先日、このHPにご協力いただいている槌田敦氏からお手紙を頂きました。まずこれをご紹介します。
近藤邦明 様 2003.12.24
お手紙ありがとうございました。
エコという名前の全体主義が問答無用の活動をくり広げています。横浜市も、とうとう大掛かりなリサイクル行政を始めることになりました。市長に名古屋市の実態を例にして意見書を提出したのですが、何の返事もありません。このままでは、横浜市は名古屋市と同じようにリサイクル分別を市民に強要したうえ、それをふたたび一緒に混ぜて完全焼却して、ウソつき行政の道を進むのでしょう。
ところで、新年のご挨拶にも書きましたが、国際政治ではブッシュは世界の幕府を目指し、アメリカに逆らわない限り、国内政治体制を問わないという方針をあらわにしています。リビヤの独裁者カダフィは、アメリカがイラク戦争を始めたとき、いち早く支持して世界を驚かせましたが、これがワシントン幕府体制の実態です。北朝鮮も以前から米朝二国協議を主張し、アメリカに金体制の保証を求めていました。弱小国はつぎつぎとワシントン幕府の藩になっていくのです。
しかし、このアメリカ政府の内部は石油や軍事利権で不正の温床です。これではアメリカに対する、ドイツ、フランス、ロシアなど各国の不満は膨らむばかりで、アメリカは幕府になり切れないでしょう。そして、幕府を目指すがこれになりきれないアメリカと不満の諸大名の力が均衡の極限に達したとき、第三次世界大戦に突入することになります。そして、日本はそのどちらかに加担して、第二次大戦の不幸を繰り返すのでしょう。
人類はまたも考えることを止めてしまったようで、私には人類の未来は憂鬱です。
お尋ねの通信42号はまだ発行していません。気になっていますが、時間ばかり早く過ぎ去っていきます。時間の早さは誰でも同じ筈なのですが、なぜか実際の時間を年齢で割る早さになっているようです。これに代わるものとして、『東海村臨界事故』を同封します。
槌田 敦
手紙の冒頭にある、地方自治体のゴミ行政の問題も、新エネルギー同様、大変誤解のある問題であり、早急な検討が必要だと考えています。大分県においても『ゴミゼロ大分』という、論理的にありえないスローガンの下、官主導で民を巻き込み、妄信的に動き出そうとしています。この問題については、来年早々にこのHPでも取り上げたいと思います。
こうした、「エコ・エネルギー導入」「ゴミゼロ運動」という、エコを冠した行動に対して、どのような視点からであろうと、一切の批判を拒否する雰囲気は、正に『エコ・ファシズム』とでも呼べそうな状況です。こうした動きに、マスコミが同調している状況も、戦時体制下を彷彿とさせます。
環境問題に限らず、政治、安全保障問題など、私たちの日常生活に深くかかわっている問題に対して、国家や権威組織の情報を鵜呑みにして、自ら考えることをやめたとき、世界は再び大きな過ちを犯すことは避けられないと考えます。個人の能力で知り得る情報には限りがある現実を考えると、無能なマスメディアの責任は厳しく追及されなければならないと考えます。
今回紹介した手紙は、『核開発に反対する物理研究者の会通信No.42』の発刊について、私の問い合わせに対する返信です。No.42はまだ発行されていないのですが、代わりに送っていただいた、『東海村「臨界」事故』(編著 槌田敦+JCO臨界事故調査市民の会/高文研/2003.9.30)を紹介します。日本で過去最大の臨界事故である東海村のJCOの事故ですが、この事故の背景には、日本国政府の核戦略も絡んだ、国家的な核政策の構造的な問題があると考えられます。裁判では、この事故責任を現場の人為的なミスに矮小化し、核問題の本質には一切触れずに処理しています。この本は、日本の核開発の実像を知る上で貴重な資料を見ることが出来ます。
槌田氏による、『U 旧動燃が引き起こしたJCO臨界事故』を読むと、驚くべきことですが、事故に至るのはほとんど必然とさえ思われる、動燃、JCOの現場技術者、それに原子力安全委員、安全審査官の原子力ないし核分裂反応に対する認識の欠如、お手盛りの安全審査の実態が示されています。これは日本の原子力事業の構造的な問題なのだと考えます。また、事故処理においても、核分裂反応に対する認識の誤りから、度重なる失敗を犯した実態が示されています。なんとも背筋の寒くなる思いがします。
いくら安全対策をしても、事故を100%押さえ込むことは出来ませんし、人為的なミスは必ず起きます。一度事故が起これば、想定される事故のシナリオなど吹っ飛んでしまいます。小さなミスも許容されず、事故が即致命的な影響に直結する原子力発電と人間社会は共存できないのではないでしょうか。
No.106で紹介した有明海異変にもあるとおり、日本における本質的な環境問題、都市中心の快適な生活を得るために、農林水産業をスクラップにし、水循環と生態系の物質循環を徹底的に痛めつけてきた公共土木事業の問題は、日本における環境問題の中心的な課題の一つです。
勿論、明治以降の公共土木事業全てが問題だというのではありませんし、あるいは事業を行った当時は必要であった(あるいは必要だと信じて行った)事業が、環境の中において結果として思わぬ問題を引き起こした場合もあると考えています。とはいえ、現実の結果として、多くの公共事業が深刻な環境問題の原因となっていることは否定できませんから、これを冷静に判断して改善していくのは行政の責務であると考えます。
しかし、諫早湾の干拓もそうですが、目的と事業の整合性が崩壊した後も、ただ単に土建業界やそれに連なる木っ端役人・政治屋の懐のためだけに行われる事業は、これは法的にはともかく本質的には国家・行政による犯罪だと考えます。
この文脈において、最近の行政による確信犯的組織犯罪の一つが、かの悪法「総合保養地域整備法」いわゆるリゾート法による乱開発が挙げられると思います。大分県内においても多くの開発が第三セクター方式を含め、行政主導で進められました。短期的な経済効果のために、里山を中心とする比較的良好な自然環境の維持されている、それ故経済的な恩恵をあまり受けていない地域の土地を狙い撃ちにして事業は進められました。県内でも、良好な自然環境を破壊するリゾート乱開発反対運動はありましたが、既にそれまでに経済的に痛めつけられ疲弊していた計画予定地には、無謀な計画とは思ってはいても、それを跳ね返せるだけの体力が残っていなかったのが現実だったと考えています。
しかし、バブル崩壊の後、こうした事業の多くは、施設維持費すら賄えずに経営的に破綻しています。大分県における平松独裁体制下で行われた、このリゾート開発を含む箱物乱開発行政のつけが、今大分県民に重くのしかかってきています。このままでは遠からず大分県は財政再建団体に転落する危機に直面し、平松県政を引き継いだ広瀬氏は、こうした負の遺産の整理に着手せざるを得ない状況になり、昨日、施設の売却を含めた「行革プラン」が明らかになりました。これらの施設に投下された貴重な税金は全く無駄になっただけでなく、後には荒廃した土地が残されることになります。
しかし、平松氏自身は、彼の最後の箱物ビッグプロジェクトである、ワールドカップのための巨大サッカー場(これも大分市内の希少な里山を切り崩して作られました)を完成させ、在任中に築いた名声と私財を手に、既に「勝ち抜け」してしまっているのです。平松氏は言うに及ばず、暴君の恐怖政治に怯えていたとはいえ、彼の暴走を阻止できなかった県の木っ端役人、政治屋どもの「犯罪行為」を全く問うことが出来ないことに、激しい憤りを感じざるを得ません。
地表の性状の改変を伴う公共土木事業は、水循環や生態系の物質循環に対して大きな影響を与えるものです。それ故長期的な展望の下に、全体的な整合性に配慮して、慎重の上にも慎重を期し、不必要な大規模な工事は慎重に避けるべきです。個別の事業の「影響は軽微」などという「お手盛り」の環境アセスメントによる安易な事業の蓄積が、徐々に環境を悪化させ、例えば諫早湾の潮止め堤防の締め切りのような事業をきっかけに、一気に顕在化することになります。
行政は、長期的な国土利用のあり方を、総合的かつ長期的な視野の下に、慎重かつ周到に検討することを、経験から学び取らなければならないと考えます。間違っても短期的な遊興や金儲けのため、植樹祭などの一時的なイベントのために森林の皆伐を行うなどという愚行を繰り返すことは許されません。また、県民・国民はこうした行政の暴挙に対して常に監視の目を光らせておくことが必要だと考えます。
期せずして、昨日大分県は、地元住民の反対のある県南佐伯市の大入島の港湾整備事業の一環として行われる埋め立て事業に対して、「環境アセスメント」に鑑み、事業の影響は「軽微」だという見解を発表しました。こうしてまたしても行政の犯罪行為は正当化されていくのでしょうか・・・。
まず最近のアンケートの書込みから。
石油文明の次は何か - 2003/12/04(Thu) 00:09:10
私たちの何世代も後、車に代わる乗り物が何か。と考えたときに何も思い浮かばなかった。
地球温暖化 - 2003/12/06(Sat) 22:53:09
去年子供が生まれてから環境問題の事にやっと気づく事ができました。だけど、もっと子供たちの未来のために私たちがやらなければいけない事はたくさんあると思います。みんながもっと真剣に考えてほしいです。
現実の石油漬けの現代社会にいる私たちにとって、今の物質的な豊かさがなくなった社会を想像することは、難しいことかもしれません。〜のない生活は考えられない、と言うのはごく自然な感情だと思います。しかし、人間も含めて、地球の生態系の営みは、地球という物質的には越えることの出来ない限界があることを意識しなくてはならないと思います。この地球環境の中で続けられてきた、生態系の営みは、この意味で受動的な側面を持っています。しかし、ただ単に受動的というばかりではなく、生態系の営みが継続してきた仕組みを理解することによって、生態系の中において人間社会がどのように振舞うことが、人間社会を含む生態系が限られた地球環境の中での営みをより豊かにすることが出来るのかという選択が可能です。
現在の環境問題は、これまでのエネルギー多消費型の近代工業的な豊かさの実現が、生態系の持つ本質的に重要な仕組みと相容れないことが次第に明らかになり、齟齬をきたし始めていることに根本的な原因があります。
〜がなくなっては困る、という現状を前提とする議論では本質的な問題解決には至らないと考えます。環境問題を克服するには、限られた地球環境において、どのような人間社会のシステムならば生態系と折り合いをつけていくことができるのかという視点から、システム全体を再構築することが必要だと考えます。
現代砂漠化の原因は自由貿易 - 2003/12/08(Mon) 13:57:37
砂漠化しちゃったらどうしよう(汗)
現代砂漠化の原因は自由貿易 - 2003/12/10(Wed) 08:46:36
もし、砂漠化してしまったときを考えると僕たちは、どうすればいいのか分からない。だから、怖い。
例えば砂漠化の問題です。これは人間社会が既に何度も経験してきた問題の一つです。豊かな農作物生産で支えられた古代文明の栄えた地方が、現在広大な砂漠になっている例は少なくありません。二酸化炭素地球温暖化が原因で砂漠が拡大する、といった議論がされる場合があります。しかし、古代文明の没落時に二酸化炭素地球温暖化があったはずはありません。近代的なエネルギー多消費型の文明成立以前の歴史を見る限り、ヒプシサーマル期、中世温暖期という現在よりも全球平均気温が高い気候温暖期には、農業生産は豊かであったと言われています。
単に全球平均気温が少し上がったからといって、それが砂漠化に直結するとは限りません。むしろ、物質代謝を無視した土地利用や開発行為が直接的な砂漠化の原因だと考えられます。現在の、二酸化炭素地球温暖化によって砂漠化が進行するという議論は、無謀な土地利用や開発行為の結果による土地の荒廃を免罪して、問題の本質を隠蔽しているのではないかと考えます。
さて、このホームページの立場を支持して下さる書き込みも紹介しておきます。これは、HPの§2-5二酸化炭素地球温暖化脅威説批判を読んでくださった後で書き込まれたものだと思われます。
地球温暖化 - 2003/12/15(Mon) 14:32:46
自分で考え、自分で確認し、自分で結論を出すというプロセスを放棄してしまっている人が多い中、
このHPのスタンスに賛同します。
IPCC程度の権威で、思考停止になる人がやたらと多いんですね。
ここに書かれていることには、全く同感です。現在の環境論議は、IPCCに代表される権威組織の玄関ねたを、無能なマスコミが更に尾ひれ、背びれをつけて吹聴していることが真実であると言う社会通念によって、大多数の人たちに『信じられている』環境問題マス・ヒステリー状況だと考えています。私たちは、行動する前に、まずこうした環境論議の内容について自ら判断するというプロセスを放棄してはいけないのです。
ただ、この書込みが日本原子力研究所のネットワークからのものであるのは、私としては非常に複雑な思いです。
だいぶ前置きが長くなりました。本題です。数日前、『有明海異変』(古川清久・米本慎一/不知火書房)という本を頂きました。まだ半分ほどしか読んでいないのですが、ここには二酸化炭素地球温暖化などという不毛な環境論議ではなく、本質的な環境問題の現状の報告が記されています。内容は、ご存知の諫早湾の『潮止め堤防閉鎖』のギロチン事件を中心に、有明海の生態系の破壊の経緯を、有明海に注ぎ込む河川やその周辺のダム開発にまで言及して記されています。
日本に住んでいる私たちは、二酸化炭素地球温暖化や砂漠化の問題に思いをはせる前に、まず自分の居住している地域の風土・水土の状況や、日常生活の中にある環境問題について、地に足のついた視点を持つことが重要だと考えます。この本は、生態系における物質循環の中でも極めて重要な、水循環と生態系の物質循環が如何に破壊されてきたかを、生々しく伝えています。
それだけではなく、私たちが現実の社会の環境問題を考えるとき、単に物理的な環境破壊の現状にとどまることなく、その問題を起こした社会の政治・経済を含めた権力構造にも深く結びついていることを忘れてはならないと考えます。著者は、自治体職員という立場にありながら、こうした告発の書を著されたことに、感動しました。環境省や大分県の木っ端役人にも、少しは見習って欲しいものです。
現在の日本の社会の産業構造は、工業化社会ないし石油文明として特徴付けられます。その謂いは、工業的な生産過程における基本的なエネルギー資源が石油(石炭、天然ガスなどの炭化水素燃料を含む)であるということです。
昨今、二酸化炭素地球温暖化脅威説の蔓延とともに、『石油代替エネルギー』『新エネルギー』論議が盛んに行われていますが、そこに実効性が全くないのは、この石油文明というものに対する認識が欠如していることに起因していると考えられます。先にこのコーナーで扱った風力発電に対する妄信の原因も、まさにここにあります。概略については、既に§2-5地球温暖化脅威説批判の第二部の工業技術評価で触れていますが、ここでは、もう少し具体的に検討することにします。
現在の(環境)技術の評価において、欠落している視点は、ある自然科学的な原理を実社会の中で実現する場合に、その技術を実現するための直接的な機械設備だけではなく、社会的なインフラとしてどのようなハードウェアが必要であり、それを制度として運用していくためにはどのようなソフトウェアの整備が必要であるかという視点であり、それらのコストの評価です。
例えば、公式には原子力発電の発電原価は5.9円/kWhとされています。これに対してLNG火力発電は6.4円/kWh、石油火力では10.2円/kWhとされています。これが実態を反映したものであるならば、電力各社は原子力発電を導入すればするだけ利益は増大することになります。しかし実態は、このコーナーでも何度か触れたとおり、原子力関連の支出の増大が電力各社の経営状況を圧迫し始めているのです。
電力会社側からすれば、発電のための経費としては計上していない部分があるからだ、ということになるのでしょうが、実社会の中である技術を評価する場合、その技術を利用するために必要な全ての経費を積上げた上で判断しなければ実態を反映しているとは言えません(これが全くの自由競争の経済原理に基づいた市場であるならば、このようなことは起こりえないことです。原子力の場合、国家の軍事戦略と結びついたところで、初めから経済性の評価抜きに原発の導入が図られ、国民を欺くために仕掛けられたトリックが、恣意的な経費の過小評価による原子力発電の『経済性』の宣伝だったのです。)。
このような誤った技術評価が出来るだけ起こらないようにするためには、最低でも、ある工業的な技術を実社会に導入する場合、その技術を実現するために必要な機械設備、周辺インフラ整備のコスト(環境問題の評価においては、経済コストではなく、資源コスト・エネルギーコストを指す。ただし、工業的に生産された実用製品の経済コストは、資源コスト・エネルギーコストをかなり正確に反映するものと考えられる。)、運用段階における資源・エネルギーコスト(補修点検コストを含む)、耐用年数経過後の廃棄コストの全てを積算した上で評価しなければなりません。このような視点を、最近流行の言葉で言うと『ライフ・サイクル・アセスメント(=life
cycle assessment)』『LCA』ということになるでしょうか。EICネットの用語説明を以下に引用しておきます。
LCAと略称される。製品の生産設備から消費、廃棄段階の全ての段階において製品が環境へ与える負荷を総合的に評価する手法である。これまでの環境負荷評価は、製品の使用や廃棄に伴う特定物質や有害物質の排出の有無、処理の容易性、使用後のリサイクルの容易性などライフサイクルのあるプロセスだけを評価範囲としたものが多い。このため使用、廃棄の段階での環境への負荷が少なくても、原料採取、製造、流通の段階での環境への負荷が大きく、全体としては環境への負荷の低減には寄与しない製品が生産されてしまう可能性がある。そこで経済社会活動そのものを環境への負荷の少ないものに変革するために平成5年に制定された環境基本法において、「環境への負荷の低減に資する製品等の利用の促進」が規定された。LCAは近年世界的に注目を集め各地で研究が進められている。また、国際標準化機構(ISO)においても国際標準化の作業が進められている。
ここで、一つ大きな盲点が存在します。工業製品では、多くの場合最終製品製造のための原材料が既に工業的に製造された中間製品である点です。中間製品を輸入する場合、各国間で為替レートないし製造コストが異なる可能性があり、中間製品価格では単純に資源・エネルギーコストを評価することが出来ない部分があるのです。それ故、地球規模の環境問題を想定した技術評価を厳密に行うためには、こうした不確定要素を排除するために、資源・エネルギーコスト積算の起点を鉱物資源の採掘段階におくことが必要です。
もう少し原子力発電を例に、LCA的な検討を行って見ます。とは言っても、私には原子力発電のLCAを行うための一次データを示す能力がありませんので、室田武氏などの研究成果を引用することにします。
原子力発電についてのこの種の研究の歴史はかなり古く、既に30年前に行われています。イギリスの物理学者ピーター・チャップマンが1975年にエネルギー専門誌『エナジー・ポリシー』に発表したレポートにおいて、かなり原子力発電に都合の良い仮定をおいた分析においても、原子力発電の石油節約効果は10倍前後(石油を原子力発電プロセスに投入すると、火力発電プロセスに投入する場合の10倍程度の出力が得られる)であると報告しています。
このレポートでは、核廃物の廃棄・保管のためのコストなどを考慮していなかったようです。その後チャップマンは、核廃物の長期保管に要するエネルギーを算入すると、原子力発電は火力発電以上に石油ないし石炭を消費することになると述べています。
日本においては、室田武氏によって分析が行われています。室田氏の『原発の経済学』(朝日文庫1993年)から結論のみを以下に引用します。
廃炉までの産出エネルギー総量 608億kWh(52.2兆kcal)
原発における投入エネルギー量 81.1兆kcal(保管期間24000年)〜513.1兆kcal(保管期間240000年)
石油火力における投入エネルギー量 159.0兆kcal(産出比0.351)〜174.8兆kcal(産出比0.3)
この結果、原子力発電の産出比(=産出エネルギー量/投入エネルギー量)は、0.10〜0.64<1.0
となり、エネルギー収支はマイナスになります。これは原子力発電単独ではエネルギーが縮小再生産過程であることを意味し、石油エネルギーの投入なしに原子力発電を維持することが出来ないことを示しています。
勿論、通常の火力発電も含めて、全ての発電システムにおいて、エネルギー転換(=発電)の過程でエントロピーが発生しますから、エネルギー収支は必ずマイナスになります。しかし、石油については、石油自身の再生産の産出比が10倍のオーダーであり、たとえ石油を発電システムに投入しても総合的な産出比は1以上になるため、全体としてエネルギーの拡大再生産になり、石油文明が成立しているのです。
以上の検討から、原子力発電という技術は石油文明下の技術であり、石油文明の終焉は原子力発電の終焉であり、原子力文明は将来的にもありえないのです。これは、原子力に限らず、現在検討されているほとんど全ての新エネルギーについて言えることです。『石油代替』を目指すならば、そのシステムを成立させる全てのハードウェアを、そのシステムから供給されるエネルギーだけを使って拡大再生産可能であることを実証しなくてはならないのです。現実にはこれは不可能であり、石油消費に支えられた工業生産システムの存在が必須です。これが『石油文明』ないし『工業化社会』の本質なのです。
しかし、ここで一つ疑問が生じます。風力や太陽光エネルギーの起源は太陽で行われている核融合反応であり、これらのエネルギーは地球上の資源消費を伴わずに半永久的に供給されるのだから、地球上の資源消費という観点で見れば、『長期的には』エネルギー収支がマイナスになることなどありえないのではないか、ということです。
問題は、この『長期的』という点です。風力発電や太陽光発電など、自然エネルギーを捕捉するシステムが、どんなにエネルギー転換効率が低くても、半永久的に使用可能であるならば、まさに持続可能なエネルギー供給システムになリます。ところが、こうした自然エネルギー発電システムは厳しい自然環境中に曝される結果、建屋内に設置された発電設備に比較して耐用年数が短くなります。この短い耐用年数期間中に低効率で捕捉される総エネルギー量では、自らを拡大再生産することは勿論、システムのライフサイクル中に投入された石油エネルギーを火力発電システムに投入した場合に得られる電力量を回収することすら困難なのです。
では、少し観点を変えて見ます。原子力発電や、風力発電、太陽光発電では、『燃料』として石油を消費しません。投入された石油エネルギーはシステムの運用に必要なハードウェアの製造・維持のために投入されます(原子力では、核燃料製造のためにも大量のエネルギーが投入される。電力価格算定におけるレートベースの計算において、核燃料は固定資産として扱われる。)。その結果、同一の石油消費量に対してこれらの発電システムは、火力発電に比較して極めて大規模なハードウェア=固体廃棄物を必要とすることになります(これは、こうした発電システムを導入することによって、工業生産分野における需要を拡大します。)。これは総合的に見た環境負荷が増大することを意味します。ことに原子力発電では、核廃物という人間の歴史に対して半永久的とも言える厄介な毒物を生産するのです。
以上、総合的に判断すると、現状の石油を中心とする火力発電による電力供給システムを部分的に原子力や新エネルギーで代替することは、資源利用効率だけでなく、環境問題の改善という視点から考えても全く無意味なことなのです。
今回、このレポートを書くきっかけになったのは、既にこのコーナーのNo.87に紹介した東大のある学生氏からいただいたメールで、電力中研の『ライフサイクルCO2排出量による発電技術の評価』というレポートを紹介いただいたことです。このレポートによると、各発電システムの出力1kWhを産出するために排出されるCO2量は次のようになっています。
石炭火力発電 975(g/kWh)
石油火力発電 742(g/kWh)
原子力発電 28(g/kWh)
太陽光発電 53(g/kWh)
風力発電 29(g/kWh)
チャップマンの研究や室田武氏の研究からは、石油火力発電と原子力発電を比較すれば、原子力発電の方がより大量の二酸化炭素を排出することになります。また、室田武氏の前掲書によれば、太陽光発電では、少なくとも石油火力発電の3倍程度の石油消費が必要だと述べられています。このホームページの§2-5の検討においても、太陽光発電は火力発電の4〜7倍程度の石油消費が必要だと推定しました。
現実には、原子力発電関連の経費が電力各社の財政を悪化させていることを考えれば、原子力の発電コストは火力発電の発電コストを大きく上回っていると考えざるを得ず、その発電コストは石油消費量を反映していることを考えれば、電力中研のLCAによる原子力発電の二酸化炭素発生量の値はあまりにも実態とかけ離れているといわざるを得ません。太陽光発電、風力発電に関しても、電力中研のレポートの値はあまりにも過小評価になっているようです。
電力中研のレポートがこのような結果になっているのは、恣意的にそのような分析を行ったのか、あるいはLCAにおいて何か重大な要素を見落としているのではないかと推察されます。
また、このコーナーNo.90で紹介した、環境省のホームページに掲載された個人住宅用風力発電システムを導入した場合の二酸化炭素削減効果の算定は更に杜撰なもので、風力発電で発電される電力量に単に火力発電で排出される二酸化炭素量を乗じた値となっています。
このように、原子力発電や新エネルギーの二酸化炭素削減効果に対する公的な算定値は、ほとんど実態を反映していないものです。もし本気で二酸化炭素排出量削減を目指した新エネルギーの導入を考えているのならば、まず資源採掘段階を起点とした厳密なLCAを試み、効果を検証することが不可欠です。自然エネルギーの導入を考えている大分県や地方自治体、APUの学生諸君やNGOの皆さん、どうお考えですか?
石油文明ということは、全ての工業的な生産過程が石油(ないし石炭・天然ガス)エネルギー消費によって成り立っているのです。原子力や新エネルギーとてその例外ではなく、現状では石油エネルギーの利用効率は、石油火力発電を上回ることは考えられません。この事実を見れば、エネルギー供給において『原子力』『新エネルギー』は一次エネルギーではなく、二次エネルギーとして分類されるべきでしょう。むしろこれらのエネルギー供給システムを全て排して、最新鋭の火力発電システムに置き換えるほうが固体廃棄物量の削減効果によって環境負荷は確実に減少すると考えられます。
早いもので、今年も師走を迎えました。風力発電について連載を行ったせいか、このところ各電力会社や電力中研、そして核融合科学研究所といったネットワークからのアクセスが特徴的です。変わったところでは「navy.mil」アメリカ合衆国海軍のネットワークからのアクセスもありました。ちょっと不気味です。農林水産省からは継続的なアクセスがあるようです。
さて、12月、また全国各地で全く無駄なエネルギー消費である夜間イルミネーションの報道が目立ってきました。毎日のように環境問題についての報道がされる中、なぜこうした100%疑いなく無駄なエネルギー消費である夜間イルミネーションに対して、これを環境問題と結びつけて批判するような報道が皆無なのか、私には全く理解できません。結局衆人の環境意識、あるいは報道する側にも、本気で環境問題を考えている人は、まだほとんどいないというのが実情なのだと思います。
この時期を迎えると、「今年もまだ環境問題は認知されていないのだ」ということを再確認させられ、憂鬱な気分になってしまいます。
それに引き換え、産業界は環境ブームで元気です。「エコ」を冠した新商品で大もうけをたくらむ自動車メーカー、家電メーカー、機械メーカーなどなど。少なくとも、日本において環境問題は工業生産部門に新たな市場を与えて、経済を活性化するためには一役買っているようです。
基本に戻って冷静に考えて見てください。環境問題とは、荒っぽく言えば過度の工業生産が、地球環境における物質循環を傷つけ、人間の生存環境が悪化する問題なのです。個々の技術的な判断は必要ですが、全般的な方向として、工業生産が活況を呈するような政策が、本質的に環境問題を改善することにはならないのは当然だと思うのですが、いかがでしょう?
そう言えば、この数日間、NHKが地上デジタル放送開始の馬鹿騒ぎをしています。人の金を集めて全国各地に極めて贅沢な放送施設を建設し、頼みもしないのに勝手に放送をデジタル化して、既存の放送・受信システムを一挙にスクラップ化して、家電・通信機器メーカーに「デジタル化特需」の巨大な買換え需要を創設する、見事なものです。これによって家電関連の廃棄物は一挙に増大することになります。
更なる多チャンネル化をしたところで、有用な情報などないじゃないですか!下らぬ情報が溢れかえり、更なる消費者の欲望を喚起し、電力需要を増大させることになります。娯楽を享受するために資源を浪費し、大量のエネルギー消費を生む工業技術の方向性、ないし倫理観を問い直さなければならないのではないでしょうか。
11月5日の大分合同新聞によりますと、環境省は4日、インターネットを通じて『百万人のチャレンジ/減らそ。みんなで。CO2』というキャンペーンを始めたそうです。詳細はHP『環のくらし』に記載されています。以下の9項目の中から3つを決めて申告するというものです。
●エネルギ−効率のよい電気製品、給湯器具などを選び、地球とお財布も救助。
●普段は自家用車(自社所有車)を降りて、ささやかな発見を楽しみます。
●チャレンジの環をさらに広げ、ゆったりと時を楽しむ新しい暮らし方。
●ハイブリッド車やアイドリングストップ車で未来のカ−ライフを先取り。
●みんなでお鍋を囲んで暖房を「オフ」。ココロもホワっと暖まります。
●太陽の熱や光、風の力などの自然のパワ−を取り入れ、ナチュラルなライフ。
●日を決めて夜は1時間だけ明かりを消し、夜空を楽しみます。
●アイドリングをしないようにしてガソリン代をガッチリ節約。
●私のオリジナルチャレンジ
毎度のことですが、二酸化炭素地球温暖化(脅威説)を論理的に説明することをせず、にもかかわらずこれを前提とした政策の推進が許されて良いものでしょうか?また、提案されている項目のいくつかは、このホームページで検討してきたように、二酸化炭素排出量削減という目的に明らかに逆行する内容です。国民向けの環境政策の広告塔として、このような無意味なキャンペーンに税金を投入することは税金の無駄遣いですからやめて欲しいものです。環境省の役人諸君、もう少しまじめに問題に取り組んでください。
そして9日衆院選挙。またしても無能なマスコミのおかげで、米国の猿まねの『二大政党制』などという下らぬ大宣伝によって、政策論争がないままに自民・民主の2極化が進んでしまいました。政策的に見て、この2党の政策には根本的にあまり大きな差はなく、この選挙結果によって国民の選べる政策の幅は極端に小さくなってしまいました。科学性・論理性を拠所にし、平和を希求している共産党、社民党、あるいは環境問題を論理的に考察できる第3の党派(西欧の緑の党のような非科学的な党は困りますが・・・)が力を得ることが、今この国に必要だと思います。
11日の大分合同新聞の夕刊によりますと、電力業界による六ヶ所村の核燃料再処理事業関連費用が総額18兆9千百億円になるという試算が11日に開かれた総合資源エネルギー調査会電気事業分科会の小委員会に報告されました。このうち財源が決まっているのは半分程度だそうです。これについては、このコーナーのNo.79でも触れましたが、また少し費用が増えているようです。その結果、再処理事業を行うために、国庫からの莫大な税金の投入と、電気料金の値上げ、あるいは電気事業新規参入企業に対する資金拠出の制度化などによって資金を賄おうとしています。
従来、国の原子力政策においては、使用済み核燃料を再処理して再処理核燃料を得ることによって、新たに生み出される再処理燃料の使用価値がプラスになるので、核燃料再処理を行うとしてきました。しかし、実際には今回の事態からもわかるように、経済的には全くの大赤字で、電気料金全体の値上げが必要なほど電力会社の経営を悪化させているのです。これをエネルギー的に見れば、再処理設備建設あるいは再処理において、莫大な資源とエネルギー投入が必要なことを示しています。多分、再処理によって生み出される再処理燃料から得られる電気エネルギーを投入エネルギーが上回ることになるのは確実ではないかと考えられます。
たとえ再処理を行ったとしても、核燃料サイクルを構成する基幹技術である高速増殖炉の技術開発にめどもついていないのが現実です。こんな状況で大金を投入して再処理を行うことには経済的には勿論、エネルギー供給という物理的な側面からも全くの無駄です。また、再処理によって核廃物は更に不安定なものになり、保管は困難になります。核の再処理、そして原子力発電からは1日でも早く撤退することが現実的な対処法だと考えます。
こんな大金を投入してまで、どうしても再処理を行いたいというのは、やはり国の中枢に自前の核兵器保有への強力な執着があると考えなければ、合理的な説明はつかないと思うのは私だけでしょうか?改憲を具体的な政治日程に掲げ、右傾化・軍国化を強める小泉自民党政権を見るにつけ、ますますその思いは強くなっています。
昨日17日、マスコミは一斉にイスラム過激派による日本を標的としたテロの可能性を示唆した文書についての報道を行いました。日本人として、これは全く困った問題です。しかし、イスラム圏から考えれば、国連決議を無視した全く合理性のない凶暴な米国帝国主義による非人道的な(例えば、16日付大分合同新聞によると、イラクに投下された劣化ウラン弾によってばら撒かれたウランはトン単位であり、半減期を考えればほぼ永久に環境を汚染し続けます。)侵略行為を無条件に礼賛し、これに盲従し、自衛隊の派兵を行おうとしている日本小泉自民党政権に対して報復しようとするのは、ごく自然な対応ではないかと考えます。この点については既にこのコーナーNo.23、No.74でも触れたとおりです。今頃になって驚いた顔をして見せる間抜けなマスコミには、ほとほと愛想が尽きてしまいます。
この問題の本質は、日米軍事同盟によって、米国との集団的自衛権の行使によって、米国の大義のないイラク侵略戦争に日本が参戦・加担しようとしていることにあります。日本の安全保障を考えるとき、実質的に効果があるのは日米軍事同盟の解消と憲法第9条の徹底的な遵守です。しかし、小泉自民党政権では、更なる日米軍事同盟の強化と我国の軍国主義化の梃子に利用しかねないのではないかと、非常に心配です。
明日までの予定で東京モーターショーが開催されています。この派手なお祭り騒ぎを見る限り、自動車工業界、ならびに自動車技術者が本気で環境問題を考えているなどとは到底思えないのは、私の偏見でしょうか?相も変わらず次から次へと必要もない機能をくっつけてモデルチェンジを重ねて、新型車を市場に投入し、『消費者』の欲望を掻き立てることに躍起になっているとしか思えません。本気で環境問題を考えてるのなら、まず手始めに、3ナンバーの乗用車など製造中止にしてはどうでしょうか。
そして自動車業界のお先棒を担ぐ、相も変らぬ間抜けなマスコミ諸君の提灯記事にはうんざりです。曰く『究極のエコカー=燃料電池車!』何ていうのは、情けなくて反論する気にもなれません。
自動車業界の技術者は、環境問題の本質について考えたことがあるのでしょうか?その他、家電業界・電子玩具業界・電力業界などの技術動向を見る限り、とても環境問題に真摯に向き合っているとは考えられません。
また、日本政府の産業戦略も、環境を『食い物』として見るこれらの産業界の意向を反映したもので、なんとも情けないものです。唯一産業動向を環境面からチェックするはずの環境省が、風力発電〜燃料電池システムの実験を自らやるというのですから、絶望的です。環境問題が政治課題になったことで、これまで利権と縁の薄かった同省が、にわかに巨大化した環境市場という利権で舞い上がってしまっているのでしょうか?
官民問わず技術者は、環境問題について正面から向き合ったことがあるのか、私には大きな疑問です。もし本気で燃料電池車が究極のエコカーだと『信じている』技術者や、火力発電所の排出二酸化炭素から炭素を回収して、燃料としてリサイクルすることに意義があると思っている技術者が居るとすれば、これはほとんど喜劇ですが、現在の工業技術は袋小路に迷い込んでしまい、絶望的な状況に陥りつつあると考えます。
あるいは、環境問題などに関心はないが、とりあえず補助金をもらえるのだから、金をもらって『面白い』燃料電池や二酸化炭素回収技術の自己満足的な研究でもやっておこうという、不謹慎な技術者が多いのではないかと、実は私は考えています。それどころか、もっと『純粋に』、技術者の正義を捨てて、金儲けになるのだからみんなを騙してでも、とりあえず『エコ』を冠した技術開発で稼げるだけ稼いでやろうという輩が、ほとんどではないかと考えています。
まあ、企業技術者ではどうしようもないのかもしれませんが、国・地方自治体の技官、あるいは大学・研究機関の技術者としての倫理観は厳しく問われなければならないと思います。しかし、本当に良いと信じて研究しているとしたら、これも非常に恐ろしいことですが・・・。
APUの風力発電をきっかけに始めた連載ですが、前回までで一段落にしようと思います。
この間、何人かの方に情報提供を頂きました。しかし、風力発電を評価するために最も知りたいと思う資料は、なかなか手に入らないのが実情でした。今回、少ない資料を基に検討したように、風力発電や太陽光発電などは、数多くの問題を持ち、環境問題の改善には役立ちそうもないならば、これは大変重要な情報であり、誤った環境対策を考え直すためにも、是非広く情報公開をすべきだと考えます。これらの発電施設を既に保有している地方自治体や第三セクターなどの施設運営者の方々に、施設の稼動実績を出来る限り詳細に公開していただきたいと、切に要望します。
今回の検討では、風力発電は、供給する電力量当たりの施設規模において、既存の火力発電に比べて10倍から20倍近くの資源の投入が必要なことがわかりました。残念ながら施設建設のための全ての資材の製造に投入される石油量、建設工事に投入される石油量などを具体的な数値で示すことは出来ませんでした。しかし、定性的には、施設規模対発電電力量でみた効率の低い発電システムは、発電燃料以外の石油燃料消費量が大きくなることは明らかです。
今回の検討では、施設建設費用の2割が石油燃料費に対応すると仮定しましたが、オーダーが変わるほど大きな誤りはないのではないかと考えています(もしこの点について、これを否定するような具体的なデータをお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ご提供ください)。仮定が正しいとすると、風力発電導入による既存火力発電の効率低下を加味して判断すれば、風力発電には二酸化炭素排出量を削減する効果はありません。風力発電以上に発電コストの高いその他の自然エネルギー発電は、全く話になりません。
自然エネルギー発電の中で、時間に対する変動を予測ないし制御できないシステムは、現在の高度な電力供給システムでは基本的に許容できないものであり、それだけで大規模な導入はあり得ないのです。こうした発電システムを大規模に導入すれば、電力供給システム全体の品質・信頼性が低下することになります。そのため、電力業界自身、本気でこうした自然エネルギー発電を大規模に導入することなど考えてはいません。彼らにとって、これはあくまでも広告塔なのです。
環境省が実験を行うという、海上浮体風力発電〜水素製造プラントは、この風力発電の致命的欠陥である、制御不能な時間変動を解消するために、既存の電力供給システムとオフラインで運用し、電力を水素として蓄積し、燃料電池で制御した発電に用いるという発想です。しかし、これなどは、全く問題の本質(二酸化炭素発生量の削減ないし、環境負荷の低減)を見失い、近視眼的に風力発電の時間変動の問題解消に固執した哀れな実験です。ただでさえ効率の低い風力発電と燃料電池をシリーズで使えば、全体としてとんでもない資源浪費システムになることは議論する必要もありません。
古くは、『石油代替エネルギー』、そして『新エネルギー』『エコエネルギー』議論の大部分は、このように問題の本質を完全に見失い、袋小路に突き進みつつあるように見えます。心ある研究者・技術者の皆さん、補助金や研究予算のための研究はやめて、時流に流されることなく、勇気を持って問題の本質を探求していただきたいと思います。
HP管理者からNo.93〜100を、§2-2にAPU(立命館アジア太平洋大学)風力発電計画を考えるとしてまとめましたので、ご覧ください。
まず、最近のアンケートへの書込みを一つ紹介します。
エネルギー - 2003/09/19(Fri) 09:13:28
エネルギーというのは限りあるものである。そういう事を思って人は生活しているのでしょうか?
まずはその問題から考えていきたいと思います。
自分は小さいながらも、この問題を解決するために日々努力してきたつもりです。
水の節水、電気の節約などに取り組んでいます。節約した分が他の人によってつかわれる。それでいいのです。
その気持ちが大切なのです!というよりこの問題について少しでも考えることが大切なのです。そしたら自ずと結果は見えてくると思います。
この問題は世界問題です。みんなでこの問題について考えそれを実行していこうではないですか!
世界平和への第一歩として・・・。
この書込みをされた方のお気持ちは良くわかるのですが、環境問題とは、人間社会のシステムの問題ですから、残念ながら個人の善意・行動では本質的な解決は望めないと考えています。また、誤った情報の氾濫する現在の世の中では『自ずと結果は見えてくる』状況とも思えません。それ故このホームページを開設しているのです。ご理解ください。
さて、本題に入ります。今回はホームページの紹介です。はれほれワールドに『風力発電を考える』という新しいレポートが報告されています。内容につきましては、本編をご覧いただきたいと思います。
さて、この中で引用されている資源エネルギー庁による各発電方式によるコスト比較のデータは、非常に興味深いものです。原子力の発電コストが最も廉く、kWh当たり5.9円となっています。但し書きにはわざわざ、『核燃料サイクル、廃炉関係、放射性廃棄物処理処分等の関連費用を含む』となっています。なんか変ですよね?!もしこれが信頼できる数値ならば、このコーナーのNo.079(2003/05/23)電気料金で賄われる核武装で紹介したような事態にはならないはずです。原発を作れば作るほど電力会社の利益は増大するはずです。発表年次が違いますから、そのせいだといわれる可能性もありますが、所詮政府発表の信頼性などというものは、この程度のまやかしだということは銘記しておくべきでしょう。以下、はれほれ掲示板への私の書込みを紹介しておきます。
■原子力の発電コストについて、これは室田武さんのレポートで、データの積み上げから、石油火力以上に石油を消費するであろうと言うことが、もうずいぶん前に指摘されていました。また、経済コストに関しては、分析の必要すらないと思います。電力各社は、原発維持のために国家に多大な補助金を要請し、電気事業に新規参入する企業に対して、原発維持のための分担金を拠出させようとしているのですから、電力会社において原発がいかにコストの高い、『お荷物発電』であるかを示しています。
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■自然エネルギー発電はじめ、エコエネルギーの導入は、更に二酸化炭素排出を増やすことが明白・・・
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☆実はここが私にはよくわかりません。どのような計算方法で風力発電装置を作るときの二酸化炭素の排出量を計算するのか、難しいと思います。私は製造に使用された全エネルギーが最終的に価格に跳ね返ってくるのではないかと考えて「発電コスト」に注目してみたのですが・・・。
■非常に粗っぽい推測として、基本的に現在の工業社会の基本的なエネルギー供給源は石油・炭化水素燃料ですから、工業製品の価格とは、投入された石油・炭化水素燃料の投入量を反映していると考えられます。なぜなら、全ての鉱物資源は(例えばウランも)元々「ただ」の石ころなのですから、その価格とは投入された仕事≒石油・炭化水素燃料投入量を反映しているはずです。また、原材料からの加工工程も同様です。
■厳密には、各原料資源に対して、例えば鉄1kg作るために、どの程度の品位の鉱石がどれだけ必要であり、その採掘にどれだけの石油燃料が必要であり、またその過程で、採掘機械がどれだけ損耗するのか、鉱石を精錬する工場まで運搬するためにはどれだけの運搬手段を用い、どれだけの石油燃料が必要か、などなどを網羅的に積み上げることによって、各原料資源生産の『石油当量』を算出する必要があるでしょう(多分この手の数字はメーカーは把握しているはずですが・・・。)。更に、工場における加工工程における石油当量も、どのような製品を作るかによって算出することが可能です。
■理論的にはこれらの数値を、各自然エネルギー発電システムの立上げから操業、廃棄における全過程に対して積算することによって、消費される石油量は算出できるはずですが・・・。不思議なことに、自然エネルギー発電システムをはじめ、石油火力代替発電システムの評価において、最も重要なこの数値が明示的に示されないのはどうしたことでしょう?槌田さん曰く、石油火力発電代替システムの開発において、『石油コストに触れることはタブー』と言うことになるのだと思います。
■以上の粗雑な推測ですが、私たちが自然エネルギー発電や燃料電池の石油・炭化水素燃料の消費量を推測する現実的な指標は、はれほれさんのおっしゃるとおり、経済的な発電コストと考えて大きな誤りはないと思います。逆に、より厳密に積算しようとしても、厳密なデータはメーカーが握っていて、われわれにはうかがい知れないというのが実態だと思います。
■そんなわけで、厳密な積み上げによる二酸化炭素発生量の算定は、私たち部外者にはほとんどお手上げ状態なので、あまり深入りしようと思っていません。しかしながら、国家政策による梃入れ・補助金なしには経済的に成り立たない石油火力代替発電システムの大部分は、石油コストにおいて、石油火力発電を上回ると考えて、まず間違いないと考えています。ホームページでは、自然エネルギー発電は、石油を浪費すると繰り返し述べていますが、信頼に足るデータの積上げをもって、反論する人はいまだにいません。ま、これが何よりの証拠だと思うことにしています。
(文中の■は近藤、☆は、はれほれ氏)
風力発電について、一つ補足しておきたいのは、これが自然エネルギー発電の中でも最も時間変動の激しい発電方式の一つだと言う点です。現在の電力供給システムにおいて問題になるのは、単に発電効率だけではなく、安定供給が非常に重要です。風力発電を大規模に導入することは、既存の電力供給システムに多大な負担を強いることになり、既存システムの効率を悪化させることになります。これを避けるためには、既存システムとの間に巨大なバッファを設けるか、あるいはオフラインとすることです。しかしこのいずれの方法も、風力発電の経済コストと同時に石油コストを更に悪化させることになり、使い物にならないことはほとんど疑う余地はないと考えます。APUの学生諸君、この辺りの問題をどうお考えなのですか?
今日の朝から、このHPで公開している連絡用のメールアドレスに、『WORM.SOBIG.F』というワームのくっついたウイルスメールが100通あまりも送りつけられています。トレンドマイクロのサイトでも注意を呼びかけていました。危険度は中程度ということですが、困ったものです。やってる人たちにとっては、こんな面白いものはないのでしょうが、これにいちいちつき合わされるのは迷惑この上ないことです(まるで、環境問題におけるエコエネルギー技術みたいです!!)。ネットワークの宿命なのでしょうから、付き合っていくしかないのでしょうが・・・。皆さんもお気をつけください。
さて、アンケートの書込みに『エコエネルギーの一面に、より興味を持てました。すべてのページを見てないので、載っているかもしれませんがエネルギー関連でコージェネレーションというものが有りますが、これは有効なのでしょうか?』というのがありました。
まず質問される前に、ちょっと考えることを訓練してみませんか?ただ知識を情報として得ようという姿勢では、いつまでたっても環境問題の全体像は見えてこないように思います。これは、権威を背景とした二酸化炭素地球温暖化脅威論や、エコエネルギー戦略を推進しようとする連中の思うつぼです。『誰か』がこう言っているから、これは真実であろう、などというのはそろそろ止めにしませんか?少し論理的に物事を考える訓練をしてみましょうよ!ということで、このご質問についての回答は保留しておきます。
さて、前置きが長くなりました。今年の夏は全国的に天候不順で、日射量が極端に不足しました。特に前半は全国的な低温傾向が続き、東北・北海道では、冷害・日照不足による凶作は明らかです。それ以外の地域でも農作物の不作はほとんど決定的でしょう。このところの残暑による高温傾向でどこまで作柄が回復するか・・・。
日本の稲作、特に東北・北海道における稲作は、世界の稲作の北限に位置する限界的な環境において行われています。その結果、今年に限らず、夏季に低温傾向が続くと例外なく凶作になります。歴史的にも天明・天保の大飢饉も寒冷な時期に起こっていることは良く知られています。逆に、『日照りに不作なし』、と言われるように、猛暑の夏、日照時間の多い夏には概して実りは豊かなものです。
これらの経験的な事実からも、地球の全般的な寒冷化は限界的な農地の消失や、生育環境の悪化に直結しますが、少々の温暖化はむしろ好条件になる可能性のほうが高いと考えるのが、自然だと思うのですが、皆さんはどう思いますか?まして二酸化炭素地球温暖化で言われているような高緯度地方の温暖化は、歓迎すべきことだと思うのですが・・・?
このところ、エネルギー関連の話題が続いていますが、もう一つ、ついでに。新聞報道によりますと、来年度から、今度は小型風力発電の設置に対して、環境省が補助金制度を発足させるとか。やれやれ・・・。読売新聞の記事を引用しておきます。
家庭用の小型風力発電機普及に来年度から補助金制度(読売新聞)
微風でも発電できる小型風力発電機を家庭にも普及させるため、環境省は、来年度、新たな補助金制度を創設することを決めた。
二酸化炭素を排出しない風力発電の利用を広げ、地球温暖化防止に役立てたい考えだ。来年度予算に1億円を概算要求する。
風力発電機は、秒速約5メートルの風が必要な大型設備が主流で、設置場所が限られていた。
しかし最近、木の葉が揺れる程度の秒速約2メートルでも発電する出力が数百ワット―数キロ・ワットの小型機の開発が進展。騒音も抑えられ、住宅地にも設置しやすくなってきた。一般家庭が導入すれば、消費電力の2割をまかなえるとの試算もある。ただ、数十万円の費用がかかり、課題となっていた。
補助金は国と自治体が費用を3分の1ずつ負担する予定で、一般家庭のほか、商店街全体が風力発電で電力をまかなうケースなども考えられる。小型風力発電の導入を地域レベルで取り組むことを決めた市や区、商店街などに絞って補助金を適用する。
昨年度の風力発電の国内実績は46万キロ・ワットだが、政府は2010年度には300万キロ・ワットに増やす目標。
[読売新聞社:08月15日 03時20分]
さて、この補助金目当てに、早くも神鋼やNTTデータなどのメーカーが小型風力発電市場に本格的に参入するようです。もうエコエネルギー発電システムの技術的な評価はやるだけ野暮なのでやめておきます。
ここでは、エコエネルギーの導入によって一体『どれだけ二酸化炭素の削減が期待できるのか?』という評価について検討することにします。通常マスコミ発表されるデータは数字だけで、どのような方法で評価されているのかうかがい知れないところがあります。エコエネルギー発電システムの低効率性を考えれば、二酸化炭素排出量が削減できるわけはない、と考えるのが『科学的』な判断だと思うのですが・・・。
環境省の風力発電に対する試算をネット上で見つけましたので紹介しておきます。試算の部分だけ、以下に引用しておきます。
●2010年度におけるCO2削減量(見込)
2010年までの年間当たり住宅着工件数※1):100万世帯
2004年から2010年までの累積住宅着工数:700万世帯
2010年の世帯数※1) :4,914万世帯
うち戸建住宅(戸建住宅比率:60%※2) :2,948万世帯
小型風力発電システムの発電量:0.5kW x 0.15(稼働率) x
8,760時間(年間) = 657kWh
商用電カのCO2排出係数(需要端):0.36kg-CO2/kWh(全電源平均)※1)
0.69kg-CO2/kWh(火力発電平均)※1)
導入効果 = 590万世帯 x 657kWh x 0.36〜O.69kg-CO2/kWh
= 140万〜267万t-CO2
(発電機出力:295万kW)
1990年度民生家庭部門CO2総排出量:13,800万t-CO2
1990年度民生家庭部門CO2総排出量に対する削減率:1.0〜1.9%
※1) 中央環境審議会地球環境部会目標達成シナリオ小委員会中間とりまとめ(平成13年7月)
※2) 平成12年国勢調査データ(総世帯数:4,569万世帯、戸建住宅世帯数:2,675万世帯)より算出
まあ、予想通りですが、エコエネルギー(ここでは風力)によって発電した電力量に、単純に既存の発電方式による単位発電量あたりに発生する二酸化炭素発生量を掛け合わせた数値を、二酸化炭素削減量としているだけの話しです。こんな数字には全く意味がないことは、このHPの読者諸賢にはいまさら説明の必要もないと思いますが・・・。
ここで言っていることはエネルギー源、ここでは風力がただ(ここで言う『ただ』とは、経済的な意味ではなくエネルギーコスト、より具体的には石油コスト的に見た話しです)なので、風力によって発電された電力もただなのだと言っているのと同じことです。冗談じゃありません。
問題としているのは、発電システム全体における、燃料の生産から輸送、発電設備建設、送電設備建設、そしてその運転・維持、補修、そして廃棄までの全ての段階における、発電にかかわるあらゆる事象に対する石油コストを総合した上で算定した、単位電力量供給に対する二酸化炭素排出量の比較なのです。
自然エネルギーを用いた発電方式では、この『燃料』にあたる部分の石油コストが発生しないだけであり、その他の部分における石油コストは、その特性から、火力発電に比べて大幅に増大することになります。総合的に考えれば、石油コストにおいて最新鋭の火力発電システムに勝るような自然エネルギー発電システムは存在しません。
こんなたわいのない詐欺に、一体いつまで世の中は騙され続けるのでしょうか?まあ、無能な役人・マスコミの皆さんがいる限り、業界関係者はご安泰という事でしょう。
No.088の内容に対して、ご質問をいただきました。太陽光発電の日稼働率についてです。少し説明が必要であったのですが、ここで改めて補足しておきます。
§2-5に紹介した、個人住宅の発電実績では、3kW出力の太陽光発電パネルの数年間にわたる稼動実績から、だいたい一日平均10kWh/日の電力を供給しています。
■ 10(kWh/日) / 3(kW) = 3.33(h/日)
これは、定格出力3kWに対して、1日3時間20分稼動していると考えることが出来ます。この数字を元に、No.088で取り上げた大分市の田ノ浦の太陽光発電施設の立地条件、南西側に山が迫っていて、午後の太陽光の受光に不利な点を考慮して、1日3時間という稼働率を使用しました。
さて、もう少し一般的に考えてみます。大気のない状態で、全く平らな地面に太陽が東から昇り(0°)西に沈む(180°)と仮定した場合、太陽光発電パネルが理想的な状態で発電できるのは実際には一瞬(90°)に過ぎません。一日の発電出力の変動は、太陽高度をα°とすると、sinαに比例することになります。これを考慮すると、前述の定義による日稼働率は、日の出から日没までの期間を12時間と仮定すると、
■ 12(h/日) × ( 2/3.1415 ) = 7.64(h/日)
しかし、実際には地球には大気がありますので、このような値を得ることは出来ません。たとえ快晴であったとしても、太陽高度が低くなると、地表に到達するまでに太陽光が通過する大気中の距離は急激に長くなります。大気中では短波長の成分から太陽光は散乱され、地表には届かなくなります。太陽光の大気による地表到達量の減衰を2〜3割と仮定すると、
■ 7.64(h/日) × { 1.0 - ( 0.2〜0.3 )} = 6.11〜5.35(h/日)
更に、天候によって太陽光発電の出力は大きく変動します。天候は地域の特性によってかなり大きな幅があると思われますが、とりあえず、太陽光発電に有効な太陽光を受けることが可能な『晴天率』を65%と仮定します。
■ 6.11〜5.35(h/日) × 0.65 = 3.97〜3.48(h/日)
更に、地球の地軸の傾きと、太陽光発電を行う場所の緯度によって、日稼働率をもう少し低減する必要があります。以上、非常にラフな仮定の見積もりではありますが、太陽光発電の日本における日稼働率が3〜4時間/日程度だという仮定は妥当なものだと考えます。
大分県内では、ちょっとした『新エネルギーブーム』が起きているようです。大分合同新聞8月5日付夕刊に次のような見出しが躍りました。曰く『ギラギラ太陽/バリバリ発電』、『田ノ浦公園のシステム本格始動』、『年間使用量の2割に/「エコ」普及啓発に期待』。以下に記事のリード部分を引用しておきます。
地球温暖化の緩和や環境保全を図るため、大分市は公共施設へのエコエネルギー導入を進めている。そのシンボルになるのが、田ノ浦公園に完成した県内最大規模の太陽光発電システム。今夏から本格始動。レストハウスなどの電力を照りつける日差しで賄っている。市は「海水浴客ら大勢の目に触れて、環境に優しいエネルギーの普及啓発になれば」と期待している。
太陽光発電施設と別府湾に浮かぶ人工島
まず、具体的な検討の前に、この施設全体の社会的な意味を考えて見ます。現地は、サルで有名な高崎山に近い、別府湾に面した海岸線です。国道10号線の度重なる改修によって自然の海岸線・砂浜が失われた場所です。田ノ浦にはもともと海水浴場がありましたが、高度成長期の別府湾の汚染の進行で、遊泳に不適な水質になりました。そこに、今度は更に大量のエネルギーと資材をつぎ込んで人工島を建設して人工の砂浜を作り、大分市近郊に一大レジャーセンターを建設しようというのがこの計画です。かつて大分県内を吹き荒れた「リゾート開発」の悪しき遺産の一つです。
冷静に考えれば、今回の太陽光発電施設のみならず、この田ノ浦の再開発全体が壮大な資源と税金の無駄遣いであり、環境という側面のみならず、逼迫する地方財政において時代錯誤の住民無視の無謀な計画のように思えます。
さて、では本題に入ります。今回本格始動した太陽光発電施設の概要を同記事から抜粋しておきます。
■太陽光発電パネル面積 553u
■発電出力 70kW
■施設建設費 300,000,000円
太陽光発電施設の耐用年数を30年、施設稼働率を平均3時間/日と仮定してみます。この場合の電力の発電コストを算定してみます。
■施設の耐用年数期間中の総発電量
70(kW) × 3(h/日) × 365(日/年) × 30(年) = 2,299,500(kWh).
■単位発電量当たりの発電単価
300,000,000(円) / 2,299,500(kWh) = 130.5(円/kWh)
さて、2001年6月総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会報告における試算結果における火力発電のkWh当たりの発電経費は7.3円/kWhです。同報告における太陽光発電の発電経費は73円/kWhです。
このHPの§2-5において、2001年6月総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会報告を元に試算した結果、太陽光発電は、同じ発電量を得るために投入される石油量は、火力発電の4倍程度になりました。今回算定した大分市の太陽光発電施設の場合は、同報告で見積もられた太陽光発電の発電コストの更に倍近いコストになっていますから、これはもう全くお話にならないものです。
この田ノ浦の太陽光発電施設は、石油と資源の壮大な浪費施設であることは、もはや疑う余地はありません。それどころか、この発電施設は全く蓄電施設を持っていませんから、雨の日には、この田ノ浦公園の施設の必要な電力は全て九州電力から購入することになり、この太陽光発電施設があろうがなかろうが、既存の電力供給システムの発電施設の削減効果は全く期待できないのです。つまり、この太陽光発電施設そのものが、社会システムとして全くの不要物なのです。
昨今の「エコエネルギー」導入キャンペーンは、とかくイメージだけが先行し、実態が全く伴っていないのが現実です。地方自治体の役人諸君、あなた方は貴重な住民の税金を執行しているのですから、このような無駄遣いは断じて許されないことです。たとえ『広告塔』機能を期待したからといって、本来訴えるべき環境負荷の削減と真っ向から対立するような太陽光発電などという張りぼてを作るために大金をつぎ込むことに、一体どんな意味があるのか、許されるのか、冷静に考えてみてください。そして大分市民の皆さん、このような行政の暴走に対して、もっと怒りをもってください。市民オンブズマンの皆さん、あなた方はどうお考えなのか、是非ご意見をお聞かせください。
先日、このホームページの読者である工学系の大学院生の方からメールをいただきました。主要な論点は、このホームページの私のレポート、特に『エネルギー』の部分の主張に「具体的なデータ」がなく、科学的な主張とはいえないのではないか?というものでした。ここで言う具体的なデータというのは数値資料と考えてよいと思います。
さて、本題に入る前に・・・。何度かこのコーナーでも触れていますが、このホームページで地球温暖化や新エネルギーを扱っているのは、これが環境問題における重要な問題だというわけではなく、誤った認識があまりにも広まっているために、環境問題の本質的な議論ができないという状況を見るに見かねてのことです。そんなわけで、どちらかといえば環境問題における『後ろ向きの作業』なので、個人的にはあまり深入りしたくはない問題です。
更にこの二つの問題の関連から考えると、『地球温暖化という重大な問題』を解決するためには『新エネルギー』の導入というシナリオですから、地球温暖化脅威説が虚構であれば、新エネルギーなど議論の必要すらないということになりますから、私の中の重要度から言うと、当面議論すべきは二酸化炭素地球温暖化脅威説の検証であって、新エネルギーの問題はそれほど重視していません。しかしそれでも次から次に新エネルギーの話題がマスコミから垂れ流されるため、仕方なくお付き合いせざるを得ないのが現状です。
このような『個人的な事情』から、『エネルギー』のセクションはどちらかと言えば手抜きの議論になっているかもしれません。さて、本題です。数値資料の示されていない主張や定量的な論議をしていない主張は非科学的かどうか、という議論になりますと、それは一概には評価できないと考えています。
現象を科学的に論ずる場合、まず現象を注意深く観察し、その定性的な関連や特徴を把握することが最も重要な作業です。現象の定性的な把握が十分に行われれば、後はそれを定量的に結びつける数値的な関係を試行錯誤で探し出せばよいのです。
ところが、定性的な把握が不十分な段階で定量的な評価を行う数値的な関係をでっち上げたりするととんでもない誤りを犯すことになります。定量的な議論が科学的で、定性的な議論は科学的ではないなどと言うのは次元の異なる問題です(勿論、定性的にも定量的にも正しいことが望ましいのは言うまでもありません)。
今回、具体的にご指摘を受けたのは、発電システムの発電能力当たりの資源・エネルギー投入量についての評価についてです。ご指摘では、新エネルギーについても、システムの運用にかかわる全ての事象についての評価は行われているのではないかという点です。資料として示されたのが、電力中研の『ライフサイクルCO2排出量による発電技術の評価』というレポートです。ご指摘では、このレポートに示された各発電システムの発電能力当たりのCO2排出量は、エネルギー投入量ないし石油消費量と対応すると考えられるのではないかという主張です。
確かに、現実の発電システムのライフサイクル全体における、システムにかかわる全てのエネルギーないし石油(炭化水素燃料)の投入量を網羅しているデータであれば、ご指摘の趣旨はごもっともだと思います。しかし残念ながら、このレポートでは、どのような前提で、どういうものを積み上げた結果なのか全く示されていませんから、いきなりこれを信じろといわれても、「はい、そうですか」とは言えません。
例えば、kWh当たりのCO2排出量は、石油火力975gに対して原子力28gとなっています。室田武氏のレポートでは、同一の発電量当たりの石油消費量は、原子力発電の方が石油火力発電よりも多いと報告されています。あまりにも異なった結果であり、ではいずれが信頼にたるレポートなのでしょうか?
現在の社会システムは、動力文明としてみた場合、石油文明と言えるでしょう。希少資源では、その希少性によって経済的な価格が決定される貴金属や美術品などはあるにしても、多くの工業製品価格は石油をはじめとする炭化水素燃料の投入量にほぼ比例するような経済価値を持つと考えられます。
さて、電力産業は原子力発電における経済性を主張していましたが、昨今の原子力発電をめぐる経済情勢を見れば、原子力発電関連の経費が今後の電力会社の収支を悪化させる可能性が高いため、電力自由化による新規参入企業に対して、原子力関連の分担金を徴収するという話しが出ているのが現実です。この現実を見る限り、原子力発電のコストは火力発電を大きく上回っていることは容易に判断できます。
こうした現実を見ると、電力中研のレポートの原子力発電に対するCO2排出量の値はどうも信じがたい、あるいは重大な見落としがあるとしか考えられないのですが、いかがでしょうか?同様に発電コストの高い太陽光発電のCO2排出量が53gというのも過小評価ではないかと類推されます。
現実的には、新エネルギーの発電コストに関する詳細なデータを部外者が自由に入手することは困難な状況です。このような状況では、発電システムごとの売電価格、発電経費などから、間接的に類推するという限界はありますが、各発電システムの定性的な特性を考慮すれば、それほど出たら目な見積もりにはならないのではないでしょうか?
原子力発電、燃料電池システムの資源・エネルギーコスト分析は論外として、自然エネルギー発電システムの持つ定性的な特性を考える場合、いわゆる新エネルギーが最新の炭化水素火力発電の資源・エネルギーコストを下回ることは、ほとんど考えられないというのが『科学的』な評価だと考えます。
7月25日付大分合同新聞朝刊に次のような見出しの記事が掲載されました。曰く『燃料電池車普及に弾み』『心臓部用のガラス材開発』『価格 百分の一に』。記事を少し引用してみます。
名古屋工業大学の春日敏宏助教授は24日、”究極のクリーンエネルギー”とされる燃料電池の心臓部である電解膜を、ガラス系の材料で作ることに成功したと発表した。
電解膜材料で主流となっているフッ素系の樹脂に比べて安く生産できるのが特徴。燃料電池の構造を簡単に出来るため価格が百分の一に下がる可能性があるという。実用化されれば現在は一億円を超える燃料電池車の生産コスト引き下げにつながり、春日助教授は本格的な普及に弾みがつくと期待している。(後略)
この種の工業技術についての新聞をはじめとするマスコミ報道の能天気さは、ほとんど救いようがないものです。開発を行う側の記者発表は、都合の良いことしか発表しないのは当然なのですから、報道するマスコミ側は内容を吟味した上で冷静な報道をすべきでしょう。
燃料電池システムの問題点をもう一度確認しておきます。基本的な問題は、「燃料」となる水素のエネルギーコストが非常に高く、水素製造のために投入される炭化水素燃料のエネルギーに対して、最終的に燃料電池で得られる電気エネルギーは確実にマイナスになってしまうことです。
註)熱エネルギーを利用しようとする場合には、石油を直接効率の良いボイラーで利用すれば、少なくても投入量100に対して80程度を有効に利用できるであろう。これに対して、石油100を燃料電池システムに投入すると、出力として供給される電力は既に10程度にまで減少しており、これを熱として利用すれば、回収できる熱エネルギーは10を割ることになるであろう。
同様に、電気エネルギーを利用する場合には、旧式の石油火力発電でも石油100の投入に対して35程度を電気エネルギーとして利用可能である(最新式のガスタービン・蒸気タービン併用の火力発電では実に60近くを利用可能である。)。これに対して石油100を燃料電池システムに投入すると、得られる電気エネルギーは10程度である。
どのような形態のエネルギーを利用するにしても、燃料電池システムという迂回度の高いシステムを用いれば確実にエネルギー利用効率が下がるのは当然の結果であって、何か極めて特殊な利用環境(例えば宇宙空間)において利用する場合を除けば、その利用価値はない。燃料電池システムを一般的なエネルギー供給システムとして普及させるという発想自体がナンセンスである。
更に、燃料電池システムを製造・維持・管理していくために必要な資源やエネルギーを考えれば、エネルギー産出比は更に大きく悪化します。現在政府に納められているトヨタや本田の燃料電池車の販売価格は数億円といわれていますから、とんでもなく資源・エネルギー浪費的なシステムだということがわかります。
問題はそれだけではありません。燃料電池車を普及させることを考えた場合、水素ステーションをはじめとする社会的なインフラ整備が必要不可欠になります。水素ステーションは、高圧水素を扱うため、これまでのガソリン・ステーションに比べてその安全管理はより厳しくなり、設備自体も複雑かつ高度なものになり、単位エネルギー供給当たりのインフラに投入される資源・エネルギー量も格段に大きなものになります。
また、水素は非常に爆発範囲の広い物質(4〜75%)であり、爆発事故の危険性はガソリンの比ではありませんし、鋼構造物に対して機械的欠陥による破断の危険性を持っています。
このように、燃料電池システムは総合的に考えると、現行のエネルギー供給システムに比べて、社会システムに多大な資源・エネルギーの追加投入を要求するものです。今回の名古屋工業大学の技術開発は、こうした多岐にわたる燃料電池システムの問題点のうち、最も基本的なエネルギー産出比に対する問題を何ら改善するものではありません。燃料電池システムの製造コストの中の一部品の材料価格の低減という効果しかないのです。その価格効果にしても、システム全体の価格が百分の一になることは到底考えられません。
燃料電池システムの普及は、確実に環境問題を悪化させることになります。
人の先入観というものは、容易に変化しないようです。その背景には、科学的・論理的なものの考え方の訓練が出来ていないことに原因があるように、最近特に感じるようになりました。学校教育における科学教育のあり方を見直すことが大変重要な課題だと感じています。
さて、つい最近、このコーナーのNo.081の海洋温度差発電の話題に関して、無名のフォームメールを受け取りました。内容としては、海洋温度差発電は、最良の発電方式ではないかもしれないが、開発段階の現状でのコスト分析によって判断を下すのは誤りではないか?というような内容でした。(お願いですが、意見をいただく場合は、出来ましたら、言いっ放しの議論にしないためにも、どうか返信用のメールアドレスをお書き添えください。)
また、エネルギー問題に関して、このHPのアンケートに次のような書込みがありました。
地球温暖化 - 2003/07/17(Thu) 08:01:12
ジェレミー・リフキンが最近日本語版を出した「水素エコノミー」のかなりの部分は10年〜30年先の石油の枯渇問題を認識させるための論説です。
現状では石油にまさる自然エネルギーはないという槌田氏の主張は現在は成立しても、石油がなくなった後のことを議論してもらわないといけないと思います。
まさかだから原発に、という話にはならないでしょうが、温暖化CO2説は嘘だから石炭をどんどん利用していい、というトンデモ主張になりかねないと危惧します。
この二つのご意見には、かなり落胆しています。もう少しこのHPの意図が伝わってほしいと思うのですが・・・。
さて、気を取り直して・・・。この二つの主張は、いずれも主要なエネルギー資源としての石油・石炭という炭化水素系の資源の枯渇後の問題を念頭においているように思います。
まず、海洋温度差発電について、これは、蒸気機関の発明以来、歴史の長い熱機関の一種であり、低温で温度差の小さい熱溜間から運動エネルギーを取り出すという、困難さはありますが、それほど目新しい技術ではありません。この低温熱機関の研究の意義は、まさにこれを実現するための資源・エネルギーコストが、最新の炭化水素燃焼方式のガスタービン・水蒸気タービン併用式の火力発電に対して節約的であるか否かの一点に尽きます。海洋温度差発電において、資源・エネルギー利用効率の研究以外の目的など全く無意味です。
熱機関の理想的な効率は、高温熱溜と低温熱溜の温度差によって規定されてしまいます。温度差が小さければ、同じ量の熱エネルギーから取り出すことの出来る運動エネルギーは相対的に小さくなります。しかし、逆に超高温の熱源を利用しようとする場合には、装置の物性的な限界からシステム全体が危険になってしまいます。そのため効率の低下を承知で多段階の冷却系によって高温熱源の温度を適正な温度まで下げてやることになります。地球という物理的な環境において、熱機関には適正な温度範囲があるといえます。
高温熱源の温度が低い海洋温度差発電では、低温度差(20℃程度)の海水から運動エネルギーを取り出すため、まず大前提として熱機関としての効率が極めて低いことには疑問の余地はありません。これは相対的に、取り出せる単位運動エネルギー当たりに投入される資源量、エネルギー量が大きくなることを意味しています。また、海洋という苛酷な環境で海水を扱うことになれば、その操業時にシステムを保守していくことにも多くの資源・エネルギーの投入が必要になります。
これらの条件を考えれば、将来的にも海洋温度差発電の資源利用効率と石油利用効率が炭化水素系の火力発電を上回るなどとは、私には到底考えられません。たとえ発電コストが、現在の百分の一になっても、まだ石油浪費的な太陽光発電と肩を並べるにすぎないのです。全くお話になりません。
自然科学において、何かを実証するという作業は非常に困難な作業です。たとえば、二酸化炭素地球温暖化説を主張する場合、この仮説で説明できない現象を一つでも提示することが出来れば、論理的には二酸化炭素地球温暖化説は否定されることになります。提示された疑問に対して、それについて論理的に検証を行い、説明責任を負うのは仮説を主張する側なのです。
私は根本的な問題である、海洋温度差発電の火力発電に対する、相対的な資源・エネルギー利用効率に対する疑問を提示したわけですが、これに対して論理的な検討を行うべきは海洋温度差発電を進めようとしている方々の責任です。このことがご理解いただけましたでしょうか、名無しの投稿者氏?
次はアンケートの件です。この投稿では、『現状では石油にまさる自然エネルギーはないという槌田氏の主張は現在は成立しても、石油がなくなった後のことを議論してもらわないといけないと思います。
まさかだから原発に、という話にはならないでしょうが、温暖化CO2説は嘘だから石炭をどんどん利用していい、というトンデモ主張になりかねないと危惧します。』と書かれています。
前段については、例えばこのHPに掲載している 3-2 研究ノート 石油文明の次は何か などで既に触れていますので参考にしてください。まず、この投書の主張は、石油(炭化水素燃料資源)枯渇後にも現在のような工業化された社会を維持していく必要があるという、暗黙の前提に立っているようです。現在の工業化された社会を実現しているのは、科学の進歩というより、幸運にも炭化水素燃料が豊富に使える状況にあるという物理的な僥倖に支えられているのです。炭化水素燃料が枯渇した後に、現在の工業生産を維持することは不可能だということを受け入れるところから議論を始めなければなりません。
後段の原発の問題や炭化水素燃料の浪費の問題は全く見当違いです。原発、核融合、自然エネルギー発電などの新エネルギーは、その大部分は発電方式として、炭化水素火力発電よりも地下資源と石油を初めとするエネルギー資源の利用効率において劣っています。そのため、原発、核融合、自然エネルギー発電によって炭化水素火力発電を代替するなど全く無意味です。それ故冷静に考えれば、これらの『石油代替技術』には存在価値はないのです。蛇足ですが、これらの技術は石油文明下の技術であり、炭化水素燃料の枯渇後に、炭化水素燃料なしに実現することは不可能なので、石油文明後を語るときに原発、核融合、自然エネルギー発電を話題にするのは全くの無意味です。
二酸化炭素地球温暖化脅威説は虚構ですから、温暖化という文脈において炭化水素燃料の使いすぎを心配する必要はありません。しかし、人類史において最も有用で、しかも限りある石油を初めとする炭化水素燃料の限界が見え始めてきた今日、石油文明後を見据えて、人間社会を、石油による工業的な大規模なエネルギー使用を脱した、地球生態系の物質循環に依拠したものにしていく条件整備を、まだ石油が利用可能なうちに準備しておくことが現実的な戦略だと考えます。槌田はこれを『後期石油文明』と名づけています。
近頃、大学において学生による起業が盛んに行われています。私の卒業した工業大学でも学生による起業を奨励しているようです。しかしこうした動きは、本来ならば時代の前衛として長期的なスパンの下に、ある意味、現実の経済活動を超越した研究を行うという最高学府としての大学の自殺行為ではないかと、かねがね考えています。しかし、この傾向は、大学の独立法人化でいっそう加速されることになるでしょうが・・・。
さて、7月8日の大分合同新聞の夕刊に、『風の丘に市民風車』『発電会社を起業』『APU学生が挑戦』という大見出しの記事が掲載されました。曰く『別府市の立命館アジア太平洋大学(APU)の学生が、風力発電と売電を手がける株式会社「大分新エネルギー」を設立した。環境に優しいエネルギーづくりに、広く市民からの出資を募る”市民風車”を目指す。云々・・・。』(参考
APUメイト.net)
冗談じゃーありません。風力発電に対する技術的な評価は既に繰り返し述べましたので、ここでは触れません。問題は、この起業が、あの悪名高き無責任組織のNEDOの肝煎りで(どちらがどちらに話しを持ち込んだのかは不明ですが・・・)、たぶん国庫や場合によっては先に成立した『大分県エコエネルギー導入促進条例』の対象事業として税金の投入が予想されます。更にあろうことか、『広く市民からの出資を募る』など言語道断です。
法制度や、経済政策的に儲かる事業として風力発電を行おうというならば、純粋に経済活動としてそれもいいでしょう。それならそれで自己資金で勝手におやりなさい。それを『環境に優しいエネルギー』だという詐欺で市民を騙して金を集めようなどとはとんでもないことです。私は別府市民として断固反対です。
「環境に優しい=火力発電よりも環境負荷が少ない」という理由で風力発電を行おうと考え、市民からの出資をあてに風力発電会社を、主体となって起業するというのならば、APUの学生諸君、君らは自己の責任において、最低でも風力発電の全ライフサイクルにおける資源・エネルギーコストを算出し、本当に環境負荷が軽減できるのかどうかを論理的に明らかにする責任があると考えますが、いかがですか?それ以前に、君らは環境問題の本質について考えたことがあるのですか?
NEDOという組織は全国のあっちこっちにいろいろと施設を建設しているようですが、その無責任さには定評があります。古くはかつてのビッグプロジェクト『サンシャイン計画』、大分県内でもリゾート開発華やかなりし頃、久住町でも風力発電のパイロットプラントがあり、リゾート開発で浮かれていた当時は、地熱開発とともにバラ色の構想にまとめられていましたが、いつの間にか雲散霧消してしまいました。
APUの学生諸君、君らはその話題性からNEDOや『新エネルギー』を推進しようとたくらむ「偉い人たち」の広告塔として利用されているという現実を直視するとともに、環境問題の本質について正面から向き合わねばならないと思います。学生諸君、風力発電によって環境問題が改善されるなどということは金輪際ありません。