には対応せず、日本の国内法による刑事事件として、起訴を念頭に置いた拘留措置をとりました。これに対して中国政府は外務大臣である前原の『領土問題存在せず』の発言に敏感に反応し急速に対応を強硬なものにしていきました。
 それでも早期に中国との間に外交チャンネルを開き大臣級の外交交渉を開始すればここまで問題は大きくならなかったかもしれません。ところが、日本政府とりわけ菅・前原は中国政府に対しては強硬姿勢をとる一方で、中国政府とではなく米国政府とこの問題を協議するという愚かな行動を起こしました。しかも、米国はこの問題については当面直接介入は行わず、当事者同士の話し合いを求めました。
 この間に中国は、米国に頼らなければまともな外交交渉が出来ない菅政権の足元を見透かし、対日外交カードを次々と繰り出し、国家間、民間の人的交流を凍結し、輸出規制、更には日本のゼネコン社員の逮捕と対応を強硬なものにしていきました。
 その結果、日本政府は頼りの米国による介入の可能性が失われたために、有効な外交手段を全て失い、なし崩し的に拘留期限を待たずに、何の合理的な理由も無く拿捕船の船長を解放するという、誠に無様な結末を迎えることになりました。

 今回の対応は、独立国の外交としては誠に稚拙で情け無いものでした。中国政府の対応に対する判断の読み違いもさることながら、常に後手後手にまわり、日本政府の外交判断までも米国に寄りかかろうとする菅民主党内閣の傀儡振りにはあきれ果てました。環境政策・経済政策における菅政権の無能さは既に何度も述べてきました(No.480、No.483、No.484、No.487)が、外交政策も絶望的なようです。やはりこの政権には早急に退場していただかなければならないでしょう。

No.488 (2010/09/17)大入島訴訟敗訴確定〜司法の限界

 このHPで継続的に報告してきました大分県佐伯市の大入島の埋め立て問題が新たな段階を迎えました。埋め立て工事は地元住民の反対運動によって実質的に凍結状態になっています。
 大入島の埋め立て反対運動は、日本の沿岸海域に残された豊かな生物環境の保全を目指す、本当の意味での環境保護運動だと考えています。日本政府は人為的CO2地球温暖化というありもしない脅威のためには湯水のように補助金を投入しますが、こうした真の環境保護運動、生活権=命をかけたギリギリの環境保護運動には極めて冷淡です。その差は何か?CO2温暖化は金儲けできるが、片田舎の漁民の生活権はまったく金にならないからでしょう。

 今日、最高裁は大入島埋め立て免許取り消しを求めた地元住民の訴訟の棄却を決定しました。私も、CO2地球温暖化を巡る気象学会を巡る訴訟に関わっていますが、無能な日本の司法の限界を感じずにはいられません。この種の体制を相手にした訴訟では、司法は自らの判断を避け、体制の正義を追認するだけの下請けにすぎないのです。


大分合同新聞2010/09/17夕刊

 


No.487 (2010/09/03)異様な日本社会 そのA
菅直人の経済感覚

 民主党の党首選が開始されましたので、番外的に少し触れておくことにします。民主党菅政権に対する私の評価は既にこのコーナーのNo.480、No.483、No.484で触れたとおりです。党首選公示後の小沢との共同記者会見を見て、やはりこの菅という大馬鹿者には一日も早く退陣して欲しいと再確認しました。

 参院選で明らかになった彼の一般消費税増税路線は、弱者切捨て強者優遇の経済政策です。彼は参院選中には消費税率を10%程度にする代わりに、所得400万円程度以下の「低所得層」には消費税を還付するなどという大間抜けな発言をしました。
 これは彼の経済感覚を非常に端的に表している発言です。つまり、彼にとって、所得400万円程度以下の「低所得層」は日本社会において極めて例外的に所得が低い「少数者」であるという認識を示しています。同時に、彼の経済政策はこうした例外的な低所得者はとりあえず置いておいて、それ以上の、おそらく彼の感覚では多数者である都市の中間層以上を標準とする経済政策を中核に置いているのです。
 では彼の発言を実際の統計で検証しておくことにしましょう。知人からの情報によりますと、2009年10月現在における、日本人の所得の中央値(median)は208万円、所得の平均値は420万円ということです。現在の日本社会では、所得の中央値が平均値に比べて著しく低い値を示しています。つまり、度数分布曲線を描けば、極大値がかなり平均値よりも低所得側に歪んだ形状をしていることを示唆しています。
 この情報から、仮に菅が言うように400万円程度以下に対して消費税を還付するということになれば、おそらく国民の6〜7割程度に対して消費税を還付することになります。これは税制として本質的に成り立たないことになるのは明らかです。
 残念ながらこの知人からのデータの裏は取れていませんが、厚生労働省の「平成21年 国民生活基礎調査の概況」から世帯あたりの数値を紹介しておきます。


図8 所得金額階級別にみた世帯数の相対度数分布

 図8から、世帯当たりの平均所得金額が547.5万円、個人平均所得420万円の1.30倍です。中央値は427万円、最頻値(mode)は200万円台であることが分かります。平均所得以下の世帯数は61.5%になります。
 日本の貧困率(等価可処分所得<世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った値>が、全国民の等価可処分所得の中央値の半分に満たない国民の割合)は16%程度であり、世界第4位です。日本が貧富の格差の小さい社会、「一億総中流」などというのは遠い昔の話であり、現在は米国に象徴される格差社会に肉薄しているのです(貧困率のOECD加盟国平均は10.6%程度、欧州各国では概ね10%以下、特に北欧のスウェーデン、デンマークは5.3%。かつての日本は北欧並であった。)。


図9 平均所得金額以下の世帯の所得金額階級別累積度数分布

 また、図9から分かるように、低所得世帯の割合は、確実に増加しつつあるのです。

 統計数値から見ても、菅の経済認識は現実と大きく乖離しているのです。彼は、党首選の共同記者会見において国民の大多数は消費税による増税をしても、より充実した社会保障を求めていると言いますが、これも現実をまったく理解していないようです。現状でも年金や健康保険税を支払えずにいる人は決して少なくなく(それが国民健康保険や国民年金制度の財政的破綻の一因でもあります)、将来の保障よりも明日の生活をどうするかが問題なのです。

 菅あるいは菅に与する民主党は、低所得者と言う弱者を救済するよりも、都市中間層以上の富裕層、業種ではこれまでの土建業界に象徴される古い体質の産業に変わって自動車、IT、電気、エネルギー産業を優遇する、新たな強者のために社会を構想しているようです。
 知人からの情報によると、「大手の企業は、力関係で消費税を払っていなくても、帳簿上は払っている事になっている。外国へ商品を売る企業は、消費税の還付制度がある。上位十社の還付金で、昨年度は、1兆3千億円余り。当然トップはトヨタである。 消費税は下請け企業が払っている。 」ということです。
 結局消費税を支払っているのは弱小企業と低所得者なのです。消費税が公平な税制などと言うのは、国民を騙すための詭弁なのです。所得税税率区分の減少と最高税率の低下、法人税率の引き下げと各種控除によって、日本の税制の逆累進性は甚だしいものになっているのです。

 既に官僚体制に屈服して強者の理論による現実路線に転落した菅よりは、小沢の政権運営を見てみたい気がします。

No.486 (2010/08/24)異様な日本社会 その@
民主党の“核”戦略

 最近の日本社会(それは、いわゆる先進工業国の共通の現象かもしれませんが・・・)はあらゆる面で『異様』という言葉がぴったりな世界になりつつあるようです。いつかどこかで聞いたことばですが『美しい国』(笑)とはますますかけ離れたグロテスクな社会が出現しているように思います。その根源にあるのは、増幅する人間の『欲望』の肥大化ではないかと思います。
 日本の中世から近世にかけては、儒教的な、個人の自由=欲望に対して抑制的な社会システムの下に人々は暮らしていました。確かに儒教的な思想が過度の身分差別や個人の自由を束縛する統治のための装置として機能していたことは事実であるように思いますが、ある意味では際限の無い人間の欲望の肥大化・暴走に対する安全装置としての人間の永年の経験から生まれた生活規範だったのかもしれないと、最近思うようになりました。

 今回から数回にわたって、最近私が異様だと思ういくつかの事象を紹介していきたいと思います。

 最近の日本社会を見ていると、無制限になりつつある自我・欲望の開放が社会全体を荒んだものにしているように思えてなりません。更にその人間の欲望の充足を、これまた金銭欲という欲望に支配された守銭奴のような資本主義経済システムが食い物にしながら工業生産システムを肥大化させ、『経済成長』を欲望する様はなんとも醜い姿に、私には思えるのです。
 極言すると、人間の欲望を充足するために工業的生産・経済システムが肥大化し、肥大化した工業的生産・経済システムが更に人間の欲望を増幅する無限の『経済成長』戦略を国家戦略としているのが日本の戦後の歴代政権の主要な政策である点だけは不変なのです。
 昨年、民主党が政権をとりましたが、民主党政権はある意味では自民党政権以上に露骨な守銭奴政権なのかもしれません。更に彼らは科学的に無能であり、政策の自然科学的な合理性をまったく理解できない大馬鹿者(あるいはペテン師野郎!)でもあります(この件に関しましてはNo.480などを参照)。
 彼らは、自民党以上に積極的に経済規模拡大に政治的に介入しようとしています。例えばエコカー補助金・優遇税制や家電エコポイント制などは、本質的にかつての公共土木事業以上の愚策です。確かに公共土木事業において不要不急の事業があることは事実ですが、人間の社会生活に有用な社会的インフラという長期的な社会資産を形成するという側面がありましたが、個人の消費財、しかも技術革新の速さから、ほとんど消耗品になりつつある商品に対する国庫からの支援は無駄な工業生産をますます肥大化させるだけです。
 多少わき道に脱線しますが、これは財政政策としても失敗することは明らかです。このエコカーやエコポイントというものは一時的な消費財の『購入』に対する援助であり、これによって需要=工業生産規模を継続的に増加させる機能は無く、言うなればその場しのぎの消費拡大のためのカンフル剤の注入にすぎません。カンフル剤の注入で肥大化した生産・市場規模を維持するためには、更なる国家支出を続けない限り維持できないのは当たり前です。この愚かな政策によって、国家財政からの支出が増大することはあっても、継続的な経済拡大によって税収が増加することは有り得ないことです。この政策によって、日本の財政状況はますます悪化することでしょう。
 話を元に戻しましょう。このような経済つまり工業生産規模を拡大するような政策によって、環境問題は更に悪化し、石油・石炭消費は確実に拡大します。この問題は太陽光発電や風力発電などというおもちゃではどうしようも無い問題なのです。スペインの財政破綻によって同国の太陽光発電市場が一気に縮小したことが分かるように、太陽光発電の導入によって本質的なエネルギー問題は更に悪化することは事実が示しています。こうした現実に何も学ぼうとしない太陽光発電の高値買取など時代錯誤の愚策です。この点は、政権担当者や電力関連企業は十分承知しています。そこで登場するのが、環境対策の大本命としての原子力発電の増設なのです。

 さて、民主党政権はかねてから原子力発電の推進に熱心です。これは、小宮山宏前東大総長をはじめとする原子力関連産業の利益代表や電気事業者との親密さ、民主党の巨大支持団体である電機連合との関係が非常に強いということからも分かります。民主党は、自民党保守政権が公共土木事業で結託していた土木業界を見限り、IT産業、電気・エネルギー産業と癒着していこうとしているようです。
 エネルギー産業の中でも、最も高コストで電力会社、関連企業の儲けの大きな原子力発電をその国家戦略の中核に置き、国内向けにはCO2温暖化対策としてこともあろうに『クリーンな電気エネルギー』と称して国民を騙しながら、海外に向けてはCO2排出枠獲得と輸出拡大の切り札として米国張りの政治介入によるトップ・セールスによるなり振り構わぬ売込みを開始しています。
 菅(政権)は、表向き核拡散を防止するといいながら、本音では日米安保同盟崇拝の核抑止力論肯定の売国政治家です。そして、その意を汲む岡田外相はNPT非加盟国に対して原子力関連技術を売り込み、核拡散を積極的に推進しているのです。元来、原子力利用は技術的に見れば平和利用と兵器利用との境界線など存在しません。自前の原子力発電技術を擁する大多数の国は同時に核兵器保有国、ないしその予備軍であることは否定しがたい事実です(日本自身がそうだということを忘れてはいけません!『もんじゅ』とは兵器級プルトニウム製造装置です。)。
 民主党政権は、表向き唯一の被爆国から核兵器廃絶に率先して取り組むといいながら、その実は金儲けのためなら自ら核関連技術の海外移転=核拡散を行う倫理観の欠落した死の商人になろうとしているのです。その姿は異様です。

No.485 (2010/08/09)解題 人為的CO2蓄積仮説

 人為的CO2地球温暖化仮説の根本的な成立要件である、人為的CO2蓄積仮説について、彼らはどのようなモデルを念頭に主張を組み立てているのか、長い間私なりに考えてきました。
 本編において『解題 CO2循環を考えるための数学的枠組み』というレポートを公開していますが、これをまとめる過程でどうやら人為的CO2蓄積仮説がどのようなモデルを念頭においているのか、なんとなく理解できたように思います。
 ここでは、現段階では最もまとまったそして『権威ある』IR3Sによる『地球温暖化懐疑論批判』議論18における彼らの主張を元にモデルを再構築すると同時に、それが如何に愚かな主張であるかを示しておくことにします。

1.循環モデル

 これまで、私に彼らのモデルが理解できなかった最大の理由は、産業革命以前の定常状態にあったという時代の炭素循環モデルについては、彼らと認識を共有できているという先入観があったからのようです。まず、産業革命以前の定常状態についての私たちの主張する循環モデルについて説明します。ただし、定常状態をCO2濃度を280ppm、大気中に含まれるCO2量を560Gt(炭素重量)、1ppm=2Gtと仮定しておきます。

 産業革命以前の定常状態では、地表環境から大気へqin=190.2Gt/年のCO2が流入し、同時に大気から地表環境へqout=190.2Gt/年が流出していたために、大気中に含まれるCO2量Q=560Gtは変化しなかったと考えられます。
 対流圏大気中では、対流と地球の自転によって引き起こされる全球的な大気循環が存在するために、大気は絶えず攪拌されています。当然地表環境から大気へ放出されたCO2も大気循環によって急速に攪拌され、対流圏大気全体に拡散していくと考えられます。その結果、地表環境から放出されたCO2は大気中に存在していたCO2と急速に混合し同化すると考えられます。
 地表環境による大気中CO2の吸収は、地表環境から放出されたqinが再びそのまま吸収されるのではありません。qinは一旦大気の中に拡散し、その後に大気から吸収されるのです。大気中に放出されたCO2は、元々存在していたCO2と区別することは出来ませんから、地表環境から放出された直後のCO2であろうと、それ以前に大気中に存在していたCO2であろうと、地表環境に吸収される確率は同じです。
 私たちのモデルでは、地表環境のCO2吸収率rは、大気中に含まれているCO2量であるQに対するqoutの割合として次のように定義します。

r =qout/Q

 以上が循環モデルの概要です。詳細につきましては最新レポート『解題 CO2循環を考えるための数学的枠組み』をご覧ください。

2.人為的CO2蓄積モデル

 実を言いますと、まさか定常状態における私達の循環モデルが人為的CO2蓄積仮説を主張する論者のモデルとすでに異なったものであるなどとは考えていませんでした。これがなかなか彼らの主張するモデルにたどり着けなかった大きな原因でした。

 

 人為的CO2蓄積仮説による産業革命以前の定常状態に対する解釈を上の図に示します。彼らは、地表環境から放出されたCO2は元々大気に含まれていたCO2とは一切混合しないという主張だったのです!こう解釈すれば、彼らの主張の一貫性が理解できるのです。
 彼らの吸収率(仮にγとする。)の定義は私たちの定義とは本質的に異なり、地表環境の単位時間吸収量qoutの単位時間放出量qinに対する割合として定義されています。定常状態では、地表環境から放出されたCO2量であるqinがそのまま大気と混合することなく地表環境に吸収されるので、

qout=qin ∴γ=qout/qin =1.0

になります。彼らの主張では、その理論的な背景は一切説明されていませんが、どうも自然起源のCO2に関してはqinが変動しても常に全てを地表環境が完全に吸収し、γ=1.0が維持されるようです。その結果、彼らのモデルによる現在の状態を説明した図は次のようになります。

 

 自然起源のCO2放出量は、原因はともかく、産業革命以後の気温上昇によって海洋表層からのCO2放出量が増加し、産業革命当時の190.2Gt/年から211.8Gt/年に増加したものの、全てはそのまま地表環境に吸収されると考えます。
 次に、大気中に含まれているCO2量は、産業革命以降に放出された人為的なCO2放出量の一部が蓄積され続けた結果、560Gtから762Gtに増えたと考えています。
 そして、現在の人為的CO2放出量6.4Gt/年に関しては、半量が地表環境に吸収され、残りの半量である3.2Gt/年が新たに大気中に蓄積すると考えているのです。
 以上の様子を、議論18では次のように表現しています。


(前略)これは丁寧に言い換えれば、「森林や海洋はCO2を放出したり吸収したりしているが、地球全体では現在正味で吸収となっている。その1年間の吸収量は、同じ年に人間活動によって放出されるCO2量の約5割註)にあたる」という意味である(人間活動によって放出されたCO2分子が選択的に吸収されるという主張は含まれていないことに注意)

註) 議論18では、「約3割」となっているが、これは彼らが、槌田の循環モデルを誤って理解した上に勝手に推測したものである。彼らの本来の主張にしたがって「約5割」に敢えて訂正しておく。文中の取り消し線の意味については後述。(近藤)


 つまり、人為的CO2蓄積仮説のモデルの本質的な特徴は、着目年度に地表環境から放出されたCO2はそれ以前に元々大気中に存在するCO2とは一切混合せずに、再びそのまま地表環境に吸収されるのです(逆に言えば、大気中に存在しているCO2はまったく地表環境に吸収されないのです)。そして、もし、単年度放出量が単年度吸収量を上回れば、吸収されなかったCO2がQの増加分として一方的に大気中に蓄積され続けると考えるのです。
 しかも、単年度放出量の内、自然起源のCO2に関しては、その放出量の変動に関わらず、常に全てが単年度で吸収されるため、初年度の吸収率はγ=1.0であり、取り残しがないので2年度以降の吸収量は定義する必要がないのです。
 次に、人為的なCO2放出量については、議論18によると「森林や海洋はCO2を放出したり吸収したりしているが、地球全体では現在正味で吸収となっている。その1年間の吸収量は、同じ年に人間活動によって放出されるCO2量の約5割にあたる」ということで、初年度に半量が地表環境に吸収され、残りの半量が大気中に蓄積すると解釈するのです。その結果、人為的CO2放出に対する初年度の吸収率は0.5であり、2年度以降はまったく吸収されないために吸収率は定義する必要が無いというのです。
 HPのレポート『大気中CO2濃度モデルの可視化』において、これまで蓄積モデルに対して次のようなモデルを示していました。

 

 しかし、むしろ彼らのモデルはもっと単純な次の図に示すモデルに近いのではないでしょうか。

 

 さて、ここで議論18において不可解な注釈があることにお気づきの方も多いと思います。次の一文です。

(人間活動によって放出されたCO2分子が選択的に吸収されるという主張は含まれていないことに注意)

 これはまた困った注釈です。これでは自ら作ってきた人為的CO2蓄積仮説を全否定することになってしまいます。正に支離滅裂(笑)な注釈です。ではこの注釈に沿ったモデルを示すことにします。

 

 注釈に言うように、地表環境から放出されるCO2に区別を付けないものとすれば、自然起源のCO2量である211.8Gt/年と人為起源のCO2量である6.4Gt/年は同じ振る舞いをすることになります。つまり、地表環境から放出されたCO2であるqin = 218.2Gt/年の内、qout = 215Gt/年が地表環境に吸収され、ΔQ = 3.2Gt/年が新たに大気中に蓄積されることになります。この場合、年吸収率は

γ=215/218.2=0.9853

になります。この吸収率は自然起源のCO2であろうと人為起源のCO2であろうと同じ値を用いるというのが『人間活動によって放出されたCO2分子が選択的に吸収されるという主張は含まれていないことに注意』という意味です。したがって、大気に新たに蓄積されるCO2の発生源別の内訳は次の通りです。

自然起源のCO2 : 211.8×(1−γ)=3.106Gt/年
人為起源のCO2 : 6.4×(1−γ)=0.094Gt/年

 人為的なCO2放出量は、産業革命後、現在に近づくほど急速に増加しています。かなり大目の見積もりになりますが、この間の人為的なCO2放出量の平均値を3.2Gt/年、自然起源のCO2放出量を200Gt/年として、蓄積モデルにおいて産業革命後に新たに蓄積されたとされる(762−560)=202Gtの内、人為起源のCO2量を推定してみると次の通りです。

202×3.2/(3.2+200)=3.18Gt=1.59ppm

 これでは彼らの主張する、『産業革命以後に蓄積されたCO2の主要な原因は人為的なCO2の放出である』を説明できなくなってしまいます。つまり、『人間活動によって放出されたCO2分子が選択的に吸収されるという主張は含まれていないことに注意』というのは、彼らの主張を全否定してしまう余計な注釈なのです。彼らはこんなことも理解できないようです(笑)。彼らの人為的CO2蓄積仮説が成立するためには、自然起源のCO2と人為起源のCO2を区別して取り扱うことが必要なのです。そこで取り消し線でこの注釈を削除したのです。

3.人為的CO2蓄積モデルは物理的に不合理

 人為的CO2蓄積モデルの考え方が理解できました(明日香さん、増田さん、何かおかしな点があればご指摘ください。)。しかし、このモデルは形而上学的には首尾一貫しているとしても、物理学的あるいは自然科学的にはには不可能あるいは不合理なモデルです。

(1)エントロピー増大則違反

 既に示したとおり、人為的CO2蓄積仮説が成立するためには、大気中に元々存在しているCO2と新たに放出されたCO2が一切混合せず、地表環境は新たに放出されたCO2だけを選択的に吸収することが必要です。
 しかし、自然現象は例外なくエントロピーの増大する方向にしか進行しません。対流圏に放出されたCO2は、分子拡散だけでなく、対流圏大気の活発な循環運動によって急速に大気全体に拡散し、そこに元々存在していたCO2と混合することになります。一旦対流圏に放出されてしまえば、元々存在するCO2と新たに放出されたCO2を区別することは出来ず、大気中に存在する全てのCO2は共通の確率で地表環境に吸収される以外にないのです。
 また、人為的CO2蓄積仮説では、新たに対流圏に放出されたCO2についても、自然起源のCO2と人為起源のCO2が混合しないものとしています(吸収率を別々に設定している)が、これも同様にエントロピー増大則に反する仮定です。

(2)過去の観測結果との矛盾

 上の図は、ご存知の南極の氷床から採取した氷柱の成分分析から得られた過去の大気中CO2濃度などの推定値を示しています。この図からわかるように、人為的なCO2放出のなかった時代においても大気中のCO2濃度は大きく変動していたのです。
 もし彼らのモデルが主張するように、自然起源のCO2が単年度で全て吸収されてしまうのならば、自然起源のCO2放出によって大気に蓄積しているCO2量は変化しないはずです。なぜかつての地球大気のCO2濃度は自然起源のCO2放出だけで変動したのでしょうか?
 自然起源のCO2放出だけでも大気中CO2濃度が変動するということは、自然起源のCO2放出は大気に元から存在するCO2と相互に混合していると考えるしかないのです。つまり、これは地球大気に放出されたCO2は常に循環しているのであって、蓄積され続けることはないことを氷柱のデータは主張しているのです。人為的CO2蓄積モデルは、過去のデータからも現象を説明できない不合理なモデルなのです。

4.結論

 人為的CO2蓄積仮説(モデル)の本質は、地表環境から新たに放出されたCO2は、そのまま大気中CO2と混合することなく地表環境に再び吸収されるか、あるいは大気中に一方的に蓄積され続けるかの二通りしかなく、一旦大気中に蓄積されたCO2は決して地表環境に吸収されないという前提によって組み立てられています。
 その結果、人為的CO2蓄積モデルは、大気中CO2濃度の減少過程を説明できないという致命的な欠陥を持っています。もし、これを説明可能なようにモデルを修正しようとすれば、いかなる方法を用いても、一旦大気に蓄積されたCO2が再び地表環境に吸収されることを認めざるを得なくなるのです。これは、蓄積モデルの否定を意味し、したがって、人為的CO2蓄積モデルはあり得ないモデルであることを認めることに他ならないのです。

No.484 (2010/08/06)理解不能!支離滅裂菅直人

 今日は広島に原爆が投下されて65年になるという。今年も広島で式典が行われた。私には参列者が、米国をはじめとする核保有国の国家代表が参加したことを歓迎する意図がよく分からない。
 それ以上にまったく分からないのが非論理的な首相菅直人の発言である。日米安保条約は第二次世界大戦後の東アジアの平和に貢献し、これからも重要であると述べている。今日の平和式典の挨拶では、日本国憲法を順守し非核三原則を堅持すると述べた???式典後の、TVのインタビューに対して核抑止力は必要だと!・・・。
 私にはこの男の思考回路がまったく分からない。真性の大馬鹿者なのか、馬鹿の振りをした二枚舌野郎なのか、いずれにしてもこのような男に国政を任せるなど、とんでもないことのように思う。

No.483 (2010/07/05)米帝国主義総帥オバマと売国米傀儡政権首相菅直人

 さて、来週に参院選を控えているので、民主党菅政権の評価をしておくことにします。

 菅は就任早々、普天間問題では日米合意を遵守することをいち早く表明しました。首相就任直後のカナダG20においてオバマに対して改めて普天間問題は日米合意に基づいて処理することを確約し、日米安保軍事同盟が東アジアのみならず世界平和に貢献してきたという彼の評価をオバマに伝えました。あきれ果ててものが言えません。オバマに擦り寄る姿は、ご主人様に頭をなでて欲しい番犬よろしく、見事な売国米傀儡政権の面目躍如というところでしょうか。
 オバマ就任直後の核兵器削減への言及に対して、何を血迷ったか、国内の反核運動の指導者の多くがオバマ政権を歓迎しました。馬鹿なことを言ってはいけません。オバマと言えども米帝国主義の総帥であることにはまったく変わりは無いのです。つまり、彼の言う世界平和とは、米国(の武力)によって米国のために都合の良い世界秩序を安定化させることでしかないのです。オバマが核軍縮と言ったところで、それは米国以外の国がすべての核兵器を廃棄した後に米国も核兵器を廃棄するということでしかありません。
 菅の評価する第二次世界大戦後の日米安保軍事同盟は、東アジアにおける米帝国主義の武力による「世界秩序の安定」において、朝鮮戦争の兵站として、あるいはベトナム戦争の前線基地として、そしてイラクへの攻撃基地と見事に機能しています。そんな血塗られた世界平和の維持への貢献を日本国民は望んではいないのです。平和憲法を持つ日本では、そんなことのために沖縄が犠牲にされてはならないと考えます。菅政権の普天間問題への対応は正に売国奴の所業です。

 次に、菅は一般消費税率引き上げと法人税率の引き下げを唐突に言い始めました。「政権についたからには現実的に財政再建に取り組むことが必要だから」だという詭弁を許してはならないでしょう。この間、企業利益は空前の増加を見せても、労働者の賃金は低く抑えられ、ホームレスへ転落する人が増加し、相対的に貧困層は増加傾向にあります。このような状況で更に消費税率を引き上げるなど、何が「最小不幸を目指す」でしょうか。民主党の言う『普通の人』というのは定職を持つ都市サラリーマンであり、それ以下の低所得者は切り捨てようとしているとしか見えません。
 それだけではありません。菅の消費税設計はむちゃくちゃです。税率を10%にする代わりに、年間所得が一定水準以下の世帯(これも200万円〜400万円などとぶれまくっていますが・・・)に全額還付するなど、まったく現実性がありません。税を一旦徴収し、それを年収を申告させて還付する、その事務手続きだけで一体どれだけの時間・人手・経費が生じると考えているのでしょうか?年収400万円のレベルになれば、納税者の半数程度になるといいます。そんなことならば、一般消費税は全廃し、贅沢品・奢侈品に対する高率な個別物品税を設定することが最も合理的でしょう。

 民主党政権が発足するために掲げた、普天間基地問題と一般消費税率に対する公約という重大な二つの政策を反故にしようと言うのならば、衆院解散・総選挙を経るべきです。そのためにも、この参院選では菅民主党を大敗させる事が必要だと考えます。

No.482 (2010/06/18)科学裁判と査読制度A 
自然科学における仮説

 さて、日本気象学会による論文掲載拒否事件の一審判決について、私たちはこれを不服として控訴しています。概要は既にこのコーナーのNo.479や裁判報告、控訴人準備書面(1)などで紹介したとおりです。

 今回は、一審判決文に現れている査読者Bの「仮説」に対する認識に絞って誤りを指摘しておきたいと思います。一審判決文で引用された査読者Bの査読意見は「仮説」に対して次のように述べています。


判決文7頁

(前略)「著者らの主張は,CO2濃度の増減のない状態に比べて0.6℃程度高温であることが,長期的なCO2濃度上昇の原因であるというものであるが,これは因果関係についての単なる仮説である。」と指摘した。(後略)


 では、自然科学分野における「仮説」とは何を意味するのでしょうか?この点についてWikipediaからその意味を紹介しておきます。


概説

別の言い方をするならば、何らかの実際の現象や規則性に出会ったものの、その現象や規則性が出現する仕組みや機序が知られていないような場合に、それを説明するために、人が考え出した筋道や推論の前提のことである。何らかの現象(事実)を説明することが出来るように考えて作った命題は、命題それ自体は事実に合致していることがわかるまでは全く真偽不明なので、あくまで「仮の説」なのである。

全称命題の形式で表された仮説は、実験・観察・調査などによって事実との合致を検証し続けられたり、その仮説によって別の新たな現象の予測にも成功するにつれて、しだいにより「正しい法則」などと人々から認知されるようになってゆく。

ただし、自然科学の領域においては、多くの検証を経て「真」として支持する人が多数派になった説が、後に反転して「偽」とされるようになってしまった事例も多々あるため、近年では「全ては仮説である」「科学の領域においては、あらゆる説明や法則を、あくまで仮説として扱うべきである」といった表現がされることがある。

自然科学の場合、ある実際の現象について、あり得る説明が仮説である。まず仮説を立て、次に検証のための実験系を考え、その結果によって仮説の正否を検証することになる。あるいは実験ではなく観察あるいは調査によって検証を行う場合もある。実際にはひとつの方法で仮説が十分に検証できるとは限らないので、さまざまな実験や観察を繰り返して仮説の確かさを検証し、理論付けを行うことで科学は進んでいく。


 Wikipediaの概説にあるとおり、「仮説」とは『自然科学の場合、ある実際の現象について、あり得る説明が仮説である。』とされています。つまり、ある現象を観察した場合、それを合理的に説明しうる論理的な考え方の筋道が「仮説」なのです。

 さて、自然科学の学会組織の存在理由とは、当該分野においてい自然科学的にいまだその現象の法則性が確定していない問題(あるいは過去に導かれた法則性と異なる事象が生じた場合も含む。)について、参加する研究者による多角的な視点からの「仮説」を検討し、より確からしい法則性を導き出すことです。法則性の確定している問題について学会組織で検討を加えるということは、論理矛盾であり、有り得ないことです。極論すれば、学会組織の存在理由とは「仮説」を検討することなのです。

 私たちは、査読者Bが私たちの寄稿した論文に対して『著者らの主張は,CO2濃度の増減のない状態に比べて0.6℃程度高温であることが,長期的なCO2濃度上昇の原因であるというものであるが,これは因果関係についての単なる仮説である。』と述べたことから、『このことは、査読者Bにとって、著者らの見解が「温暖化によるCO2 濃度上昇」という仮説(つまり通説に対する対立説)であることを認めたものにほかならない。』ので、『これにより、著者らは、査読者Bにも著者らの見解が対立説として認められたと理解し、掲載は確実になった、と判断した。』のです(控訴人準備書面(1)7頁)。
 査読者Bが私たちの論文の内容を「仮説」であると認識したということは、論文で示したデータないしそこから引き出された結論が現象に対する一つの論理的な解釈であることを認めているということにほかなりません。仮に、示したデータや結論が非論理的なものであるのならば、査読指針B「論旨や計算の誤りの有無」に照らして、誤りを具体的に指摘し、「仮説」とは認められないとすることが必要だからです。

 査読意見から分かるように、査読者Bは現在主流の「人為的に排出されたCO2による温室効果による地球温暖化『仮説』」の支持者であることはよく分かります。査読者Bは、2度目の査読意見書において「著者らは、第4図・第5図に示されているCO2 濃度の変化率は微分量であり、積分すれば元に戻ることから、『長期的傾向は除かれていない』と主張している。この主張自体は正しい」と1度目の査読の誤読(短期的現象で長期的現象を説明したという認識の誤り)を認めたうえで、私たちの論文の「仮説」が彼の信奉する「仮説」とは異なる内容を持つことを唯一の論拠として、論文の掲載拒否を編集委員会に答申したということです。
 この答申を受けた学会誌編集委員会は、本来ならば査読指針に従って、査読者Bの答申は、「仮説」同士の対立、つまり査読指針の言う「それ以外の参考意見」であり、却下すべきものでした。
 そこで、さすがに2度目の査読意見書の答申内容では露骨に「仮説」によって「仮説」を排除することになり学会規約に明確に違反することになるため、私たちの論文の掲載拒否は出来ないと考えた編集委員会は、査読者に3度目の査読意見書を書かせました。その中では、2度の査読経過をまったく無視した上で、再び私たちの論文が「両査読者が指摘するように、数年スケール変動における因果関係と、長期トレンドにおける因果関係が同じであるとする根拠はなく。原稿中ではその点について説得力ある論拠が示されていません」という論文内容を敢えて誤読することになることを承知の上で、掲載拒否通知を出したものと考えられます。

 最終的に編集委員会が採用した3度目の査読意見はあくまでも「両査読者が指摘するように、数年スケール変動における因果関係と、長期トレンドにおける因果関係が同じであるとする根拠はなく。原稿中ではその点について説得力ある論拠が示されていません」という内容でしたから、一審判決はこの誤読の問題に対する判断をすべきでした。
 ところが一審裁判では、被告学会誌編集委員会は「誤読したか否かについて問題にするまでもない」として、一切この問題に答えませんでした。そこで、東京地裁はこのままでは被告敗訴が決定的になるため、判決文では誤読の問題には一切触れずに「投稿者からみて科学的には異論が十分にあり得たとしても、拒否行為が相応の科学的根拠に基づく以上、不法行為は成立しない」としたのです。つまり、被告の「仮説」によって原告の「仮説」を排除することを適法と判断したのです。
 これは、おそらく被告も思いもしなかった内容であったと考えられます。被告学会誌編集委員会は、裁判所が科学的な主張に対する判断を行わないこと(つまり、論文の内容が短期現象を扱ったものか長期現象を扱ったものかなどの科学的な判断は行わない。)を前提に、編集委員会は正規の手続きに則り、査読意見を踏まえて論文掲載拒否を決定したことであるから編集委員会の対応には形式上落ち度はないという手続き論で争うつもりであったものと思われます(それ故、一審裁判において被告は「誤読したか否かについて問題にするまでもない」としたものと思われます。)
 これに対して、東京地裁は、被告の思惑通り、原告の主張する査読者・編集委員会の誤読についての科学的判断は一切行わなかった一方で、私たちの論文の主張する「仮説」と査読者の主張する「仮説」に言及し、双方に「相応の科学的根拠」があることを認定したのです。その上で、査読者や学会誌編集委員会の与する「仮説」によって私たちの「仮説」を排除したのです。正にこれは日本の裁判史上の画期的な判決(=自然科学の学会組織における科学論争に裁判所が介入した)であり、しかも致命的な誤りをもつ支離滅裂な判決です。
 つまり、東京地裁の一審判決は、自然科学の学会組織において、主流の「仮説」に対立する「仮説」は排除することが許されるということを認定したのです。これは、自然科学の学会組織の存在理由そのものを否定する判断であり、裁判所によって科学の内容が判断されることを示す内容だからです。

 控訴審の論点は、勿論、気象学会誌編集委員会の掲載拒否を排除することですが、より重要なのは司法による自然科学論争への介入という新たな問題を正すことでもあるのです。

No.481 (2010/06/14)科学技術を評価できない無能な報道

 

 大分合同新聞2010年6月11日朝刊に『今後30年の科学技術予測』という記事が掲載されました。
 これは、おそらく文部科学省科学技術政策研究所による報告書NISTEP REPORT No.140平成21年度科学技術振興調整費調査研究報告書『 将来社会を支える科学技術の予測調査/第9回デルファイ調査 』の内容を報道したものであろうと思われます。
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/rep140j/idx140j.html

 名称から分かるように、この調査は政府が主導して研究開発を行うための予算である『科学技術振興調整費』を投下すべき研究課題の調査という意味合いを持つものだと考えられます。

 以下に調査内容の項目を挙げておきます。

1.ユビキタス社会に、電子・通信・ナノテクノロジーを生かす
2.情報処理技術をメディアやコンテンツまで拡大して議論
3.バイオとナノテクノロジーを人類貢献へ繋げる
4.ITなどを駆使して医療技術を国民の健康な生活へ繋げる
5.宇宙・地球のダイナミズムを理解し、人類の活動領域を拡大する科学技術
6.多彩なエネルギー技術変革を起こす
7.水・食料・鉱物などあらゆる種類の必要資源を扱う
8.環境を保全し持続可能な循環型社会を形成する技術
9.物質、材料、ナノシステム、加工、計測などの基盤技術
10.産業・社会の発展と科学技術全般を総合的に支える製造技術
11.科学技術の進展によりマネジメント強化すべき対象全般
12.生活基盤・産業基盤を支えるインフラ技術群

 項目だけ見ても、政府の政策担当者は能天気な夢を追っていることがよく分かります。
 総じて、相変わらず工業的な技術を更に肥大化させ、環境破壊的な文明の増殖を前提にしていることがよく分かります。各分野の『研究者』達は、彼らの高価なおもちゃ遊びをさも重大な問題と言い立て、法外な研究予算に群がろうとするのでしょう。
 これを報道した記事を見るとマスコミ・報道機関の無能がよく分かります。『宇宙観光可能に』、『化石燃料に頼らない航空機が38年に』、『人間の思考を表示できる技術が32年に』、『マグニチュード6以上の地震の予知が37年に』、『高速増殖炉サイクル技術の普及が38年』、『有人月面基地の登場が40年』・・・などと愚かな項目が上げられています。
 無能なマスコミ・報道機関の連中には、このような見果てぬ夢、無益な技術開発のために貴重な物的・人的資源が無駄に投入されることに対する批判のかけらも見えないことに落胆するばかりです。

No.480 (2010/06/12)現実主義=「保守回帰」の菅政権

 鳩山政権が崩壊し、国会会期末を控え、参院選対応のための急造の菅新政権が発足しました。

 鳩山政権は、ある意味「お坊ちゃま」理想主義であり、当初の理念にはある程度期待させるものがありましたが、「お坊ちゃま」の甘さから、官僚機構の現実主義・米国盲従主義の壁、あるいは米国の圧力に立ち向かうだけの体勢を持たなかったことによって、迷走を繰り返し、「理想」と「現実」の狭間に押しつぶされて自己崩壊してしまいました。最大の弱点は、徹底的に国民の側に立ってそれを背景に、官僚機構あるいは米国と正面から戦うことが出来なかったからだと考えます。
 その後に登場した菅内閣はには二つの選択肢がありました。一つは鳩山政権崩壊の教訓に学び、徹底的に国民世論に耳を傾け、これを背景に官僚機構あるいは米国と正面から戦う道です。そしてもう一つは、鳩山政権の掲げた国民世論に基づく「理想主義」を排除して、かつての自民党保守政権が行ったような愚民政治を復活し、官僚機構と米国によって形作られている現実とうまくやっていく「現実主義」です。
 菅の所信表明演説から明らかなように、新政権は徹底的な「現実主義」であると自ら表明しました。総じて彼の所信はほとんどかつての保守政党政権と変わらないものになりました。外交は日米安保体制を機軸とし、経済拡大政策によって景気回復するとともに一般消費税増税による財政再建・・・。
 これではかつての自民党保守政権とほとんど変わるところがありません。変わったところと言えば、自民党が古い保守党であり、世襲的・土着的な議員が多いのに比べて、民主党は比較的新しい階層の出身者が多いと言うことでしょうか。新政権で際立つのは一段と『松下政経塾』という新保守主義の私塾の出身者が勢力を増したことでしょうか。
 以前からこのHPでは民主党は安保肯定、改憲勢力であり、本質的に保守政党の一派であると考えてきましたが、今回の政権によって更にそれが明らかになってきたように思います。民主党政権の登場は歴史的な政権交代だと無能なマスコミは騒ぎましたが、残念ながら実体は保守政権のモデルチェンジと言う程度のものでしかないようです。

 さて、もう少し違った角度から菅政権を見ておきたいと思います。鳩山にしろ菅にしろ彼らは元々自然科学系の大学の出身者です。そのような意味でこの二人には多少科学的な政策検討が可能なのではないかと言う期待を持っていました。しかし、鳩山・菅はすでに自然科学を忘れ去ったのか、はたまた元々無能な学生だったのかは不明ですが、まったく期待はずれでした。
 まず、資源やエネルギー利用効率の極めて低い太陽光発電をはじめとする自然エネルギー発電に象徴される『環境技術』の積極導入で経済を活性化するなどという愚かな政策を打ち出したことです。現在の工業生産を支える本質的な基盤であるエネルギー供給システムを、非効率的で資源・エネルギー浪費的なシステムに代替していけば、その負担はすべての工業生産分野に波及して、すべての工業製品において資源・エネルギー利用効率が低下し、生産コストが上昇し、世界市場における経済競争力が低下するのは自明なことです。
 次に、医療や福祉関連産業で経済成長するなどというのは有り得ないことが分からないようです。医療・福祉・教育分野とは、社会的な資源を一方的に消費する過程です。確かに現状では「雇用を創出する」可能性はあるでしょう。しかしそれは医療・福祉・教育以外の分野で生み出した社会的資源を投入することが可能だから出来ることなのです。生産的な産業分野無しで医療・福祉・教育「産業」が自立的に成長することが有り得ないことは当たり前です。

 菅の経済政策は非科学的であることから、彼の経済政策を実行すれば経済は程なくして破綻することになるでしょう。残るは、一般消費税を増税して貧しい国民からなけなしの金を掠め取って、財政収支を取り繕う道しかないでしょう。

No.479 (2010/06/01)科学裁判と査読制度

 さて、ご承知の通り、現在『人為的CO2地球温暖化仮説』を巡る二つの裁判が進行中です。本日は東大IR3S『地球温暖化懐疑論批判』名誉毀損事件の第3回口頭弁論でした。

 もう一つの裁判である日本気象学会の論文掲載拒否事件、学術講演会参加拒否事件は6月21日に控訴審が開始されます。この事件の焦点の一つは、自然科学の学会組織における論文掲載における査読制度の問題です。

 一昨日、この春退官された恩師のお宅に伺いました。その折、査読制度の問題について話す機会がありました。恩師は土木工学という応用自然科学分野を専門とする研究者ですが、学会誌の掲載論文についての査読者を務めたことがあります。
 恩師は、査読者の経験から、どうしても査読者の個性や持論が査読過程に、意図するか否かには関わりなく、反映することは避けられないから、査読制度は廃止して原則的に自由に論文公開を行うようにすべきだと思う、と述べられていました。
 それは、査読過程が公開の場で行われるわけではなく、いわば密室で行われるため、査読者同士が意見交換を行ったり、あるいは査読者以外の影響を受けている可能性が排除できないからだと言うものです。結果として、どうしても学会主流の意見によるバイアスのかかった査読判定が行われる可能性が排除できないからだと言うことです。
 まして、観測事実や実験計測に基づく研究報告であれば、その観測事実や実験方法に問題がなければ、これを報告する論文が査読によって排除される理由は存在しないから、査読は不要だということです。特に、意見が分かれる問題、微妙な判断が重要な問題であればあるほど、あらゆる可能性を考慮するためにも、査読というフィルターを排除することが望ましいという判断からです。
 私もこの意見に全面的に賛同します。おそらく、科学・技術に携わるものにとってこの判断は誰もが承認するものだと考えます。

 自然科学の学会組織の存在理由は、当該学会が対象とする分野の研究成果を学会の場に公開し、学会員で共有すると同時に、学会における論議を通してより確からしい事実を明らかにすることです。ですから、本来は学会員である誰もが自由に当該分野の研究成果を報告することが保障されるべきものです。
 学会組織における議論の科学的水準を維持しつつ、効率的な議論を可能にし、結果として当該学会の進歩を促進するために導入された制度が査読制度です。査読制度に本来求められる機能は、対象研究成果の重要性ないし新規性の判断と、科学論文として学会組織で議論の対象となり得る論理性を備えているかどうかの判断を行うと同時に、より効果的に研究成果を他者に理解できるような構成にするかについて助言することです。
 査読意見によって対象研究論文の掲載を拒否するという判断が許されるのは、対象研究が当該学会の研究テーマとしての重要性が極めて低い場合、あるいは既に同様の報告が行われている場合、データの信頼性が低い場合(データ捏造を含む)、非論理的で科学的な検証が出来ず自然科学の議論の対象になり得ない場合など、極めて限定的なものなのです。
 しかし、査読者自身が専門分野の研究者であるため、意識的か否かは別にして、対象論文テーマに対する査読者の個人的な見解を査読意見から完全に排除することには困難が付きまといます。学会組織が選任する査読者は、往々にして学会組織主流の見解を反映する場合が多く、査読者の権限を大きくすることは、革新的な研究成果と対立し、結果として学会組織を硬直化させ、進歩を妨げる危険性が否定できません。
 そこで、査読制度を健全に運営するために、査読者に対する権限を限定するために査読における『指針』を定め、査読者の意見が必要以上に重視されないように制限しているのです。

 具体的に、日本気象学会が自ら定めている査読指針から、主要な部分を以下に紹介します。


2.査読者の役割

 査読者の役割は,論文掲載の可否や改善すべき点の有無について,専門家の立場から率直に意見を述べることです.編集委員会は,その意見を尊重しながら掲載の可否を判断し,あるいは著者に改稿を求めます.ただし,査読意見と異なる判断をする場合もあり得ることをご承知おき下さい.
 主な審査対象としては以下のことが考えられます.
・研究の学術的価値・新規性
・文献引用の過不足
・論旨や計算の誤りの有無
・記述の分かりやすさ・まとまり
 編集委員会からの要望を以下に列記しておきます
・ 「論文掲載のための必要条件」と「それ以外の参考意見」とを区別するよう心がけて下さい(査読者が著者の見解に同意できない場合には,論文掲載後に読者の立場からコメントを「短報」として投稿して頂き,誌上で議論する方法もあります).
・改稿指示は具体的に書いて下さい.単に「分かりやすく書け」というような抽象的な指示は避けて下さい.
・大幅な追加解析・再計算など,全面的な再作図の要求は,特段の必要性がない限り避けるようにして下さい.
・刺激的あるいは高圧的な表現は避けて下さい.著者が若い人であっても,研究者として対等の立場で扱って下さい.
・査読が遅れ,著者に迷惑をかけることがないよう,査読期限を厳守して下さい.


 日本気象学会の査読指針は妥当なものだと考えます(特に重要な点は赤で表記しておきました)。指針で明らかなように、審査すべき点は客観的な検証が行われるように明確に指定されています。
 また、査読者の意見が過大に評価されないように、直接対象論文の内容に対する評価ではない、対象論文テーマに対する査読者の個人的な見解について、『編集委員会からの要望』として、特に『「論文掲載のための必要条件」と「それ以外の参考意見」とを区別するよう心がけて下さい(査読者が著者の見解に同意できない場合には,論文掲載後に読者の立場からコメントを「短報」として投稿して頂き,誌上で議論する方法もあります).』と注意書きが記されています。これは極めて至当な判断だと考えます。

 さて、現在日本気象学会を被告として裁判になっている問題は、槌田・近藤による『大気中CO2濃度増は自然現象であった T.その原因は気温高である』という論文が日本気象学会編集委員会によって掲載拒否された事件です。ご承知のように、日本気象学会を始め、世界的に主流となっているのは『人為的CO2地球温暖化仮説』であり、これと真っ向から対立する内容の論文です。
 詳細については裁判報告を参照していただくとして、概要を紹介しておきます。日本気象学会編集委員会は、私たちの論文を「数年規模のデータから引き出せる因果関係を、長期的な規模のデータの因果関係と同じであるとするが、それには説得力ある論拠が示されていない」という理由で掲載の拒否を行いました。私たちの分析は、34年間に及ぶ分析対象期間における気温と大気中CO2濃度の関係をまとめたものであり、編集委員会が述べるような数年規模のデータから引き出せる因果関係は一切扱っていないことから、事実誤認による掲載拒否と言う判断が無効であることを主張しました。
 これに対して、裁判所の判断は(私たちに示された掲載拒否理由である「数年規模のデータから引き出せる因果関係を、長期的な規模のデータの因果関係と同じであるとするが、それには説得力ある論拠が示されていない」に対しては一切判断を放棄したまま)、『被告の編集委員会に広範な専門的な裁量が認められるべきである。』とし、その判断根拠となった査読意見について『高度な専門性に基づく相応の科学的根拠』を認め、掲載すべきではないとした査読意見に従った編集委員会による掲載拒否は理由の如何にかかわらず、妥当であると判断しました。
 さて、では裁判所が認定した査読意見における『高度な専門性に基づく相応の科学的根拠』とは具体的には何なのでしょうか?それは私たちの論文におけるデータ分析とは関わりの無い、「気温と大気中CO2濃度の関係は人為的CO2地球温暖化仮説が正しい」とする『査読者の個人的見解』なのです。査読指針に従うならば、この査読者の見解は「論文掲載後に読者の立場からコメントを「短報」として投稿」すべき内容であり、「論文掲載のための必要条件」ではないのです。
 裁判所がどう判断するかは別にして、今回の判断が認められるならば、日本気象学会誌編集委員会ないしその意向を受けた査読者による学会主流の見解に対立する革新的な内容を持つ論文は、如何に合理的な内容であっても日本気象学会において論文掲載することは金輪際あり得ないことになります。これは、日本気象学会規約第4条に定められた目的「この法人は、気象学の研究を盛んにし、その進歩をはかり、国内及び国外の関係学会と協力して、学術文化の発達に寄与することを目的とする。」に反するもので、編集委員会の背任行為に他なりません。

 この裁判を通じて痛感したことは、裁判所はもとより、弁護士を含む法曹界の理論体系と自然科学の理論体系がまったく異なることに大きく影響されているように感じました。極論すれば法体系と言うものは、判断基準が確立されていることを前提に、これを演繹的に用いるのに対して、現象観察に基づく自然科学は本質的に帰納的な過程を通して認識を構築していくものです。
 今回の一審における裁判所の判断は、彼らの演繹主義的な理論体系のアナロジーよって、当該分野の専門家である「高度の専門性を有する」査読者による標準的な現象解釈に重きを置いて、これに照らして革新的な意見は排除されるべきものとしたのではないでしょうか?

 確かに裁判所にとって今回の事件は厄介で難しい判断を含むことは否定しません。しかし、自然科学や技術が政治や社会制度と密接に関わりあう事案は今後増加の一途をたどると考えられます。そのような中で、今回の事件の被告である日本気象学会のように学術組織であると同時に半ば利権団体化した組織とその会員との間の自然科学を巡る対立も激化することが予想されます。
 願わくは、控訴審では裁判所が学会規約あるいはそれを実現するために定められた査読指針に厳格に照らして、自然科学における学会組織の暴走を許さない、賢明な判断を下すことを期待したいと考えます。

No.478 (2010/06/01)『もんじゅ』その後・・・

 その後の『もんじゅ』関連記事をまとめておきます。わずか1ヶ月足らずの間にこれだけ計器の不調が繰り返される『欠陥発電』をいつまで稼動させるつもりでしょうか?早急な全面運転停止を望みたいと思います。


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