§1.学校教育とは何か、
§2.検定済教科書と教師の役割
§3.大分県の県立高校の実態
§4.総括


§1.学校教育とは何か、

 学校教育の目的とは、言うまでもなく、社会を担う次の世代を育成することです。中でも最も基本となるのが大多数の子どもたちが初等・中等教育を受ける公立の小・中・高等学校における教育です。公教育における初等・中等教育は、日本人の大部分が修了しているもので、社会に参加していく上ですべての人に必須の基本的な知識や判断能力を身につけることが目的だと考えられます。高校教育は、初等・中等教育の最終段階です。
 これに対して大学以上の高等教育は、初等・中等教育の基礎の上に、特殊性を有する高い知識の習得を目的とする専門教育だと考えられます(尤も、現在の乱立した大学の中には本来の高等教育の要件を満たさないレベルの大学が数多く含まれることはまた別の問題です。)。以下の議論では、単に学校教育という場合は初等・中等教育を指すことにします。

 学校教育における目的は、現在の社会における基礎的な知識を身につけると同時に、子どもたちが社会の中核になる将来において、新しい社会条件下で創造的に問題に対処する能力を身につけさせることです。特に重要なのは、論理的な思考方法であり、それを元に判断する能力です。
 ある特定の時代や地域における特殊な知識は、相対的な情報であり、それほど重要なものではありません。それは社会生活を通してごく普通に身につくからです。むしろ学校教育で重要なのは時代や地域、国家政策の特殊性に根ざした一面的な知識ではなく、普遍性のある本質的な理論の体系であり、論理的で柔軟な思考方法や判断能力です。その中核は科学的な認識方法と論理的な思考方法の習得です。

 この数十年間、日本の学校教育は『ゆとり教育』という大きな失敗を経験しました。その内容は知識偏重の教育を見直し註)、一人ひとりの個性を重視するという建前でした。これは特殊な才能を持つ一握りの天才に対しては意味のあるものであったかもしれませんが、大多数の凡人にとっては失敗することは明らかであったと考えます。

註)日本の学校教育は、第二次世界大戦後、生産現場に優秀な技術者・工員を供給するために実利的な知識量を増やすことを目的に行われてきました。また、高度成長期を経て、大学への進学率が高くなるにつれて受験競争が激化し、大学入学試験の内容は入学者を選別するための難解なパズルのようなものに変質していきました。その結果、大学入試を突破するために初等中等教育は変質し、受験テクニックを修得することが主要な目的となっていました。1980年代後半になってこうした教育のあり方を見直す動きが中央教育審議会で議論され、週休二日制の広がりとともに教育時間数、教育内容の削減と同時に個性を重視した多様な教育を目指すという方向にシフトしました。

 学校教育は大多数の凡人に対する教育機関です。凡人は最低必要な基本的な知識と思考方法を地道に積み重ねて身につけることによってはじめて個性を活かすことが出来るのです。凡人に対して初等教育の初めから個性を野放しにすれば、それは単に好き嫌いを助長し、利己的な子供を増やすことにしかならなかったように思われます。

 ここでは、学校教育の意義について、数学教育の立場からまとめられた早稲田大学名誉教授の小島順さんの2008年のレポートを紹介します。

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§2.検定済教科書と教師の役割

 日本における学校教育では、使用される教科書は文部科学大臣による検定を受けた検定済教科書を使用することになっています。教科書検定について、文科省はその意義を次のように述べています。

1)教科書検定の意義

 我が国では、学校教育法により、小・中・高等学校等の教科書について教科書検定制度が採用されています。教科書の検定とは、民間で著作・編集された図書について、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることです。 教科書に対する国の関与の在り方は、国によって様々ですが(表2参照)、教科書検定制度は、教科書の著作・編集を民間に委ねることにより、著作者の創意工夫に期待するとともに、検定を行うことにより、適切な教科書を確保することをねらいとして設けられているものです。

 日本における教科書検定制度は、民間書店が教科書を制作しますが、最終的には国の承認=検定を得る事が必要であるため、国の政策や歴史観と対立するような学説は敢えて取り上げない傾向が強く、思想的な偏向があることは否めません。むしろ、国家が教科書検定制度を堅持する目的は、国家体制に都合の良い偏向した教育内容を国民に刷り込むためだと考えるのが自然です。
 その結果、国家による検定制度が存在する限り、学校教育で使用される教科書が第二次世界大戦終結以前の軍国主義的な国定教科書的なものに変質する危険性が排除できないのが、現在の日本の教科書の現実です。

 一方、戦後の日本の教育は、第二次世界大戦終結までの上意下達の一面的な軍国主義教育によって国家の政策を忠実に実行して、若者を戦場に駆り立てる装置として利用されたことの反省に立ち、『生徒・学生・若者を二度と戦場に送らない』ことを大きな課題として開始されました。
 その前提となるのは、学校教育において児童・生徒と直接対峙する教師自身が国家の思惑に盲信することなく、自由な意志を持つ自立した個人として自ら考え、その良心に従って教科の内容を教えることです。例え検定済教科書の偏向した歴史観や国家政策の介入が明らかな内容を教える場合でも、そこに多面的な議論を行うことで、より普遍的な真実に近づけるようにすることが教師の中心的な役割であろうと考えます。それを実現するためには、教育基本法にも記されている通り、教師は教科の内容に対する深い理解と高い見識を常に研鑚することが求められることは言うまでもありません。

教育基本法

(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

(教員)
第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 これに対して受験学習塾の講師の役割は、大学入学試験に良い点数を取る技術を習得させることであって、教師とは全く異なります。

§3.大分県の県立高校の実態

 私は環境問題や人為的CO2地球温暖化仮説の信頼性の問題についてホームページで情報を発信しています。巷には明らかに自然科学的に誤った情報が大量に流されていることを憂慮しています。大衆は環境問題や人為的CO2地球温暖化仮説の信憑性については、高度な専門性を持つ研究者でなくては判断できないと考えています。しかし、実際には高校教育における物理・化学・地学で学ぶ内容を理論的に正しく理解すれば、ほとんどの問題を正しく判断することが出来るというのが現実です註)

註)例えば、高等学校で理科を教えている石黒秦氏の運営するホームページ「未来への化学」には詳細な実例が数多く示されています。

 大分県では、『新大分県総合教育計画(改訂版)』(2012年3月)という冊子をまとめ、その中で学校教育を地域に開き、地域や家庭と協働で充実させることが謳われています。
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 一昨年(2012年)4月に私の娘が大分県の県立高校に通い始めました。私は『新大分県総合教育計画』の主旨に則り、私の環境問題や人為的CO2地球温暖化仮説に対する知識が、多少なりとも、高校教育課程の内容の充実に資することが出来るのではないかと考え、まず、娘の通う県立高校の理科・社会科の教科書・副読本における環境問題や人為的CO2地球温暖化仮説の取り扱いについて説明を求めることにしました。

3-1 戦前と変わらぬ教頭の学校教育に対する驚くべき認識

 2012年6月12日家庭訪問のおりに担任教師に対して、高校の使用する理科と社会科の教科書等の環境問題、人為的CO2地球温暖化仮説等に関する記述に、理解できない点があるので、担当教師から説明を受けたい旨の申し入れを行いました。
 その結果、6月18日に二人の教頭とまず面会することになりました。教頭に対して再び、理科と社会科の教科書・副読本の記述に理解できない点があるので、担当教師の説明を受けたい旨の申し入れを行いました。
 これに対して教頭は、いきなり教科書検定制度について言及し、検定済みの教科書の記述に対して現場の教師が疑義を差し挟むことは出来ないので、記述に疑問を持っているあなたに対して説明を行う場を設けることは出来ないと答えました。
 これに対して私は、検定済みの教科書であっても明白な誤りがあればその記述を訂正することは当然ではないかと述べました。これに対して教頭は、誤りがあれば教科書検定で訂正されることになるから、教科書が訂正された段階で教科書に従って授業を行うだけであり、現場の教師個人が誤りを訂正することは出来ないと繰り返しました。
 それでは、教科書に誤りがあっても教師はそれを指摘することが許されず、与えられた教科書の内容を上意下達でそのまま教えた戦前の教育と同じではないですかと問うたところ、教頭は「そうです」と答えたのには驚愕しました。その上で、教科書の記述に疑義があるのならばあなたが勝手に教科書会社や教科書検定に意見すれば良いとも述べました。これは教育現場で直接生徒と対峙する教師としては、誠に無責任極まりない認識という他ないと考えます。

3-2 高校の問題について機能しないPTA

 高校にはPTAがあり、その規約には基本的な目的や事業が次のように記されています。

 当然、今回の教科書の記述に対する高校の無責任な対応の問題は、PTAの議題として取り上げるべき重要な内容だと考え、来るPTA総会の議題にしたい旨、申し入れました。ところが、この高校のPTAは、高校管理職にPTA役員の指定席を与えているために、実質的にPTAの運営は高校の都合が良いように運営されていたのです。保護者から高校の運営が問題視されるような議題はこの高校のPTAにおいて議論されることは金輪際ないということです。
 事実、私の申し入れは却下され、PTA総会の議題になることはありませんでした。しかし後日確認したところ、この決定は高校側のPTA役員が勝手に決定したことであって、保護者役員には諮っていなかったのです。

 おそらくこの高校にかぎらず、大多数の公立高校のPTAでは高校管理職が自動的にPTA役員の重要ポストを兼務していることから、実質的にPTAは高校の都合の良いように操られているのであり、高校に不都合な不祥事があったとしても、例えば刑事事件にでもならない限り、高校側役員によってもみ消されてしまうというのが実態です。私のような一般のPTA会員が、保護者側PTAのトップであるPTA会長に直訴しようと、学校側役員に連絡先を教えるように要請しても、『プライバシーの保護』を建前として教えてはもらえません。PTAは高校の傀儡組織なのです。

 PTAの諸問題については、稿を改めて考察することにします。

3-3 思考停止した愚かな教師たち

 その後も断続的に高校と交渉を続け、ようやく2012年11月7日に理科・社会科の担当教師と意見交換を行うことになりました。事前に、当日の意見交換の議題とするオゾンホール、温室効果による温暖化の仕組み、大気中CO2濃度の構造などについての説明資料を配布し、当日は担当教師から教科書の記述内容についての担当教師の理解するところの説明を受け、意見交換を通して建設的な話合いを行おうと考えていました。
 当日は、単純な事実誤認であるオゾンホールに対する記述から説明を求めることにしました。しかし、社会科の担当教師は本の記述をそのまま読み上げた上で「この記述の通りです」というだけで、それ以上の説明を一切拒否しました。話しにならないので、事前に配布した資料について意見を求めたところ、これについても一切のコメントを拒否し、「私には正しいか誤りなのか判断できません」、「どうしろというのですか?」と開き直る始末で、建設的な意見交換は一切出来ませんでした。
 話しにならないので、理科の教師に自然科学的な立場からコメントを求めたのですが、この教師は更にひどい回答でした。話題にしているオゾンホールの問題については一切コメントをせずに、「検定済教科書の記述は、専門家や研究者が書いたものであり、専門家ではない私達現場の教師が、その内容が正しいか誤っているかを判断することは出来ない」と述べたのでした。教師にさえ理論的に正誤の判断ができない教科書の記述を、彼等はどのように生徒に教えるのでしょうか?
 これはあまりにも無責任でふざけた認識です。高校の教師は、高校において教科の内容を高校生に教授する教科の専門家です。教科の内容を高校生に教授する専門家として、高校教師以上の専門家は存在しません。彼らの認識は『真理を求める態度を養う』ことを目標とする教育基本法の精神にも反するものです。

 私の取り上げた話題は、高度な専門性を持つ特殊な内容ではなく、現在もまだ複数の理論が対立しているような高度な問題でもありませんでした。公開されている観測データの客観的な資料を確認することで内容が確認できる類の問題でした。彼ら高校教師たちはただ単に資料を調べることすら放棄して思考停止している自らの怠慢を、教科書検定制度を持ちだして、「教科書は専門家や研究者が書いたものであり」、専門家ではない現場の教師には「検定済教科書の記述に異議を申し立てることは出来ない」という言い訳で正当化しているだけでした。このことは後日明らかになります。
 仮に、教科書の記述内容が現在もなお研究の最先端で議論の分かれているような高度の専門性を有する問題であれば、本来、高校生の使用する教科書の教材として取り上げるのは不適切です。あるいはそのような問題をあえて取り上げるのならば、複数の理論を同等に併記すべきです。もし一つの理論だけを記載しているのであれば、何らかの意図を持つ偏向教科書ということです。

 なお、これらの問題の理論的な詳細につきましては、『環境問題についての高校教科書の記述を科学する』にまとめていますので、ご参照ください。

3-4 検定済教科書の記述の訂正について

 このように、娘の通う県立高校の職員の意識は管理職(教頭)ばかりでなく一般の教師に至るまで、教師の本分を見失い、思考停止状態に陥り、実質的には第二次世界大戦終結までの上意下達の教育と変わらない状況になっています。

 しかし、敗戦後の日本の教育システムは、建前上は、第二次世界大戦終結までの教育の反省に立って設計されたはずであり、法的・制度的には高校の教頭や教師たちが言うように『検定済教科書の記述に対して現場の教員が異議を申し立てることは出来ない』はずはありません。これを確認するために、県立高校の指導機関である大分県教育庁高校教育課の教科書の記述についての取扱についての見解を聞くことにしました。

 2012年12月21日に大分県教育庁において芝崎(地歴公民)、鬼塚(理科)両指導主事(当時)に面会し、高校の現場の教師は、検定済教科書の記述の誤りを指摘したり申し立てることが出来ないのかを確認しました。指導主事は「教科用図書検定規則第三章」に従って、現場の教師にかぎらず誰でも検定済教科書について、誤植だけでなく明白な誤りについて指摘することが出来ると説明されました。法的根拠は次の通りです。

教科用図書検定規則(平成元年文部省令第二十号)

第三章 検定済図書の訂正
(検定済図書の訂正)
第十四条 検定を経た図書について、誤記、誤植、脱字若しくは誤った事実の記載又は客観的事情の変更に伴い明白に誤りとなった事実の記載があることを発見したときは、発行者は、文部科学大臣の承認を受け、必要な訂正を行わなければならない。
2 検定を経た図書について、前項に規定する記載を除くほか、学習を進める上に支障となる記載、更新を行うことが適切な事実の記載若しくは統計資料の記載又は変更を行うことが適切な体裁があることを発見したときは、発行者は、文部科学大臣の承認を受け、必要な訂正を行うことができる。
3 第一項に規定する記載の訂正が、客観的に明白な誤記、誤植若しくは脱字に係るものであって、内容の同一性を失わない範囲のものであるとき、又は前項に規定する記載の訂正が、同一性をもった資料により統計資料の記載の更新を行うもの若しくは体裁の変更に係るものであって、内容の同一性を失わない範囲のものであるときは、発行者は、前二項の規定にかかわらず、文部科学大臣が別に定める日までにあらかじめ文部科学大臣へ届け出ることにより訂正を行うことがで きる。
4 文部科学大臣は、検定を経た図書について、第一項及び第二項に規定する記載があると認めるときは、発行者に対し、その訂正の申請を勧告することができる。

 現場の教師が教科書会社に対して誤りを指摘することを規制するような条項は一切ない事が確認できました。その後、文科省に確認したところ、教科書会社に誤りを指摘してもこれを訂正しない場合には、これを文科省に申し立てれば規則第三章四項「文部科学大臣は、検定を経た図書について、第一項及び第二項に規定する記載があると認めるときは、発行者に対し、その訂正の申請を勧告することができる。」ということでした。

 大分県教育委員会高校教育課に対して、高校に対して検定済教科書について疑義を申し立てることは何ら問題ないことを周知・指導することを申し入れ、了承されました。

3-5 校長との話合いとその後の対応、県教委高校教育課の判断

 2012年12月21日の県教委との話し合いの結果、高校に対して指導が行われました。これによって状況は全く変わりましたので、教科書記述の問題について、2013年1月21日に校長と話し合いを行うことになりました。話合いでは、次の確認事項に沿って校長の見解を確認しました。

 当日の校長との話合いの録音です。

 録音の通り、確認事項4の教頭の教科書に対する認識については校長の判断を得られませんでしたが、その他の確認事項は全て合意することが出来ました。この日の話し合いを踏まえて、確認事項を文書記録にすることにして話合いを終わりました。

 その後、合意文章(案)を校長に提示し、文言のすり合わせを行うことました。ところが、高校内でその後どういう話があったのか定かではありませんが、10日ほど経過した頃、校長に確認の電話をしたところ「土下座でもするから、話合いの合意事項は全て無かったことにしてくれ」というとんでもない返事が帰ってきました。
 私は、これまで話し合いを行ってきた中で校長が最も良識的な人物だと、ある意味好感を持っていました。しかし、おそらく教頭や担当教師の猛烈な反発に屈して、一人で泥をかぶり、話合いの合意事項を全て反故にすることにしたと思われます。その後わかったことですが、この校長は2012年度末で校長を退職し、大分県のとある私立大学の准教授として華麗な転身を遂げたようです。

 この校長のあまりにも不誠実な対応について、2月14日に大分県教育委員会(=教育庁)の教育改革・企画課の総務・広報班の松原弘之主幹と高校教育課の高校教育指導班の岩武茂代参事(当時)と面会し、1月21日の話し合いにおける合意事項の誠実な履行を行うよう高校に対して指導することを申し入れました。
 その後、2月27日の岩武氏からの電話で、「高校に事実確認を行った結果、高校が合意事項を反故にした対応は正当であり、この件に関しては今後県教委も話し合いに応じない」旨の最後通牒を言い渡されました。
 岩武氏は、今回私が説明を求めた記述について、「複数の理論が主張されている問題にたいして正誤の判断を求めることは、高校の教師の職分から逸脱している」から、私の要求を却下することは正当であると述べました。私は繰り返し、そのよう高度な問題ではなく「単に観測データを調べれば確認できることであり」考えなおすように説明しましたが、岩武氏は具体的な内容に言及することなく高校側の主張のみを採用したのでした。この岩武氏の判断は、その後、誤りであったことが確認されます。

3-6 PTA退会に至る経緯

 このような高校の保護者に対する不誠実な対応について、PTAで話し合うべき重要な課題だと考え、次期PTA総会の議題にしたいので手続きを教えるように申し入れましたが、いつまでたっても回答はありませんでした。PTA会長の連絡先を教えるように教頭に申し入れを行いましたが、プライバシーの保護を縦に連絡先も開示されませんでした。

 最早この高校のPTAは全く機能せず、高校の傀儡組織であることが明らかとなりましたので、教頭にPTAを退会する手続きを教えるように申し入れました。PTA規約には入会の手続きだけでなく退会の手続きについても一切記述が無いからです。ところが、驚いたことにPTAを退会する手続きはない、どうぞおやめくださいというのです。

 この件を期に、県立高校PTAという組織がどういうものなのかを考えることになりました。PTAの問題については稿を改めて詳細な検討を行います。

3-7 県教委高校教育課との交渉再開と説明会に至る経緯

 教科書記述については、一切対応しないと高校教育課岩武参事から通告を受けましたが、これは公僕たる公務員としては許されないことだと考えます。そこで、2013年7月の参議院選挙後に知り合いの県議会議員と会い、相談することにしました。その結果、県教委高校教育課の高畑課長に話しをするように指示されました。どうやら再び交渉の窓口を開くことが出来ました。(しかし、実際には高畑課長とは顔を合わせるどころか未だに電話でも話したことがありませんが・・・笑。)

  2013年9月20日に大分県教育委員会高校教育課予算班の足立氏ほか2名と話し合いを持ちました。その結果、いくつかの確認を取ることが出来ました。9月20日の話合いなどについて、後日足立氏より送られてきた資料を次に示します。

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 高校教育課岩武参事の2013年2月27日の電話による通告の内容だけを示すと以下の通りです。

 岩武氏の見解、あるいは大分県教育委員会高校教育課の見解は、私が求めるほとんど完璧な内容です。

 つまり、高校の教員は検定済みの教科書記述に拘束されることはなく、自由に自ら考えて良いし、明白な誤りについては教科書会社や文科省に対して改正の申請ができるのです。従って、娘の通う高校の教師たちは教科書検定を口実に、保護者からの記述に対する疑問に対して説明を拒否することは出来ないということです。そして、質問に答えるだけでなく、保護者からの意見を聞くことも「やぶさかではない」というのです。
 ただ一つ岩武氏が判断を誤ったのは、高校がどのような説明を行ったかは定かではないのですが、私が説明を求めた記述について、教科書検定の専門家委員などの判断が必要なほど高度な学説の対立があると判断したことです。岩武氏の高校側の説明だけを信じて保護者の意見を無視した判断は非常に偏向した判断だと考えます。

 この県教委高校教育課の判断を元に、再度高校に申し入れを行うことにしました。しかしまた拒否されると堂々巡りになるため、今回は高校に対して求める質問内容を事前に県教委高校教育課に妥当なものかどうかを判断していただくことにした。岩武参事の後任の林参事に確認をお願いしたのが次の文章です。

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 林氏はこの申し入れの質問事項は全く問題ないと判断されました。つまり、先の岩武参事の判断が誤りであったことを正式に認められたのです。その後、高校の校長に対して、既に県教委の確認を受けていることを付言して、申し入れを行いました。

3-8 説明会における確認事項

 2012年6月に最初に高校に説明会の申し入れを行って約1年6ヶ月が経過し、やっとまともな説明会が開催されることになりました。わずかこれだけのために、なぜ一年半もの時間と莫大な労力を費やしなければならなかったのか、…。ひとえに高校の教師たちの教育に対する不真面目さ、保護者に対する不誠実さに起因しています。

 もう一度説明を求めた項目をまとめておきます。

@オゾンホールによるオーストラリアにおける紫外線の増加があるのか。
A温室効果の増加で地球放射が減少するのか?
B近年観測されている大気中CO2濃度の上昇の主因は人為的なものか?

 @、Aについては、前回の説明会で説明を拒否した担当教師は出席せず、教頭から説明がありました。内容について出版社である浜島書店に確認したところ、次のような回答を得たそうです。

@オゾンホールがオーストラリア大陸まで拡大したことはなく、従って、オゾンホールの拡大によってオーストラリアに降り注ぐ紫外線量が増大して健康被害を及ぼした事実はない。本の記述は訂正する。

A温室効果が増大しても、温度的に安定している地球では太陽からの有効放射量と地球放射量は釣り合っていると考えられるので、本の記述と図は誤りである。本の記述は訂正する。

 このように、私の指摘した問題は、観測事実を調べればすぐに分かる類の問題であり、一年半もの間この記述に対する説明を拒否してきた高校の担当教師の怠慢は教師として恥ずべき態度であり、教育基本法にも反する態度だと考えます。

 Bについては前回の説明会にも参加した理科教師が、再び説明(?)しました。彼は、今回も具体的な現象の実態を知らないので分からないという説明でした。これは今なお担当教師として事実を調べようとしていないことを示しており、あまりにも怠慢です。彼は教師に理解できないことをどのように生徒に教えるのでしょうか?あまりにも無責任です。生徒の保護者として、とても納得できる説明ではありません。

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 私は、用意していた資料(上図)を示して、それではIPCCの炭素循環図が正しいと仮定した場合、人為的なCO2排出が大気中CO2濃度上昇の主要な原因と考えるかどうか問うたところ、分からないと答えました。彼は要するに何も考えていないだけの無能な教師だということです。これは彼個人の資質の問題なのであろうと考え、諦めました。
 他の参加者にもIPCCの炭素循環図から考えられる可能なモデルについて尋ねたところ、教頭は循環モデルだと即座に答えられました。これは思わぬ収穫でした。
 循環モデルが正しいモデルであれば、大気中に存在するCO2の内、人為起源のCO2は3%程度、高々12ppm程度にすぎないということです。従って、産業革命以後に上昇した大気中CO2濃度を100ppmとすれば、その大部分は自然増加だということです。

 以上の通り、説明会において、私の疑問点はほとんど私の主張通りであることが確認され、浜島書店の図書については記述の訂正という思わぬ収穫を得ることが出来、所期の目的を達成出来たものと考えています。しかしながら、高校の理科担当教師の資質は極めて低く、教師の名に値しないことが確認されたことは大変憂慮すべき悲しい事態だと考えます。

 

 以上報告した通り、現在の大分県の県立高校の科学教育は悲惨な状態にあります。『新大分県総合教育計画(改訂版)』には学校と家庭や地域の協同が謳われていますが、それは建前であり、画餅にすぎないようです。

§4.総括

 現在、そして将来の社会において、国の方向を決める政策判断において、国民にはますます自然科学的な判断を求められる局面が多くなると考えられます。

 例えば、前世紀終盤から人間社会の生産活動や開発行為と地球生態系の関わりの問題、いわゆる環境問題が世界の国々の国家政策を決定する上で、重要な要素として浮上してきました。一方、世界的な人口爆発、そして産業の工業化に従って、有用な鉱物資源の枯渇が次第に現実の問題として認識され始めています。

 そのような中で、まずオゾンホールに対する予防原則に基づく恐怖宣伝によって世界的なフロン排斥運動が、代替フロンの販売を目論むある化学メーカーによって仕組まれ、開始されました。科学的な素養を欠いた環境保護運動の多くは、まんまとこの化学メーカーに騙され、代替フロンの販促に一役買わされることになりました。しかし今現在でも、オゾンホール拡大フロン原因説は自然科学的あるいは観測事実から実証されていません。既に一昨年辺りからは南極のオゾンホールの縮小傾向が現れてきています。
 オゾンホールの全地球的な拡大の脅威が叫ばれ、日本でも皮膚がんが増えるなどと、まことしやかに吹聴されました。しかし実際には、北半球高緯度地域に顕著なオゾンホールは現れず、オゾンホールによる人への実害は全くありませんでした。
 しかし、このレポートでも触れた通り、高校の社会科や理科の教科書にはオゾンホールの原因がフロンであるという「フロン原因仮説」が確認された事実のように述べられ、オゾンホールから遠く離れたオーストラリアの子どもたちはオゾンホールによって増加した紫外線の被害を防ぐためにサングラスや帽子を着用しているという、観測事実的には事実無根の記述が放置されています。この教科書の記述に触れた子どもたちは、その後の彼らの人生において、教科書で得た知識を訂正されることなく、これを事実として長く記憶してしまうことになるのです。誤った事実に気づかず、結果として嘘を教えてしまった教師の責任は極めて重いのです。

 フロンは化学的に極めて安定した優れた冷媒でした。あるいは、水に弱い各種の電子部品の洗浄剤として、また各種の小型ボンベに詰められた薬剤の散布用のガスとして優れた物質でした。フロン排斥運動によって、フロンを使えなくなったことによる経済的な損失は少なくありませんでした。あるいは小型ボンベの薬剤散布用にフロンの代わりに可燃ガスが用いられることによって、火災事故や爆発事故も起こりました。非科学的なフロン排斥運動によって私達は有用な物質の使用機会を失ってしまいました。

 それでも、フロン排斥の影響は限定的でしたが、現在は人為的CO2地球温暖化仮説が世界をミスリードしています。温暖化対策は、短期的には重電・重工メーカーに活況をもたらすかもしれませんが、莫大な資源を浪費し、化石燃料の消費を早めることになります。長期的には、人為的CO2地球温暖化仮説を正しいものとして行われる温暖化対策による不利益は、フロン排斥問題の比ではありません。このまま日本が温暖化対策として再生可能エネルギーの導入を促進し続ければ、国家財政の破綻はそう遠くないでしょう。

 国は、人為的CO2地球温暖化仮説を正しいものとして、温暖化対策として再生可能エネルギーの導入を促進し、危険な原子力発電を復活させようともしています。その一方で、人為的CO2地球温暖化仮説の正当性を吹聴してきた国家系の研究機関、例えばJAMSTEC(独立行政法人海洋開発研究機構)の中村元隆は、これまで彼らがさんざん吹聴してきた人為的CO2地球温暖化仮説は間違いで、気温は70〜80年周期で変動していて、これからは寒冷化に向かうと言い始めています。
 観測事実として2000年代に入ってから、全球的な気温の上昇傾向は止まり、次第に低下する様相を見せ始めています。

 人為的CO2地球温暖化仮説には2つの主要な構成要素があります。

@近年観測されている大気中のCO2濃度の上昇の主因は人為的な影響である。
A大気中のCO2濃度の上昇による付加的な温室効果で気温が上昇する。

この2つの要素に対する科学的な判断は、高校の物理・化学・地学の教育課程をまともに習得すれば可能です。教科書の人為的CO2地球温暖化仮説に関する記述は、その他の単元における高校の物理・化学・地学の教育課程と矛盾することを、まともな理科の教師であれば理解できるはずです。

 私達が科学・技術的な社会システムの問題に係わる政策判断を行う場合、小島さんのレポートでも触れられていたように、基本になるのが初等中等教育における科学教育で培われた知識であり方法論です。例えばエネルギー政策や産業政策という、これからの国家の重要政策は正に自然科学的な判断を必要とする問題です。学校教育における科学教育が、単に机上の空論、非科学的な知識の集積になるのではなく、本当の意味で物事を自然科学的・論理的に判断する手段を子どもたちに教えるものになるように、切に願うものです。

 教師が恐れるべきことは、文科省や教育委員会による管理ではなく、生徒に対して誤ったことを教えることのみです。教師には、原点に戻って教師とは何か、教育とは何かについて真摯に問い直していただきたいと思います。

2014.02.07

HP管理者 近藤 邦明


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