webマガジンen 2003年10月号(通巻第12号) 知の最先端
名城大学 槌 田 敦
「自然について」、という漠然としたテーマでエッセイを書くことになった。以前ならば、自然の不思議を書けば、知的好奇心を満足させることができた。その場合、自然にはこんなに知らないことがあった、と驚くことで話は終わった。たとえば、生命が存在するには酸素が必要だ、と誰でも思うだろう。しかし、太古の生物は酸素を必要とせず、むしろ酸素は毒だったらしいというのである。太古の植物による光合成が進み、酸素が大気中に溜まるという環境汚染となって、酸素があっても生きられる生物だけが残ったという。
しかし、今はその程度の驚きで満足する訳にはいかない。自然が急速に変化している。その原因は人間社会の活動だ。太古の植物のように自然を変えていけば、弱い人間は滅亡することになる。ひとごとでは済まされないのである。
気の早い人達は、「予防の原則」を掲げて、自然を壊すかも知れない人間の活動をただちに規制すべきだと主張する。「真実であることが分かってからでは遅い、早くしないと間に合わない」とあせっている。だが、急いては事を仕損ずる。良かれと思ってしたことが、とんでもない結果になった、ということになりはしないか。また、どうでも良いことにこだわって、もっと重要なことを見逃しているのではないか。
そのひとつの例が、「CO2による地球温暖化」である。最近20年間、大気中のCO2濃度は上昇しており、また気温も上昇している。多くの人達の観測事実だから、私もそれを認める。しかし、だからと言って、CO2濃度の上昇が原因で気温が上昇したと断定してよいのか。気温が上昇したからCO2濃度が上昇したのかも知れないではないか。
気象学者はこの問題に答えていない。いや、この問題すら考えたことがない。ふたつの事実があった場合、どちらが原因でどちらが結果か、または別に原因があってどちらもその結果か、それとも偶然そうなったのか、を見極めることは学問の基本のはずだが、気象学者は現在もその基本的考察をしていない。
そこで私なりに調査した。まず、ハワイのマウナロア観測所のキーリングの研究を知った。彼は、気温の変化の半年後にCO2が変化することを発見した。また、エルニーニョの1年後にCO2濃度が上がることも発見した。エルニーニョとは太平洋の赤道海面の温度が上昇することをいう。つまり、気温変化が原因で、CO2濃度の変化は結果である。
そして、1992年と93年の2年間、人間がCO2を出しつづけたのに、CO2濃度は上昇しなかった。その原因は、1991年のピナツボ火山の噴火で粉塵が大気上層にただよい、太陽光を遮ったことで気温が上昇せず、その結果CO2濃度が増えなかったのである。
この3つの事実以外にも、気温上昇の結果、CO2濃度が上昇するという事実はたくさんある(槌田論文、環境経済・政策学会編『地球温暖化への挑戦』p230、p251)。これを整理すると、気温が上がると、海面の温度が上がり、海水に溶けているCO2が大気中に放出され、大気中のCO2濃度が上昇する。逆に、気温が下がると海水は大気中のCO2を吸収する。人間社会の排出するCO2が大気中に溜まるのではなく、CO2濃度変化は地球そのものの現象なのである。
CO2濃度が増えると気温が上昇するという俗説の根拠は、CO2が温暖化ガスであるということ以外には何もない。しかし、温暖化ガスの中で最大の効果をもつ物質は水蒸気である。気温20℃、湿度60%の場合、水蒸気はCO2の40倍も存在する。したがって、熱帯や温帯の夏ではCO2の温暖化効果は問題にならない。2003年にヨーロッパを襲った熱波はCO2濃度上昇ではとても説明できない。
一方、気温が0℃、湿度60%の場合には、水蒸気はCO2の10倍しかないから、多少は影響が出る。したがって、CO2濃度が増えると、亜寒帯や寒帯では暖かい冬となる。これは快適な冬になることを意味するだけで、気象を本質的には変化させない。北欧や北海道の人達が「温暖化反対」と叫んでいるのを聞くと、私は実に奇妙な気持ちになる。
しかし、最近、気象学者の発言があいまいになってきた。総合科学技術会議編の『地球温暖化研究の最前線(2002)』には、「どのような理由で温暖化が進み、CO2が増えたのかについては、未だ議論が分かれている」と書いている。「温暖化でCO2が増える」という逆説の存在を認めるほかないのである。今さら、そんなことを言って、逃げるなんて。
ところで、国際政治家たちは気象学者の言うことをそのまま信じて、CO2削減のための京都議定書を締結し、経済学者たちも、CO2排出権の取引を実行に移せと迫っている。20兆円規模の市場という。彼らは議定書の約束を実行できない場合、CO2排出権の国際取引額の倍を支払うという罰則も用意している。炭素排出量1トンあたり100ドル程度というが、石油1トンの値段は200ドル程度だから、あまりにも高額である。その罰金の対象はエネルギー多消費国のアメリカと日本であったが、アメリカはこの議定書を脱退したので、日本が罰金のほとんどを払うことになる。日本国民にはその罰金の議論を知らされてはいない。
以上述べたように、人間社会の放出するCO2など、現実には問題とするほどのものではなかったのである。自然は人間の行動より大きいのである。それなのに人間は大騒ぎをしている。後世の生物から見ると、「人間とはなんと思いあがった動物なのか」ということになるに違いない。
このようなことになる理由は、学者たちは、物理学者も含めて、自然の仕組みを十分には理解していないからである。その仕組みは、物質保存則、エネルギー保存則、エントロピー発生則という物理法則の範囲内にある。これが無視されているのである。
この中で「エントロピー」は難しいと多くの学者は敬遠する。だが、エントロピーとは、物理学で測った汚染の量のことであって、別に難しくも深遠なものでもない。このエントロピーは2種類あって、熱エントロピーと物エントロピーであるが、それぞれ熱汚染の量と物汚染の量に対応している。
多くの学者は、「エネルギー」なら分かった気になるらしいが、これこそ難しい問題であることに気づいていない。物理学では「エネルギーは保存する」という。しかし、日常的には、「エネルギーを消費する」と言っている。保存と消費は対立概念だからそもそも矛盾である。その結果、物理学者の言う「エネルギー開発計画」には首をかしげるものが多い。特に、核融合の研究者はこの矛盾を利用してウソばかりつく。
「物質」についても誤解が多い。たとえば、経済学者は「ごみゼロを達成する」と言って、リサイクル推進を主張する。しかし、リサイクルしようとしまいと、物質の保存則により、ごみの量は利用した資源の量と同じである。資源を消費するかぎり、「ごみゼロ」などできる訳がない。
この「ごみゼロ」のために、レンタルを採用する企業が多い。しかし、ごみはレンタル会社で発生する。たとえば、工場は油拭きの雑巾(ウエス)には、これまで廃品のボロを使っていたが、これでは使用後廃棄物となる。そこで、レンタル会社から雑巾を借りれば、一応「ごみゼロ」となる。ところで、レンタル会社は、新品の布でこれを作り、再生するのに大量の洗剤と水を廃棄物にし、結局雑巾はレンタル会社の廃棄物になる。
「資源を消費する」とは、資源をごみと熱にすることなのだが、それは物エントロピーと熱エントロピーを発生することに対応する。現代の物理学では、この消費という現象をしっかり教えていない。教えることができないのは、えらそうなことを言う物理学者がエントロピーそのものをよく理解していないからである。したがって、工学者も経済学者もエントロピーを誤解することになる。
たとえば、関西電力は、燃料を消費したことによって発生したCO2を回収し、これをもう一度燃料に戻す研究をしている。しかし、関西電力はこの研究が無意味であることを理解していない。燃料を燃してCO2にする反応も、またそのCO2を燃料に戻す反応も、どちらもエントロピーを発生する。この発生したエントロピーを取り除くには別の資源(たとえば石油)の消費が必要になる。別の言い方をすると、CO2を燃料に戻す工程は、再生する燃料よりも多くの燃料を必要とするのである。関西電力は、この工程で費用が高くつくことを心配しているが、その原因がエントロピーの発生であることを理解していない。完全循環の「永久機関」はそもそも無理なのである。
エントロピーは活動や変化があれば必ず発生する。また、エントロピーを消滅させることはできない。エントロピーを減らすには、発生したエントロピーを捨てるしか方法がない。捨てる方法はふたつあって、物にエントロピーをつけて捨てるか、熱にエントロピーをつけて捨てるかのどちらかである。これは廃物と廃熱の廃棄に対応する。
生きている生命は活動を続けている。活動の結果、エントロピー(汚染)を発生する。放置すれば体内に汚染が満ちあふれるので、エントロピー水準(健康)を保つためには廃物と廃熱を捨てる必要がある。つまり、放熱と排泄である。その結果、体内のエネルギーと物質が減ることになるので、これを補充するために資源(栄養や水や太陽光)の摂取が必要になるという訳である。
地球には、エントロピー(汚染)を発生し続ける生物がたくさんいるから、地球のエントロピーはどんどん増えている。地球にエントロピーが溜まってしまえば、生命はもはや生存できない。しかし、幸運なことに、地球はこのエントロピーを上手に処理し、これを宇宙に捨てる方法を持っている。これは惑星の中では地球だけの能力である。だから、地球だけに生命が存在できるのである。
宇宙の生命を研究する学者たちは、地球上の生命物質が宇宙に存在するかどうかを追い求めている。だが、それがあったところで生命という訳にはいかない。その物質群がエントロピーをどのように処分できているのか、これこそ生命の本質だからである。しかし、宇宙生命を研究する学者たちは、エントロピーの法則をまるで理解していない人達ばかりだから、その研究が成功する訳がない。
地球上でもっとも大量の熱エントロピーを発生するのは太陽光である。太陽光が地表に届くまでは、熱エントロピーは小さい。しかし、地表に吸収されたとたんに、大きな熱エントロピーを発生し、平均気温15℃の熱になる。この熱は大気に吸収され、大気を暖めるので、大気は軽くなって上昇する。上昇するにつれて気圧が下がるので、温度も下がる。高度5000メートル付近では温度はマイナス23℃になるが、この温度で宇宙に放熱する。これは同時に熱エントロピーを宇宙に捨てることを意味する。そして、放熱した結果大気は重くなって、地表に戻ってきて、ふたたび地表から熱を受けて上昇することを繰り返している。つまり、大気の循環が、地表で発生する熱エントロピーを宇宙に捨てているのである(槌田『熱学外論』朝倉書店)。
これを水の循環が補完している。水は地表の熱を得て蒸発する。そして、大気に乗って上昇する。高度が高くなると温度が下がるので、飽和蒸気圧に達して結露し、雨になって地表に戻って水循環になる。結露するときに、熱を大気に渡す。大気はこの熱も宇宙に捨てて、熱エントロピーを処分している。大気が地表から直接受けとる熱にくらべ、水の蒸発で受けとる熱は3〜4倍程度大きい。つまり、地表の熱エントロピーの処分という点では、水循環は重要であって、水の存在しない砂漠では、地表の熱エントロピーの処分が十分にはなされず、熱地獄になることを示している。
このように、地球は、大気循環と水循環で、その熱エントロピーを宇宙に捨てることができるから、地表では平均気温15℃という安定した環境が得られて、生命は存在できるのである(槌田、同上)。熱エントロピーの問題をまったく考慮しないで、単に地表の温度上昇だけを論ずる「CO2温暖化説」は気象学からいって見当違いもはなはだしいということになる。
ところで、生命が生産するもうひとつの物エントロピーについて考える。地球には重力がある。したがって、地球は、この物エントロピーを廃物として地球の外に捨てることはできない。生命が活動を続ければ、物エントロピー(汚染)はどんどん溜まることになる。
しかし、生命が発生してから35億年、生命は活動を続けることができた。その理由は、生命が生態系を作ったからである。まず、植物は土から栄養素を得て、太陽光と水により光合成して植物組織を作る。動物はこれを食べて糞をする。その糞と動植物の死体を微生物が分解して、その栄養素を土に戻す。そして、植物はこの土からふたたび栄養素を得て光合成する。つまりこの変化は物質の循環になっている。状態が元に戻るのだから物エントロピーは増加していない。
これらの生体反応はすべて発熱反応である。この反応により、生態系は、発生した余分の物エントロピーをすべて熱エントロピーに転化させているのである。これは堆肥を作るとき、土から湯気が立つことで理解されるであろう。生態系は、全体として、太陽光と水とを得て、廃熱と水蒸気を環境に吐き出すことで存在できるのである。この熱エントロピーは、大気と水の循環が引き受けて宇宙に捨てることになる。つまり、生態系の存在は、地球の物エントロピーの処理処分のために重要なのである(槌田、同上)。この点で、これまでの生態学の理解は不十分だったということになる。
ところで、生態系の中を循環する栄養素(窒素、リン、カリウム、微量成分)には欠点がある。これらの栄養素は水溶液として植物に吸収される。しかし、植物がそのすべてを吸収するとはかぎらない。たとえば、冬にはこれを吸収しない。このような理由のため、水に溶けたこれらの栄養素は生態系の外へ流れ出し、生態系はやせ細っていく。まず、山の頂上は栄養素がなくなり、はげ山になり、栄養素は平地に注がれて森林を作る。しかし、それも結局は海へ流れ出す。このままでは陸地は砂漠になる。
海に流れこんだ栄養素は、光合成されて魚の餌になるが、それは糞になる。糞は海水よりも重いので、深海に沈む。深海は生命の墓場である。しかし、深海の水は、極洋や大陸の西側の海域で湧昇してくる。その結果海面に生命は甦り、魚になる。この栄養素と魚は海流で世界の海に拡がり、この魚を海鳥が食べて、海岸付近の陸地に糞をし、その糞の栄養素で海岸付近の陸地の生態系が復活する。そして、低地の栄養素は野生動物によって高地に運ばれ、糞として供給される。
つまり、自然は重力によって栄養素を上から下へ流し落とし、動物がこれを運び上げる。これによって、地球規模の栄養素の循環が成立したのである。このような栄養素を運び上げるのは鳥だけではなく、あらゆる動物がその役割を果たしている。動物がいなければ、陸地生態系はあり得ない(槌田、同上)。動物は現代生態学でいうような単なる分解者ではない。この点で現代生態学は修正されなければならない。
まとめると、@大気循環とA水循環が、地球の熱エントロピーを宇宙に捨て、B生態系の循環が物エントロピーを熱エントロピーに変換し、C動物が栄養素を地球規模で補給して、陸地の生態系の循環を成立させている。この4つの機能が地球の仕組みであって、これが健全であるかぎり、地球の生命はこれからも維持される。
現在、廃棄物問題で人間社会は苦しんでいる。しかし、この自然の4つの循環の範囲で人間社会が廃棄物を排出するかぎり、問題ではない。そのためには、科学技術を用いて人間の廃棄物をこの4つの循環になじませればよい。これには人間社会の中の物質循環を支配する経済法則との整合性さえ満たせばよい。この問題は環境経済学の問題であるが、詳細は別の私の本を参考にしていただきたい(槌田、『新石油文明論』農文協)。
残りの問題として、科学技術を用いても廃棄物を自然の循環になじませることができない場合、そのような廃棄物の発生を禁止する必要がある。たとえば、放射能の後始末は科学技術では不可能だから、原子力発電は禁止する。このようにすることで、廃棄物問題は解決可能な問題ということになる。
それよりも砂漠化こそ、最大の環境問題である。すでに述べたように、陸地生態系は重力によってその栄養素を流失し、簡単に砂漠化する。これを維持していたのは野鳥などの動物であった。
古代文明は、緑豊かな森林と沼地を開墾して成立した。しかし、農地の栄養素を失い穀物が得られなくなり、河川水を導入して、栄養素を補給した。しかし、同時に塩類が農地に入り込み、農地が塩化して作物はまったく得られなくなった。その跡地にはヤギなどが放牧されて、徹底的に栄養素は収奪されて荒れ地となった。鳥の棲息地森林がないと鳥は活動できず、陸地栄養素の回復はなく、砂漠となる。
このようにして4大文明の跡地は砂漠となり、雨が降らない。一般に、雨が降らなくなって、古代文明の農地は砂漠になり、滅亡したと考えられているが、これも原因と結果の理解が逆である。古代文明は雨が降らなくなって滅亡したのではなく、農地を荒れ地にして食料が得られなくなって滅亡したのである。文明の跡地に雨が降らないのは、広大な荒れ地では水分の蒸発がなく、雨の原料がないからである。つまり、砂漠になったから、雨が降らなくなったのである。
第二次世界大戦後、世界の砂漠化は急速に進んでいる。その原因は、@アメリカで科学技術農業が発達したためである。その結果、穀物の過剰生産となり、A世界各国に輸出されたためである。この自由貿易による穀物の供給で、世界の飢餓はなくなった。しかし、アメリカからの安い穀物の供給で、途上国の農民は採算がとれず、離農を余儀なくさせられた。
途上国の農民は失業し、都市のスラムは膨張の一途である。捨てられた農地は管理者を失い、水害や風害で土を失い、熱帯、温帯の農地はほとんど砂漠になってしまった。現在、世界の穀物の主な生産地は、北アメリカ、北ヨーロッパの亜寒帯である。
もしも、将来、地球が寒冷化したとする。気象学者は20年前まで「地球寒冷化」と言っていた。その説は否定されたのではない。このとき穀物の生産地が亜寒帯だけであれば、世界は食糧を失うことになる。穀物は、15℃以上の温度が3〜4ヵ月続かなければ実らない。
すでに熱帯、温帯の大部分は砂漠化している。地球が寒冷化すれば、地獄となる。なぜ、多くの人々が、CO2温暖化説に簡単に騙されて、夢中になり、なぜ地球寒冷化と砂漠化には危機感がないのか、私にはまったく理解できない。この重大問題に対処する方法は前述した『新石油文明論』を参考にしていただきたい。