§6. 社会問題としての地球温暖化
6-1 環境問題とは何か
第一部の検証作業によって、二酸化炭素地球温暖化脅威説による環境問題の解釈は、ほとんど自然科学的な根拠のないものであることが確認されたと考える。ここで主張していることは、あくまでも『二酸化炭素地球温暖化脅威説』に言われる環境問題が自然科学的にみて根拠の薄いものだということであり、『環境問題』が虚構だといっているのではない。このレポートの主目的ではないが、もう一度環境問題の本質とは何なのかを確認しておくことにする(詳細な議論については、2-1環境問題総論、ならびに参考文献を参照されたい)。
地球は全体として、生命活動を含む、準定常的な巨大な熱機関だと考えられる。熱機関は高温熱源からエントロピーの小さいエネルギーを受け取り、系内において周期的・定常的な活動を行い、その活動の結果増加したエントロピーを低温熱エネルギーと伴に系外に捨て去ることによって定常的・持続的な運転が保障される。機関内における活動とは、作動物質の周期的な循環運動である。宇宙空間に浮かんだ惑星において、物質は地球重力に捉えられているため、宇宙空間に廃棄できるエントロピーは低温熱と伴に捨て去ることの出来る熱エントロピーに限られることは重要である。
系内において何らかの活動をしつつ、全体として定常状態を維持している系を定常系と呼ぶ。特に、地球のように系外とエネルギーのやり取りが可能な系を定常開放系と呼ぶ。ただし、前述のように、地球は物質については閉鎖系であることは環境問題を考える上で重要である。また、全体として定常開放系である系に含まれる部分系もまた定常開放系である。ただし、部分系においては、廃物という物エントロピーが系内において全て熱エントロピーに変換可能な場合に限り、熱だけでなく物についても開放系となることが出来る。
地球についてもう少し具体的に考えてみる。地球が受け取る高温熱エネルギーは太陽放射である。作動物質の循環として重要なものは、大気循環、水循環、そして生態系における食物連鎖を通した栄養循環を含む物質循環である。太陽放射を受け取り、生命活動を含む地球上の物理・化学的な活動の結果生じた余分なエントロピーは、水循環、大気循環を通して最終的に全て熱エントロピーとなり、大気上空において低温の赤外線放射によって地球系外に捨て去られる。
以上が地球という熱機関が準定常的な活動を長期間維持してきた理由である。環境問題とは、人間社会の活動によって、生態系、とりわけ人間という生物の生息環境が悪化し、その定常性が阻害される現象だと考えられる。以下、幾つかの項目について、もう少し具体的に検討する。
(1) 栄養循環の直接的な破壊
まず、高等生物(人間を含む)を含む地球生態系において、その豊かさを保障しているのは、生態系の栄養循環において第一生産者である光合成生物の豊かさである。光合成生物の生息環境を悪化させることは、生態系を巡る物質循環(=栄養循環)の豊かさを破壊する、最も直接的で重大な環境破壊である。森林の回復速度を超えた過剰な森林開発、焼畑、乾燥農法・過放牧による塩害・砂漠化による農地の破壊、都市化(道路、インフラ建設も含む)による植生の破壊などである。
一般に、地球上の物質は、地球重力によって重力分布に向かう傾向がある。生態系における物質循環もこれに従う。生態系を巡る物質も徐々に重力によって高所から低所へ、そして海洋の深部へと向かう。単純に考えれば陸上の生態系は短命なものになるはずである。しかし実際にそうなっていないのは、生態系を巡る巧妙な機構があるからである。海洋では、地球の自転あるいは海水温の密度差による湧昇流によって、一旦海洋の深部に降下した栄養分が再び海洋表層に運び上げられ、豊かな海洋生態系が出来る。魚や海棲生物を食料とする鳥類によってこの養分は摂取され、排泄物として再び陸上に還流する。また、遡河性の回遊魚の存在も無視できない。こうした生態系における栄養分の『大循環』の破壊も重大な問題である。
槌田敦著 『新石油文明論』 95頁
まず、海洋生態系の物質汚染による破壊、鳥類の生息環境の悪化、例えば人工海岸線による干潟の激減、遡河性回遊魚の遡上を妨げる構造物の建設、あるいは遡河性回遊魚の沿岸での大量捕獲も大きな問題である。
栄養循環における生物としての人間の役割を考えてみる。雑食性の大型獣である人間は、他の動植物を食べて糞尿を生産する。生態系の物質循環から考えれば、この糞尿を作り出すことが人間の最も重要な(唯一の)役割である。糞尿は、昆虫などの小動物や、微生物・バクテリアによって分解され、再び光合成生物に摂取されることによって陸上生態系を豊かにする。
ところが、現代の人間社会、特に工業化・都市化の進んだ社会では、栄養循環を徹底的に破壊している。産業の『国際分業』によって世界市場が形成され、食料が生産された地域とは異なった地域に大量かつ長距離の移動を行っている。食糧を大量に輸入する国は、相対的に工業化・都市化が進行しており、臨海部の沖積平野に高い人口密度で『生息』している。ここで消費された食料は排泄物となり、都市の下水道システムを通して、陸上生態系の栄養循環から切り離されて、投棄される。
生態系の栄養循環の定常性を維持するためには、排泄物は食糧生産地の農地に還元すべきである。現実には生産地から遠く離れた国において、陸上生態系に還元されることなく投棄されている。当然の帰結として農業生産国の地力は低下し、これを補うために補給される化学肥料によって更に疲弊し、砂漠化を加速することになる。一方、食料の大量輸入国では、生態系の物質循環を無視した大量の糞尿処理によって、富栄養化による海洋汚染の一因になる。 生態系の栄養循環において人間の生産する最も重要な生産物である糞尿を無意味に投棄している現状は技術の貧困というほかない。また、農業生産物の世界市場における大量取引は、生態系の栄養循環を破壊する世界の農地破壊の主要な原因の一つである(詳細は、現代砂漠化の原因は自由貿易を参照されたい)。
(2) 物エントロピーの蓄積
人間社会の活動、特に工業的な生産活動に起因する地球の物質循環における重大な問題は、『ごみ問題』である。既に述べたように、地球は物質については閉鎖系である。そのため、地球の生態系によって熱エントロピーに変換できない物質的な汚染を生態系の活動の場である地表に蓄積することは、重大な環境破壊である。工業生産によって人工的に合成される、元々地球生態系には存在しない膨大な化学物質、あるいは重金属、そして原子力発電によって作り出される核廃物などがこれにあたる。これらの物質は、栄養循環や水循環を通して生態系に取り込まれ、物理・化学的な毒性、遺伝的な毒性として発現し、生態系を破壊する。
あるいは大気中に排出される粒子状物質や気体廃棄物などは、酸性雨などの化学的な影響、あるいは上層大気の太陽放射に対する特性の変化による大気循環に及ぼす影響などがある。
(3) 水循環の破壊
既に(1)で述べた栄養循環における生物環境の直接的な破壊とも密接に関係している。森林を伐採して乾燥農法の大規模農地を作ることや、大規模な焼畑による農地の確保は、地表を乾燥させ、水の蒸発量の減少をもたらす。更に塩害や化学肥料の多投などによって、土壌の団粒構造が破壊され、保水能力が低下すれば少しの雨で養分は洗い流され、やがて農地は放棄され砂漠となる。一旦砂漠化すると、地表の太陽放射に対する反射率が大きくなり、蒸発量が減ることとの相乗効果で砂漠上空は安定した高圧帯となり、ますます雨が降らなくなる。
都市化の進行に伴って、地表は不透水性になり、降雨は大規模下水道で短時間で海へ捨て去られる。人口密度の高い都市を養うためには、遠隔地に用水ダムを建設し、これを収奪的に都市に供給する。ダム建設地周辺の水循環は破壊され、同時に生態系も破壊される。巨大なダムは大量の水蒸気を供給することになり、軽くなった大気の上昇気流強度は強くなり、周辺地域から水蒸気を含んだ大気を吸い寄せることになる。もし周囲が半乾燥地帯であれば、砂漠化の進行を助長することになる。
ダム〜連続堤による治水システムは、大量の雨水を速やかに海へ流し去る。河川断面積を大きくし、蛇行した河道を直線的に変更し動水勾配を大きくすると伴に、河道をコンクリートなどで被覆することで表面粗度を小さくする。こうした構造物は、堤外地との水循環・物質循環と、その結果としての生態系の栄養循環を貧弱なものにする。
(4) 大気循環に与える影響
地球の夜の側の衛星写真を見たことがある方も多いと思う。そこに浮かんだ光点の密度分布は、人工的なエネルギー消費量の分布を反映しているものと考えられる。
この衛星写真の光点の密度分布に対応した人工的な熱源が地上に分布していると考えられる。現在では、大都市において、太陽放射によって供給されるエネルギーに匹敵する人工的なエネルギーが消費されている。人工の熱源による大気への運動エネルギーの供給と、その熱源の偏在は大気循環に何らかの撹乱を生じさせる可能性が高い。
既に検討してきた森林破壊をはじめとする地表の改変による太陽放射に対する反射率の変化、水循環の大規模な改変などと共に、人工熱源の影響が、気圧配置や大気循環に影響を与え、気象現象を撹乱する可能性は低くない。
6-2 二酸化炭素地球温暖化は環境問題ではない
では、人間社会の活動として、炭化水素燃料の燃焼によって環境に排出される二酸化炭素は環境問題を引き起こすのだろうか?
丸山茂徳・磯崎行雄著「生命と地球の歴史」(岩波新書)163頁
二酸化炭素は、生態系の第一生産者である光合成生物が太陽放射エネルギーを利用して炭水化物を合成するための必須の原料である。地球上に光合成生物が誕生した当時(約27億年前)、あるいは植物が陸上へ進出し始めた時期(5〜4億年前)に比べて、現在の大気中二酸化炭素濃度は非常に低い。植物にとっては現在の大気は常に二酸化炭素の欠乏状態にある。
そのため、植物の生育環境の二酸化炭素濃度の上昇は、肥料効果を持つことは良く知られている。ビニールハウスによる農作物の栽培において、灯油を燃焼させることで、気温を高くすると同時に二酸化炭素濃度を高くすることによって、収量は飛躍的に増加する。ビニールハウスでは、二酸化炭素濃度を800ppm〜1500ppm程度にしているようである。
槌田敦 著『熱学外論』(朝倉書店,1992年),123頁
上図は、大麦についての二酸化炭素濃度と光合成速度の関係を調べたグラフである。二酸化炭素濃度の上昇に伴って、著しく光合成速度が上昇することがわかる。
大気中の二酸化炭素濃度の上昇は、植物の生息条件にとって非常に好ましいことである。二酸化炭素濃度が現在の2倍程度に増えたとしても、生態系に悪影響があるとは考えられない。むしろ栄養循環における第一生産者である植物の生産効率が高まることによって、生態系全体が豊かになると考えられる。
現在の二酸化炭素温暖化脅威説(以下、「温暖化説」と呼ぶことにする)では、こうした二酸化炭素の生態系における積極的な役割には触れず、殊更温暖化によって生態系が悪影響を受けるという危機感をあおることに躍起になっているようである。しかし、第一部で検討したとおり、二酸化炭素による地球の温暖化は、高緯度地方の温暖化と、気温の年較差の縮小による穏やかで暖かい地域の拡大になり、水循環の活性化と共に、それ自身が生態系にとって好ましい変化である。
現状では、第一部で検討したとおり、温暖化説に主張されている気温上昇過程は現れていないようである。しかし、たとえ温暖化説のシナリオ通りの気温上昇が起こっても、それは生態系にとって『好ましい変化』であって、決して悪いことではない。温暖化説に想定された気温上昇過程は、環境問題ではない。
6-3 社会問題としての地球温暖化
人為的に排出された二酸化炭素によって、その大気中濃度が上昇し、温室効果の増大によって平均気温の上昇、特に寒冷な高緯度地方において顕著な気温上昇が起こるという、二酸化炭素地球温暖化説で描かれたシナリオは、たとえそれが現実に起こったとしても、これは生態系にとって好ましい変化であって、地球という定常開放系の定常性を破壊することはなく、したがって環境問題ではない。
しかし、現実の社会では大多数の人々が、「二酸化炭素地球温暖化脅威説」に描かれたシナリオが現実に進行中であり、これが「現在の地球における中心的な環境問題なのだ」と『信じて』いる。それだけではない。各国政府は、このシナリオの下で現実の政策を立案して法制化しているのである。こうした、理由のない妄信的な信頼によって成立し、運営される政治は危うい。前世界大戦で苦い経験をしたはずのジャーナリズム、マスコミは、またしても同じ轍を踏もうとしている。
既に、地球温暖化説が登場した歴史的な事実や背景については、多くの著書があるのでここでは繰り返さない。以下、現在の社会問題という側面から、どのようにして地球温暖化が信じられ、政策が立案され、一体誰が利益を得るのかを考えていく。
(1) 先進国・企業の経済戦略
既に先進工業国においては、物質的な、特に工業製品に関して、豊かさは飽和状態に達しつつある。また、一般に流通する工業製品生産については、途上国への技術移転が進み、安い労働賃金に支えられた安価で優れた製品が世界市場に大量に供給され始めている。その結果、先進工業国グループの世界市場における工業製品のシェアあるいは絶対的な生産量は低下傾向にある。
更なる経済成長によって、あくなき豊かさを追求するために、先進工業国グループが世界市場において再びそのシェアを回復するためには、最先端技術を用いた新規の商品を開発することが必要である。その絶好の大義名分が「二酸化炭素地球温暖化脅威説」を背景とする「エコ商品」の投入である。
それを国際的に制度として後押ししようとする枠組みが『京都議定書』である。冷静に考えれば、京都議定書の示す、各国に割り当てられた二酸化炭素排出削減目標あるいは排出権は不当なものである。これは、既に大量の二酸化炭素を排出して、物質的な豊かさを獲得した先進国グループの既得権益の保護と、途上国の正当で自発的発展の制限である。
また、京都メカニズムあるいはクリーン開発メカニズムとは、先進工業国グループが最先端技術の新たな販路として途上国を確保することを強力に後押しするものであり、更にその見返りとして二酸化炭素排出権を自国に移転することによって、更なる市場支配力を強固なものにする。更に、二酸化炭素排出権取引という『仮空の市場』は、無から大金を生み出す仕組みとして、投機の対象として先進工業国にとって魅力的な市場である。
日本国内においても状況は同じである。国家戦略として『エコ商品』開発を強力に後押しし、「環境にやさしい」という裏づけの無い謳い文句の下で、一般の市場価格より高い商品が売られ、あまりにも高くて普及が望めないような商品については国家補助という名目で税金が企業へ流れているのである。企業にとっては『エコ商品』は非常に収益性の高い魅力的な市場なのである。
こうして、二酸化炭素地球温暖化脅威説によって、先進工業国グループは世界市場の支配権を将来的にも確保することが保障される。先進工業国グループにとっては、二酸化炭素地球温暖化脅威説の自然科学的な妥当性の検討など、どうでも良いことであって、世界市場における支配権の確保に有効であるから、二酸化炭素地球温暖化脅威説を強力に支持しているのである。
(2) 科学的な分析を欠いた無責任な国の対応
環境政策に限らず、国家が何らかの財政措置を行うような事業にあっては国の責任で、当該事業の目的に対して、支出した税金に対するその目的の達成度が十分に満足できるものかどうかを判断しなければならない。少なくとも事業の事前評価の段階でその実効性を徹底的に検討し、事業が完了した後には効果を評価し、期待どうりの効果があったか、あるいは不十分なところがあればそれを改善すべく努力することが要求されることは言うまでも無い。
しかしながら、環境問題対策、特に地球温暖化対策として行われている事業については、事前の評価すら行われていない。現在の国の環境政策の基本にある二酸化炭素地球温暖化脅威説は、既に検討したように、IPCC報告において一数値実験結果として『数℃の気温上昇があるかもしれない』という見通しに過ぎない。しかも、この温暖化説は、理論的な反論のみならず、多くの実際の観測データからも妥当性はきわめて低いのが現状である。
更に、地球温暖化対策として進められている石油代替エネルギーに対する技術的な評価の杜撰さは、ひどい状況である。仮に、二酸化炭素地球温暖化脅威説が妥当なものだったとしても、現在導入が進められている石油代替エネルギーシステムは、あまりにも低効率であって、石油とその他希少資源の浪費を加速する可能性が極めて高い(詳細は次セクション以下で検討する)。しかし、低効率であるがゆえに石油代替エネルギーへの移行は産業規模の拡大につながり、国にとっての、ポスト公共土木工事として新たな利権構造を生み出しつつある。
問題が一科学分野における学問的な論争であるならば別であるが、実際の国家政策として事業化される環境政策においては、国の責任においてその妥当性を科学的・徹底的に検討することは当然のことである。科学的な検討は学会やその中で力を振るう企業に支えられた『御用学者』の判断をそのまま採用することによって、責任放棄している状況は許されない。このような姿勢によってこれまで何度失敗を繰り返してきたのか、経験から学ぶべきである。
(3) 報道機関の問題
更に大きな問題が、環境問題関連、とりわけ地球温暖化に対する報道機関の報道内容である。環境問題は、通常の国家政策とは異なり、その判断において科学的な検証が決定的に重要であり、必要不可欠である。環境問題の内容把握、そして問題対策の立案は、自然科学的な裏づけなしには成功はおぼつかない。報道機関としては、国民に対して環境問題についての出来るだけ正確で科学的な判断材料を提供するべきである。
しかし、残念ながら今日の環境問題に関する報道は、国、あるいはそれに準ずる研究機関などの権威組織の報道機関向けの発表を、独自の科学的な検証を経ぬままに、大量に撒き散らしている。自ら報道した内容の矛盾点すらも放置しているのが現状である。
巷にあふれるこうした大量の情報の『成果』が、大多数の人が科学的・論理的な背景のない「二酸化炭素地球温暖化脅威論」を信じている現在の危機的な状況を作り出した。この社会的な責任はきわめて大きい。独自の分析を欠いた権威機関の「玄関ねた」にたよる報道姿勢は、報道機関の自殺行為であり、かつての轍をまたしても踏むことになりそうである。
(4) 研究機関の問題
大学や公的な研究機関における地球温暖化対策に対する研究内容は、既に検討してきた企業・国家戦略の影響によって規定されている。国公立大学では、独立行政法人化によって、研究費を獲得するために企業あるいは国家の政策に沿った研究開発に重点がおかれている。
その結果、環境問題・地球温暖化の論理的な考察やエネルギーコストという問題の核心に対する研究は隅に追いやられ、専ら「いわゆるエコエネルギー」の実用化という側面での研究開発が重点的に行われている。
6-4 結論
先進工業国・企業の世界市場における利権の拡大の野望の下で、更なる利益追求を目指す企業と、これを無批判に後押しし、同時に新たな利権にありつこうとする国、研究費によってこれに追従する大学・研究機関という産官学共同体と、その宣伝部隊としてのマスコミ・報道機関によって創られた多くの人が信じる共同幻想が、社会問題としての『地球温暖化』なのである。
§7.工業技術評価
第一部で検討した結果、二酸化炭素地球温暖化脅威説には科学的な根拠が無く、地球温暖化問題は虚構である。その結果、地球温暖化問題の原因であるとされる炭化水素燃料の燃焼による二酸化炭素排出量の削減を意図した新規の工業技術、エネルギー関連技術の開発は、その開発の根拠を失っている。
現在、温暖化防止対策として提案されている工業技術の多くは、意に反して、二酸化炭素排出量削減という点においてすら、その実効性の乏しいものである。更に、多段階のエネルギー変換と低効率性は、炭化水素燃料資源以外の希少資源を含む資源の浪費を更に加速するものである。
ここでは、環境問題を考える上で、どのような点に着目して工業技術を評価すべきかを検討する。
7-1 工業技術のライフサイクル
工業的にある目的を実現しようとする場合、まず最初に目的を実現するための装置・設備を作ることが必要である。装置・設備が出来上がれば、そこに操業するためのエネルギーと資源が投入されて、操業を開始する。操業によって、製品と廃物が生産される。耐用年数が経過すると、装置・設備は廃棄され、ライフサイクルが終了する。
環境問題を考える上で工業技術を評価するとき、工業技術の全ライフサイクルを通して、そのシステムに投入された資源とエネルギーの総量と、出力としての製品と廃物(装置・設備の廃棄も含む)の総量を対象に検討が行われる。
製品一単位を生産するために必要な、投入される資源・エネルギー量が少ないほど生産効率の高いシステムである。また、製品一単位を生産することによって生じる廃物量が少ないほど環境負荷の少ないシステムである。ただし、廃物については、量的な問題もさることながら、その毒性の質による評価も重要である(例えば放射性廃物や内分泌撹乱物質)。
ここに述べた内容は、ほとんど自明のことであるが、驚くべきことに現在の環境技術に対する技術的な評価はシステム操業時の評価しかしていないのである。その結果、とんでもない間違った評価が横行している。
7-2 迂回度と迂回過程
工業的にある目的を実現する場合、実現可能な方法は複数存在する。例えば、家庭で湯を沸かすことを考える。ガス湯沸かし器で湯を沸かすこともあれば、電気温水器で沸かすこともある。この二つの湯沸しの方法を、環境問題という視点から検討する。
ガス湯沸かし器で湯を沸かす場合は、燃料をボイラーで燃焼させ、その燃焼熱で直接水を加熱する。それ以外の装置は不用である。
電気温水器で湯を沸かす場合は、電気を電熱器を通して熱に変換してその熱で水を加熱する。電気は石油火力発電所で作られる。石油火力発電所では、石油を燃焼させて水を加熱して高温高圧の水蒸気を発生させ、これで蒸気タービンを回転させ熱エネルギーを運動エネルギーに変換する。この回転運動で発電機を回して電気を生産する。電気は送電線を経由して各家庭に送られ、家庭の電気温水器に導かれる。
この二つの湯沸しの過程をまとめると以下のようになる。
ガス湯沸かし器:
ガス燃焼(熱)↑→水の加熱
電気温水器:
石油燃焼(熱)↑→ボイラー・蒸気タービン(運動)↑→発電機(電気)↑→送電線↑→電熱器(熱)↑→水の加熱
(上向の矢印は、エネルギーの環境への散逸を示している。)
少し横道にそれるが、工業技術評価の上で重要な点は、前節の議論とも関連するが、ある目的を達成するために行われている全ての工業プロセスをもれなく検討することである。通常電力会社が宣伝するのは、電熱器以降の最終段階の工程だけである。しかも経済的に安いというのは、発電用の重油が政策的に安価に設定されている上に、例えば夜間電力という余剰電力のダンピング販売によるのであって、資源効率とは全く別次元の問題である。
さて、本題であるが、ガス湯沸かし器では燃焼熱を直接水の加熱に使うので、エネルギー損失は一箇所だけである。これに対して電気温水器の場合は、まず石油の燃焼による熱エネルギーを運動エネルギーに変換し、更に電気エネルギーに変換し、最終的に再び熱エネルギーに変換する。この変換の各過程でエネルギー損失が発生する。
ある目的を実現する場合、最も単純なプロセスに対して、より多段階のプロセスが必要な過程を『迂回過程』と呼び、その程度を『迂回度』と呼ぶことにする。湯沸しの例でも明らかなように、『一般に迂回度の大きい過程ほどエネルギー効率は低下する』のである。
電力会社は、「オール電化ハウスは、二酸化炭素を出さないクリーンな住宅」などといっているが、科学的に見ればそのようなことはあり得ないことである。特に熱源として電気を利用することは資源の浪費であり、沸かす湯一単位あたりの発生二酸化炭素量はガス湯沸かし器の場合をはるかに上回る。更に付け加えると、迂回度が高いほど設備に投入される資源量も多くなることは明らかである。つまり、より正確には『一般に迂回度の大きい過程ほど資源・エネルギー効率は低下する』のである。
§8.石油代替エネルギー技術の技術評価
8-1 石油文明とは何か
現在は動力文明という観点からは石油文明の時代である。その謂いは、『大部分の社会システムが石油エネルギーの消費によって成立している』ということである。基本エネルギー資源が石油であると言っても良い。
これに対して異論があるかもしれない。例えば、日本において電力供給において第一位は原子力であると。では日本は原子力文明か?答えは単純である。原子力発電を全て廃止しても、社会システムは成り立つが、石油を使わなければこの社会は全く成り立たないのである。つまり、原子力発電は石油文明の下の一技術であって、石油文明を超えるものにはなりえないのである。
より詳しく見ると、ここには二つの意味がある。まず、現在社会が消費するエネルギーのうち、電力によって供給されているエネルギーは全体の半分にも満たない。電力以外のエネルギーの大部分は石油をはじめとした炭化水素燃料(石油・天然ガスを含む。以下、単に石油と呼ぶ。)である。原子力発電ではこれを代替出来ない。第二に、電力供給、例えば原子力発電所を建設し、操業していくためにも石油は必須のエネルギー資源である。
ここで新たな疑問が生じる。もし仮に、全ての社会システムを電気で作動するシステムに置き換えることが出来れば原子力文明はありえるのか?まずこの問題を検討する前に、エネルギー資源の評価について考えることにする。
社会システムを動力文明として捉える場合、その基本エネルギー資源になり得る必要条件の一つは、あるエネルギー資源が、その資源の持つエネルギーだけで自らを拡大再生産することが可能なことである。(産出エネルギー量)/(投入エネルギー量)を「産出比」と定義すると、この条件は、産出比>1で表される。産出比の大きいエネルギー資源ほど優れたエネルギー資源と言うことが出来る。
石油は圧倒的に優れたエネルギー資源である。100単位のエネルギーに相当する原油を採掘するために投入する石油はわずか1単位程度である(産出比=100)。その後、タンカーによる輸送、原油精製などを行った最終段階でも産出比は10程度である。
現在の社会システムでは、供給される石油エネルギーの半分以上を直接石油の燃焼エネルギーによって得ている。石油火力発電の産出比は0.3〜0.35程度である。このプロセスに石油を投入した場合の産出比は、10×0.3〜0.35=3〜3.5となり、目減りはするものの依然として産出比は1以上になる。石油火力発電というエネルギーを消費するシステムが存在可能なのは、元々非常に優れた石油の能力があるからである。
原子力発電が基本エネルギー資源になれない本質的な理由は、産出比が石油に比べて圧倒的に劣っており(詳しくは後述するが、産出比が1以下の可能性もある)、原子力発電だけで原子力発電を拡大再生産することが出来ないことである。現状では、鉱物の採掘や輸送システムあるいは発電所建設に石油を利用するという前提で産出比が算定されているが、電気で作動する代替システムで全て置き換えると、この産出比は更に大きく低下するため、産出比が1以下になることは確実である。原子力文明はありえないのである。
同様に、太陽光発電や風力発電などの自然エネルギー発電システムも石油エネルギーなしには自らのシステムを拡大再生産することが出来ないので、動力文明を支える基本エネルギーにはなり得ない。原子力発電や自然エネルギー発電によって、石油によるエネルギー供給システムを全面的に代替することはあり得ないのである。
もし石油に代わる動力文明が起こるとすれば、それは第二次石炭文明であろう。条件の良い鉱山では石炭採掘の産出比は40〜50程度である。ただ、石炭は固体という特質から石油に比べて扱いづらい燃料である。そのため、ガス化、あるいは液化技術と組合されることになろう。こうしたプロセスの追加で産出比は低くなるが、それでも、もともとの優れた能力によって実現可能であろう。
では、そうすると現実の社会システムを見ると疑問がおこる。なぜ石油火力以外の発電システムが存在するのか?それは、ある条件下において、石油火力以外の発電システムを利用した方が総合的に見た石油エネルギー利用効率、資源利用効率が高まる場合である。例えば絶海の孤島に灯台を点灯するために太陽光発電・蓄電池システムを用いる場合などである。あるいは特別な理由、例えば宇宙船のような特殊な環境の場合である。これ以外の理由で石油代替を行うことは石油とその他の資源の浪費でしかない。
さて、石油代替エネルギーとして、いわゆるエコエネルギーが存在する価値は何なのであろうか?これは前述の『特別な理由』として、二酸化炭素による地球温暖化を防止するという使用価値があると考えられてきたからであった。しかし、第一部で検討したとおり、二酸化炭素地球温暖化脅威説は幻想である。つまり、二酸化炭素排出量を減らすという文脈において、既にエコエネルギー導入の必然性は無くなった。
残る問題は、エコエネルギーが石油エネルギー利用効率、資源利用効率において石油火力より優れているかどうかという一点だけである。
8-2 エネルギーコスト分析
エネルギー供給技術は、その他の工業生産技術と決定的に異なった性質を持つ。発電を含め、エネルギー供給技術は製品として出力されるのもエネルギーである。その他の工業製品であれば、製品の使用価値の絶対的な尺度は存在しないが、エネルギー供給技術においては絶対的な技術評価が可能である。つまり、たとえ実現可能な技術であっても、「産出比」が1よりも小さい場合、その技術は資源の浪費である。
エネルギーコスト分析とは、ある工業工程について、その工程を実現するために投入されるエネルギー量に着目した分析手法である。エネルギー供給技術の技術評価の基本的な尺度である。
例えば、発電システムを考えてみる。前のセクションで述べた技術の全ライフサイクルを考慮した実効的な効率について考えると、火力発電における産出比は0.3〜0.35程度と考えられる。つまり、発電という過程はそもそもエネルギーを浪費するシステムなのである。
石油エネルギーを最も効率的に使うことを考えれば、出来る限り電気でしか出来ないこと以外は、燃料として直接石油を燃焼させることが望ましいのである。これが前セクションにおいて検討したガス湯沸かし器と電気温水器の事例をエネルギーコスト分析から見た解釈である。
もう一つ例題を考えてみる。ハイブリッド車はどうであろうか?ハイブリッド車ではエンジンという内燃機関で得た運動エネルギーを一旦電気エネルギーに変換した後、また運動エネルギーに変換して走行する。
通常の自動車: 燃料燃焼(熱)↑→エンジン(運動)↑→
ハイブリッド車: 燃料燃焼(熱)↑→エンジン(運動)↑→発電機(電気)↑→蓄電池↑→モーター(運動)↑→
ハイブリッド車は、通常の自動車より明らかに迂回度が高い。単純に考えるとエネルギー効率は下がるはずである。
内燃機関は、最も効率的に熱エネルギーを運動エネルギーに変える状態がある。しかし自動車の路上走行では、急激な回転数の変動が行われることによって、著しくエネルギー効率が下がる。
これに対して、ハイブリッド車では内燃機関にとって理想的な効率に近い状態の回転運動を電気エネルギーに変換して蓄電し、必要に応じてモーター出力を制御している。内燃機関の回転数の変動によるエネルギー損失と、ハイブリッド車の多段階の変換によるエネルギー損失を比較した場合、どちらの燃費が優れているのか、ということになる。
メーカーはハイブリッド車が優れているとしている。確かに走行時のエネルギー効率だけに限るとハイブリッド車のほうが優れている可能性はある。しかし、ハイブリッド車の全ライフサイクルを考えて、それを実現するシステム=ハイブリッド車自身の製造段階で一体どれだけ余分な資源とエネルギーの投入が必要になるのか、あるいはメンテナンスや廃車時の処分まで含めた検討を行わなければ本当の判断は出来ないのである。
8-3 原子力発電
原子力発電については、室田武氏によって詳細な検討が行われている。室田氏の試算は、米国エネルギー研究開発局ERDAが行った100万kW級の加圧水型軽水炉の試算をもとに、実際の原子力発電所の操業実態を考慮した補正を行ったものである。ここでは室田氏の試算の結果だけを示す。詳細は原著を参照されたい(室田武著「新版原子力の経済学」日本評論社,1986年)(註1)。
試算では、当該原発が廃炉までに産出するエネルギー総量は304億kWhである。熱量に換算すると26.1兆
kcalになる。この産出量に対する石油の投入量は78.3兆〜510.3兆
kcalになる。ここに大きな幅があるのは、放射性毒物の保管期間をどう取るかによる。前者はプルトニウムの半減期である24000年、後者は半減期の10倍の240000年を保管期間としている。エネルギー(投入石油のエネルギー量に対する)の産出比は0.051〜0.333≪1.0となり、石油エネルギーに代わって原子力発電が基本エネルギーになることはありえないのである。
これに対して、直接石油火力発電で石油を燃やす場合、304億kWh(26.1兆
kcal)を産出するために必要な石油の投入量は、74兆〜87兆
kcalになる(産出比=0.35〜0.3)。試算によれば、原子力発電は石油の利用効率においても、石油火力発電よりも劣るのである。つまり石油は、原子力発電を行わずに、直接石油火力発電所で燃料として使用した方が石油の節約になるという結果になる。原子力発電は石油と資源を浪費するだけのシステムである。蛇足であるが、原子力発電は同一の発電量を得るためには、石油火力発電より余計に二酸化炭素を排出するのである。
この室田の試算に対しては異論があるかもしれない。原子力発電の場合、その操業中もさることながら、廃炉後に残される膨大な放射性廃物の処理コスト(=安全性の確保)を如何に判断するかによって、その結果は大きく異なる。24000年という保管期間が長過ぎるかどうか、非常に判断は難しい。物理的に考えれば、24000年が経過しても、プルトニウムの毒性は半分にしかならないのである(註2)。これを考えれば、保管期間24000年はむしろ短すぎる。しかし、現実的には、プルトニウムを含む放射性廃物を24000年もの間環境から隔離することは技術的に不可能である。
環境問題という視点から見たとき、原子力発電はエネルギーコスト分析以前に、その操業中、廃炉後に環境に拡散する放射性廃物による環境の汚染、非常に毒性の強い物エントロピーの環境への拡散という視点から論ずべき問題であろう。わずか数十年間の操業によって途方も無い期間環境を汚染し続ける廃物を生み出す原子力発電と人間社会は共存できないものである。一刻も早く原子力発電から撤退すべきである。
註1)その後、朝日文庫として改訂・出版された「原発の経済学」(1993年)では、試算の仮定が見直された。改訂された数値は以下のとおりである。
廃炉までの産出エネルギー総量 608億kWh(52.2兆kcal)
原発における投入エネルギー量 81.1兆kcal(保管期間24000年)〜513.1兆kcal(保管期間240000年)
石油火力における投入エネルギー量 159.0兆kcal(産出比0.351)〜174.8兆kcal(産出比0.3)
この改定値を使用すると、原発のエネルギー産出比は 0.10〜0.64<1.0 になる。
註2)現実には、原子炉内で生成されるプルトニウムよりも重い元素の崩壊により、新たに生成される分があるため単純に毒性は半減するわけではない。10年後よりも10000年後のほうが放射性毒性は2倍程度に増加する。研究によると、天然ウランに対する相対毒性は、800年過ぎにいったん極小値をとった後に増加し始め、700000年後に極大値になる。これから考えると、試算の上限値として設定された240000年は、むしろ短すぎる値と考えられる。
※以下、8-4〜8-7については、§2-2エネルギーの『石油代替エネルギー供給技術の有効性の検討』を参照されたい。
8-4 自然エネルギー発電
8-5 事例1 太陽光発電
8-6 事例2 風力発電
8-7 事例3 燃料電池および風力発電〜燃料電池システム
8-8 すべての石油代替エネルギーは石油と資源の浪費
以上、代表的な「石油代替エネルギー」あるいは「エコエネルギー」と呼ばれているエネルギー供給技術について検討してきた。いずれの技術も、石油という非常に優れたエネルギー資源があるからこそ初めて成り立つ、石油文明下の「可能な技術」にすぎないことが明らかになった。これらの技術は石油がなければ成立せず、全面的に石油エネルギーを代替することは不可能である。それどころか、この「可能な技術」を使うほど、石油とその他の資源の浪費を加速し、目的とは裏腹に、既存の石油によるエネルギー供給システム以上の大量の二酸化炭素の放出と、大量の産業廃棄物の山を作り出すことが明らかになった。
これは至極当然のことであって、最も優れたエネルギー資源だからこそ石油文明が成立したのである。仮に石油を代替出来るような優れたエネルギー資源やエネルギー供給技術があるとすれば、それは多額の研究補助金など必要とせずに自立的に産業化が行われるのである。太陽光発電や風力発電あるいは燃料電池は「クリーンだが高コストがネック」と言われることがある。しかし、工業生産において『高コスト』であるということは、すなわち資源と石油をそれだけ浪費していることを暗示しているのであり、エネルギー供給技術としては致命的な欠陥なのである。
自然エネルギーは普遍的に存在するし、その絶対的な賦存量は莫大である。しかし、エネルギー密度は低く、人為的な制御は不能である。このようなエネルギーを工業的に捕捉し、制御して利用可能にするためには膨大な資源と同時に石油エネルギーの投入が必要となる。自然エネルギーの最も効果的な使い方は、たとえば風車を回して揚水したり、風通しの良い家屋の構造を工夫したり、日向水を作るなどの、伝統的な利用技術の延長線上にある。
現在の工業技術とは、究極的には石油の利用技術である。工業技術で石油代替エネルギーシステムを構想することは、技術の限界を見誤った錬金術あるいは永久機関の開発に等しい愚行であることに早く気づくべきである。
§9.結論
第一部の二酸化炭素地球温暖化説の検討から、現在観測されている気温の上昇傾向が温室効果を主因とする可能性は小さく、たとえ二酸化炭素の増加による温室効果の影響が顕在化したとしても、それが地球の生態系にとっての脅威に直結することはなく、むしろ生態系にとって好条件になる可能性があることを示した。
第二部において、温室効果による地球温暖化を『防止』することを目的に導入されようとしている、クリーンエネルギー供給技術について検討した結果、これらの技術は石油とその他の資源の浪費を加速すること、つまり二酸化炭素排出量を増大させると同時に、産業規模を拡大し、産業廃棄物の増大につながることを示した。
現在主流となっている、環境問題=地球温暖化という図式は、産官学共同体とマスコミの世論操作による『空騒ぎ』に過ぎないのである。
しかし、その一方で生態系の物質循環を破壊する、本質的な意味における環境問題は確実に進行している。我々は、もう一度『環境問題とは何か』という原点に立ち戻って、冷静で科学的な検討を行うことから対策を検討しなおさなければならない。
我々の文明は、石油という優れたエネルギー資源の使用によって目覚しい発展を遂げた。これによって工業的な物質について豊かになった反面、人間という生物種の根源的な生存の基盤である生態系の物質循環を傷つけてきた。こうして顕在化した環境問題を、これまでの工業技術の延長線上にある高度な工業技術による対症療法で解決しようとする目論見は、意に反して更なる工業生産システムの肥大による環境問題の悪化につながる。
これまでの工業技術の発展の方向性は、自然を克服すべき対象として、自然環境に影響されない『人間社会』という閉鎖システムを構想してきたように思える。しかし、我々は生物であることを超越できないように、豊かな生態系の中にあってこそ生かされているのである。環境問題を克服するためには、我々は生態系を構成する一員であることを自覚し、生態系を豊かにすることに主眼を置いた新たな工業技術の方向性を模索すべき時期にあると考える。槌田の言う『後期石油文明』を実現することがその一つのあり方ではないだろうか。
(2003/02/13)