No.026 (2001/12/04)商用原子炉の廃炉

 国内商用原子炉第一号である、日本原電の東海発電所(炭酸ガス冷却型/電気出力16.6万キロワット)の解体作業がこの12月から始まります。
 この原子炉は1966年7月に操業を開始し、1998年3月に既に運転を停止しています。32年間の寿命でした(稼働率を考えると、正味の操業期間はどの程度なのでしょうか・・・?)。これから始まる解体作業は、原電の工程表によりますと終了するのは2017年、実にまる15年後になります。
 このような長期間を要するのは、いかに原発が扱いづらい発電システムであるかを象徴しています。それどころか、放射性廃棄物の最終的な処分技術さえ未だに確立していない今日、この原電の工程がそのまま実行できるとは考えられず、実際にはより長期間を要すると考えるべきでしょう。
 廃炉の解体処理実験は日本原子力研究所(原研)東海研究所の動力試験炉(JPDR)で行われています。1981年から解体に着手し、実際の解体は86年から開始され、96年に終了しています。しかし、解体作業が終了しても、それで全てが終わるわけではありません。原研では放射性廃棄物のうち、極低レベルのものは敷地内に埋設し、50年間程度管理する実験を行っています。その他の放射性廃棄物は処分方法が決まらないまま、施設内に保管されています。そのほかにも莫大な『非』放射性廃棄物が残されることになります。このJPDRでは、24,440トンの固体廃棄物が発生し、解体費用だけで230億円を要しました。放射性廃棄物の管理費を加えると途方もない処理費が発生することになります。
 今回の東海発電所の原子炉は、商用の原子力発電所としては極小規模なものですが、それでも177,300トンの固体廃棄物が発生すると見込まれています。最終的な安全な処理方法の確立のみならず、処理費の経済的な負担を一体どうするのかも、大きな問題です。
 明らかなことは、原発の発電コストは極めて高価なものであること、放射性廃物による環境汚染が避けられないということであり、私たちは、将来世代のために少しでも早く原子力エネルギーから脱却すべきであるということです。


<東海発電所 廃止措置計画の概要>

1. 廃止措置の全体計画
(1)計画の概要
・ 東海発電所の原子炉、附属設備及び建屋を解体撤去し、更地の状態に復することを基本とする。
・ 原子炉領域については、約10年間の安全貯蔵の後、解体撤去する。
・ 原子炉領域以外の附属設備等は、安全貯蔵期間開始時点から順次解体撤去する。
・ 廃止措置は、長期(約17年間)に亘る計画であるため、工程を(2)の通り分割し進めていく。

(2)工 程                   
第1期工事 平成13年度〜17年度(約5年間)
:準備工事、使用済燃料冷却池洗浄・排水、燃料取替機・タービン他附属設備撤去 等
第2期工事 平成18年度〜22年度(約5年間)
:熱交換器他附属設備解体 等
第3期工事 平成23年度〜29年度(約7年間)
:原子炉本体解体、各建屋解体 等

(3)着手予定時期
平成13年12月4日

(4)放射性廃棄物の処理処分方法
・ 解体で発生する放射性廃棄物は性状に応じて減容、固化等の処理後、容器に封入し、最終的には埋設処分する。
・ 埋設処分先は第3期工事(原子炉本体等解体工事)前までに確定することとし、確定できない場合は、安全貯蔵期間を延長する。
・ 第1期及び第2期工事で発生する放射性廃棄物は少量であり、既設の貯蔵設備で第3期工事を開始するまで一時保管を行う。

2.第1期工事の計画
・安全貯蔵措置
主ガス弁等の閉止などの系統隔離により原子炉領域の安全貯蔵措置を行い、期間中は安全貯蔵領域の解体は行わない。
・解体準備工事
解体工事に必要な電源設備改造などの整備工事を実施する。
・使用済燃料冷却池洗浄・排水工事
使用済燃料冷却池内の水中機器を洗浄し撤去した後、冷却池壁面を洗浄しつつ排水する。
・附属設備撤去工事
燃料取替機・タービン他附属設備撤去などを実施する。
・放射性廃棄物の処理
第1期工事で発生する放射性廃棄物は僅かであり、容器に収納し既設の貯蔵設備に保管する。

3.廃止措置に要する費用
・見積り総額は、約930億円。


No.025 (2001/11/28)気になること、あれこれ・・・

 だいぶご無沙汰してしまいました。

 この間、アメリカのテロ報復に全面協力する小泉政権下の日本の国内では、「超」憲法的自衛隊の海外派兵がいともたやすく実現してしまいました。民主党という政党は、日本国民の意見を代表する党ではなく、「アメリカ民主党」を模倣する政党に過ぎないことが、明らかになりました。このホームページではこれ以上この問題に深い入りするつもりはありませんが、最後に少し触れておきたいと思います。
 アフガニスタンをはじめとするイスラム文化圏において重要な断食月にもかかわらず、アメリカを中心とする国連安保理の常任理事国である国の軍隊によるアフガニスタンの人々に対する殺戮が行われ、同時にその一方では国連による難民救済という「人道的」な援助をするという状況は、どう見ても異常です。国連は既にアメリカないし西欧先進国グループの傀儡になっています。
 更に、数年間にわたって(例えどのような政策をとっていたにせよ)アフガニスタンの政権を掌握していたタリバン政権に対する反政府勢力を利用しながら軍事的に転覆し、まだ交戦中にもかかわらず自分たちに都合の良い政権の樹立を既に画策している状況は、民族自決権を蹂躙した行為だと思います。アメリカが利用した北部同盟という反政府組織は、タリバン政権から見れば正に『テロ組織』ではないですか?アメリカの言う「あらゆるテロ組織の壊滅」など画餅にすぎないのです。虚飾を取り払えば、アメリカに敵対的な考えを持つ組織ないしは国のことをテロ組織ないしはテロ支援国家と呼んでいるに過ぎません。アメリカの毒牙は次にイラクとスーダンに向けられるのでしょうか・・・。
 政治・経済的背景はともかく、アフガニスタンからの映像を見るにつけ、その荒廃した国土、更には地雷、不発弾の散乱した状況は、生命サイクルを維持するにはあまりにも大きなダメージを受けているように見えます。何とか生態系の回復ができると良いのですが・・・・。

 さて、京都議定書の発効がアメリカ抜きで行われることになりました。内容は、二酸化炭素排出権売買や森林による吸収量の計上等、実態を無視した辻褄合わせであり、しかも罰則もなく、その効果はほとんど期待できるものではないようです。まだまだ人間は環境問題に対して本気で向かい合うつもりは無いようです。
 有明海では、また今年も海苔の色落ちが大規模に発生しているようです。諫早湾干拓の影響、有明海に注ぐ河川の水質悪化の複合的な要因による現象だと思われます。来年(?)には堤防を長期間開放しての影響調査が行われるようですが、いずれにしても、今後の大規模開発を抑制するための貴重なデータが得られることになると思われます。われわれはこの出来事から大規模開発について何を学ぶべきか、よく考える必要があるでしょう。
 ところが、すぐそばでは川辺川ダムの建設の手続きが最終段階に来ています。有明海のケースのように、後になって問題が起きてから振り返るのでは、またしても繰り返しで情けなくないでしょうか?国土交通省の環境への取り組みもまだまだ本気ではないようです。
 メタンハイドレート採取の実証試験が始められるそうです。メタンは確かに比較的きれいなエネルギー資源だと思います。しかし、更なるエネルギー供給の増加は、環境問題の悪化につながる事は明らかです。また、海底で安定しているメタンハイドレートを大規模に開発することによって、不安定化し、予想外の場所で崩壊が起こる可能性は避けられません。採取による海洋生物環境の破壊、また大気中に放出されたメタンガスは強力な温室効果ガスでもあります。環境問題という視点から、その得失、危険を冷静に判断しなければなりません。

No.024 (2001/10/13)テロとABC兵器と環境問題

 アメリカのテロ報復を口実としたアフガニスタン侵略戦争が始まってしまいました。ブッシュ氏のアフガニスタン以外の国に対する攻撃もありうるという発言は、この戦争が、ビンラディン氏を拘束するための手段だという当初の理由が建前に過ぎなかったことを示しています。テロ報復を口実に、アフガニスタンにアメリカの傀儡政権を作ることが大きな目的であることが明らかになってきました。このような侵略戦争が『自衛権の行使』として許されるならば、あらゆる戦争行為は自衛権の行使になってしまいます。
 また、テロを根絶するための戦いという目的については、既に、このアフガニスタンへの侵攻が全く無意味であることが明らかになりつつあります。米軍の攻撃によるアフガニスタンの非戦闘員の死者が増えるに従って、イスラム圏の中に、確実にアメリカの侵攻に対する反感が蓄積されており、ことにパキスタンにおいては現政権の基盤すら危うくなりかねない状況になっています。イスラム圏の中に、『アメリカに対するテロ』の要因は確実に大きくなっていると考えられます。
 そのパキスタンの反政府デモの中で、『小泉はアメリカの犬』というプラカードが見られたという新聞報道がありました。当然予想されたことですが、明らかにアメリカに反感を持つイスラム圏において、日本が新たなテロの標的になる可能性が確実に高まっていることを示しています。小泉政権は、日本国民の安全に対する責任を全く省みず、ひたすらアメリカを頂点とする『西欧先進国』に追従することだけに躍起になっています。
 国会審議を聞いていて、小泉氏には今回の問題の背景や原因について冷静に判断する気持ちもなければ、その能力さえないことに愕然としてしまいました。アメリカのアフガニスタンに対する侵略行為を、紛争を解決する手段として武力の行使を放棄している日本が支持し、それだけにとどまらず後方支援をするための法律をろくに審議も行わずに作ろうとしています。冷静な分析・判断能力の欠如した小泉氏に政権を任せるのは極めて危険だと思います。

 前置きが長くなりました。この数日の報道によると、もしかするとアメリカにおいて炭疽菌を用いた生物兵器によるテロが行われている可能性があるということです。
 テロを行う場合、安上がりであることや心理的な恐怖心をあおるという意味で、生物兵器(B兵器)や化学兵器(C兵器)は非常に使用される可能性の高い兵器です。日本においても数年前のオウム真理教によるサリンによる都市型のテロは記憶に新しいところです。
 BC兵器は、毒性を強くした細菌やウイルス、あるいは有毒な化学物質ですから、これを大量使用すれば生態系をかく乱することになり、重大な環境問題になる可能性があります。とりわけ、日本のように人口密度の高い地域でこうした兵器が使用された場合の影響は極めて大きなものになるのではないかと予想されます。生物兵器の場合、自然環境中においてどのような挙動をとるのか、急速に繁殖していくのか、あるいは短期間で淘汰されていくのか・・・?予測がつかないだけに非常に恐ろしい兵器です。
 さて、問題は残りのA兵器=核兵器です。一般的には、技術・設備面や資金面などから考えて核兵器をテロに使用する可能性は小さいと考えられます。しかし、日本国内には『固定された核弾頭』とも言うべき原子力発電所や再処理工場・核廃物貯蔵施設などが数多く存在しています。もし、アメリカの貿易センターと同じようなテロが発生したとしたら・・・。特に日本の原発は海岸部に建設されているため海から狙われた場合、全くの無防備といってよいでしょう。
 日本のように周りが海に囲まれた小さな島国で、原発・首都機能を含めた重要施設が臨海部に集中するところでは、テロを防止することは国中をハリネズミのようにしたところで限界があります。むしろ現実的なテロ抑止政策は、あらゆる軍事同盟から離脱し、自衛隊を武装解除した上で、あらゆる国に対して出来る限り不干渉・中立の立場を堅持することだと考えます。
 今は、ABC兵器によって日本の自然環境が汚染されないように祈るのみです。

No.023 (2001/10/03)軍靴の音が・・・

 環境問題には直接関係あるかどうか、迷ったのですが・・・。管理人の特権ということで、今回のアメリカ合衆国におけるテロ事件について一言触れておきたいと思います。

 今回のアメリカ合衆国(以下アメリカと略記)を標的としたテロ事件の背景について分析しておく必要があります。賢明な読者諸氏にはいまさら繰り返す必要もないと思いますが・・・。今回のテロ事件は、イスラエルとパレスチナを中心とした中東において、アメリカが、とても『正義』とは呼べないイスラエル支援を繰り返してきたこと、中東の石油供給地帯の諸国の国家体制をアメリカに都合よいものにするために執拗に軍事行動を含めた圧力をかけてきたこと、記憶に新しいところでは湾岸戦争において多国籍軍が過剰な攻撃を行い、目的遂行のためには民間人をも平気で殺戮してきたことなど、イスラム圏に対するアメリカの長年にわたる介入が主要な原因です。
 アメリカは、イスラム過激派による『自由』に対する『無差別テロ』だと強調してますが、これは完全に問題のすり替えです。今回のテロは、長年にわたってアメリカが行ってきたイスラム圏に対する介入に対する『報復』であり、無差別ではなく、明確に『アメリカを標的とした』テロです。
 いかなる理由があろうと、テロそして軍事力を含むあらゆる暴力行為が許されるとは考えません。しかし、これまで中東のみならず、世界各地においてアメリカが行ってきた暗殺や謀略、侵略戦争を国連をはじめとする『国際社会』が正当に裁く能力がない現状は、強大な軍事力・経済力を背景とした影響力を持つ国の謀略・暴力行為は容認され、そうでない国の暴力行為は非難されるという、全く方手落ちなものです。
 今行われようとしているアメリカの報復は、テロが許されないのと同様に許されてはならない行為です。もし今回のアメリカの報復を『国際社会』が容認するようなことがあれば、一旦はアメリカの『勝利』に見えたとしても、アフガニスタンをはじめ、イスラム圏にアメリカを中心とする『国際社会』に対する恨みを更に深く刻み付けることになるでしょう。これはテロの起こる要因を強くすることはあっても、テロをなくすことはないでしょう。
 ここで『国際社会』とは何なのかを考えておくことが必要です。現在日本の報道で使われている『国際社会』とは、現在の世界を軍事力と経済力とによって牛耳っているアメリカを頂点とする、資本主義経済の中で勝者となっているごく一握りの国々の謂いに過ぎません。日本の視線はこうした国々にしか向けられておらず、大多数の国々は全く見えていないといってよいでしょう。G8だとかサミットだとか、その表現自体極めて傲慢なことに気付かなければなりません。
 テロの起こるもう一つの大きな原因は、こうした『国際社会』、具体的にはアメリカや西欧諸国あるいは日本などの利益代表としてのWTOの進める資本主義的世界市場経済が貧しい国の産業を破壊し、ますます貧しくさせていることです。こうした国々は同時に、環境問題の主要な原因を作り出していることも銘記しておくことが必要です。

 さて、このテロ事件に対する、情動的軍国主義者であり、アメリカ盲従主義者である小泉氏の政権の動きは全く的外れなものです。前述の通り、これはアメリカのご都合主義の正義と横暴に対する報復としてのテロです。決して『自由一般に対する攻撃』などではありません。現状では、日本が直接イスラム過激派によるテロの対象になる可能性はほとんどありません。しかし、ここでアメリカに荷担してアフガニスタン侵攻の後方支援を『目に見える形』で行えば、それはイスラム過激派にとって、日本が明確にテロの標的になることを意味します。
 小泉氏の今回の対応は、アメリカというご主人様に頭を撫でてほしいばかりに、国民をテロの危険にさらすという、国民の付託を受けた政権担当者としてはあまりにも拙速で、誠に愚かな選択です。小泉氏の言動を聞いていると、日本は本当に主権を持った独立国なのだろうか?と思います。平和憲法を持つ国として、本当に国際社会(括弧つきではなく!)の中で誇れるような行動とは、アメリカに無謀な軍事的報復を止めさせ、少なくとも報復には一切協力せず、問題の根本的な解決を目指す話し合いを実現する努力をすること以外にはありません。
 さて、実際の政府の対応を見ると、超法規的な自衛隊の行動、時限立法という条件をつけたものの、とても自衛の範囲には収まらない自衛隊の海外派兵を含む明らかに憲法を逸脱した法律の制定を目論むものです。こうした小泉氏の『国民の圧倒的な支持』を背景とした軍国主義化の流れは、ナチスドイツの創生期を髣髴とさせるものです。
 テロという暴力行為を戦争という暴力行為で押さえ込もうというのは論理矛盾です。本当に世界から暴力をなくすためには、武器の製造・輸出の全面的な禁止と、世界各地に展開しているアメリカを中心とした先進国がすべての軍隊を撤収することが問題解決の前提です。正に日本の平和憲法を普遍化することに努力することが日本に課せられた義務だと考えます。

 少し長くなりましたが、最後に軍備、あるいは戦争行為を環境問題から見ておきます。
 まず、軍需産業に投入されるあらゆる資源は、全くの浪費です。人間社会にとってこれほど非生産的で無意味な工業製品は他にないでしょう。人を殺し、互いに破壊しあうことだけが目的の装置など他に存在しません。また、アメリカをはじめとしてNATO主要国、ロシアなどは武器を商品として輸出・販売することによって儲けています。これは商行為としても最も恥ずべき行為だと考えます。これらの国々が、『平和』を口にすることは、正に二枚舌としか言い様がありません。平和を望むのならば、まずこれらの国々が武器の輸出・製造を止めることが最初にすべきことです。環境問題の視点からも、資源の節約となり、歓迎すべきことです。
 また、戦闘行為は表土や社会基盤を破壊します。工業化社会において顕在化してきた環境問題を唯一改善する生物資源の利用を著しく困難にすることになります。

 アメリカが、馬鹿げた戦闘行為を含む軍事的な報復合戦から一日でも早く正気に戻るように、私たちは意思表示をしていかなければならないと思います。まず、そのためには小泉政権を一日でも早く退陣させることが当面の課題だと思います。

No.022 (2001/08/07)燃料電池車の実証実験

 共同通信社による燃料電池車の実証実験に関する記事を引用しておきます。

<国内・海外のニュース 夜− 3 共同通信社配信>    
2001(平成13)年8月3日(金)

経産省が水素スタンド 燃料電池車普及へ基盤
 経済産業省は3日、燃料電池車の燃料となる水素を供給するスタンドを首都圏に設け、水素供給インフラ(基盤)の本格的な研究に乗り出すことを明らかにした。自動車メーカー各社が進める燃料電池車の走行実験を側面支援し、各社のデータを集約して分析を効率化。米国や欧州各国政府などとも情報交換し、世界規模で燃料電池車の実用化を加速させたい考えだ。水素スタンドは(1)天然ガス貯蔵基地の隣接地にプラントを設置し天然ガスから水素を取り出す(2)水素工場から直接ガスを供給するなど複数方式を検討。来年度から京浜地区を中心に3カ所以上に設け、3年かけてコストや安全性など幅広い観点から最適な供給方式を実証する。

 燃料電池については、このホームページでも検討してきましたが、直接発電するプロセスでは水素と酸素を反応させることによって電気を得るため、排出されるのは廃熱と水だけという『クリーン』なエネルギー供給技術です。しかし、この燃料電池というシステムを成立させるためのインフラを含めたトータルなシステムとして、極めて資源浪費的であり(=物エントロピーを大量に増加させる)、工業生産規模の拡大が避けられないことを指摘してきました。工業生産に起因する環境問題を、更なる工業生産システムの拡大によって克服しようという試みは、基本的なところで理論的に成り立たないことに気付かなくてはなりません。ここでは、燃料電池や太陽光発電、風力発電などの『新規の工業的な環境技術』に対する国家の財政的な補助について考えてみることにします。
 このホームページで繰り返し触れてきたように、環境問題の本質は、工業生産システムが主に地下資源を消費して、これを生物環境中に一方的に廃棄して再利用できない汚染を蓄積することによって、生態系の物質循環を阻害・撹乱すると同時に、生態系の物質循環の再生能力以上の生物資源を収奪的に利用し、さらに生態系の物質循環の場を直接破壊していることです。
 環境問題を本質的に改善するためには、地球の生命活動の定常性の基盤にある生態系の物質循環を回復することであり、これを阻害している原因である工業生産システムを縮小することです。
 『新規の工業的な環境技術』に対する国家の財政的な補助は、現在の工業生産システムに新たな分野を創設して、工業生産システムを更に拡大することであり、結果として環境問題を更に深刻な物にしてしまいます。また、国家補助による技術開発は、コスト意識が希薄になるため、結果として資源・コスト浪費的な技術が許されてしまう可能性が高くなります。環境問題を改善することを前提とした技術において、資源・コスト浪費的というのは致命的な欠陥です。国家補助に限らず、環境に良い技術だから、少々コストが高くついて、資源浪費的でも許されるという認識は、環境問題の本質を全く見失った議論です。
 環境問題を克服するための国家政策は、環境問題の原因である工業生産システムに対して、厳正な規制を加えることによって工業生産システムを抑制的にコントロールすることに徹するべきではないでしょうか?規制を満足するための技術開発は、必然的に実質的なコストの削減が必要になり、結果として資源節約的な技術になる可能性が高いと考えられます。

No.021 (2001/07/31)温暖化防止の茶番劇

 去る7月23日に、ボンで開催されていた気候変動枠組み条約第6回締約国会議で運用規則の主要部分が合意されました。
 このホームページでは、この条約の最も基本的な認識である『二酸化炭素の増加による地球温暖化』という理論に対しては科学的な裏付けが十分ではないことを指摘してきました。しかし、二酸化炭素の排出量削減自体は、現在の工業化社会の主要なエネルギー資源である石油をはじめとする炭化水素燃料の使用量の削減、ひいては工業生産規模の削減を意味するという文脈からは、非常に大きな積極的な意義があることも事実です。
 先進工業国の中で、米国と日本は最も二酸化炭素排出量削減に積極的でない国だということが世界的に明らかになりました。日本の主張する森林による二酸化炭素の吸収量を「工業的に排出される二酸化炭素の排出量から差し引く」という主張は、非論理的です。また、先進国による排出権の買取や、発展途上国に対する技術協力によって排出量を低減するなど、もともと非常に抜け穴の多い条約でした。発展途上国に対する技術協力の中で、幸い認められませんでしたが、日本の主張した原発の輸出などは、一体何を考えているのかと疑いたくなるものです。
 米国・日本の不真面目さはさておき、ヨーロッパ各国の自然エネルギーへの転換による二酸化炭素排出量削減というシナリオも、冷静に考えるとかなり無理のあるものです。このホームページでも触れていますが、自然エネルギーへの転換は工業生産規模の拡大なしには実現することはできません。自然エネルギーへ転換することによってエネルギー供給分野、主として発電システムにおいて「燃料」として消費される石油消費量は『もしかすると』減るかもしれませんが、工業生産システム全体で消費される石油の量はむしろ増える可能性が高いと考えられます。
 ヨーロッパ諸国にしても、米国・日本より先行している環境技術という分野で世界市場の主導権をとることによって、『持続的な経済成長』を目指しているというのが本音なのかもしれません。
 このような背景から、今回の締約国会議は、当初から実質的な二酸化炭素排出量の削減という目標は形骸化しており、国際政治の駆け引きの材料としての色彩が濃くなっていました。まとまった内容は、ほとんど形ばかりで、実質的な効力はほとんど期待できない骨抜きのものになってしまいました。

 一体いつになったら環境問題に対して本気で取り組みが始まるのでしょうか?

No.010 (2001/06/19)環境教育を考える

 新教育課程の中で、「総合学習」を拡充する傾向にあるようです。新学習指導要領、総合学習についてのいろいろな問題点があると思いますが、その問題はひとまずおき、総合学習の中の一つの柱となると思われる、「環境教育」について、考えてみたいと思います。
 人間の社会の生産システムの改変を伴う環境問題の抜本的な改善には数世代に及ぶ時間が必要だと考えられます。こうした観点から、次代を担う子供や若い人たちに対する啓蒙活動は非常に重要だと思います。その中で、義務教育、あるいは高等学校の教育場面における環境教育の成否は大きな要因になると考えられます。
 既に、このホームページでも扱ってきたように、環境問題の現象としての背景を正しく知るためには、本当の意味での「科学的な思考」、「論理的な思考」が必要です。ここで、「本当の意味での」と断ったのは、残念ながら今日の科学に対する認識が論理的な思考から「信仰」へ変質している状況があるからです。
 学校教育の総合学習の中で、環境教育が取り上げられることは時宜を得た判断だと思います。しかしながら、問題はその中で一体何を教えるのかという中身の問題です。これを誤ると、環境教育自体が環境問題の解決のためのマイナス要因になる可能性もあり、両刃の剣であることを銘記しておく必要があるでしょう。
 新教育課程の中で気になるのは、総合学習が導入される反面、総授業時間の削減とあいまって、環境問題の理解のために必要だと考えられる基礎的な理数科教育を通した論理的な思考訓練に割かれる時間が減少することです。
 勿論、これまでの理数科教育には多くの問題があったと思います。受験のため=テストにおいて得点差をつけるための、あまりに難解でひねくれた問題、そしてそれをパターン化したハウツー的な解答技術を教えるために割かれる時間があまりにも多かったのではないかと思います。
 私たちが現実の社会で必要とされる物事に判断を下すための論理的な思考とは、どちらかといえば、いろいろな現象を帰納的に整理し、その背景にある事実に到達することだと思います。現在の理数科教育では、原理が導かれる=現象を理解する帰納的なプロセス、が軽視され、与えられた原理・公式から演繹的に解を求める技術の習得にあまりにも力点が置かれすぎているように思います。
 そして、問題の環境教育です。学校教育の一般教養としての環境教育で一体何を教えるのかは重要な問題です。環境問題は、現象としての自然科学的な認識と、それを引き起こしている人間社会の人文科学的な認識の双方が必要な学際的な問題ですから、「総合学習」にはふさわしいテーマだと思います。学校における教育は、実社会において有益な情報を取得することが大きな目標だと思いますから、環境問題は環境教育の中の重要なテーマだと考えます。
 私は、環境教育には直接関わっていないので、どのような目的で、どのようなテーマで行われている(あるいは行おうとしている)のか、よく分かりません。教育関係に携わっている方がいらっしゃいましたら、ご意見や実践についてのレポートをお寄せいただければ幸いです。

No.009 (2001/05/28)プルサーマルを考える

 5月28日に、新潟県刈羽村で、既存の軽水炉でウランと再処理されたプルトニウムの混合燃料を使った原子力発電(プルサーマル)の賛否を問う住民投票が行われました。投票結果はご存知のとおり、反対が賛成を上回りました。

 日本の原子力政策を考える場合、これを正当化している建前は、エネルギー資源小国の日本が安定的なエネルギー供給をするために核燃料サイクルを確立するというものです。既に本論でも述べたとおり、日本の原子力政策は、究極的には核融合炉の実用化であり、それはさらに太陽光発電への橋渡しと位置付けられていました。
 核融合炉の前提としては、現在の軽水炉を経て、その使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、これを高速増殖炉で繰り返し利用する、いわゆる核燃料サイクルの確立が必要とされていました。しかしながら、「もんじゅ」の事故を引き合いに出すまでもなく、この分野で最も進んでいると言われていたフランスのスーパーフェニックスの事実上の開発断念に見られるように、高速増殖炉による発電技術の開発は事実上頓挫しました。まして核融合炉の実用化など夢物語です。
 このように、日本の原子力政策は、全体から見ると、その入り口の段階でほとんど破綻しています。
 しかし、原子力政策をエネルギー政策の一つとみた場合、その破綻は、既に「実用化」されている軽水炉、いわゆる原子力発電の段階で明らかです。発電段階における資源(石油消費量)対発電量効率から見て、火力発電よりも明らかに優れた発電方式ですらありません。これは同時に、「CO2排出削減のために原子力発電の推進」と言う大義名分の根拠が崩れていることを示しています。更に、再処理、核廃物の保管処理等に使用される資源・エネルギー量も含めると、とんでもなく発電効率は悪くなります。
 このように、純粋にエネルギー技術の一つとしてとしてみるだけでも、原子力発電は火力発電よりも明らかに劣った技術です。更に、原子力発電から出る廃物は、放射能を含み、極めて毒性が高くしかも扱いづらい廃物です。これは将来的に地球環境に重大な悪影響を与える可能性を孕んでいます。特に使用済み核燃料の再処理は、核廃物をいっそう取り扱いにくいものにしてしまうので、行うべきではありません。
 再処理は、高速増殖炉が実用化することを前提に行われていたわけですが、高速増殖炉が実用化されないにもかかわらず、再処理を続けることは愚かなことです。政府は、再処理という過去の路線を踏襲することによって、使われる見込みのない再処理燃料(プルトニウム)を作り出した結果、このままではプルトニウムを無駄に保有することになります。また、プルトニウムを保有することは、軍事的に見て、核拡散の問題から危険視されています。
 その結果、狗肉の策として、本来ウラン燃料用に設計されている軽水炉で、「定格外」の運転であるウラン燃料と再処理燃料を使用するプルサーマルという無謀な政策を打ち出したのです。

 政府が無用な財政支出の見直しを言うならば、資源を浪費し、環境に重大な悪影響を及ぼす危険性が高く、しかも金のかかる原子力・再処理・高速増殖炉・核融合炉の「開発」あるいは「推進」に関わる予算を即刻削減すべきだと思います。また、住民の賛同の得られない、刈羽原発のプルサーマル化は即刻中止すべきです。

No.008 (2001/05/09)温暖化ガス、今度は水蒸気

 ワシントン発5月8日付共同通信の報道によると、米ワシントン大および日・英・露など7カ国の共同研究で、大気中の水蒸気量の増加傾向が明らかになったとしています。その原因のひとつは人為的な活動によって発生するメタンガス(CH4)が上空で酸化されたことが原因である可能性が『高い』としています。
 水蒸気が温室効果ガスであることはすでによく知られたことであり、このホームページのいくつかのレポートでも触れています。記事によると「・・・大気中の水蒸気濃度が増加傾向にあり、その原因として人間活動が関連している可能性が高いことが示されたことで、地球温暖化研究はあらためて見直しを迫られることになりそうだ。」ということです。また、「・・・米国の一部で1981年から行われている気球による大気中の水蒸気濃度の観測が、唯一の継続的な水蒸気の研究で・・・」あり、「大気中の水蒸気の増加に重要とされる熱帯域でのデータもまだ不十分だ。」そうです。
 大見出しで報道されたにもかかわらず、なんと杜撰な内容でしょうか。米国の一部で行われた、わずか20年程度の観測データしかなく「データもまだ不十分」で、しかもそれが人為的なものによるかどうかも確たる事実はないようです。また、メタンガスそのものが温室効果ガスですが、この辺の影響はどう見積もっているのでしょうか?こんな杜撰な内容にもかかわらず、地球温暖化研究の見直しが迫られるとは・・・。ここで言う『地球温暖化研究』とは、言うまでもなく二酸化炭素増加による地球温暖化説を指すことは明らかです。
 結局この記事から読み取れることは、二つあります。ひとつは、こんな杜撰な『研究成果』によってぐらつくほど、二酸化炭素による地球温暖化説がいかに不完全なものであるかということです。そしてもうひとつは、二酸化炭素による地球温暖化説と同じように、水蒸気による地球温暖化説(?)もまた極めて不確かなものだということです。
 二酸化炭素による地球温暖化説が脚光を浴びたのは、日米などの原子力発電推進勢力の御用学者がこれを吹聴したことによる影響が強いと言われます。科学的というより極めて政治的色彩の濃いものです。今回の水蒸気による地球温暖化説についても、穿った見方をすればタイミング的に見て、二酸化炭素排出規制に強固に反対する米国、また米国までではないにしろ、批判にさらされている日本などが政治的に利用する意味で大々的に報道させたのではないか、と思いたくなるのは私だけでしょうか・・・。
 確かに、二酸化炭素も水蒸気も、そしてメタンガスも含めて、温室効果ガスと呼ばれている気体は地表からの放射熱の一部を吸収して大気に保温効果を与え、その増減が大気温に影響を与えることは周知の事実です。しかし、残念ながら地球の気温の変化に関係する要因はその他にも数多く、それが互いに複雑に関連していると考えるのが妥当であり、何かひとつだけが主要な原因などと言えるほど単純なものではないでしょう。主因は二酸化炭素だ、いや水蒸気だなどという議論は、眉に唾して聞いたほうが無難です。敢えてそんなことを持ち出す背景には、何か政治的な意図があると考えてよいでしょう。
 このような議論に一喜一憂して右往左往するのはやめて、地球の持つ物質循環を健全な形にして、そして豊かにするように地道な努力を積み重ねることが大切だと思います。

No.007 (2001/04/21)環境問題と自由貿易

 安価な輸入農産品、今回は特に当面日本の農家に与える影響の大きい3品目について、緊急避難的に高率の関税をかけることになりました。今回の措置は、アメリカ・EUそして日本をはじめとする自由貿易を推進しようとする国々の立場からすると「例外的」な対応ということになります。

 自由貿易の良い点とは何でしょうか?それは、経済的に豊かな先進国(というよりも、多国籍企業にとってと言った方がより正確かもしれません)にとって、自国と他国を区別しない、世界市場から最良のものを最も安い価格で手に入れ、同時に製品を世界中どこでも自由に売りさばけることです。
 貧しい国あるいは工業化の遅れた国にとっては、原材料資源・農林水産物そして労働力を安い価格で世界市場に提供し、先進国からの借り入れで高価な工業製品を買わされる貿易体制です。
 この自由貿易は、必然的に世界規模の産地間競争を激化させます。「最良のものは良いものを駆逐する」のです。日本についてみると、工業化の「成功」で工業製品の世界市場での売上が肥大化した経済構造になっています。その結果、日本の農業の人件費は世界的に見て非常に高いものになり、世界市場における競争力どころか、国内消費分すら海外からの輸入農産品にとって変わられています。農産品においては、日本農業の良い農産品が、輸入の(品質というより価格面での)最良の農産品に駆逐されているのです。
 環境問題という視点から考えた場合、生態系における物質循環が滞ることなく定常的に維持されていることが理想的な状態です。理想的にはその土地で取れた食物をそこに住む生物が食べ、そして排泄物を土壌に還元してまた食物を育むことです。
 その意味で世界市場で大量の農産品、それも主穀類が大量に流通すること自体非常に不健全な状態です。農産品輸出国では農地を酷使した収奪的な農業を行い、地力は低下し、かろうじて化学物質を多投し、あるいは無理な焼畑を行い生産を維持しています。逆に農産品の輸入国、例えば日本では、かつての農地が放棄され、これまた生態系の物質循環が破壊されます。
 自由貿易による農産品の大規模な移動は、一方的なものであり、循環を形成していません。このように、自由貿易は生態系の健全な物質循環を破壊する一つの大きな要因なのです。
 生態系の物質循環を健全に保つために、自国で消費する農産物をはじめとする食料の主要な部分は自国内で生産すべきです。そのためには、今回行ったような農産品に対する高率の関税を科すことが最も現実的な方法です。
 しかし、世界体制として定着している自由貿易において、工業製品の輸出で世界市場で莫大な利益を得ている日本が、輸入農産品に高率の関税をかけるというのは、現状では農産品輸出国の理解は得られません。理解を得るためには、工業製品の輸出を抑制し、工業生産を縮小し、同時に国内の産業構造そのものを見直すことが必要だと考えられます。
 

No.006 (2001/04/06)都市に清流は戻るか?

 千葉県で、環境保護を訴える堂本氏が既成政党の押す候補を破って県知事に当選しました。その背景には、既成政党による中央政治に対する嫌気とともに、東京湾の三番瀬埋め立てに反対する地域住民の後押しがあったためだと考えられます。有明海の問題が大きな話題となっている現在、三番瀬の問題について同じ過ちを犯さないよう慎重に対処することが望まれます。ただ、当選後の堂本氏の発言からは、選挙戦のときに比べていささか三番瀬の問題に対する姿勢が変化しているのではないかという気がしますが、今後とも注視していきたいと思います。

 NHKのある番組で、名古屋市の堀川の一部に清流が戻ったという話題が取り上げられていました。もともと人工河川であるこの川は、都市化の進行でご多分に漏れず排水路と化していました。ところが、地下鉄の建設に伴い、大量に汲み上げられる地下水を堀川に放水したところ、水量が増え、水質も改善されたことによって清流が戻り、清流にしか育たない藻が繁殖し、魚も増え、これを捕食する水鳥やカワセミさえ集まってきたということです。
 この話題にはいろんなことを考えさせられます。もともと人工の川であっても、人間が自然環境に対して適切に働きかけ、条件を作ってやれば生態系は豊かになることを証明しています。生態系の回復力は実に偉大なものです。
 反面、この清流を生み出したのは地下鉄工事という都市インフラの整備工事に伴い、汲み上げられた地下水の一時的な「捨て場」として堀川に水を流したという事実があります。
 これは、堀川の清流は地下鉄の工事が終わるまでごく短命な「徒花」だということを意味しています。また、その原因となった地下鉄工事の自然環境に与える影響も冷静に吟味する必要があるでしょう。更に、この「堀川方式」で、つまり工業的なエネルギーを大量に消費して地下水を放流するという方式で都市河川に清流を取り戻すという方法はとても一般化できるものではないでしょう。

 本当の意味で都市河川に清流を取り戻し、都市の自然環境を改善するためには、社会システムそのものの変更まで含めた対応と、長い時間が必要なのだと思います。

No.005 (2001/03/06)水門は開かれるか?

 NHKプロジェクトXで、北海道襟裳岬で入植者の暖房用の薪として木が伐採され森が一旦失われ、砂漠化して沿岸の昆布が大打撃を受けたが、地元漁師の方たちの50年間に及ぶ植林によって再び森と昆布が再生するという物語が放映されました。
 生態系の物質循環の再生能力を超えたバイオマスの収奪的な利用が自然環境を破壊すること、そして一旦失われた自然環境を再生する作業は極めて長い時間と労力の投入が必要なことを示唆していました。また、陸上の自然環境と海の自然環境が不可分の一体のものであることを示していました。
 この出来事は、私たちが自然環境を何らかの形で改変する必要がある場合、その与える影響を慎重に検討し、出来る限り改変以前の物質循環を乱さない方法で行うべきであることを教訓として教えてくれているように思います。
 現在、諫早湾ではかつてない海苔養殖の不作が問題になっています。この不作に先立って、反対運動を押し切って行われた諫早湾の干拓のための堤防による湾の締め切りという自然環境の大規模な変化がその原因ではないかと言われています。堤防締め切りによって、有明海全体の物質循環が変化したことが何らかの影響を与えていることは疑いのない事実だと思います。しかし、それが今回の海苔の不作の「主要な原因」であるかどうかは現時点では判断は難しいと思います。
 原因究明のために、水門をあけることが検討されていますが、その判断もかなり難しいものになると予想されます。自然環境の改変と復元は、残念ながら非対称であって、水門を閉めて起こった問題ならば、水門を開けることで解決されるかというと、ことはそれほど単純ではないでしょう。
 水門を締め切ったことで、堤防の内側と外側は既に別々の変化が起こっていると考えられます。特に干拓地側に残存している海水の水質はかなり悪化していることが予想されます。堤防を締め切ることによって動きのなくなった海水は、溶存酸素はかなり少ない状態になっていると考えられますし、テレビ映像から見るだけでもかなり濁っているように見えました。BOD、CODもかなり高いレベルにあることが予想されます。この状態で水門を開けば、一時的には有明海全体の状況は悪化する可能性が高いと思います。一旦狂ってしまった物質循環を取り戻すためにはかなりの時間、そして労力の投入が必要になるでしょう。
 今回の海苔の不作の原因が水門の締め切りによるのかどうか、現段階ではわかりませんが、まず徹底的に現状を正確に把握した上で、時間がかかっても良いので最善の手立てが講じられることを望みたいと思います。また、非常に貴重なデータが得られるわけですから、今後の干拓事業に教訓を生かすことが最も重要だと考えます。

No.004 (2001/02/24)そろそろ目覚めても・・・

 NHKスペシャル「エネルギーシフト」は、余りにも予想通りの内容だったのでいささか気が抜けてしまいました。その内容についての具体的な評価は、「2-2エネルギー」で論じていますのでご覧ください。
 これまで幾つもの「夢のエネルギー像」が提案されては消えていきました。原子力→高速増殖炉→核融合炉→そして太陽光。これは日本政府が大昔に描いたエネルギー政策の流れです。
 原子力については日本各地で現在もまだ問題を抱えたまま運転が続けられています。未だに原発を新規に建設しようとか輸出しようという考えをもっている日本のエネルギー政策担当者に比べると、脱原発を決断したドイツのほうが少しはまともなのかもしれません。しかしだからといって短絡的に自然エネルギーを工業的に利用するというのは・・・。いずれにせよ、世界の趨勢として原子力→高速増殖炉→核融合炉というハードなエネルギー路線はほとんど破綻したといってよいでしょう。後は残された原子力のごみをどう処理するかという重い問題が残っています。
 20年前になりますが、サンシャイン計画というのを覚えている方もいると思いますが、これは太陽光エネルギー利用のための大規模なパイロットプラントでした。発電方式は太陽光を集光してその熱で蒸気タービンを回して発電するものでしたが、惨憺たる結果を残して閉鎖されました。その後太陽光を用いた蒸気タービン方式の発電の話はほとんど聞きません。
 そしてご存知の太陽光発電です。今回の「エネルギーシフト」で象徴的だったのは、つい最近までクリーンエネルギーの主役だった太陽光発電が脇役に追いやられ、代わって風力発電が主役になったことです。かつて太陽光発電はクリーンだけれどもネックは発電コストの高さだと言われていました。太陽光発電が普及して量産されるようになれば克服される問題だと楽観的な予測がされていました。しかし結果はそううまくいかなかったようです。
 工業生産物の場合、経済的なコストが高いというのは別の視点から見ればそのシステムが資源・エネルギー浪費的だということを示しています。システムそのものの機能的な限界を示していると考えてよいでしょう。特にエネルギー供給技術の場合、それがどんなにクリーンであっても(産出エネルギー量/投入エネルギー量)≦1の場合、そのシステムは意味がありません。もちろん特殊なケースとしてそのクリーンだという点が最も重要視される場合がないわけではありませんが、それがメインシステムになることはありえません。
 そして今回「エネルギーシフト」の中でまたしても、「風力発電の問題は発電コストが高いことだが、量産されれば克服可能だろう」と・・・・ 。あ〜、またしてもか!例をあげればきりがありません。電気自動車、ハイブリッド車、そして燃料電池車。
 石油代替エネルギーとして提案されている技術の多くは、既存システムに比べて変換過程が複雑になっていることが根本的な問題です。エネルギーは変換が多段階になればなるほど損失が多くなります。またシステムが複雑になればなるほど設備や装置により多くの資源やエネルギーの投入が必要になります。同時にメンテナンスコストも膨れ上がると考えられます。その結果として投入された資源やエネルギーに対して得られる利用可能なエネルギーは相対的に小さくなると考えるのが妥当でしょう。

 こんな話はどうでしょうか?ヤカン一杯のお湯を沸かすために、ある人には燃料として灯油が、そしてもう一人には「水」が渡されました。後はどんな道具を使ってもいいからお湯を沸かしなさい、と言われたとします。灯油をもらった人は、例えば簡単な灯心を作ることで湯が沸かせるでしょう。でも水を渡された人は大変です。まず水を電気分解して水素を作らなくてはなりません。電気分解のための電気を得るために太陽光発電や風力発電を使うとなると使う道具はとんでもなく大げさになってしまいます。集めた水素を湯を沸かすためにコントロールして燃やすのも灯油ほど簡単なことではありません。水素は燃料電池で電気にして電熱器でお湯を沸かしましょうか?さて、灯油と水とどちらが優れた「燃料」でしょうか・・・?

 笑い話のような話ですが、現在考えられている自然エネルギー発電〜水素〜燃料電池システムの本質とはこういうことではないでしょうか?もうそろそろ「夢のエネルギー」などという見果てぬ夢から覚めても良いのではないでしょうか?

No.003 (2001/02/08)公共事業と環境問題
2月6日 NHK総合テレビ プロジェクトX 「男たち不屈のドラマ瀬戸大橋」

 プロジェクトX 「男たち不屈のドラマ瀬戸大橋」は、本四連絡橋瀬戸大橋の架橋に関わった人たちの「人間ドラマ」を取り上げた番組でした。瀬戸大橋は私個人にとっても多少関わりのある事柄で、番組のねらいとは別の意味で現在の私にも大きな影響を与えています。

 もう20年以上前になりますが、その頃、土木工学を学ぶ学生だった私の研究室のテーマのひとつが備讃瀬戸大橋という長大な吊橋の耐風安定性を検討するための風洞実験でした。このテーマは本四連絡橋公団からの依頼で東大との共同研究という形で行われていたと記憶しています。産官学の共同作業による国家的な巨大プロジェクトの典型的なものでした。
 私はその後、鉄鋼メーカーに就職して、東京湾横断道路や関西新空港などのプロジェクトに直接・間接に関わる事になりました。
 学生時代を含めて若い頃は、何か大きな仕事に関わることに対して、子供っぽい満足感で充足していたように思います。しかし、巨大プロジェクトの社会的な意味や環境問題に次第に気付き始めると、私にとっての巨大プロジェクトの意味は一変してしまいました。
 巨大構造物を建設するということは、自然環境の中に無理やりに異物を挿入することです。これによって周辺の物質循環を急激に変化させます。その結果、構造物が建設される以前の周辺の自然環境の準定常的な物質循環を不安定・非定常的なものにします。そして、建設される構造物が大きくなればそれだけ影響は広範囲に及び、複雑な自然環境の中でどのような影響が現れるかを事前に正確に予測することは、どんなに精緻なシュミレーションをもってしてもほとんど不可能です。例えば諫早湾の干拓工事が生態系に与える影響や、関西新空港の予測を超えた地盤沈下などをみれば十分でしょう。
 少なくとも、私が土木事業に携わっていた頃は、構造物の設計段階で、あまりにも環境に対する配慮を欠いていたように思います。構造物を建設すれば必ず環境に対して影響が出ます。それにもかかわらず、事前の環境影響評価は「影響は軽微であり問題ない!」という免罪符的なアセスメント報告が行われるだけです。土木事業に携わる技術者は、もっと謙虚になり、自然に与える影響についてもっと畏れを持って対処すべきだと思います。
 公共事業(≒土木工事?)の環境破壊の問題が取り上げられる機会も多くなりました。この種の事業は、本来人間社会の要請に基づいて、その社会の活動を円滑に行うためのハード的な下部構造(インフラストラクチャーだとか社会資本と呼ばれているようです)を構築することが目的です。中には金を使うための公共工事も少なくないようですが、それは論外として、公共工事の問題の本質は、まさに現在の工業生産に過度に依存した産業構造、そしてそこで暮らしている私たち自身の生活様式の中に求める必要があります。

 番組は、工事の社会的な意味を考えるものではなく、あくまでもある巨大プロジェクトを題材とした技術者個人の生き様を扱った「人間ドラマ」ではありましたが、そこには見事に社会的な視点が欠落していました。心情的には技術者としてある仕事に打ち込み、それを達成した充足感は理解できるのですが、反面非常にむなしさの残る意番組でした。多分、核兵器を開発する技術者だって同じように目的を達成したら充足感を持つでしょうから・・・・。
 環境問題に関心を抱き始めるきっかけとなったこの土木事業について、いずれ近いうちに本論のほうで論じる予定です。

No.002 (2001/02/06)NHKスペシャル「エネルギーシフト」を見てみよう!

 環境問題という視点から捉えたエネルギー技術の改良の目的は、そのエネルギー供給システム全体の環境負荷が代替しようとする現行のエネルギー供給システムよりも明らかに軽減されるものでなくてはなりません。
 着目する技術がその使用段階で、たとえば二酸化炭素やNOxの排出がないというだけではこの必要条件さえ満たすことが出来ません。そのシステムを支えるための背景にあるすべてのシステムの環境負荷、そしてその新規技術を利用可能とするために新たに整備が必要な社会的なインフラを含めたすべての追加資源やエネルギーにまで言及しない限り正当な判断は下せません。
 現行の「環境にやさしいエネルギー」供給システムに対して私が懐疑的にならざるを得ない背景には、そのほとんどの技術の評価においてこのような検討がなされていないからです。NHKのホームページに掲載されたこの番組の紹介文の一部を引用します。

自動車の動力も環境に優しい新エネルギーへの転換が始まっている。新しい動力源は、水素を原料に電気と水を生む燃料電池だ。二酸化炭素をほとんど出さないクリーンエネルギーである燃料電池は、無尽蔵に等しい水素を燃料とすることから、「21世紀のエネルギー」の本命と目されている。

「二酸化炭素をほとんど出さないクリーンエネルギーである燃料電池は、無尽蔵に等しい水素を燃料とする」というフレーズは核融合とほとんど同じではないですか?!また、このレポートの限界をよく示していると思うのが『二酸化炭素を出さない』=『クリーンエネルギー』という短絡的な発想です。

 このNHKの特集番組は、現在のエネルギー問題に対する良識的な『主流』の論理構造とその限界を知る上で興味深いものだと思います。ぜひご覧ください。放送後に、意見や感想をお送りいただきたいと思います。

No.001 (2001/01/24)HP「環境問題を考える」にご協力を!

 年が明けて2001年になりました。新世紀を迎えたといってもあまり感慨はないのですが、この先100年間の人間社会の環境問題に対する対応は、地球の生命環境に対してかなり大きな影響を与えるだろうと思います。
 西欧産業革命に端を発した近代工業文明は、わずか300年足らずで早くも自家中毒症状を呈し始めています。殊に第二次世界大戦以降の急激な工業生産の拡大によって、この文明が破滅の方向へ急激に加速したのが20世紀中盤から終盤にかけての特徴だと思います。
 工業文明はまさに今爛熟期にさしかかっているようです。ここでいう爛熟には二つの側面があると思います。まず第一点は、工業生産が必要以上に肥大化し、もはや人間のコントロールを失い、同時に地球環境さえ不安定にしている状況です。これが「環境問題」です。
 もう一点は、あらゆる文明の爛熟期に起こる現象として、人間の倫理観の喪失も見逃せない社会現象です。そのもっとも醜い例のひとつが「戦争の工業化」あるいは「兵器の工業化」だと思います。この本質は、工業技術を駆使して如何に効率的にそしてスマートに自らの手を汚さずに人間を殺害するかということにほかなりません。
 人の命までもモノのように取り扱う、生命体として生きている存在に対する現実感を喪失しているように思います。人間は生物として最も重要な感覚を今喪失しようとしているのかもしれません。

 さて、12月から年明けにかけて毎年憂鬱な気持ちになります。それは町にジングルベルがなり始めるころからです。マスコミに登場する世の良識を体現しているかのようなアナウンサー諸氏は、毎日のように環境問題について深刻な顔でレポートする一方で、毎年派手になっていく年末年始の夜間ライトアップを無批判(むしろ肯定的に!)に「きれいですね」と感想を述べる、なんという無節操さでしょうか。そして更なる経済成長の継続を求める。
 環境問題の深刻化は工業生産の増大に伴っています。工業生産の増大が環境問題の原因であることは明らかなことです。更なる経済成長を求め、夜間ライトアップを無批判に「きれい」で片付けてしまう状況には、環境問題を日常の問題として、現実感をもって認識されていないことを象徴的に示しています。
 また、二酸化炭素排出削減に対する日本政府の対応は唖然とするものです。二酸化炭素による地球温暖化という理論の妥当性はともかくとして、二酸化炭素の削減という文脈において、森林による吸収量を計上し、他の国の排出権を買取り、そして今度は発展途上国に対する原発の輸出の正当化と、とてもまじめに環境問題に対応しているとは考えられません。
 こうした世論や政策を見る限り、環境問題における新世紀の先行きは非常に悲観的にならざるを得ない状況です。このホームページが、この状況を打破するための小さな楔になるようにしたいものです。

 このホームページを開設して約半年がたちますが、少しずつですが内容の充実を図っていきたいと考えています。閲覧された方は、ご意見や提案をいただきたいと思います。

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