今回は、長州新聞のホームページから掲題の記事を全文転載します(赤文字の強調は近藤の主観による。)。
著者の伊勢崎氏は、防衛大学でも自衛隊幹部に対して講義を行う、彼自身が言うように「あちら側」の研究者です。それでも客観的に日本の地政学的な位置を考えれば、これ以上の軍備拡張や日米軍事同盟の強化は日本を軍事的な危険に導くことになると述べています。
日本の国土と国民の安全のためには米国と中国、北朝鮮、ロシアとの緩衝地帯として、非武装中立化こそ日本の安全を実現する最も「現実的」な方向であろうと考えます。リベラル、右翼を問わず、岸田米国傀儡政権の米国盲従の無謀な軍備拡張路線に反対することが、今必要だと考えます。
アメリカの代理戦争と緩衝国家の安全保障
――琉球列島のトリップワイヤー化を問う
東京外国語大学教授・伊勢崎賢治
「台湾有事」を想定したミサイル基地化が進む沖縄県宮古島市で10日、「琉球弧を平和の緩衝地帯に」と題し、東京外国語大学教授(紛争予防・平和構築学)の伊勢崎賢治氏を講師に招いた講演会が開かれた。主催は、ブルーインパルス飛行NO! 下地島・宮古空港軍事利用反対実行委員会。約200人が参加した講演会で、伊勢崎氏は、国連職員として赴いた各地の紛争地域での停戦調停やアフガニスタンで武装解除に携わった経験から、ウクライナ情勢が日本に突きつける問題を指摘。また大国同士の戦争によって真っ先に戦場になる運命にある「緩衝国家」であることを意識し、「ボーダーランド(国境地帯)」をあえて非武装化して戦争回避のための信頼醸成の要にする国防戦略の選択肢について、世界各国の事例をまじえながら提起した。講演内容を紹介する。(文責・編集部)
この77年間、日本は幸か不幸か戦争を身近に感じてこなかった。本当は感じなければいけない。なぜなら世界で一番人を殺す国はアメリカ合衆国だ。ロシアではない。われわれは、そのアメリカを体内に置いているわけだ。この責任を日本人は真っ先に感じなければならないのに、まだ「対岸の火事」と考える人が多い。
一番怖いのは、政治はそれを必ず利用するということだ。「もしわれわれに向かってあの敵が襲って来たらどうするのか」ということで、「だから軍備増強だ」となる。これは歴史上何回もくり返されてきた不可避的な動きだが、これに対していかに抵抗し、食い止めるかについて、僕なりの考えを提供したい。
まず我が家のファミリーヒストリーから話したい。僕は親1人、子1人の母子家庭だったのだが、3年前にその母が98歳で亡くなった。
伊勢崎氏の母(前列左端)が女学生時代に撮影された同級生や恩師との記念写真(1939年頃、伊勢崎氏提供)
これは母が17歳のときの【写真】だ。撮影されたのは戦前、場所はサイパン。伊勢崎家はもともと八丈島(小笠原諸島)の島流しの家系だが、戦前の南方政策で、国策として一族郎党すべてサイパンに移住した。そこには女学校もあり、強大な日本人コミュニティがあった。沖縄からもたくさん人が入っており、母は戦争体験は語らなかったが、沖縄の人との交流はよく口にしていた。
戦争が始まり、ここに米軍が攻めてくる。追い詰められた住民に対して、米軍は拡声器で「投降せよ」と呼びかけたが、住民は応じなかった。そして断崖絶壁から「天皇陛下万歳」といって飛び降りた。「バンザイ・クリフ」と呼ばれ、今は観光名所になっている。この死のジャンプで伊勢崎家は全滅した。唯一生き残ったのは母と祖母、母の弟だけで、あとは全員死んだ。
母は戦争体験を語らないタイプだったが、僕が祖母からよく聞かされた話では、「アメリカに捕まれば、男は拷問され殺される。女子はレイプされ、屈辱を受けて殺される。そんな辱めを受けるのならば、天皇陛下のために喜んで死ね」と話し合われ、崖から飛び降りたのだと。一方的な情報を鵜呑みにさせられ、それを自分の意志として死を選ぶ――「死の忖度」だ。これが国民総動員の恐ろしいところだ。祖母によれば、捕虜キャンプでは丁寧に保護され、レイプもなかったという。
ここで問題にしたいのは、国民総動員だ。侵略者があらわれて、軍隊だけでは太刀打ちできない。だから「市民は銃を取れ」といい、銃を取らない女や子どもまで兵站活動のために総動員する。欧州ではパルチザンの歴史があり、市民の抵抗運動は英雄視されたが、現代ではそれは格好いいことではない。そうやって何百万人も殺された第二次世界大戦が終わり、人類は二度とこういうことをくり返さないためにどうするかを考え、国際法という形で禁止行為を定めたのだ。
現在の国際人道法(ジュネーブ条約)で一番の御法度は、市民を殺すことだ。もちろん相手国の市民を殺すことも戦争犯罪だが、自国の国民を盾に使うことも戦争犯罪になる。自国の市民を戦闘に巻き込むからだ。
そこで、みなさんによく考えてほしい。今のウクライナ戦争で「市民よ、銃を取れ」といって総動員令を出しているが、その銃はアメリカが供給しているものだ。アメリカの武器供与がなければウクライナは戦えない。そこに市民が動員されている。この戦争を応援できるだろうか? あの大戦を経験した日本人が。
市民は市民であり、銃を取らないからこそ、国際法で保護される対象になる。その市民が銃を取れば、相手から見たら戦闘員になるから殺せる。このマインドでアメリカは原爆を落としたし、われわれ(日本)も他国を空爆して無差別攻撃した。「敵国に無辜(こ)の市民はいない。みんな戦闘力だから殺せばいい」――無差別攻撃の動機はこうして生まれる。それをやってはならないと国際法はこの70年間で成長してきたのだ。
だが、ウクライナ戦争で世界が変わった。西側諸国は、諸手を挙げてウクライナの戦争を支援する。日本人は憲法九条を持っている。どんな戦争であろうと、たとえ侵略者に立ち向かう戦争であろうとも、双方に歩み寄らせて「もうやめろ」というのが九条の心ではないか。
ところが、僕が一刻も早いウクライナ戦争の停戦を求め、ロシア研究者の和田春樹先生(東京大学名誉教授)たちと学者グループを作って声明を出し、国連への働きかけを始めると、いわゆるリベラル九条派と呼ばれる人たちから「プーチンの味方をしている」といわれる。一体、九条主義とは何なのだろうか?
政治が歴史的に利用するのが「悪魔化」だ。第一次世界大戦のとき、アーサー・ポンソンビー卿という英国議員が、『戦時の嘘』(戦争プロパガンダ10の法則)という本を書いた。権力が戦争を起こすとき、もしくは戦争を継続させたいときにつく嘘(プロパガンダ)には法則がある。それは現在に至るすべての戦争に当てはまる。
@「われわれは戦争はしたくない」、A「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」――ウクライナ戦争は、今年2月24日に突然、宇宙から火星人が攻めてきたかの如く始まったものではない。ウクライナは2014年から8年間ずっと内戦状態であり、その延長として今の戦争がある。侵略は許されないことだが、そこには理由がある。その理由について考えさせない。
B「敵の指導者は悪魔のような人間だ」――プーチンだけが悪魔化されている。プーチンだけが悪魔か? それを非難する側のアメリカはどうか? 僕が関わったアフガニスタンでは8万人も殺し、イラクでは20万人だ。死者の数だけで比べることはできない。だが、ロシアの侵攻を問題にするのなら、大量破壊兵器の所在を偽装してまでイラクへの侵攻を正当化したアメリカと相対化されるべきだ。だが、そのように相対的に悪魔を見ようとするだけで「プーチンの味方をしている」といわれる。
僕を攻撃する人たちは、プーチンだけを「絶対悪」「抜きんでた悪魔」と見せたいのだが、それは日本にとっても好都合なわけだ。軍備増強のために。それにリベラル護憲派と称する人たちも乗っかっていると言わざるを得ない。
C「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」――使命とは何か? 自由と民主主義? その自由と民主主義のためにNATOとアメリカが20年戦った顛末について後述する。
D「われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」、E「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」、F「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」――今情報は西側からしか入ってこない。ロシア側からの情報は完全にシャットアウト。情報統制だ。それに異議を唱えるメディアがない。おそらく第二次世界大戦もこんな状態だったのだろうが、僕は65年生きてきて、こんな状態を目の当たりにするのは初めてだ。まして日本で。
G「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」、H「われわれの大義は神聖なものである」、I「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」――悪魔を相対的に見るというだけでも「裏切り者」扱いされる。ロシアを外交的に利するかもしれないという政治的思惑を優先し、非力な被害住民の側の視点に誰も立とうとしない。
「悪魔」があらわれるたびに「この悪魔はこれまでの悪魔とは違う」という理屈で、これがくり返され続けるのだ。
・冷戦終焉後のNATO 自分探しの30年
ウクライナ情勢について考えるうえで、まずNATO(北大西洋条約機構)について考える。僕は実務家として、この米国を頂点とする欧州の軍事同盟であるNATOと嫌というほど付き合ってきた。だから平和運動をやっている皆さんから見れば、その意味で僕は「あちら側(軍事組織の中)」の人間だ。
その僕が目撃した冷戦後のNATOは、「自分探しの30年」だ。NATOは冷戦のために生まれた軍事同盟であり、本来なら冷戦が終われば解消するのが筋だが、それをしなかった。冷戦が終わり、ソ連という敵がいなくなったのに「なぜ自分たちはいるのだろう?」という自分探しだ。その最後の20年に自分は付き合った。
NATOの軍事同盟としての性格は、次のNATO憲章第五条(集団防衛)にあらわされる。
「欧州又は北米における一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなす。締約国は、武力攻撃が行われたときは、国連憲章の認める個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するために必要と認める行動(兵力の使用を含む)を個別的及び共同して直ちにとることにより、攻撃を受けた締約国を援助する」
つまり、一人が狙われたら全員への攻撃と見なして、みんなで戦うという軍事同盟だ。ではNATOがそのように全員で戦ったことがあるのかといえば、実は一度しかない。数カ国だけの有志同盟で戦うことはあっても、みんなで戦ったのは一度きり。それが9・11テロ後、20年続いたアフガニスタン戦争だ。
冷戦時に形成された東西陣営の境界は、この30年で大きく東(ロシア側)に移動している【地図参照】。NATOの東方拡大だ。プーチンが開戦時に「NATOは東方不拡大の約束を破っている」と主張して物議を醸した。開戦当初、日本のメディアでも盛んに取り上げられ、専門家の多くは「それは嘘だ。そんな約束はなかった」と声高に主張した。
だが、この約束が確かに存在していたことは、アメリカの公文書を調べれば自明のことだ。ソ連崩壊前の1989年、ベルリンの壁が崩壊する。そこで西側の首脳たちは、みずからペレストロイカを発動して西側陣営に接近したゴルバチョフをソ連内の強硬派の攻撃から守るために何度も会合を開き、彼が円滑に改革を実行できるように「NATOはこれ以上ロシア側に拡大しない」という約束を何度もやっている。米ジョージ・ワシントン大学のナショナル・セキュリティー・アーカイブには、そのときの公電記録(外交議事録)が残っている。
ただし、この約束は、外交文書として交わされていない口約束であり、外交的拘束力があるとはいえない。だが、プーチンがまったくの嘘を言っているということにはならない。ちなみに、そこではNATOの発展的解消についても約束されている。軍事同盟ではなく、ロシアを含む欧州・ユーラシアすべてが加わった平和的な政治フォーラムに改変させるというビジョンまで語られていた記録が残っている。
・供与兵器が戦争再生産 アフガニスタン
ソ連崩壊前の1979年、ソ連はアフガニスタンに侵攻した。西側のわれわれはこれを侵略と非難し、日本を含めてモスクワ五輪(1980年)をボイコットしたことは記憶にあるだろう。
侵略行為は、ソ連も加盟する国連憲章において最も重い大罪だ。だが当時のソ連にとって、これは侵略ではなく、国連憲章51条で固有の権利として認める「集団的自衛権の行使」――つまり、友好国が窮地に陥って助けを求めており、助けに行かなければ自分自身もやられる。だから国際法に則った正当な武力行使であり侵略ではない、というのが当時のソ連の見解だ。
アフガニスタンは、その以前からいくつもの軍閥による戦乱の世が続いていた。軍閥とは、多様な民族で構成されるアフガンにおいて各民族のドンのような存在で、大きなものでは1万以上の兵員を抱える武装組織だ。これを最初に統一したのが社会主義政権だった。それが気にくわない軍閥たちが政権を攻撃し、劣勢になった政権はモスクワ(ソ連)に助けを求め、モスクワはこれを集団的自衛権行使の好機と捉えて武力行使に踏み切ったのだ。
このときソ連軍と戦ったアフガン人たちは、ムジャヒディーン(イスラム聖戦士)を名乗り、この戦争を「赤い悪魔(共産主義)に対する聖戦」とみなして勇猛果敢に戦った。当時これを応援したのが、サウジアラビアなどの金満王国、そしてNATO、とくに米国が大量の武器を供与した。
戦況を変えたのがスティンガーミサイル(携帯式ミサイル)だ。これによってソ連軍機は次々撃ち落とされ、10年間戦ってついにソ連は撤退する。アメリカ軍は戦闘に参加しないが、有効に戦える武器を与え、アメリカの敵と戦わせる――これを学術的には「代理戦争」という。
今のウクライナ戦争と一体何が違うだろうか?今回ロシアが侵攻した理由も集団的自衛権だ。つまり、2014年から8年間続くウクライナ東部のドンバス地方で、ロシア語を話す親ロシア派住民たちがウクライナ政府から迫害され、言語を剥ぎ取られ、独立を求めており、ロシアの助けを求めているという理由で、プーチンはこれを戦争ではなく「特別軍事作戦」といって軍事侵攻した。40年前とまったく同じ構図だ。
40年前の代理戦争は、アメリカが供与した武器が功を奏してムジャヒディーンが勝ち、しかもその10年後にはソ連邦が崩壊した。代理戦争の数少ない成功事例だ。
なぜこれを代理戦争と呼ぶのに、ウクライナ戦争は代理戦争と呼ばないのか。それは今懸命に戦っているウクライナの人々を侮蔑することではない。だが仕組みは同じなのに肌の色が違うだけで、一方を代理戦争といい、一方をそうではないという。これを「レイシズム(人種差別)」という。
とくに平和を求める人々は、このウクライナ戦争を「アメリカによる代理戦争」であると明確に捉えなければならない。なぜならこの戦争を止められるのはアメリカだからだ。バイデンがプーチンに電話一本かければ済む。「アメリカは武器の供与をやめる。だから、今ある軍事境界線で我慢しろ」と。それだけでいい。そうしなければ終わらない。それとも10年間、アフガンのように戦わせることが本望だとでもいうのだろうか。
このときアフガンでアメリカが支援した軍閥たちは、ソ連撤退後、今度は主導権をめぐって軍閥同士で内戦を始める。これによってアフガンは、ソ連侵攻時にも増して荒廃の一途を辿る。そこで登場したのが、タリバンの創始者ムッラー・オマール師だ。つまりタリバンは、強大な軍閥たちが内戦に明け暮れ、荒廃した国を立て直すための「世直し運動」として生まれたものだ。
また、このアフガン戦争は、アルカイダ設立者のオサマ・ビン・ラディンも生み出した。アメリカの支援を受けてソ連と戦った彼は、その後、その武器を使ってアメリカに牙を剥く。その後、僕は小泉政権から頼まれて政府代表としてアフガンに赴き、彼らを説得し、武器を回収する武装解除の任務を負うわけだが、そのとき回収した武器はすべて冷戦時代のものだった。
供与された武器は、次の戦争を再生産する。今回、ウクライナに供与された大量の高性能兵器が、その後一体どうなるのか――その使い道は誰もモニターできない。アメリカと付き合ってきた僕には断言できる。それでもこの戦争を応援できるだろうか?
アフガニスタン南東部で兵士の武装解除をおこなう伊勢崎氏(2002〜2003年。伊勢崎氏提供)
アフガニスタンの軍閥から回収した戦車(同上)
・対テロ戦争で世界分断 「どっちの味方だ?」
2001年、ついにニューヨークで9・11同時多発テロが発生する。当時のブッシュ大統領は、これを「第二のパールハーバー(真珠湾攻撃)」と呼んだ。アメリカが初めて本土攻撃を受けたわけだ。
日本のリベラルよりも強烈な信念を持つアメリカのリベラルたちも愛国主義に舞い上がり、国家全体が大政翼賛化する。愛国法を作り、ムスリムを敵視し、いわゆる「テロとの戦い」が始まる。わずか20年前のことだ。
攻撃を受けたアメリカはすぐさま、アルカイダを匿うタリバン政権に対して報復攻撃を開始する。個別的自衛権の行使だ。日本では、集団的自衛権だけが問題になるが、集団的自衛権の場合はまだ一緒に攻撃する相手との相談がある。個別的自衛権は自分の考えひとつでやるので、実は一番危ういのだ。
アメリカは、保守もリベラルもひっくるめて国家全体がテロのショックで舞い上がり、アフガンに雨のように爆弾を降らせた。ロシアの空爆の比ではない。何千人殺されたのかもわからない。明らかな戦争犯罪だ。膨大な無辜のアフガン人の命が奪われたが、これもウクライナのように報じられることはなかった。
テロから4カ月後の2002年1月、ブッシュ大統領が一般教書演説で世界に向かって高らかに問いかけたのは、「Which side you are?(どっちの味方だ?)」だ。アメリカの側に付くか否か――つまり「テロリストの側か、テロリスト撲滅を目指すわれわれの側か。態度を明確にしろ」と各国に迫った。ご承知の通り日本は真っ先に手を挙げ、だからこそ代表として僕がアフガンに送られたわけだ。
このときアフガンでは、アメリカは空から爆弾を落とすだけの卑怯な戦いをやり、かつてソ連軍と戦った現地の軍閥たちにタリバンとの地上戦を戦わせた。
そもそも軍閥たちが内戦をしたおかげで国が荒廃し、タリバン政権が生まれたのだが、タリバンに恨みを持っている彼らは、アメリカの支援を受けて、また一致団結してタリバンと戦い、一度だけ勝利する。
だが、その直後から彼らはまた内戦を始め、同じ失敗をくり返すことに慌てたアメリカは、日本を含めた国際社会の力でなんとか彼ら軍閥を説得し、彼らを入れて新政権を作るという壮大な実験を始めた。それに付き合わされたのが僕だ。
彼らを説得し、戦車やスカッドミサイルなどの保有兵器を回収し、それを新しく作る政権に移譲させる。そのかわりに彼らを政治家として登用する。彼らはタリバンよりも民間人を殺す戦争犯罪者であり、病的な連続殺人犯的なものさえいる。これらを政治家にし、武器ではなく民主主義の中で争うことを根付かせるという壮大な実験だ。これが西側の「民主主義」だということを覚えておいてほしい。
僕は武器を持たずに軍閥たちを説得し、すべての武器を回収した。アフガン人は総じて「日本人はかつて大国ロシアを打ち負かしたほど勇敢でありながら、平和を尊ぶ民族だ。日本人がいうことなら信じよう」ということで説得に応じ、武装解除は成功した。とはいえ相手は戦争犯罪者だ。戦争犯罪者と交渉しなければならない僕の立場を想像できるだろうか? 「人権侵害の“不処罰の文化”をおし進める悪魔の手先」という誹りを、アフガン国内外の人権団体から受けながら、そういう「汚い仕事」を僕はやってきた。平和のために。一人でも多く犠牲を減らすために。
当初、アフガンの新しい国家建設は前に進むかに見えた。まず統治の象徴として、特定の部族ではなく国を守る使命を持った透明性のある国軍創設を目指した。だが、勝利はアメリカ政府の政治的な思い込みに過ぎず、ここからタリバンは力を盛り返し、ブッシュは投げ出す形で退任。オバマ政権になるとどんどん深みにはまっていく。
このころから「この戦争にはもう軍事的な勝利はない」といわれ始めた。それでもアメリカは負けるわけにはいかない。だが、この時点でアフガン戦争はアメリカ建国史上最長の戦争になっていた。こんな戦争をアメリカ人は歴史上かつて戦ったことがないのだ。
僕は自衛隊の統合幕僚学校でも教えているが、日本の軍事専門家やOBも含めて、親米国であることを誇る人たちは、このような認識を驚くほど持っていない。
アメリカはこれに決着を付けるためにものすごく苦しむ。軍事的勝利ができないのなら、別の「勝利」でなんとか抜け出せないか――それを探る出口戦略が始まる。選挙を平和裏にやって「民主主義の勝利」として決着を付けようにも、もはや人々は危険を冒してまで選挙に行ってくれない。
その課題はトランプ政権にも引き継がれたが、撤退したくても無責任に撤退すればアルカイダを生むようなテロの温床になりかねない。
それにもっとも無責任な形で決着を付けたのが、バイデン政権だ。去年4月、「9・11テロから20年」のウケを狙うように、9月11日までに全面撤退するという声明を突然発表した。しかもタリバンから何一つコミットメントを確認しない無条件撤退だ。当時、僕と一緒にNATOで働いていた米軍将校たちから、「信じられない。無条件撤退とはどういうことだ…」と困惑のメールが届いた。
アメリカが出口戦略を探し始めたのは2010年ごろだが、それ以上に疲れ切っていたのが、この戦争に付き合わされてきたNATO諸国だった。冷戦後に存在意義を見失い、「対テロ」で結束して史上初めて戦ったアフガンで大混乱し、自己喪失に陥っていたところに、2014年、胸をなで下ろす事態が生まれた。ロシアのクリミア併合だ。これに対応することでNATOは新たな存在意義を見出せる――そんなメールも当時、NATOの将校から送られてきた。
・無責任なアフガン撤退 現地協力者見捨てた日本
バイデンによる突然の撤退宣言後、アフガンで何が起きたか。歴史的に戦乱が常態化するアフガンでは、各村々が自警のために武装する文化が根付いている。大小無数に存在する各地の武装勢力は、アメリカが創設した新しい国軍に帰依するか、タリバンに帰依するかの選択を迫られる。
米国大統領の無責任な撤退表明によって、その力関係はオセロゲームのようにバタバタとひっくり返り、誰も予測していなかったスピードでタリバンが勝利した。8月15日、首都カブールは1日にして陥落する。
その2週間後の8月30日、最後の米軍輸送機がアフガンを飛び立った。米軍もNATO軍も完全に姿を消し、アフガンは一瞬平和になる。ベトナム戦争の再来であり、世紀の大失態だ。初めてアメリカとNATOが結束して20年も戦ったあげく、すべてを放り出して敗走したのだ。
だが一方で、着々とウクライナ情勢が悪化していく。崩壊しかけたNATOの存在意義は、そちらに向いていくことになる。
2021年8月30日午後3時29分、東カブール空港から離陸した最後の米軍輸送機
ついでに触れておきたいことは、日本もこのアフガン戦争の参戦国であるということだ。自衛隊がインド洋でやった海上給油活動は、NATOの下部作戦だ。当時の小泉首相がブッシュの前でプレスリーの真似をして、参加を決めてきてしまった。海上自衛隊の護衛艦まで付けて出した日本は、戦史上立派な参戦国だ。
だがアフガン戦争に参加した国は、アメリカと一緒に全員逃げた。この大混乱のなかで西側諸国は、同国人や大使館員だけでなく、アフガン人職員、通訳、西側に留学して民主主義を学び、自国で働いていたNGO職員たちがタリバンから狙われないように、同国人と差別せずに家族まで含めて一緒に輸送機に乗せた。それでも多くを積み残したため、「命のビザ」を発給し、自力で脱出すれば移民として受け入れる用意までして助けようとした。
このときアフガン人協力者を見捨てて、自分たちだけ真っ先に逃げた国が一つだけある。日本だ。このときほど日本人であることを恥じたことはない。それまでは「自衛隊を一歩も出すな」と主張してきた僕は、すぐに自衛隊機の派遣を指示し、輸送機2機がアフガンに送られたが、初動が遅れたので誰も救い出すことができなかった。
どれだけ苦悩したかを考えてほしい。自衛隊は、憲法上存在しないことになっている。つまり法整備が進んでおらず、自衛隊法しかない。もし自衛隊が海外で戦争犯罪を起こしても、日本の法体系には戦争犯罪という概念がなく、裁く法がない。それだけでなく、日本人が公務で外国にいったときに犯した犯罪は、レイプや詐欺、殺人は東京地検が管轄するが、業務上過失は管轄外だ。これを「法の空白」という。
海外に送られた自衛隊が、そこで人を殺してしまったら業務上過失致死になるが、それを裁く法律がない。問いたいことは、自国の戦力が起こす事故を裁く法を持たないのにもかかわらず、なぜ自衛隊が送れるのか? ということだ。だから僕は、どんな形であれ自衛隊派遣は絶対にダメだと強硬に反対してきた。
その僕も、昨年8月15日、日本だけがまさかというほどの無責任な敗走をしたため、自衛隊機派遣を求めざるを得なかった。考えてもらいたいのは、この時のカブールは、軍が敗走する第一級の戦闘地域だ。そこに武装した自衛隊が送れてしまったという事実だ。憲法九条にどんな抑止力があっただろうか。
僕は派遣を要請した側だが、野党にはこのときの自衛隊派遣にどんな法的根拠があるのかを国会で追及してほしかった。だが、いまだにやらない。みずからを裁けない戦力が外で活動する――これは非常に恐ろしいことだ。こんな超法規的な違憲行為が実行されてしまうのに、これを誰も問題とも思わない。同じ難民でもアフガン人については関心がなく、ウクライナ人だけは優遇する。これが日本の実態だ。
・同調しない新興諸国 新冷戦が生む分断
アフガンでの歴史的大敗の後、バイデン政権は窮地に陥る。情けない敗走に加え、米軍のドローン誤爆で無実のアフガン人家族が殺される事件も起きた。窮地のバイデン政権が始めたのが、「どっちの味方か?」Ver.2だ。その標的は中国だ。
QUAD(軍事同盟)やIPEF(経済連携)をつくって中国包囲網を仕掛け、「中国の側につくか、われわれの側に付くのか」と、また世界を分断する。今年2月からは標的にロシアが加わっただけのことだ。アメリカとはこういう国だ。このアメリカによる「悪魔化」に、われわれは容易に翻弄されるのだ。
だが新たな分断は、20年前のようには上手くはいかない。今アメリカと欧州の結束は強いが、肝心のASEAN(東南アジア)、そしてインド、パキスタンはお互いに戦争していてもアメリカ側に付かない。アフリカ諸国も、欧米の対ロ経済制裁に参加しない。世界のほとんどの国がアメリカの味方に付いていない。「どっちの味方か?」Ver.2は明らかに失敗しているが、アメリカは諦めずにさらに分断を仕掛ける。
地球儀がある人は、北極から見ると世界の見方が少し変わるかもしれない【図参照】。見ての通り北極圏沿岸の大部分はロシアが占めている。そして北欧のノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランド、先住民族がデンマークから高度な自治を勝ち得たグリーンランドがある。対極にカナダ、アメリカ(アラスカ)。実はアメリカとロシアはベーリング海峡を挟んで4`程度しか離れていない。
今この北極圏の氷が溶けている。これまでは夏場は砕氷機を使えば通れても、冬場は完全に閉ざされていたのだが、2030年までに年間を通じて船舶の通過が可能になるといわれている。そうなると原子力潜水艦しか投入できなかった北極圏に他の兵器も投入できる。それだけでなく、永久凍土で発掘できなかった石油を含む地下資源がとくにロシアの沿岸で出てくる。
また、この「北航路」が年間通じて通れるようになれば、中国にとって非常に重要なルートになる。マラッカ海峡〜インド洋〜スエズ運河を通過する「南航路」を使わず、アメリカの干渉を一切受けないロシア沿岸部を通り、しかも行程を3分の2に短縮させることができる。 そのため中国は「一帯一路」構想を始める以前から、ロシアと北欧諸国に対して系統的に大規模な投資をしている。だから中国とロシアの関係はそう簡単には切れない。中国はここまで見越して30年以上前から戦略を立てている。
北極圏には「北極の国連」といわれる北極評議会がある。北極圏に接するロシア、アメリカ、カナダ、北欧のグリーンランド(デンマーク)、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの8カ国(準加盟国として中国と日本)が参加し、北極圏をめぐる各国の利害を調整する世界で唯一の機関だ。各沿岸国が好き勝手に覇権争いを始めたら地球が破壊されるからだ。それが、ウクライナ戦争が始まってからまったく機能していない。「ロシアとの対話はしない」という理由だが、北極圏の大部分を占めるロシアを排除して北極圏の権益が保てるだろうか? 地球温暖化に対処できるだろうか? 今欧州では、ロシアの専門家や科学者を呼んで会議を開くこともできないほど分断が進んでいる。
・新冷戦時代の緩衝国家 北欧諸国の知恵と葛藤
ウクライナ戦争は今年2月から突然始まったものではない。その1年前の昨年4月からウクライナとの国境線付近にロシアは軍を集結し始めていた。世界は緊張し、僕も戦争が必ず起きると予測した。そこで昨年12月、NATOの創立メンバーであり、アメリカの最重要同盟国であるノルウェーが会議を招集し、そこに僕も呼ばれた。このときはロシアの専門家も同席した。国境沿いに軍を集結させたロシアがこのまま開戦すればどうなるのかについて予測し、緩衝国家としての対応を探るためだ。
「緩衝国家」とは何か。ロシアに接するノルウェーがそうであり、フィンランド、アイスランド、そして日本、韓国も典型的な緩衝国家だ。つまり緩衝国家とは、敵対する大きな国家や軍事同盟の狭間に位置し、武力衝突を防ぐクッションになっている国だ。その敵対するいずれの勢力も、このクッションを失うと自分たちの本土に危険が及ぶと考えるため、軍事侵攻されて実際の被害を被る可能性が、普通の国より格段に高い。もし何か起きた時には、クッションが先にやられるのだ。
そのような国は、国防の観点から、なんとか戦争を回避しなければならないという役割を必然的に担うため、それを国是とするのが普通だ。ノルウェーはノーベル平和賞の授与国で知られる平和のメッカであり、パレスチナとイスラエルの紛争を終わらせるオスロ合意もここで演出された。それはノルウェーがロシアに接する緩衝国だからだ。ロシアの参加がなければ、そのような世界的な和平合意の交渉はできない。だからアメリカの重要な同盟国であり、人権国家でありながら、ロシアとの衝突を防ぐクッションになる。そのことによって世界平和に貢献する。ノルウェーは、このような平和・人権外交を、国の外交資産としてきた。
そのような立ち位置でうまくやってきたのが、フィンランド、ノルウェーであり、小国アイスランドだ。くり返すが、彼らはアメリカの最重要同盟国だ。だが国防の観点から、自国が最初の戦場になることを回避する――という極めて簡単な理由でその選択をする。
旧ソ連圏だったバルト3国は独立後、早々とNATO加盟国になる。そして2014年のクリミア併合後は、ここが「トリップワイヤー(仕掛け線)」に変わる。国境沿いにNATO軍を置き、互いにミサイルを向け合い、ことが起きた時にはここで相手の侵攻を遅らせるためのNATOの戦略の一つだ。日本では沖縄を含めて、それ以前からアメリカのトリップワイヤー化されている。
そこで注目に値するのが、NATO創立以来の加盟国であるアイスランドだ。この小さな島国(人口37万人)は、地理的にロシアからアメリカを狙うミサイルが上空を飛ぶため、米軍が最重要基地として常駐し、アメリカの不沈空母といわれてきた。だがリーマン・ショック後の2010年、さまざまな理由を背景にして、この国は米軍駐留を廃止した。米軍は訪問できるが常駐はしない。
そこで、国の防衛をどうするか――若い首相は考えた。NATO加盟国として「自由と民主主義」を信奉するが、別にロシアを刺激しなければ国防は必要ないという結論を出し、国防軍を廃止した。だから警察や海上保安隊はあるが軍はない。米軍と別れを告げるとともに自国軍まで廃止したのだ。
だが2014年のクリミア併合後、これら北欧の国々では、ロシアを脅威と見なす論調が、ロシアを刺激しない限り平和だという世論とぶつかり合い、その力関係が揺れ始めた。そして、ついに2020年5月、北極海に面したノルウェー北部のトロムソに、攻撃型の米原子力潜水艦が戦後初めて寄港した。これには地元住民が大反対した。
またNATO道盟国でありながら、2014年までは米軍の常駐を絶対に許さなかったノルウェーで、部分的にではあるが、米海兵隊が国境から離れた場所への常駐を始めた。ロシアのクリミア併合は、北欧諸国にもそれくらいの大きな影響を与えた。
民主主義国家である以上、いろんな事態が起きるたびに国論が揺れ、政治的選択が揺れ動くことは当然のことだ。だが、それまで「自由と民主主義」の陣営にいながら、ロシアを軍事的に刺激しないことを国是にしていたのがこれらの国々だ。
・プーチンの戦争目的 ウクライナの内陸国化
今年の2月24日、ロシアの軍事侵攻が始まる。その3カ月前の昨年12月、ノルウェーに集った僕たち研究者は、この事態を明確に予測した。一致した見解は、「プーチンなら絶対にやる。なぜならNATOとアメリカはアフガンで敗走したばかり。絶対に新たな進軍も駐留もしない。最大限やっても武器の供与までだ。あの男はこの好機を逃さない」というものだ。
事態は予測通りになっている。そこで僕たちは、ロシアには果たしてウクライナを侵略して平定する能力があるのかまで分析した。国を支配するためには軍事占領するだけでなく、平定して治めなければならない。そのためにどれだけの軍力が必要かを試算したが、ロシアの正規軍は30万人程度だが、人口4000万人のウクライナを平定するには、少なくとも90万人の兵力がいる。どう考えても不可能だ。赤軍に200万人動員できた第二次世界大戦の時代とは違う。
ロシアも民主主義国家であり、国民がそれを許さない。プーチンが一番恐れているのは自国の国民だ。もし大規模な動員をかけたら国民が黙っていないことをわかっている。やるとすれば部分的な動員までだ。だから、この国をレジュームチェンジ(政権転覆)させ、全体を支配しようという野望は、ブラフ(こけ脅し)ではいうかもしれないが本意ではない。
では、なにがプーチンにとって現実的な戦争目的かといえば、ウクライナの内陸国化だ。全部は占領せず、一部占領した東部ドンバス、クリミア、黒海沿岸の占領地をつないで回廊を作る。そうすればウクライナは内陸国化し、黒海沿岸の資源、権益はすべてロシアのものにできる。これが上位目的だ。今それさえ無理になっているが、2014年当時の占領地に比べると回廊の幅は厚くなっている。
そのどこで停戦に持ち込めるのかを、私たちのグループは探っている。たった1b、2bの「勝った」「負けた」のために何万人も死ぬわけだ。停戦が1日でも早ければ何千人もの命が救える。こんなちっぽけな領土争いのために、なぜ一般市民が死ななければならないのか。日本の護憲派にこそ、そういう考えをもってもらいたい。
・主権なき「平和」の脆弱さ 日本への教訓とは
今「ロシアの脅威」といわれるが、日本はウクライナどころではない。ウクライナにとっての脅威はロシア一国だが、日本にはロシア、中国、北朝鮮まである。われわれの方がはるかに脆弱だ。案の定、岸田政権はNATOに加盟するといい始めている。だが実はもう10年来、日本はすでに準NATOメンバーであり、一緒に合同軍事訓練をやっているし、自衛隊の銃弾はNATO仕様だ。いつでも一緒に戦争ができる。今に始まったことではない。
そこで考えてほしい。NATOに加わるというのはどういうことか? それはとりもなおさず「NATO地位協定」に入ることだ。
地位協定とは、平たくいえば、駐留軍と現地政府の「主権」の関係を示すものだ。たとえば日本の終戦直後(占領期)を思い起こしてほしい。駐留軍の法がすべてであり、日本の法はない。憲法さえできていない。駐留軍の頂点にいるのがマッカーサー元帥であり、どんな事件・事故が起きても駐留軍の法がそれを裁く。
だが、時間が経ち、戦時から準戦時、平和時へと移行するに従って、現地法が整備され、そのプレゼンスが大きくなり、駐留軍の法と競合し始める。発生する事件のうち、駐留軍の法で裁くものと、現地法で裁くものを区別しなければならない。それを取り決めるのが地位協定の役割だ。
駐留軍の法と現地法の関係は、時間とともに変わる。つまり変化しない地位協定はこの世に存在しない。一つの例外を除いて。
駐留軍を置くということは、われわれのような現地国からすれば「主権の放棄」だ。武力で占領されたとはいえ、主権意識が芽生えてくれば、主権をとり戻そうという話になる。本当はそのように考えなければいけない。主権を放棄し、その運用にも口を出さない、出せないという状態が常態化してしまった国は、自国民を戦争やテロに巻き込む危険性を増大させるだけでなく、他国の主権を侵害することにも無頓着になってしまう。
主権とは、大きく分ければ「裁判権」、「環境権」、「空域、海域、基地の管理権」だ。基地は誰のものか? われわれのものであるなら家賃くらい払えという話になる。重火器や戦車、戦闘機まで扱う軍隊の事故は、民間の事故とはワケが違う。さらに軍隊はいろんなものを垂れ流す。それをどちらの環境基準で規制するのかを決めなければならない。
戦時から平和時へ移行するとともに、主権が育ち、駐留軍の自由度は低下していくのが当たり前だ。アメリカが締結する地位協定は世界に120あるが、すべて時間とともに変化している。一つの例外を除いて。
その「唯一の例外」である日米地位協定については、僕とジャーナリスト・布施祐仁氏の共著『主権なき平和国家――地位協定の国際比較からみる日本の姿』(集英社)が文庫本になっているのでぜひ読んでもらいたい。
僕は、翁長知事の時代から沖縄県知事室の若い官僚たちをサポートしてきたが、沖縄県のホームページ上には、地位協定を国際比較した「地位協定ポータルサイト」が立ち上がっている。彼らは東京の我が家にまでアドバイスを聞きに来て、実際にアメリカと地位協定を結んでいる国にまで飛び、日本政府(大使館)に妨害を受けながらも、現地でいろんな識者と対話し、地位協定の実態を調べ、それを学術的価値のある資料にまで高めて保存している。ぜひ見てほしい。
アメリカが結ぶ120の地位協定は、いろんな状況に応じたものがあるが、代表的なものを挙げる。
イラクやアフガンのように米軍が実際に戦争をやっている国では「戦時の地位協定」。戦争はやっていないが米軍が駐留しているNATO諸国、日本と同じ敗戦国のドイツ、イタリア、そしてフィリピンなどでは「平和時の地位協定」。それらの中間として「準戦時の地位協定」があり、典型的なのは朝鮮戦争が休戦中の韓国だ。日本は典型的な「平和時の地位協定」だ。
これらを比較すると、とんでもないことがわかる。先述の「裁判権」「環境権」「管理権」の主権度を調査すると、日本と韓国だけがおかしい。ちなみに韓国は、時間とともに改定しているが、日本は一度もしていない。また韓国では、韓国軍と在韓米軍の力関係において、軍事指揮権をアメリカから自国にとり返すことが歴代大統領の使命のようになっている。すでに平和時の指揮権はとり戻しており、米軍はそれに従わなければいけない。そして戦時の指揮権まで米軍からとり戻そうとしている。日本でそんな議論を聞いたことがあるだろうか? 要求すらしていない。だから韓国と日米地位協定を一緒にすることもできない。
NATOにおける地位協定の基本は「互恵性」だ。互恵性とは、お互い同じ権利を相互に獲得すること。駐留軍を「送る国」とそれを「受け入れる国」の立場は対等という前提がある。たとえばドイツが米軍に与えた権利は、逆にドイツ軍もアメリカ本国で同じ権利を得られる。つまり、アメリカが本国でドイツにやらせたくないことは、アメリカもドイツ国内ではできない。これを「自由なき駐留」という。
この「互恵性」の考え方は、アメリカが結ぶ地位協定でも世界標準になっており、2国間協定であるフィリピンとの地位協定でも貫かれている。
イラクやアフガンは「準互恵性」だ。それでも、アメリカとアフガンの地位協定は、もし米兵がアフガン国内で事故を起こすと本国に送還されて軍法会議にかけられるが、それが正当に裁かれるかがわからないため、その軍法会議にアフガンの代表者が立ち会う権利を認めている。透明性を確保するための条項だが、日米地位協定にはそんなものすらない。つまり、日本はアフガン以下だということを認識すべきだ。
さらに、アメリカとイラクの地位協定では、米軍のイラク駐留は認めるが、絶対に他国を攻撃するために基地を使ってはならないと定めている。あくまでもイラクを守るための駐留であって、他の国を攻撃するための駐留は許さない。もしこれをアメリカがやれば、敵国は遠いアメリカ本土ではなく、近くのイラクを攻撃するからだ。だから国防の観点からアメリカの自由を許さない。単純な話だ。
果たして、日本がNATOの仲間入りができるか? いわゆる軍事の基本である軍事犯罪に対して、国家として自分自身を裁くという当たり前のことが法体系にない国。そんな無法国家と法的に対等になるという同盟国がどこにあるのかという話だ。
・米朝開戦すれば 日本は自動的に交戦国に
僕は2017年夏、韓国ソウルで開かれたPACC(太平洋地域陸軍参謀総長等会議)に呼ばれた。米中央陸軍総司令部(ハワイ)が2年ごとに、同盟国32カ国の陸軍参謀総長だけを集めてやる会議であり、この年の開催地であるソウルに米軍から直々に呼ばれた。
そのとき米軍の案内で、朝鮮戦争の休戦ラインである38度線付近の共同防護地区に赴いた。そこに立つ石碑には、この共同防護地区に兵を置く国々の名前が刻まれているが、そこに日本はない【写真参照】。一番重要なことは、この在韓米軍は国連軍だということだ。だがこの朝鮮国連軍は、現在の国連軍とは違い、参加するのはここに刻まれた17カ国だけだ。これは1950年に決議されたもので、実態は「休戦監視団」なのだ。
朝鮮戦争の停戦ラインに建立されている朝鮮国連軍の碑(韓国板門店、伊勢崎氏提供)
だからこの国連軍は、現在の国連本部(ニューヨーク)には管理できない。1994年、国連のガリ事務総長は、朝鮮国連軍は「安保理の権限が及ぶ下部組織として発動されたものではない」「朝鮮国連軍の解散は、安保理を含む国連のいかなる組織の責任でもなく、すべてはアメリカ合衆国の一存でおこなわれるべきもの」とする書簡を出している。なぜなら、ここで彼らが対峙しているのは北朝鮮であり、その背後には中国がいる。国連常任理事国である中国と国連軍が敵対できるわけがない。戦後の混乱期にできたものあり、もはや「歴史の遺物」といわれ、国連自身が忘れたい軍事組織になっている。
だがこの朝鮮国連軍が死滅化しているのかといえば、そうではない。数年前、トランプ大統領が「米朝開戦する」とツイッターで発信し、日本では机の下に潜り込む訓練がさかんにおこなわれた。このとき、オーストラリアの軍用機が、日本政府に通告もせずに嘉手納基地に降り立った。それを報道したメディアは沖縄2紙だけだ。その後、横田基地にも同じように日本政府には無通告でアメリカの同盟国の軍隊が入った。つまり、この指揮系統は、米大統領の発言一つでまだ動くのだ。アメリカは北朝鮮と中国に対峙するのは、自国ではなく「国連」であるという休戦の構図を維持したいわけだ。
世の中で唯一、この「冷戦期の遺物」である朝鮮国連軍と地位協定を結んでいる変な国がある。それが日本だ。先ほどの石碑には日本の国旗はない。つまり国連軍のなかに日本は入っていないのに、その国連軍と地位協定を結んでいる。
この朝鮮国連軍地位協定は、日米地位協定とほとんど同じだ。さらに両者は連動しており、横田を中心とする9つの在日米軍基地を、国連軍基地の後方支援基地と定めている。それでも足りない場合は、在日米軍基地をすべて使えるとまで書いている。だから日本に無通告でオーストラリア軍が入ってくるのだ。
これはどういうことかといえば、米朝開戦によって、日本は自動的に国際法上の「交戦国」になるということだ。戦争をするのならば、自分もその意志決定に加わるべきだが、日本だけには決定権がない、入れてもらえないのに地位協定を結んでいる。
戦争が始まってしまうと日本は後方支援国になる。「後方支援だからいいじゃないか」と思うかもしれないが、国際法には中立法規という原則があり、厳密に守られている。オトモダチが始めた戦争から中立であるためには条件がある。簡単にいえば3つ。「基地をつくらせない」「通過させない」「カネを出さない」だ。これらを全部やっているのが日本だ。敵から見たら日本は国際法上、正当な攻撃目標になる。自衛隊が撃たなくても、われわれは攻撃目標になるし、それに対して文句をいえない。
互恵性=「自由なき駐留」が世界標準になる。アメリカ軍がいても自由はない。日本はどうか? 同じアメリカの同盟国である緩衝国家であっても、韓国にも、ノルウェーにも、アイスランドにも“意志”がある。
緩衝国は、地理的な宿命だから変えられない。ロシアや中国に「あっちいけ」といえないし、アメリカは1万`離れた海の向こうにある。典型的なアメリカの緩衝国家であっても、普通は意志を持つ。でも日本にはそれがない。僕が日本を「緩衝“材”国家」と呼ぶ由縁だ。
・国防のための完全非武装 ノルウェーに学ぶ
最後にノルウェーの話をしたい。ノルウェーは北極海に面し、北部ではロシアと国境が接している。そこにあるのがキルケネス市だ。スウェーデンとフィンランドは中立国だが、ノルウェーは冷戦期においてはNATO加盟国で唯一ロシアと国境を接する国だった。
キルケネスの市役所前広場には、赤軍兵士の勇猛さを讃える碑が立っている。ノルウェー北部では、とくに年配者世代にとってロシア(ソ連)は「解放者」という側面があるからだ。ナチスドイツから解放してくれたという歴史的事実だ。だから国境を挟んで向かい合うロシアのニケル市との友好関係を歴史的に築いてきた。このような地域を「ボーダーランド」(辺境地)という。
まさに宮古島が日本にとってのボーダーランドだ。沖縄全体がそうだ。北海道も対ロシアのボーダーランドだ。このボーダーランドを武装化して、敵国に対して槍を向けることが果たして国防にとって有意義か否か。そこが問題だ。
このような国は、アメリカの同盟国でありながら、それをやらない。いまだにキルケネスでこの銅像がとり壊されたというニュースは確認されていない。そしてノルウェー軍は、このキルケネス周辺に沖縄のような大規模な常駐はしていない。ただ、2014年のクリミア併合以後、ロシアに接する国境線で軍事的な睨み合いが強化され、軍事演習などの動きが次第に顕著になっており、その傾向を懸念する学者や専門家、住民たちとの間で盛んに論議がおこなわれている。僕は、あえて日本は2014年以前のノルウェー外交に学ぶべきだと訴えたい。今のノルウェーのためにも。
こういうことをいうと「お前は平和ボケだ」といわれるが、そうではない。国防のためにこそ、日本が緩衝国家であるという事実をちゃんと認め、われわれが生き延びるために、ボーダーランドを非武装化するというのは国防の選択の一つだ。これは敵国に屈することではない。ノルウェーは平和と人権を重んじる国であり、ロシアで人権侵害が起きれば真っ先に糾弾する国だ。でも軍事的には刺激しない。東西両陣営のはざまにある緩衝国家としてのアイデンティティを確立し、それを内外に誇示することによって国防の要とする。そういう立ち位置があって当然だ。このアイデンティティがあるからこそロシアも二国間交渉に応じる。なぜ日本がそのような国になれないのか。
人権感覚の話をすると、また日本人が頭を抱えたくなるような状況がある。実は日本は、ジェノサイド条約を批准していない世界でごく少数の国の一つであることをご存じだろうか? ジェノサイド条約は、その名の通り大量殺戮を防止する重要な条約だ。北朝鮮、中国、ロシア、ウクライナ、アメリカ……ほとんどの国が批准している。
1世紀前、東京で井戸に毒をもったという根拠のない噂で朝鮮人虐殺事件が起きたが、今同じ事が起きたら、世界はジェノサイドとして日本を断罪するだろう。当時それを煽った主謀者は誰一人捕まっていない。日本には、このような扇動をする政治家、違法行為を命じた上官を裁く法がない。その一連の日本の無法さの象徴が、ジェノサイド条約を批准さえしていないという現実だ。
だからノルウェーには遠く及ばないが、まず日本が典型的な緩衝国家であることを認め、そのなかで、国防の観点からボーダーランドの武装をどう考えるかが重要だ。それはアメリカ軍だけでなく自国軍(自衛隊)も含めてだ。
大国同士の戦争が始まったら真っ先に戦場になる運命の緩衝国家だからこそ、そのボーダーランドを敢えて完全非武装化し、戦争回避のための信頼醸成の要になることを国防戦略にする道がある。逆に、今完全にバルト3国のトリップワイヤー化を先んじてやってしまっているのが、ここ(沖縄)だ。
そんなことを主張するお前は何をやっているのか、と思われた方は、ぜひ『非戦の安全保障論』(集英社新書)をお読みいただきたい。僕を含めた4人の著者は、全員が防衛省関係者だ。柳澤協二氏は防衛庁時代のトップ、加藤朗氏は防衛研究所の元主任研究官、林吉永氏は元空将補だ。そして僕は現役だが、陸海空の精鋭だけを教える防衛省統合幕僚学校で15年間教官をし、そこでも今回のような話をしている。司令官レベルで僕の主張を知らない人間はいない。
こんな話をする「伊勢崎は外せ」と、ネトウヨ的な自民党や維新の政治家から圧力を受けながら、とくに自衛隊制服組の人たちが僕の講座を死守している。そういう側面も自衛隊にはあるということを頭に入れておいてほしい。
みなさんから見たら僕は「あちら側」の人間だが、それでも現状に対する問題意識をもっている。ウクライナ戦争に乗じて、さらに軍備増強、日米同盟の強化が唱えられ、もしかしたら北海道にも米軍基地がつくられてしまうかもしれない。それを何とか止めたい。そのためには内側からも外側からも運動していくことが必要だと思っている。
今日は、護憲派の批判もしたが、ウクライナ戦争をめぐる動きは、これからもっとひどくなるだろう。なんとか平常心を保とう。欧州では、日本以上にロシア排除がものすごい。研究者の交流すらできない。世界は分断から分断へと、分断だけが強化され、それでもうけるのは武器産業であり、防衛族であり、そして「いつかきた道」がくり返されるだけだ。それに抗うために、この問題提起が役立つことを願っている。
いせざき・けんじ 1957年、東京都生まれ。東京外国語大学教授、同大学院教授(紛争予防と平和構築講座)。インド留学中、現地スラム街の居住権をめぐる住民運動にかかわる。国際NGO 職員として、内戦初期のシエラレオネを皮切りにアフリカ3カ国で10年間、開発援助に従事。2000年から国連職員として、インドネシアからの独立運動が起きていた東ティモールに赴き、国連PKO暫定行政府の県知事を務める。2001年からシエラレオネで国連派遣団の武装解除部長を担い、内戦終結に貢献。2003年からは日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)、『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』(朝日出版社)、『主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿』(共著、集英社クリエイティブ)など多数。
4−6 工業文明は化石燃料の枯渇で終焉を迎える
【追補】 電気エネルギーの利用について
脱炭素社会の実現、あるいはSDGsにおいて中心的な役割を担うと考えられているのが、非火力発電電気エネルギーないし水素エネルギーです。しかし、これが全く実用にならないことは既にこの連載ないし、レポート「工業化社会システムの脱炭素化は不可能」などで詳細に見てきました。
ここでは、火力発電を前提として、電気エネルギーの特性とその適切な利用方法について留意すべき点をまとめておくことにします。
エネルギーの形態には色々なものがあります。私たちが利用しているエネルギーとして、熱エネルギー、力学的エネルギー、電気エネルギー、光(電磁波)エネルギーなどがあります。エネルギーの物理学的な単位はJ(ジュール)であり、すべてのエネルギーで共通です。エネルギーは相互に変換することが出来ます。
電気エネルギーは様々な変換装置を用いて熱エネルギー、力学的エネルギー、光エネルギーに変換することが出来ます。基本的に、電気エネルギーは他のエネルギーでは実現できないことに使用する、あるいは電気を用いるのが最も効率的な場合に利用することが原則です。
電気を熱に変換することは化石燃料の浪費
高温の熱エネルギーQ1(温度:T1)を熱機関に投入し、熱機関を駆動した結果、低温の排熱のエネルギーQ2(温度:T2)を環境に廃棄し、力学的エネルギーWを取り出す熱機関には次の関係が成り立ちます。
W=Q1(1.0−T2/T1)−T2・S ここに、Sは熱機関で発生するエントロピー(S>0)
この等式から、熱機関の効率を高くするためには、高温熱T1と廃熱T2の温度差をできるだけ大きくすること、熱機関の発生エントロピーSを出来るだけ小さくすることだということが分かります。
実際にはT1、T2の限界、熱機関を構成する物質の物性による限界、更に発生エントロピーによる損失から、熱機関の効率ηは、
η=W/Q1=(1.0−T2/T1)−T2・S/Q1=0.5程度
であり、熱機関に投入した熱エネルギーQ1の内、半分程度は環境中に散逸してしまいます。
力学的エネルギーは更に発電機を介して電気エネルギーに変換することが出来ます。しかし熱学的な空間では力学的な運動には必ず摩擦が発生し、力学的エネルギーの一部は熱となって環境中に散逸します。
発電機に投入される力学的エネルギーをW、発電機で生み出される電力量をWe、発生エントロピーをSe、発電機の温度をTeとすると形式的に次のように表すことが出来ます。
We=W−Te・Se, Se>0
したがって、熱機関に投入した熱量Q1に対する発電効率ηeは、
ηe=We/Q1=0.4〜0.45程度<0.5
火力発電の発電効率ηeは投入したエネルギーの半分以下になります。火力発電のエネルギー産出比は、更に発電設備の損耗に対する減価償却分のエネルギー投入量を考慮する必要があるため、
火力発電のエネルギー産出比=0.35程度<0.4〜0.45
このように、火力発電電力は、投入する化石燃料の持つ熱エネルギーの半分以上を散逸することで得られているのです。得られた電気エネルギーはエントロピーを持たない利便性の高いエネルギーです。
現在は、主に火力発電による豊富な電力供給が可能なので、多方面で電気が利用されています。しかし、火力発電電力は、莫大な熱エネルギーの損失の上に生産されています。電気エネルギーを熱に変換して使用することは最も無駄な利用方法です。
既に見てきたように、火力発電によって電気を得るためには、投入した化石燃料の熱エネルギーの6割以上を環境に散逸させています。電気を熱に変換するのであれば、化石燃料の燃焼熱をそのまま使用すれば、2倍以上の便益を得ることが出来ます。調理、暖房用の電気器具はエネルギー効率から見れば最も愚かな使用法です。
移動体駆動に蓄電池を利用することは不合理
電気はエネルギーの一形態であり、化石燃料の様に長期間保管したり、持ち運ぶことが困難です。したがって、従来は送電線網で発電所から電力を消費する装置までを直接接続することで、発電すると同時に装置で消費していました。
これは移動体も例外ではありませんでした。従来は電動の移動体とは送電線網が建設可能な陸上を平面的に移動する電車に限られていました。
電気エネルギーを貯蔵して持ち運ぶ装置が蓄電池です。従来、蓄電池は出力あるいは貯めることのできるエネルギー量に対して重量が大きすぎるため、比較的電気エネルギー消費量の小さな装置にのみ利用されてきました。
人為的CO2地球温暖化の狂騒状態の中で、送電線網から独立した移動体である自動車を駆動するために蓄電池を利用することが始まりました。蓄電池の能力はリチウムイオン電池の普及で飛躍的に向上しました。しかし、移動体を駆動するためのエネルギー貯蔵装置としてリチウムイオン電池を利用することに合理性があるかどうかは冷静に判断すべきです。
少し古いデータですが、下図に示すように4サイクルガソリンエンジン車では、燃料の持つ熱エネルギーに対して、動力として取り出すことのできる力学的エネルギーの熱効率は0.2〜0.35程度です。
電気自動車に火力発電電力を充電して使用する場合を考えます。火力発電のエネルギー産出比を0.35、送電による損失を5%、車載リチウムイオン電池に対する充電・放電損失をそれぞれ5%、モーターの効率を90%と仮定します。火力発電所における化石燃料の燃焼エネルギーに対する電気自動車の駆動に有効に利用できる力学的エネルギーの効率は、
0.35×(1.0−0.05)×(1.0−0.05)×(1.0−0.05)×0.9=0.27
です。これはほとんどガソリンエンジン車の効率0.2〜0.35と同程度であることが分かります。しかし、これはガソリンエンジン車と電気自動車が同じ重量の場合です。
移動体の性能に対して、移動体の自重が大きく影響します。内燃機関自動車と電気自動車について、その構成要素であるガソリンとリチウムイオン電池の重量エネルギー密度について検討することにします。
表からわかるように、ガソリンに対してリチウムイオン電池の重量エネルギー密度は1/120程度だということが分かります。
ガソリンエンジン車の熱効率0.2〜0.35を考慮すると、ガソリンエンジン車の積載燃料の内、駆動力として有効に利用できるガソリンの熱エネルギーの重量エネルギー密度は、
12,000wh/kg×(0.2〜0.35)=2,400〜4,200wh/kg
程度です。これに対してリチウムイオン電池の充電、放電の効率を0.95、モーターの効率を0.9とすると、リチウムイオン電池の充電に投入された電力量に対して、駆動力として有効に利用できる電力量の重量エネルギー密度は、
100wh/kg×0.95×0.95×0.9=81.2wh/kg
程度です。ガソリンエンジン車と電気自動車で同じ力学的エネルギーを得るためには、電気自動車はガソリン重量の29.5〜51.7倍の重量のリチウムイオン電池が必要になります。このように、電気自動車は巨大なリチウムイオン電池の影響で移動体の自重が大きくなります。
例えば日産の電気自動車Leafでは、同クラスのガソリンエンジン車に比較して300kg以上(車重の30%程度)、人に換算して6人分ほど重くなっています。電気自動車の重量がガソリンエンジン車よりも30%程度重いため、同等の便益を得るために必要な火力発電所で投入する化石燃料は30%程度多くなります。
更に、リチウムイオン電池の性能は経年劣化で低下すること、蓄電エネルギー量が減ってもリチウムイオン電池の重量は変化しないこと、リチウムイオン電池の製造には大量の電気が必要なことから車両製造段階でガソリンエンジン車よりも大量のエネルギーを必要とすることなどを総合的に判断すると、電気自動車の方がCO2放出量が多くなります。
ディーゼルエンジン車やハイブリッド車はガソリンエンジン車よりも更に高いエネルギー利用効率なので、CO2放出量削減のために電気自動車を導入することに合理性はありません。
ここでは移動体として自動車について検討しましたが、移動体一般にエネルギー供給システムとして蓄電池を使用することに合理性はありません。出力対重量比が大きな要素となる移動体である航空機では、実用的な飛行を行うことは不可能です。
水素H2の利用について
脱炭素社会の主要なエネルギーとして再生可能エネルギー発電と共に水素の利用が注目されています。不安定な再生可能エネルギー発電電力を用いて水の電気分解によって水素を作り、これを貯蔵可能なエネルギーとして利用するというものです。
高圧水素は主に燃料電池によって再び電気に戻して利用することが考えられていました。水素を一種の蓄電装置として利用しようというものです。
しかし、既に詳細に検討したとおり、再生可能エネルギー発電電力はエネルギー産出比が1.0よりもはるかに小さいため、有効なエネルギーを一切供給することが不可能です。したがって、再生可能エネルギー発電電力で水を電気分解して水素を製造することは不可能です。
更に、レポート「工業化社会システムの脱炭素化は不可能」で検討したとおり、水素の製造は、製造過程で投入した電気エネルギーよりも得られるエネルギーが減少し無意味です。水素を燃料電池を用いて電気に戻す場合、発熱する(=熱エネルギーの散逸)ことからわかるように、更に得られるエネルギーは減少します。水素を高圧タンクに詰めて利用するためには高圧で充填することが必要であり、そのエネルギーを差し引くと更に損失が大きくなります。
以上から、わざわざ高品質のエネルギーである電気を投入して水を電気分解して水素を燃料として用いることは途方もないエネルギーの浪費であることが分かります。燃料としての水素の利用は全く無意味です。
工業的に製造した水素を燃料として用いることが無意味であることは分かりました。以下、水素製造工程のエネルギー利用効率の問題から離れて、単純に燃料としての水素の特性について、特に移動体を駆動する燃料として利用することについて検討することにします。
水素の重量当たりのエネルギー密度=142MJ/kgです。これはガソリンの49MJ/kgよりもはるかに大きな値です。水素H2の分子量は2なので、1kg=1000gで500molに相当します。標準状態の体積は22.4 ℓ/mol なので、500molは11,200 ℓ になります。水素を理想気体と仮定すると、これを350気圧まで圧縮した場合の体積は、11,200 ℓ /350=32 ℓ です。したがって、350気圧に圧縮したときの比重は、1/32kg/ℓ =0.031kg/ℓ です。したがって、体積エネルギー密度は次の通りです。
142MJ/kg×0.031kg/ℓ =4.44MJ/ℓ=1,233wh/ℓ
同様に、700気圧まで圧縮した場合は2,465wh/ℓ になります。
これに対してガソリンの比重は0.75kg/ℓ です。体積エネルギー密度は、
49MJ/kg×0.75kg/ℓ =36.8MJ/ℓ =10,222wh/ℓ
このように、水素を700気圧で耐圧タンクに充填したとしても、単位体積当たりのエネルギー量はガソリンの1/4以下です。700気圧の高圧水素では、同じエネルギー量を供給するためにガソリンの4倍以上の容積の耐圧タンクが必要になります。しかも700気圧の高圧に耐える容器はかなり肉厚で重たいものになります。
図A-1は、ガソリン50ℓ と水素10kgのエネルギー量を等価とした場合の燃料と容器の合計重量の一例を示しています。このデータによると水素を690気圧まで圧縮した場合、ガソリンに対して約6倍ほどの重量になっています。重量エネルギー密度は次の通りです。
(142MJ/kg×10kg)÷360kg=3.94MJ/kg=1,096wh/kg
トヨタの新型MIRAIでは、70MPa(約690気圧)の圧縮水素5.6kgを収める容器重量は110kg程度です。重量エネルギー密度はかなり改善されて次の通りです。
(142MJ/kg×5.6kg)÷(110+5.6)kg=6.88MJ/kg=1,911wh/kg
図A-1を参考に、容器重量を含むガソリンの重量エネルギー密度を求めると次の通りです。
49MJ/kg×(50ℓ × 0.75kg/ℓ )÷60kg=30.63MJ/kg=8,507wh/kg
このように、ガソリンと高圧水素を容器を含めて比較した場合、体積エネルギー密度、重量エネルギー密度のいずれもガソリンの方が圧倒的に優れています。
水素を燃料電池車の燃料とする場合の発電効率は0.35程度なので、ガソリンエンジン車の熱効率0.2〜0.35より多少優れていますが、この程度では移動体の燃料として高圧水素を利用する合理性はありません。しかも高圧タンクを含めた燃料電池車はとてつもなく高額であり、一般に普及することはありません。
2021年5月、トヨタは富士スピードウェイで行われた耐久レースに水素エンジン車を参加させました。これについてレース前に豊田章男は「カーボンニュートラルの実現に向けた選択肢の一つとして水素エンジンの開発を進めたい。」と語ったそうです。
しかし、大量の電気エネルギーを投入して作った水素をわざわざ熱効率の低い内燃機関の燃料として使うことに合理性はありません。レースでは、水素のエネルギー密度の低さを反映して、水素充填のために走行距離50km毎に一回という頻繁なピットインを余儀なくされ、散々な結果だったようです。
水素エンジン車の開発は、水素という物質の物性についての考察を怠った愚かな技術者集団の無能を露呈したものです。
最近の新聞紙面やテレビのニュース番組を見ていると、日本がまるで戦争前夜の状態にあるような異様さを感じます。
大分合同新聞2023年1月11日の紙面に、1月9日に米国のシンクタンクによる台湾有事の机上演習のシナリオが公表されたことを報じる記事が掲載されました。
まず新聞記事を紹介しておきます。
内容は、ウクライナに対するロシアの侵攻が開始された直後に既に米国が発表した2026年の台湾有事の可能性を踏襲するものです。米国は何の根拠もない2026年の中台開戦を前提とした台湾に対する軍事援助の強化を表明しています。しかし、中台間には確かに緊張関係があるのは事実ですが、3年先の2026年に軍事衝突に至ることなど現段階で分かるはずのないことです。
これは、裏を返せば、米国はウクライナの紛争状態が長くても2025年までには決着すると見込んで、2026年にはロシアに続く標的である中国の弱体化のための作戦にかかることを述べているのだと考えるべきです。正に昨年2月、ロシアのウクライナ侵攻前に米国が繰り返しロシアの軍事侵攻が起こると挑発を繰り返したのと同じことをしようとしているのでしょう。
米国の目的は米国の覇権を全世界に拡大することです。アジア・アフリカ地域において政治的・経済的・軍事的な影響力=「覇権」を拡大しつつある目障りな中国を、弱体化させ、あるいは排除し、自らの覇権の及ぶ版図を拡大することを正当化する大義名分として台湾有事を利用しようと画策しているのです。
これは現在のロシアのウクライナ侵攻のシナリオと酷似しています。
ウクライナは旧ソ連から独立するときに機械的な国境の線引きによって東部・南部地区に親ロシアのロシア語文化圏が含まれる形になりました。その結果、ウクライナ国内には複雑な民族対立が生じました。
米国はこれを利用してロシアをウクライナの民族紛争に引きずり込み、米欧が全面的に米欧傀儡ウクライナ政権を軍事・経済敵に援助し、ロシアと長期間戦わせることでロシアを軍事・経済的に徹底的に弱体化させることが目的です。
米国は、アジアにおいても中台問題を利用して、覇を争う中国を弱体化させることを狙っているのです。この時、台湾や日本は現在のウクライナと同じ役割を担わされることになるのです。
今回の米国シンクタンクによる中台有事の机上演習は、米国にとって都合の良いシナリオをまとめたものです。このシナリオでは、日米の被害が大きくなることが強調されていますが、これは中国の軍事的脅威を誇張し、岸田政権に対して更なる防衛費の増額、日本国内の米軍基地の利便性の供与を要求しているのです。
更に2023年1月11日の日米外務・防衛閣僚会議「2+2」で、傀儡岸田政権は米国に言われるがままに敵基地攻撃能力の保有を明言し、中台問題に対して日米共同で軍事的に対処するなど、あからさまな中国敵視政策をとることに合意しました。一連の米国盲従、日本国民の安全を顧みない岸田の行動は、ロシアとの武力衝突前の米欧傀儡のゼレンスキー・ウクライナ政権の行動と重なります。傀儡岸田政権にとって政権を維持するためには、国民の安全や日本国憲法よりも、米国の意向を優先することが重要なのです。
共同文書では「戦略的競争の新たな時代に勝利する」と書き込まれました。これは、日米同盟はアジア地域の覇権を中国に渡さないことを表明したものであり、中国に対するいわば宣戦布告です。同時に日本も中国と覇権を争う覇権国家であることを自ら表明したのです。
米国は2026年の中台開戦のシナリオに沿って、着々と中国を追い詰め始めています。米国はこのシナリオを実現するために、既に昨年、台湾に対する軍事援助を強化することを表明し、続いて対中強硬派のペロシ下院議長を派遣、さらに今回の日米会談で中国を敵視した防衛協力の強化を表明することで中国を挑発しています。
冷静に見れば、日本自身には中国と戦闘状態になるような外交問題は存在せず、日本の安全保障上の脅威とは米国の対中国戦略のシナリオにあるように軍事同盟国として戦闘に巻き込まれ、ウクライナと同じように米国の捨て駒にされることです。ここで強調しておきたいのは、米国と日本は対等な同盟国ではなく、ウクライナ同様、日本はあくまでも米国の属国、使い捨ての駒であるという現実を直視することが必要だということです。
いずれにしろ、2026年までには3年の時間があるのですから、日本が独自外交をすることのできる独立国であるならば、あらゆる外交的な手段によって戦争状態にならないようにすることは可能であり、そうすべきです。米国の戦争シナリオに乗って中台有事を想定して軍備を拡張するなど、むしろ緊張関係を高める愚かな行為です。
ところが、日本の新聞・報道機関の論調は、まるで今回公表された机上軍事演習のシナリオに描かれた中国の脅威が現実であるように煽っています。
昨日のテレビ朝日の夜の報道番組である報道ステーションでは、キャスターの大越の問いに答えて防衛相防衛研究所の高橋杉雄は、「中国の好きにさせないためにもっと軍事力を整備すべきである」との趣旨の発言をしていました。報道機関・マスコミに本来期待されている機能は、権力の行動を国民の立場から批判的に評価してその情報を大衆に還元することで権力の暴走を抑止することです。懸案となっている権力の行動について権力側の担当者の主張を無批判に報道すること自体、すでに報道機関・マスコミとしての機能を放棄し、先の戦争当時の大本営発表と同様、権力の宣伝機関に堕したことを示しているといってよいでしょう。
日本のマスコミ報道機関は、絶望的な太平洋戦争に向かって国民を扇動したように、またしても「新生」覇権国家日本が戦争に進んでいく道を進むことを扇動し始めたようです。
4−6 工業文明は化石燃料の枯渇で終焉を迎える
(4) SDGsは自然と社会を破壊する
既に見てきたように、SDGsという政策目標は物理的に実現不可能です。SDGsは、地球生態系の定常性を毀損している現在の人間社会の構造的な問題である人口爆発や工業生産量の増大という本質的な問題を放置したまま、DXないしGXと呼ばれる更なる人間社会の工業化=工業生産規模の拡大によって人間社会の「幸福」を実現しようとしているもので、本質的に矛盾を内包した政策目標なのです。
DX(Digital Transformations)とは単純化すると、人間社会のあらゆる活動に対して、センサーや情報処理システムを導入し、機械装置と組み合わせることで自動化することです。これを実現するためには更なる工業生産量と工業的なエネルギー消費量の増大を伴います。
SDGsでは、これを世界中のあらゆる階層・地域のあらゆる人に対して「平等に」提供するとしています。人口抑制を行わずに本気でSDGsを実現しようとすれば工業生産規模は際限なく爆発的に肥大化することになります。これによって、鉱物資源・エネルギー資源の枯渇が早まり、工業化社会の終焉を早めるだけでなく、自然環境を破壊することになります。
SDGsのもう一つの柱は、化石燃料消費を伴わない、無尽蔵のクリーンエネルギー供給システムを実現するというGX(Green Transformations)です。これは、DXを実現するための前提条件です。
しかし、既に見てきたように、工業化社会とはエネルギー産出比が大きな化石燃料による優れたエネルギー供給システムによって成り立っているのです。
再生可能エネルギー発電は、化石燃料の大量消費によってのみ実現可能な技術であって、単独のエネルギー産出比は1.0を大きく下回るために有効な工業的エネルギーを一切供給することが出来ません。加えて、火力発電を再生可能エネルギー発電システムに置き換えるだけで、工業生産規模が爆発的に大きくなり、自然環境を直接的に破壊することになります。私の住む大分県でも近年メガソーラー発電所の建設によって里山の自然環境が次々と破壊されており、その惨状は目を覆いたくなるほどです。
再生可能エネルギー発電の導入量が増えるにしたがって、不安定性を含めた効率の悪さについてかなり広く認識されるようになってきました。こうした現状から日本政府は、愚かで実現不可能な政策目標である2050年CO2排出ゼロを目指すとして、岸田政権は福島原発事故を受けて国民的合意を得た脱原発の目標をいとも簡単に破棄して原子力発電の拡大にシフトしました。これは国民の意思を無視したとんでもない選択です。
ここで原子力について少し触れておくことにします。SDGsの実現のために原子力利用を拡大することを報道した大分合同新聞2022年12月の記事を紹介します。
原子力発電は再生可能エネルギー発電同様、エネルギー産出比が1.0を超えることが出来ないため、化石燃料の消費なしには実現不可能であり、有効な電力を一切供給することはできません。また、仮に原子力発電が有用だとしても、ウランの可採年数は化石燃料よりもはるかに短く、SDGsの求める持続可能性を満たすことはできません。
原子力発電の電力原価は、福島原発事故以前で20円/kWh程度であり、火力発電よりもはるかに高価でした。原発事故後には更なる安全設備費の増加、対テロ対策(ほとんど無意味ですが・・・)などの追加施設が必要となり、おそらく30円/kWh程度になっているのではないでしょうか。
現在の原子力発電電力原価は、原子力発電のフロントエンド(ウラン鉱の採掘〜発電までの全工程)費用の内の、電力会社が負担する費用から算定されています。しかし、軍事的戦略物資であるウラン燃料の生産には膨大な国庫からの税金がつぎ込まれていることを考えれば、実際にはもっと高額です。
原子力発電では、従来、使用済み核燃料は再処理して高速増殖炉用の燃料として使用するという前提で高い資産価値を見込んで経済的にプラスの評価がされていました。しかし現実には「もんじゅ」が廃炉となり、高速増殖炉は実現不可能なため、単なる高レベル放射性廃棄物という不良資産になったのです。
更に原子力発電特有の問題としてバックエンド(発電後の廃炉から放射性廃棄物の保管処理までの数万年に及ぶ全工程)の費用が膨大な額に上ることになります。廃炉に加えて高レベル放射性廃棄物の冷却貯蔵さらにガラス固化体にして数10000年に及ぶ地下処分施設による管理が必要とされています。これは見方を変えれば、発電後の後処理に膨大な工業的エネルギーの消費が伴うことを示しています。
しかし福島原発の事故原子炉の廃炉作業の遅れでも分かるように、バックエンドの工程は人類がまだ経験したことのない作業ばかりで試行錯誤の連続です。現段階では技術的な問題がクリアーされておらず、果たしてどれくらいの費用と工業的エネルギーが消費されるか全くわからないのです。本来ならばバックエンドに関わる費用も原子力発電原価に含めなければなりませんが、現在は一切考慮されていません。
フロントエンド費用を正当に電力原価に反映させ、更にバックエンド費用を考慮すれば、原子力発電電力原価は途方もなく高価なものになります。したがって、エネルギー産出比は限りなく小さくなります。
原子力発電システムは、僅か数10年から100年(?)程度の運用期間に電力需要のごく一部を供給することで、高レベル放射性廃棄物という強い毒性を持つ危険物質を大量に産み出し、発電終了後にこれを数1000年〜数10000年間にわたって環境から隔離して保管することを必要とするものであり、狂気の発電技術としか言いようがありません。
いくら注意しても、1000年を超える超長期間に及ぶ危険物の管理など人間にはかつて経験のない事業であり、自然災害や戦争などの不確定要素を含めて、安全を確保できる保証は一切ありません。保管に失敗すれば甚大な環境汚染を引き起こすことになります。しかも、その保管期間の大部分は化石燃料は既に枯渇しており、工業的な技術は利用できません。
一刻も早く原子力発電の稼働を停止して、廃炉ならびに、これまでの原子力発電の運用によって作り出してしまった放射性廃棄物の処理に専念し、現時点で考えられる出来る限りの安全性の確保に努めるべきです。SDGsの実現のために原子力発電の使用を拡大することは、将来的な負担をさらに増加させる無責任極まりない馬鹿げた選択であり、倫理的にも許されない行為です。
以上検討してきたとおり、SDGs実現のための基幹的な工業技術である無尽蔵のエネルギー供給技術=GXは物理的に実現不可能であり、GXの実現を前提とするSDGsないし社会構造の脱炭素化は実現不可能なのです。
しかし、大企業や金融機関はSDGsや脱炭素化技術の開発に極めて前向きな姿勢を示しています。それはどうしてでしょうか?
利益最優先の大企業や金融機関が俄かに環境保護のために積極的になるなどということはありません。脱炭素化あるいはSDGsの実現のためと言われる技術、あるいは市場が莫大な経済的利益に結び付くからにほかなりません。
例えば再生可能エネルギー発電による脱炭素化について考えてみましょう。
現在の日本の年間最終エネルギー消費量は13,000PJ/年程度です (PJ=1×1015J) 。1秒当たりの平均的な最終エネルギー消費量は次の通りです。
13,000×1015J/年 ÷ (365日/年×24時間/日×3600秒/時間)=4.122×1011W
この最終消費エネルギーをすべて太陽光発電電力で賄うと仮定します。この連載のNo.1441の数値を使うと、必要な太陽光発電パネルの面積は次のように求めることが出来ます。
4.122×1011W÷13.7W/m2=3.009×1010m2=30,090 km2
太陽光発電所の面積を太陽光発電パネル面積の2倍とすると約60,000km2が必要ということになります。日本の国土面積は約370,000km2なので、実に国土面積の16%以上を太陽光発電所が埋め尽くすことになります。これは日本の総農地面積43,500km2よりも広い面積です。
実際には国土の3割程度の平地は、住居や商工業用地、農地として使用されるため、これを除くと太陽光発電所の建設対象国土面積は260,000km2程度になります。しかし傾斜地の北側斜面では太陽光を十分に受けることはできませんから、対象となるのは南向き斜面であり、これで建設対象国土面積は更に約半分になります。また、日本の急峻な山岳地帯に太陽光発電所を作ることは維持管理が難しくなるため現実的ではありません。したがって建設対象国土面積はさらに半分程度になります。これで建設対象国土面積は65,000km2になります。これらを考慮すると、ほぼ全ての里山の南斜面を太陽光発電所で埋め尽くしてしまうことが必要だということが分かります。
以上の検討では、あくまでも現在の最終エネルギー消費量の総量を賄うことを考えました。しかし、国土面積の16%を埋め尽くす太陽光発電所を、その耐用年数である20年ごとに更新するためには、工業生産規模が爆発的に大きくなるため、これを賄うために最終エネルギー消費量も爆発的に増加します。その増加分まですべて太陽光発電電力で供給することを考えれば、たとえ全国土を太陽光発電所にしても賄うことはできません。これが、エネルギー産出比が1.0を超えることのできない再生可能エネルギー発電の実態なのです。
話を元に戻します。このように、SDGsを実現するために再生可能エネルギー発電によって社会に必要なエネルギーを電力で賄おうとすると、工業生産量が爆発的に増大することが分かります。これは短期的には電力供給関連の製造業に無限の市場を提供することになり、一時的に製造業は活況を呈すことになるでしょう。
直接的には重電メーカー、重工メーカーだけでなく、電子機器メーカー、建設業、等々の製造業に対して無限の需要を作り出します。さらに、あらゆる装置を電力で駆動できるものに代替するために自動車メーカーをはじめとするあらゆる装置メーカーに対しても需要を提供します。
しかし、この工業的エネルギーの総電力化によって、末端の消費者の受け取る便益は一切増加しません。ただこれまで化石燃料ないし火力発電で賄われていたエネルギーが再生可能エネルギー発電電力に替わるだけです。そのために前述の通り、産業規模は爆発的に肥大化します。したがって、その爆発的に増加する社会的費用は全ての商品・サービス価格の上昇によって支払わなければならないのです。
エネルギー価格の際限のない上昇は庶民生活を破壊するばかりでなく、やがて製造業にも跳ね返ってきます。エネルギー産出比が1.0以下の再生可能エネルギー発電では、再生可能エネルギー発電システムを単純再生産することさえできず、ましてその他の部門に対してエネルギーを供給することはできません。再生可能エネルギー発電が増えるにしたがって、裏腹に供給可能なエネルギー量が減少し、やがてエネルギー不足で工業生産は破綻します。再生可能エネルギー発電の導入量を増加させつつ、同時にエネルギー需要を満足させようとすれば、脱炭素どころか逆に化石燃料消費量が爆発的に増加することになります。
こうした再生可能エネルギー発電導入による工業生産量の増加によって、例えば太陽光発電所の建設で里山の自然環境が直接的に破壊されるだけではなく、太陽光発電パネルや蓄電システムの製造に必要なレアアースの需要が爆発的に拡大し、レアアースの製造工程で放射能汚染を含む環境汚染が激甚化し、鉱山周辺の自然環境も悪化します。
更に耐用年数を経過した莫大なボリュームの太陽光発電パネルの廃棄処分自体が環境汚染・破壊を引き起こすことになります。
SDGsの実現を目指すほどに、そのバラ色の未来像とは似ても似つかない環境破壊と市民生活の劣化が蔓延することになるのです。
昨年は、太平洋戦争の敗戦から覇権主義の誤りを繰り返さないという決意のもとに戦後日本が目指してきた国の形である不戦・平和国家ないし民主主義国家という革新的な試みが崩壊した年でした。一体これからこの国はどこに向かうのか・・・。
今年の私の寒中見舞いを紹介します。
最近の日本の世情を見ていると、近代日本が絶望望的な太平洋戦争へ進んで行くのを私たちの親世代が止めることが出来なかったことが分かるようになりました。
昨年末、安全保障関連三文書の改定によって平和国家日本の最後の足掛かりであった他国に対する軍事的攻撃を行わないという制限が取り払われ、敵基地に対する先制攻撃を容認することになりました。これは明らかに現行憲法に反する内容なので、本来ならば憲法を改定した後に国会審議を経て結論を出すべき国家としての最重要課題です。岸田ファシスト政権はこれをいとも簡単に閣議決定という行政手続きで変えてしまったのです。
このような法治国家、あるいは議会制民主主義を否定するような政府の専横に対して、大衆はほとんど反応せずに、見かけ上平穏に経過しています。
今後の社会のあり方を左右するような重大問題であるにもかかわらず、安全保障問題や人為的CO2地球温暖化について、大衆は自らの頭で考え、判断することを放棄しているのです。太平洋戦争に突き進んで行った時代においても大衆は、現在と同じように、政治や社会に対して無関心であったのでしょう。
軍事費の増大、温暖化対策の本格化による増税が今年から具体化することになります。温暖化対策が本格化すればエネルギー価格は際限なく高騰し、昨年経験したように、エネルギー価格の高騰は全ての物価を上昇させ、庶民生活は疲弊します。
さらに台湾有事が現実のものになれば日本国土が米中戦争の最前線となり、ウクライナのような状況になるのです。
残念ながら、今後の日本社会がよくなる可能性が全く見出せない新年の幕開けです。