No.1518(2024/06/29) この不愉快な季節に、またしても不愉快な事件
沖縄における少女暴行事件を政治的な意図で隠蔽してきた岸田対米隷属政権

 前回、米国に隷属する岸田保守党政権について触れました。私にとってこの不愉快な時期に、またしても岸田政権による沖縄駐留米軍の兵士による少女暴行事件の隠蔽という、極めて不愉快な事件が発覚しました。また、その公表の時期が沖縄県議会選挙後という「絶妙のタイミング」であることに政治的に利用した意図が明かです。

 この件について、天木さんのメールマガジンの記事を以下に転載します。


2024年06月28日08時15分 配信

今度ばかりは怒りをぶつける相手は
米軍ではなく岸田政権とその加担者たちだ

 三日続けて米兵の沖縄少女暴行事件について書く。
 私にとってそれほど関心が高いからだ。
 そして、これが最後だ。
 これ以上私が何を書いても、何も変わらないと思うからだ。
 しかし、この問題をうやむやにして終わるなら、沖縄問題は今後何があっても抑え込まれてしまう。
 そのことだけは警告しておかなければいけないと思って最後にひところ書きとどめておきたい。

 きのう沖縄在住の知人に第一報を報じた「沖縄の民放」とはどこだと聞いた。
 その知人は、確かテレビだったという。
 やはりそうだったのだ、と私は思った。
 琉球新報や沖縄タイムズではなかったのだ。
 これはどう考えてもおかしい。
 こんな重大な事件を、警察が現地新聞に知らせないはずがない。
 知らせなくても現地新聞は取材して沖縄県民に知らせなくてはいけない。
 事件が起きた直後の去年の12月の時点で報じなくても、起訴された今年3月以降は報道できたはずだ。
 しかもその時点で外務省は米国に抗議したという。
 それにもかかわらず、6月末まで一切の報道がなく、誰も知らなかったというのだ。

 沖縄のテレビが6月25日に報じて始めてすべてのメディアが報じたというのだ。
 もしそうなら、一番恥をかかされたのは現地新聞であり大手新聞であり大手メディアだという事になる。
 ところが、彼らはこんな事件が発覚しても大騒ぎしない。
 隠ぺいした外務省や岸田政権を責めない。
 悪いのは、日本の主権を無視した在日米軍であり、だから日米地位協定の改定が必要だと繰り返すだけだ。
 流される沖縄住民の声も、また起きたか、だから米軍は沖縄には要らない、というお決まりの反応ばかりだ。
 なぜ隠されていたのかという声は流されない。
 沖縄県が謝罪を要求した相手は米軍の責任者であり、しかも米軍の責任者は、経緯を説明したが謝罪はしなかったと、メディアは批判的に書いている。
 これもまたお決まりの米軍批判だ。
 しかし、今度ばかりは、怒りの矛先は米軍ではない。
 その事実を知っていながら周到に6月末まで隠し続けた岸田政権と外務省と彼らに協力した大手メディアだ。
 6月中旬には沖縄議会選挙があり、6月23日には沖縄慰霊の追悼式があった。
 その前に知らせて大騒ぎになれば政府、外務省にとって面倒なことになった。
 隠し続けるわけにはいかないからその二つが終わった流す。

 大手メディアのどこかが第一報を流すと、スクープ報道した者が抜け駆けして喧嘩になる。
 いずれにも属さないマイナーなローカルテレビなら、抜け駆けしても仕方ないというわけだ。
 なぜ公表が遅れたか、そう聞かれて、警察や外務省や林官房長官の言い草がふるっている。
 事件の性質上、被害者のプライバシーを優先したと。
 これまでは被害者のプライバシーを優先しなかったとでもいうのか。
 被害者のプライバシーを優先しながら公表して来たではないか。
 今度の少女暴行事件の隠ぺいは、政府・外務省の意図的隠ぺいに大手メディアが結託して協力した結果起きた一大スキャンダルだ。
 今度ばかりは、怒りの矛先は米軍ではなく政府・外務省と大手メディアに向かわなくてはいけないのである。
 この事件をこのまま終わらせるようでは、もはや沖縄は何をやっても救われない。
 日本の政治家たちは沖縄を救おうとしないまま沖縄は見捨てられるだろう。
 怒れ、沖縄、その時は今だ(了) 


 

No.1517(2024/06/26) 今年も不愉快な季節がまたやってきた。
平和のために軍備を増強するという愚かなパラドクスがなぜ信じられるのか?

 6月23日は沖縄戦の慰霊の日です。毎年この頃から8月の原爆投下、敗戦記念日まで、私にとって極めて不愉快な季節が続きます。
 この時期、やたらとマスコミ、報道機関では平和がいかに大事か、人命が如何に尊いのかという至極まっとうな主張をこれでもか、というほどに繰り返し叫びます。それは結構なことです。
 しかしながら振り返ってわが日本国はますます軍備を増強して戦争準備に前のめりに突き進みつつあります。ことに「平和主義者」「反核兵器」の岸田文雄が総理大臣に就任して以降の米軍との同化政策には唖然とするばかりです。
 このような状況下でマスコミ、報道機関はこの岸田の出鱈目な対米隷属の軍備拡張政策に対して正面からこれを批判する姿勢は見られません。曰く、東アジアの緊張が高まっているので防衛力の強化は必要、というのです。馬鹿なことを言ってはいけません。世界で最も凶暴な米国がアジアの大国である中国を挑発し、これに同調して日本が軍備を増強することが緊張を高めているのです。まさにマッチポンプです。
 そればかりでなく日本国民自身がこうした日本政府の米国と一体となった軍事力の増強によって国家の平和を守るなどという愚かな政策に対して極めて鈍感になってしまっています。
 この時期マスコミ、報道機関は、数少なくなった戦争経験者に、お決まりの様に「戦争は繰り返してはならない」と言わせます。こうした「平和国家」としてのエクスキューズのために利用されているこの種の映像に登場する老人たちは、痛ましいとしか形容できません。
 残念ながらこうした行事は何の実効性もない季節的な「風物詩」と化してしまったようです。

 24日の大分合同新聞にもこの種の記事が掲載されましたが、また一過性のものとなるのでしょう。

 

 正に平和ボケしまった日本において、現実感をもって戦争を繰り返したくないと考えているのは、今また軍事施設の増強が進められている沖縄の方々のごく一部なのではないでしょうか。

 各国の為政者たちは言います、「平和を守るためには防衛のための軍事力の強化が必要だ」と。ナイーブで愚かな国民の多くはこれに同調してしまっています。果たしてそうでしょうか?

 この際、戦争当事者のいずれに非があるかという問題は棚上げしておきます。
 突き詰めれば、戦争という行為は侵略する側であろうと侵略される側であろうと、あるいは戦争に勝った側であろうと負けた側であろうと、当事国の国民にとっては要するに殺し合いであり、生命が失われるのです。
 平和を守るために戦争をするということは、自国の人命を守るためには他国の人を殺すことが正当化されるということです。防衛力とは防衛の名のもとに他国の人を計画的に大量に殺戮する能力のことを意味します。
 一般的な社会においては人命程尊いものはなく、絶対に殺人を犯してはならないと言われます。その同じ国の国民が自国の平和を守るためであればで他国民を計画的・大量に殺人してもよいなどというのは非論理的であり、理解不能です。防衛力を増強するということはそういうことです。

 さらに、現在の戦争ではいくら軍備を強化しても、当事国のいずれか一方が完全に無傷でいられるなどということは技術的にあり得ないのです。要は殺し合いであり、戦争当事国の一般市民の生命が失われることになるのです。
 むしろ軍備を増強するほど戦争は大きくなり、ウクライナ紛争で分かるように欧米諸国が兵器を供給するほど戦場は拡大、長期化し、市民の犠牲者は増え続けるのです。

 平和を守る方法、戦争で誰一人死者を出さない方法はただ一つです。戦争を完全放棄すること、正に日本国憲法を文面通りに実行することだけです。勿論何もしないというわけではなく、国際紛争を回避するためにあらゆる外交努力を行うことこそ必要です。戦争を避けられないということは防衛政策の敗北です。例えば紛争当事国の一方であるウクライナに対して、15世紀以来、武力によって世界を蹂躙し続けている凶悪な欧米に加担して援助を続けるなど、愚かとしか言いようがありません。日本が平和を希求するのであれば、一日でも早く停戦し、紛争を終結することにこそ努力すべきです。

 日本という国はアジア大陸の沿海にある島国です。日本の平和を守るためには、海を隔てて接する中国、韓国、北朝鮮、ロシアという近隣諸国と良好な関係を築くためにあらゆる外交努力をすること、自衛隊を武装解除すると同時に世界で最も凶悪な戦争国家である米軍基地を縮小することこそ必要だと考えます。

 

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