1.環境問題総論HOME持続可能な社会の条件

持続可能な社会の条件 
〜資源と廃棄物で社会の循環と自然の循環をつなぐ〜

名城大学 槌 田  敦


§1 環境問題における『常識』を再検討する
§2 物質循環と持続可能性について
§3 人間社会の物質循環を制御し,自然の物質循環に繋ぐ
§4 森林と農地の喪失をどうするか


【はじめに】
 最近の環境問題の議論は単純になっています。『炭酸ガス温暖化防止』、『オゾンホール原因のフロンの廃止』、そして『ごみゼロ社会へのリサイクル推進』などの政治的課題ばかりです。他の問題はすっかり影が薄くなっています。
 そして、より基本的な問題、そもそも「環境破壊とは何か」が抜けています。また、「どのようにすれば環境汚染になるのか」も抜けています。そして、「持続可能な社会はどのようにすれば得られるのか」ということはまったく議論もされていません。そこで、この持続可能な社会の条件について論じようと思います。

§1 環境問題における『常識』を再検討する

1-1 炭酸ガス温暖化脅威説のウソ


 まず、炭酸ガスの温暖化脅威説はウソだらけです。温暖化と炭酸ガス濃度に関係のあることは私も認めます。22万年間にわたってボストークの基地の炭酸ガスの濃度とその時代に推定される気温との関係が同じ傾向を示しています。しかし、この事実からはどちらが原因で、どちらが結果なのか、それとも原因は別にあって、炭酸ガス濃度も温度もその結果なのか、が分かりません。こういう種類の議論をまるっきりしていないのです。これでは科学とはいえないでしょう。
 このどちらが原因かという問題に決定的な証拠を示したのは、1991年のピナツボ火山の噴火です。その後2年間、大気中の炭酸ガス濃度が増えていないのです。人間がその間炭酸ガスを出さなかったのではありません。ピナツボ火山が噴火したので、埃が日光を遮断し、気温が上がらなかったのです。その結果、炭酸ガス濃度が増えなかったのです。
 とするならば、気温が先で、炭酸ガス濃度が後です。通説はとんでもないウソです。その外たくさんの証拠がありますが、それは、環境経済・政策学会編の『地球温暖化への挑戦』という本に「CO2温暖化脅威説は世紀の暴論」という論文を書きましたのでお読みください(1)

1-2 やはり寒冷化が心配

 ところで、なぜ温暖化が悪いと皆が思うようになったのでしょうか。気象学者は、以前、温暖な時期は人間にとって幸福であったとし、この時期を「ヒプシサーマル(気候最適期)」と呼んでいました。
 暖かいことは良いことです。寒いことは困ったことです。それは気温が15度以下では陸上の光合成が進まないので、食料問題となるからです。今から30年前、気象学者が寒冷化するぞと脅したことがあります。1970年代は気温が上がらなかったからでした。
 そこで、当時、寒冷化の研究がなされました。過去2万年間の植物の花粉だとか樹相、氷河などをまとめますと、気温の変化を推定できます(連邦研究協議会記録、1975)。それによりますと7〜6000年前に、最高気温を記録しています。それ以降、ずっと低下傾向なのです。そこで注意すべきは、ほぼ2000年の間隔で約2度の温度降下の時期があることです。これを小氷期と言っていますが、その途中は温暖でした。
 前回の最高気温は2000年前になります。ちょうど弥生時代です。そのころ最高気温だったから、現代も最高気温で間もなく気温が下がるはず、と気象学者は人々を脅かしたのです。
 しかし、70年代の気象学者の予想は当たりませんでした。それは、早々と寒冷化するぞ脅かして失敗したということになります。でも、近い将来、寒冷化することはやはり確かなようです。それは何年後に来るかわかりません。今が気温の最高期ということになるのですが、温暖期がどのくらい続くかわからないのです。

1-3 オゾンホールのフロン原因説のウソ

 オゾンホールの問題もウソだらけです。オゾンホールはフロンが原因ということになっています。しかし、それは濡れ衣でした。
 フロン原因説では、フロンが成層圏で塩素を放出して、これがオゾンを壊すという説なのですが、その反応には紫外線が不可欠です。オゾンが減るという場所と時期は、南極の春先です。南極の春先では日光は水平に入射しますから、大気の中を通過する長さは、垂直入射の10倍になります。ということは、紫外線は宇宙へ散乱してしまってほとんど存在しません。
 大気の上空には0.2ミクロンの埃がいっぱい浮いていますから、0.2ミクロンに近い波長の光は散乱されます。宇宙から見ると地球が青く見える原因は、0.4ミクロンの青い光が散乱されるからです。
 紫外線は0.3ミクロンですから、青い光よりももっと強く散乱されます。10倍も大気の中を通るということになれば、紫外線は残っていません。紫外線がないのですから、オゾンが化学反応で消えるというフロン原因説は成立しません。
 またもう一つ、南極の成層圏の大気が孤立しているということも、オゾンホール成立の理由になっています。他からオゾンの少ない空気が入って来る訳ではないのに南極でオゾンが減るのは、これを減らす化学反応があることの証拠だというのです。
 南極の成層圏大気が冬に孤立しているという証拠は、南極の成層圏が強い西風で囲まれているからと気象学者はいいます。しかし、この議論は、初等物理学を無視しています。何故、冬に南極周辺の成層圏で西風が吹くのでしょうか。その原因は、夏極(北半球)で暖められた成層圏大気が赤道を通り越して冬極(南半球)の方向へ動いているからです。
 地球は西から東に回転しています。これに伴って大気も西から東に回転しています。その速さは、回転半径が違いますから、赤道の大気のほうが高緯度の大気よりずっと早く回ります。その大気が赤道から南極の方に移動しますと、大地より先に回ることになります。大地より先に回る大気は大地から見ると、西風なのです。(この時北半球では東風です)。
 南極のまわりの高層成層圏で西風が吹いていることは、高層成層圏大気が赤道から極の方に動いていることを意味します。南極の成層圏大気は孤立などしていないのです。オゾンの少ない高層の成層圏大気が南極の方に移動しているので、オゾンホールということになるのです。これも論文「CO2温暖化説は世紀の暴論」に詳しく書きましたのでお読みください(1)
 北極の春ではオゾンは減らないのに、南極の春にオゾンが減る理由については、南極に発生する極成層圏雲であるという点では、気象学者たちの意見と同じです。しかし、その関与の理由が違います。彼らはこの雲の中でオゾンを壊す化学反応が起こるとしています。しかし、そうではなくて、この雲は大気より重いので落下しますが、このときオゾンの少ない高層成層圏大気を引きずり降ろすのです。このようにオゾンホールの発生原因は大気の運動だけで説明できます。
 ところで、南極など高緯度地帯でオゾンが減ることがそんなに問題なのでしょうか。夏になって紫外線が増えればたちどころに高緯度地帯成層圏のオゾン濃度も回復します。オゾンがないのは、春先の少しの期間に過ぎないし、その期間は紫外線がほとんどなく、影響はないのです。

1-4 だらしない自然科学者たち

 炭酸ガス温暖化説にしても、オゾンホールのフロン原因説にしても、何故間違いが信じられたかというと、温暖化では原子力派の科学者たちが大騒ぎした。それを受けて立ったのが石炭派の科学者たちです。
 どちらも御用学者たちで、その間の大論争なのですが、決着は政府がどちらに味方したかで決まります。原子力派の学者にたくさん研究費が流れたのです。石炭は斜陽産業ですから、研究費が集まらなかったのです。そうすると、関連分野の科学者は研究費欲しさに温暖化説にくみすることになって多数派が形成されることになりました。一般の科学者も無批判にこれに同調して、たくさんの本を書き、講演をしてお金をもらい、世論を支えました。
 オゾンホールの問題でも同じです。フロン原因説をだれが仕掛けたかというと、これは代替フロンの特許をもっている企業が仕掛け、その御用学者が宣伝して歩きました。
 なぜかというと、フロンを作っている会社は世界で25社しかない。代替フロンの特許を持っているのはデュポンとか大企業です。日本ではナショナルです。この連中が代替フロンの技術を売り込むために、いい加減な説を蔓延させたのでした。冷却などに用いる物質の需要が減ることはありませんから、これらの企業にとってはフロンでも代替フロンでもどちらでも、自社製品か特許がたくさん売れればよいのです。
 専門家はこのように御用学者ばかりで嘘つきですが、このようなことに引っかかる一般科学者もどうかしてます。彼らは多数の意見に弱く、孤立すると不安なのです。そこで無批判に多数に唱和し、ますます多数派は増えることになります。

1-5 リサイクルでは廃棄物問題は解決しない

 このように自然科学者はだらしないのですが、社会科学者も同じです。リサイクルで廃棄物問題を解決できるとして、環境経済学者はこぞってリサイクル推進派で、ごみゼロ社会とか、資源循環型社会とかを推奨していますが、ゴミをゼロにできるわけがありません。不可能なことを推奨するのでは、到底学者とは言えません。
 それだけではなく、リサイクル運動の失敗は明らかです。学者ならば、まずこの事実を認めるべきです。そしてその理由を考るべきです。しかし、「資源循環」や「リサイクル」は現代の正義です。正義には反対しにくいのです。この点では学者でも一般人でも変わりません。
 リサイクル運動の失敗は、リサイクル活動による回収資源の供給過剰が原因です。経済学では、資源は、需要と供給の関係で定義されます。需要を超して供給した物品は資源ではありません。これを経済学ではfree goods(自由財)といいます、無料の品物という意味です。リサイクル運動には供給を調節する能力がありませんから、需給に失敗するのは当然です。しかし、これは正義なのですから、どの学者も学問を捨てて、黙ってしまうのです。
 リサイクル運動は、そもそも「捨てるのがもったいない」という善意の庶民の運動でした。それを自分たちだけごく少数の人たちでやるなら良いのですが、善意の大衆運動にしたことに間違いがあったのです。
 1980年代にリサイクル運動が盛んになりましたが、10年後には、回収品が余って安くなり、回収業者が倒産し、町内会やPTAのリサイクル活動は一部を残して消滅してしまいました。資源は需要以上には使えないのですから、当然のことです。
 「ごみも分ければ資源」などというデタラメな標語がありますが、「分けたところで需要がなければやはりごみ」なのです。
 かつて、共産主義者たちが提唱した計画経済は完全に失敗しました。資源循環型社会とかいうリサイクル社会も一種の計画経済でして、過去の失敗を無視しています。リサイクルという資源供給は、需給調節の可能な市場経済の範囲にとどめるべきなのです。

1-6 地方自治体のリサイクル行政は失敗の上塗り

 もう一つの動きは地方自治体です。自治体は処分場が枯渇すると心配しています。この枯渇までの年数はここ10年くらいいつも8年と変わりません。これは石油の枯渇の数字と同じで、いつまでも危機を煽っているのです。処分場が満杯近くになった自治体は確かに困っています。そういうところが大騒ぎをすると、それにつられて他のところも大騒ぎをすることになります。そこで、リサイクルに補助金を出して援助すれば、処分場は長持ちできると、跳びついたのです。
 しかし、地方自治体がリサイクル行政に走った理由はこの処分場の枯渇問題だけではありません。公害対策を完備した処分場を建設するとごみ1トンあたり5万円かかりますが、リサイクル業者に補助金を渡すと5千円で済むのです。諸経費含めて1万円と安上がりにつくこともその理由です。
 それから、3番目の理由は、回収品の価格低下で回収業者の廃業が続いています。この回収業者がいなくなれば、廃棄物を持ち出してくれませんから、これを助けるために補助金を出したのです。
 このように、補助金でリサイクルすることは一石三鳥の妙案と言われました。たしかに、補助金を出してリサイクルした自治体では処分場に流れる廃棄物は減りました。

1-7 儲からないリサイクルはしてはならない

 しかし、リサイクルでは需要は増えません。したがって、このリサイクル行政によってリサイクル商品をますます過剰供給してしまいました。その結果、税金をたくさん投入できる豊かな自治体はリサイクルできて、その自治体の処分場は長持ちすることになっても、貧しい自治体や遠方の自治体には、回収業者は寄り付かなくなりました。これらの自治体では回収業者の要求する手数料が払えないからです。
 補助金を十分には出せない貧しい自治体の処分場は、素掘りの処分場です。そういうところに廃棄物はどんどん捨てられていく。全体としてみると、公害対策完備の処分場へ行くはずだったゴミが、素掘りの処分場へ移ることになったのです。
 ドイツの場合も同じです。ドイツのリサイクル運動は優れているといいますが、紙などたくさん余ってしまい、それをインドネシアなど東南アジアにただ同然で引き取ってもらっています。それから、ドイツの資源ゴミはフランスに多く流れているという話もよく聞きます。
 日本の古紙も同様に韓国に流れています。古紙や古鉄が流れ込むと、これらの国のリサイクル活動は破壊されてしまいます。自分の国のリサイクルで精一杯なのに、日本からただ同然の古紙や古鉄が流れてくる。自国のリサイクル産業はつぶれてしまい、そうでなくても回収業で生活する人がいっぱいいる東南アジアでは、回収業が成り立たなくなり、失業に追い込まれることになるのです。
 結論としては、儲からないリサイクルをしてはいけません。儲かることは非常に大事です。リサイクル運動家たちがしばしばいう、「儲けばかりいうのはけしからん」というのは間違っています。儲かるということ自体が、市場経済で需給関係がうまくいっているということの証拠だからです。リサイクル運動家も自治体も、市場経済によるリサイクルを破壊したのです。
 使用済みペットボトルについて付け加えておきますと、これを市町村が分別して集めるのにキロあたり500円かかります。業者がこれを粉砕して薄片(フレーク)にするのにさらに100円かかります。合計で600円です。これは人件費の外、大量の石油を消費しています。
 このように600円に相当する資源を浪費して作った薄片の売値がキロあたり3〜30円です。こんなでたらめな産業がどこにありますか。製品は30円の物でも不純物が交ざっているのでカーペット程度しかできません。3円のものからは卵のケース程度です。要するに使い道がないのです。
 ペット樹脂の原料のナフサは、キログラム15〜20円です。それを使ってキロ200円くらいの純粋の樹脂が作れます。これからペットボトルや衣服の高級品が得られます。3〜30円の粗悪品ではとうてい太刀打ちできません。
 使用済みペットボトルは他のごみと一緒にして焼却するのがもっともよいと思います(4)。そして発電すれば石油火力です。電力会社では、原油をそのまま生焚きしていますが、原油を分溜して成分に分け、それぞれ別目的に使用してから、その廃物で発電することは資源の有効利用です。分別(ぶんべつ)は資源の段階ですべきで、廃棄物にしかならない物を分別することは、分別(ふんべつ)のない行為ということになります。
 良質の古紙は、需要の範囲ならば資源です。したがって、市場経済の成り立つ良質の物だけ分別して再資源化し、残りは他のごみと一緒にして焼却し発電すべきです。この場合は光合成を利用した太陽光発電ということになります。シリコン樹脂を使う太陽光発電とどちらが優れているか比べてください。

§2 物質循環と持続可能性について

2-1 活動を維持する条件


 環境保護運動が失敗ばかりしているとき、どのようにすればよいのでしょうか。リサイクルや温暖化防止という姑息な手段で一時しのぎするのではなく、根本問題の、「持続可能な社会をつくる」という、今日の本題を考える必要があります。
 社会を維持するということは、どういうことでしょうか。静止したものを維持するのであれば、何もしないのが一番よいのです。社会は絶えず活動しています。社会を維持するとは、社会の活動を維持することです。何もしないでは社会の活動は維持できません。
 そこで活動を維持する条件は何か考えることにします。これはエンジン工学ですでに結論が出ています。エンジンは動き続けることが大切です。飛行機はエンジンが止まれば墜落します。したがって、エンジンの研究者はこの運転維持の条件を求めて研究を続けました。


第1図  活動を維持する条件

 この条件は、@入力、A出力、B物質循環、とまとめることができます。まず、@入力として燃料が必要です。ガス欠ならばエンジンは止まってしまいます。次に、A出力が必要です。エンジンについている排気口に蓋をすると、エンジンは止まってしまいます。エンジンを動かした結果生ずる廃物と廃熱を吐き出す必要があります。
 @とAの間で、物質の量とエネルギーの量は変化がありません。しかし、エントロピーは違います。エンジンの活動の結果生じたエントロピーが加算されますので、出すエントロピーの方が大きいのです。この差の分だけ活動が許されるといってもよいと思います。
 しかし、これだけでは活動の持続性は保証されません。活動を維持するには、エンジンの状態を復元して、再び同じことを繰り返すことが必要です。その作業はエンジンの中にあるB物質の循環がしています。エンジン工学ではこれをサイクリック運転と呼んでいます。蒸気機関なら水が回っているし、内燃機関なら空気が回っているのです。
 生命も同じです。動物という生命も@食料などの入力とA排泄や廃熱などの出力のエントロピーの差で活動をしています。B生命状態を復元する方法としては、物質循環として血液の循環、リンパ液の循環、そして細胞の中で行われている化学循環が生命状態を復元させてまた同じことをさせています。これらにより、昨日と同じ今日を生き続けることができます。

2-2 地球は熱エントロピー(熱汚染)を宇宙に捨てる星



第2図  地球エンジンの条件

 地球表面にはいろいろな活動がありますが、この3つの条件は同じです。この場合には@入力が太陽光です。A出力は宇宙への放熱です。ところで、入力は太陽の温度の5000度ではありません。地球が太陽光を受け取る温度の15度です。A出力は大気の上空で宇宙に向けて遠赤外線放射をしていますが、これがマイナス23度です。入力の温度と出力の温度が違うので、地球に活動や変化があるのです。地球もエンジンなのです。
 B地球に存在する物質循環でもっとも重要なのは、大気の循環です。太陽光が平均気温15度の地表にあたって地表を加熱します。そうすると、顕熱といいますが、熱伝導で地表近くの大気が暖まり、軽くなって上昇します。それがマイナス23度の上空(約5000メートル)で宇宙に向けて放熱しますと、今度は重くなって降りてきます。軽くなって上昇し、重くなって降りてくるという大気の循環が、地球エンジンの一番基本ということになります。
 水の循環というのはどのようにして生ずるのかといいますと、上空から降りてきた大気が乾いていますので、地表の水は地表から熱(潜熱)を奪って蒸発し、蒸気になります。その蒸気は大気の流れに乗って、だんだん上昇していきます。上昇すると膨張して温度が下がりますので、露点に達して雲ができます。このとき大気に熱をわたします。雲が成長しますと、雨となって落ちてくることになります。
 要するに水の循環は大気の循環を補完するものなのです。ただし、水の運ぶ潜熱は、地表が大気を暖める顕熱の3倍から4倍になります。3倍という説と4倍という説があって、どちらが本当かよく知りません。文献によっていろいろあります。それはともかく、大気は、雲ができるときに水蒸気が渡した熱も一緒にして、大気上空からマイナス23度で宇宙に捨てているのです。
 いずれの場合も、下で暖められ、上で冷やされるから循環の発生となります。これによって地表の熱は宇宙に捨てられます。顕熱というのは空冷ですし、潜熱というのは水冷ですから、地球は空冷と水冷の能力を持つ星ということになります。この空冷と水冷が存在することによって、地球の大気には物質の循環が存在し、これが地球のいろいろな活動の原因になっています。

2-3 大気汚染は環境破壊の一例

 地球の活動の基本である大気の循環と水の循環が壊れるとどうなるかという問題を考えてみたいと思います。空冷と水冷を壊しますと、地表の熱は熱伝導と熱放射だけで宇宙に放熱されることになります。この場合は、エントロピーはただ増大するだけで、活動や変化は一切止まってしまいます。熱的に一様になって止まるので、熱死ということもあります。
 では、その大気の循環と水の循環はどのようになったら止まるのかといいますと、大気を汚すと止まります。それは太陽光が地表にまできちんと届かず、大気の途中で太陽光が吸収されて、大気を直接暖めるからです。下を暖めて、上を冷やすということで物質循環になる機構が働かなくなるのです。これがヒートアイランドと呼ばれる都市気象です。
 それを地球規模で起こしているのが、熱帯森林の火災です。これは焼畑が原因です。去年、一昨年などスマトラ島の大火災で熱帯地方が煙で覆われたことがあります。それからブラジルでの焼畑の煙、これもひどいもんです。そういうものが最近の異常気象の原因と考えられます。

2-4 地球は物エントロビーを熱エントロピーに変換して,捨てる星

 このように、地球は大気循環と水循環を持っていますので、地表の活動で発生する余分の熱エントロピーは宇宙に処分できて、地球は熱死を免れています。しかし、エントロピーには熱のエントロピーの外に、物のエントロピーがあります。
 地球には重力がありますので、物を宇宙に放出することができません。地球はこの物エントロピーを宇宙に直接捨てる方法を持っていないのです。大気循環と水循環によって、熱死にはならないとしても、地球上の物質が、水と大気を除いて、重力分布することになり、活動や変化は止まってしまうことになります。これは熱死に対して物死という状態です。
 ところが、地球には、物エントロピーを熱エントロピーに変換する能力があります。たくさんの生命が集まって、生態系という物質循環を作って、物エントロピーを熱エントロピーに変えています。
 生態系の物質循環というのは陸地の場合では、土の中の養分と光合成で植物ができて、その植物を動物が食べて、植物と動物の死骸を今度は微生物が分解して養分を土に戻し、また翌年光合成が可能なのです。この循環のなかを回っているのは養分ですから、養分の循環といってもよいと思います。
 この循環で、いろいろな生命活動がなされていますから、エントロピーは増大し続けています。しかし、この循環で1年後には、ふたたび元の状態に戻るので、エントロピーは増大していないことになります。そうすると、エントロピー増大の法則に反するのではないかということになります。
 ところでこの生命活動の反応はすべて発熱反応です。土から植物ができるのも発熱反応ならば、植物を分解するのも発熱反応、それから微生物の活動も、すべてが発熱を伴います。その熱の発生は物のエントロピーが熱のエントロピーに変わっているということを意味しています。
 堆肥をつくるとき、植物の死骸は土に戻るのですが、その時に発熱しています。これは物のエントロピーが熱のエントロピーに変わっているということを示しています。したがって物のエントロピーは元の状態にもどることになります。だから、この生態系の物質循環は物のエントロピー状態を元に戻し、熱のエントロピーにして放出しているということになります。
 このような養分の循環によって、地球上に物の汚染が溜らなかったのです。余分な熱汚染は宇宙に捨てたし、余分な物汚染も熱汚染にして、先程の大気の循環が宇宙に捨てるというやり方をしています。そういうわけで、地球上には物汚染も熱汚染も溜まらず、地球のエントロピー水準は保たれていたことが説明できます。

2-5 地球規模の養分大循環

 ところで、養分が植物に吸収されるには、水に溶けなければなりません。水に溶けるから養分というわけです。地球上にはリンという元素はたくさんあるのですが、大部分は水に溶けない状態です。したがってその不溶性リンは養分ではありません。水に溶ける形のリンだけが養分になります。肥料で窒素、リン、カリと言いますけれども、それらは、すべて水に溶けるから植物は利用できるのです。
 しかし、養分が水に溶けるということは、水はどんどん下へ流れていきますから養分もどんどん下へ流れていきます。山の上の養分はどんどんなくなって、平地の養分になります。したがって、森林は平地にできて、山はどんどんはげていくことになります。
 平地にできた森林も安定ではなく、その養分は水に溶けて海へ流れていきます。大きな川の河口付近は漁場ですが、それは陸地の養分が流れてきているからです。有名なのはナイル川で、地中海の有数の漁場でした。インダス川、ガンジス川の河口も漁場です。陸地は養分を失い、砂漠になる方向にあるのです。
 海に流れた養分は海洋生物になります。これは他の海洋生物のえさになります。そして糞になります。糞になると、糞は海の水より重いので、海の底に沈んでいくということになります。死体も重いので沈みます。
 まとめますと、山の上の養分は、平野に流れて森を作り、海へ流れて、海洋動物となり、糞や死体になって海の底に落ちてしまうことになります。1000mよりも深い海は、生命の墓場です。
 実は、その墓場から、今度は沸き上がってくる機構があります。それは湧昇といい、深海の水が沸き上がってきて海の表面に出てくるところがあります。
 その原因は気象です。高緯度の海では、冬になると大気に冷やされて表層水の温度は海水の氷点のマイナス2度となります。しかし、深海水は0〜3度です。海水はマイナス2度が一番密度が高いので沈み、深海水が湧き上がることになります。深海水は養分が多いので、北洋漁場、南洋漁場となります。
 また、中緯度では、赤道に向かう風が吹きますが、これによって赤道に向かう海流が生じます。この海流は地球の自転についていけず、西向きに曲がります。そのためこの海流と海岸の間に透き間ができて、深海水が上昇してきます。太平洋ではカリフォルニア沖やチリ沖の漁場です。
 それから赤道で大気は上昇しますが、それは赤道の両側から大気を引き寄せます。これは西向きに曲がり貿易風となります。この貿易風に引きずられて海流が生じますが、その出発点の海岸で深海水が湧き上がってきます。太平洋ではペルー沖漁場です。
 これらの養分豊富な海水が海流で世界の海に分配され、そこで育つ鮭などの海洋生物の移動となり、それが鳥などによって陸地などに運びあげられ、野生動物の餌となって、その糞が野や山に撒き散らされます。その結果、陸地に養分が回復して植物が生育されるのです。これが地球規模の養分の大循環です。

2-5 環境破壊とは自然の循環を破壊すること

 そうすると、この生態系の循環と地球規模の養分の大循環を破壊することも、環境破壊になることが分かると思います。中でも、陸上での生態系の循環のかなめとなる森林を失って、砂漠にすることは、最大の環境破壊です。
 地球の持つ4つの物質循環、大気の循環、水の循環、生態系の循環、養分の大循環をまとめて自然の循環ということにしますと、この自然の循環を破壊することはすべて環境破壊です。環境破壊はこのように地球に存在する物質循環によって定義することができます。
 このことから、環境に変化があっても、自然の循環を破壊しない場合は環境破壊ではないことが分かります。自然が少しでも変わったら環境破壊だとするのは、自然保護を求める人々のの考え方ですけれども、それは間違いです。自然が変わったからと言って、自然の循環を破壊しないときは、環境破壊というべきではありません。
 例えば草原があったとします。草原に水を引いて水田を作ったとします。草原と水田では、水田の方が活発な生命活動をしています。したがって、水田を維持することができるならば草原を水田に変えても環境破壊ではありません、
人間が自然を変えてもかまわないのです。その場合、自然の循環を壊すような自然の変更はよくないのですが、荒地を豊かな生態系に変えるような自然の変更は好ましい環境変化です。

2-7 はげ山から森林を復活させた日本の自然環境

 その点で言うと、日本はいったん環境を破壊して、これを回復した国です。縄文時代は山は森林でした。それが弥生時代、平安時代をへて、戦国時代には日本にはほとんど木がなくなってしまいました。当時、日本ははげ山の国だったのです。それが江戸時代から現代にかけて日本は森林の国に戻りました。文明国で、66%という森林率を持つ先進国はどこにも存在しません。森林の国というカナダでさえ36%です。
 弥生から戦国時代まで、日本の山をはげ山にしたのは農業です。そのころの農業は、刈敷といって、肥料として堆肥を使っていました。柴刈や草刈をしてこれを田圃に入れていたのです。柴刈は燃料をとるのではあません。燃料ならば薪を取りにいきます。柴というのは樹木の枝先の部分で、養分がたくさん含まれています。
 このようにして山の養分を毎年取り除いたので、山には養分がなくなり、はげ山にしてしまったのです。皆さんの常識とは違うでしょうが、堆肥だけを使う農業は環境を破壊する農業なのです。
 しかし、江戸以後の日本の近代農業はそうではありません。江戸時代には日本では商業が発達しました。商人は川船と海船を使って、全国に物資を運びました。漁民は魚の干物(ほしか)を作り、商人はこれを農村で売りました。そのようにして海の養分は陸地に持ち上げられたのです。鳥が海で魚を取り、陸地に糞をして陸地の森林を作ったのと同じ事を人間がしたのです。
 豊かになった田圃にはドジョウやフナが育ちますが、それをサギなどの鳥が食べて山に糞を撒き、この養分で草木が生え、ノネズミなどが養分を広げました。これにより現代の日本では山の上まで木が生えることになりました。
 西洋では人間は悪い動物ということになっています。しかし、人間は必ずしも悪い動物ではありません。人間がいなくなれば地球は豊かな良い地球になると言う人たちがいますが、人間がどのように自然と付き合うかで自然を豊かにすることも、壊すこともできるのです。日本ではそのふたつとも経験しているので、その違いをしっかりと理解することができます。
 そこで社会と自然との関係が分かったのですから、今後は人間が自然に働きかけて、自然の循環を豊かにすることを考えてみましょう。まだ、自然の懐は大きいのです。
 これまでは、多くの人々は社会の現状を維持することが良いと考えていました。つまり、ゼロ成長論です。そのことは、現状で下積みの人々は現状のままでいることが必要です。もしも、この人びとの生活レベルを上げるとするなら、その代わりに先進国の生活レベルを下げなければなりません。
 しかし、必ずしもそうではありません。自然との関係において自然の循環を豊かにする方向で、自然を作り変えることができれば、貧しい人々の生活レベルを改善できる社会経済の成長はありうるのです。
 わたしは、エントロピー論を提起して後のこの20年間、「経済成長」と言う度に、それを悪いことのように議論してきたのですが、環境破壊の本質が理解できて、必ずしもこのように言う必要のないことが分かりました。
 人間社会だけて経済成長しようとすると失敗します。そうではなくて、自然の循環を豊かにし、そのおこぼれによる経済成長は本当の成長ということになります。これをどのようにして達成するのかを議論すれば良いのです。

§3 人間社会の物質循環を制御し,自然の物質循環に繋ぐ

3-1 人間社会もエンジンである


 活動を維持するものはすべてエンジンであると言いましたが、人間社会もエンジンとして活動を続けています。人間社会も自然の一部です。自然がエンジンであると同様に、社会もエンジンの法則で維持されています。
 これまで、社会は自然とはまったく違った法則で動いていると考えて、学問も理系と文系に分けてきました。しかし、社会が活動を維持する条件も、エンジンの維持の条件も同じです。ただ、物質循環の原因を一部変更しなければなりません。


第3図  エンジンとしての社会

 人間社会での物質循環(社会の循環)は物流です。物流を経済学では動物における血液の循環に譬えますが、これは比喩ではなく、本質的に同じものです。
 わたしは以前、宅急便も社会の循環のひとつと言って反発を買いました。しかし、感情論でむだな議論に時間をとるのではなく、事実に即して有効な議論してもらいたいと思います。しかし、聞き手の感情を逆なですることが分かっているのに、あえてこのような話題を選んだわたしも悪いのですが。
 そこで物質循環という意味です。自然の循環は力学法則、化学法則により回っています。大気循環と水循環の場合は、軽いとか重いとかの力学法則で回ります。生態系の循環の場合は、この力学法則に加えて化学法則で反応が進むことにより物質が循環しています。
 そこでエントロピー法則はどのように関係しているのかといいますと、エントロピー増大の法則に反しない限り、力学法則と化学法則で物質は活動し変化します。
 エントロピーの法則は非常に控えめです。エントロピーの法則で変化が起きるのではありません。現象はすべて力学法則と化学法則によります。たとえば、物が飛ぶと言うのは力学法則で飛びます。野球の球は、エントロピーの法則に反しないかぎり、カーブやドロップなど力学法則によっていろいろな飛び方が可能です。
 つまり、エントロピー法則は活動や変化の範囲を決めるけれども、細かい活動や変化は力学法則と化学法則で決まります。先ほどの生命の中の物質循環の中の化学サイクルと言うのは化学の法則が決めているのです。ですが、それらの化学反応はエントロピー増大法則に逆らっていないから可能なのです。このようにエントロピーの法則に反しないいろいろな変化が可能になりますので、自然現象にはいろいろな場合が存在できるのです。
 人間社会においても同じことが言えます。社会の循環も、自然の循環と同じで、エントロピー増大則に逆らわない範囲で力学法則と化学法則で回っています。自動車が走るのも、飛行機が飛ぶのも、力学法則と化学法則の組み合わせでいろいろの飛び方があります。

3-2 社会のエンジンを動かす商学の法則

 人間社会は力学法則と化学法則だけでは動きません。燃料と自動車と道路があるだけでは、自動車は走らないのてす。この自動車を動かそうとする人間の欲望が必要です。この点では、すべての動物と共通です。鳥は、飛びたいという欲望があるから、筋肉で糖を消費して羽を動かします。力学法則と化学法則の外に欲望法則が人間を含めてすべての動物の活動を支配しています。
 ところで、人間は社会を作っています。ここでは欲望は社会により制限されます。たとえば所有権という制限が課せられています。欲望のまま物品を使用することは許されていないのです。この欲望を需要といいます。交換する物品(貨幣)を持たない限り、欲望があってもこれを所有することができません。需要とは、支払い能力の伴った欲望ということになります。
 そこで、社会の中で物品が動くには、力学法則と化学法則の外にもうひとつの法則が必要となります。それが需要と供給の関係、つまり商業の法則です。先ほどリサイクル問題で資源と自由財の違いを話ましたが、資源ならば運ばれるのですが、自由財ならば誰も運びません。需要があればそれを運べば儲かるという欲望を満たすことができるので、需要先に物品を運ぶのです。要するに儲かるから物が動くのです。
 まとめますと、社会は、力学、化学、商学という3つの法則で動くエンジンである、ということになります。その商学の法則を無視したのが先ほどのリサイクル運動とリサイクル行政です。商学の法則、つまり市場経済を無視して社会の困難を解決しようとしたことがとんでもない間違いだったのです。

3-3 徴税と規制で社会のエンジンを運転する

 社会の循環は商業の法則で回るといいましたが、順調に回らない場合があります。たとえば不況です。不況がどうして生ずるのかと言いますと、需要に比べて供給が多いと生じます。供給が多いと商品の価格が低下し、儲からなくなるので、これがいたる所で発生すると、社会の活動は停滞し、不況ということになります。
 その結果、社会の循環は混乱することになります。先ほどのリサイクルで論じたこととまったく同じ議論をここですることになりますが、需要と供給の関係をしっかりと押さえた対策をしなければ不況をますます深刻にしてしまいます。
 1990年代後半の日本不況の場合には、消費税を導入したり、低金利にしたり、規制緩和したり、これらはすべて需要を超えて供給を増やすことになり、ますます不況を深刻にしてしまったのです。
 不況から脱出する方法は、穴掘りさせれば良いと有名な経済学者ケインズは言ったという伝説があります。穴掘りさせて労働者に賃金を払い、穴が出来たらまた穴を埋めさせて賃金を払えば景気は回復する、と言うのです。非常に的確な需要策です。ですが、穴掘りしてまた埋め戻すと言うのは環境破壊になります。
 それだけでなく、この事業をおこなう資金を税金で徴収するので、人々の支払い能力を減らすことになりますから、需要を減らすことになり、不況をさらに拡大することになってしまいます。したがって、そのやり方は間違っています。ではどこに注目して不況対策をしたら良いのでしょうか。

3-4 失業問題とインフレを考える

 大事な点はやはり失業問題と言う点になると思います。需要と言うのはすでに述べましたが、欲望ではありません。支払い能力があってはじめて需要なのですから、お金を持たない失業者に需要はないのです。そうだとしたら失業者に購買力を与えることが大事であると分かる筈です。失業者の購買力が回復しないままにしておきますと、生産者は生産を控えることになります。
 そのためには、失業者に金を貸す制度が必要です。これは就職したときに返金させるのです。
 このように考えず、失業者を放置したままにして、1999年現在、価格破壊の段階に入っています。どんどん物価は安くなっています。その結果、生産者はどんどん倒産しています。その原因は海外から安い商品が流れこんでいるからです。
 ここでこのまま放置しますと一転して、インフレに突入することになります。不況の次のインフレのことを全然考えない不況対策はどうかと思います。したがって、この不況の間に何としても生活必需品の価格を維持しておく必要があります。たとえば価格を維持するためには輸入の面では輸入関税を高くしたりする必要があります。ですが、そのように考える経済学者や商学者は少ないようです。
 社会は、力学、化学、商学の法則で活動するエンジンです。エンジンであるからには、エンジンの中の物質循環を破壊すれば社会は壊れてしまいます。社会の循環を健全な状態に維持しなければなりません。社会のエンジンを運転するといってもよいと思います。それには徴税と規制という方法があります。これで枠組みを作り、その範囲で市場経済を目指すのです。
 補助金も不況対策と考えられています。しかしこれはよくありません。かつて共産主義者による計画経済は大失敗しました。この失敗の原因をいまだに分かっていない人たちが多いのです。補助金行政は、計画経済失敗の繰り返しなのです。日本は世界一の計画経済を目指す共産主義国家となっています。これでは失敗は確実です。
 つまり、社会エンジンを維持し、運転するための第1番目の条件は、商学の法則です。つまり需要と供給の関係に留意して、徴税と規制により社会のエンジンを運転制御することです。

3-5 社会の循環を自然の循環に繋げる

 そこで、自然の循環と社会の循環が分かったのですから、このふたつの循環の間の関係を考える必要があります。社会の循環は自然から資源を得て、自然に廃物と廃熱を返しているのですが、むやみに資源を取れば資源の枯渇という問題を生じ、また自然の循環そのものを壊してしまいます。また、自然の性質を考えることなく、社会の廃物を自然に返せば汚染となります。
 持続可能な社会であるためには、資源を自然から持続して得る必要があります。そのためには、自然が資源を絶えず生産してくれる必要があるのです。これは資源を自然の循環から得ることにより、達成できます。
 一方、人間社会の出した廃物が溜まって汚染にならないようにするには、自然が絶えずこの汚染を処理してくれる必要があります。これは人間の廃物を自然の循環の中に返すことにより達成できます。
 つまり、この2つの過程を一緒にして、人間社会が、自然の循環から物質を得て、自然の循環に廃物を返すことでのみ、持続可能な社会は達成できることになるのです。第4図に示したように資源と廃物で社会の循環と自然の循環を繋ぐといってもよいと思います。


第4図 自然の循環と社会の循環を繋ぐ資源と廃物・廃熱の循環

 この第4図をよく見ますと、人間の廃物は自然にとっては入力、つまり、資源となっていることが分かります。人間の廃物を受け取ることによって、自然は豊かになるのです。その結果、自然の循環は、ふたたび人間社会に新しい資源を提供してくれることになります。
 リサイクルを強調することにより人間社会の中だけで資源を循環使用しようとして失敗しましたが、人間社会と自然の間のサイクルにすることで、廃物は処理され、ふたたび資源が供給されるのです。
 かつて、われわれの祖先はそのようにしてきました。われわれの廃物である糞尿を田畑に投入し、田畑から食料を得ていたのです。これを徹底して行うことが、持続可能な社会を作る条件であると分かります。
 廃物は環境にとってけっして悪い物ではありません。人間が廃物を出すことは非常に大切なのです。それを忘れて、廃物を憎しみ、「ごみゼロ社会をめざす」などというのそれ自体が間違っています。
 廃物を自然に帰すときに自然の循環の能力の外に返してはいけません。それでは自然はその廃物に対応できません。自然の循環の能力の範囲内で返し、資源も自然の循環から得ることにすることで、持続可能な社会が達成できるのです。
 そうすると地下資源の問題をどのように考えればよいのかということになりますが、これは適切に使うしか方法がありません。適切という意味は、その廃物が自然の循環を壊さないことです。ところで、この地下資源とは何かと考えますと、これは過去の生物の廃物です。そういうことを考えますと何も循環の外に抜け出たわけではなくて時代を越えてつながっていると考えればよいのです。
 現代は石油文明です。何事をするにも、石油(気体の石油である天然ガスを含む)を消費します。この石油は当分枯渇しません。当分というのは100年以上という意味ですが、その間は汚染が生じないように配慮しながら、石油を消費して、自然の循環を豊かにし、この範囲で人間社会が存在できるように自然を作り変える必要があるのです。

3-6 廃棄物の処理法は野生動物に習う

 そこで廃物の処理の問題です。廃物を自然の循環に帰す方法。それをどうするのかという話になるわけですが、そもそも最終処分場と言う考え方が間違っています。これは自然の循環と切り離すことですから、自然が対応できないもっとも悪い方法です。
 人間は動物のひとつです。そこで野生動物は廃物問題をどうしているのかを考えてみます。野生動物は廃物をたくさん出しています。食べ残しと糞尿と死体です。これらの廃物はすべて放置します。ところが、それらはすべて別の生物の資源になっているのです。


第5図 生態系の循環

 第5図に示しましたように、生態系ではAと言う生物の廃物はBと言う生物の資源、Bと言う生物の廃物はCと言う生物の資源というようにぐるっと繋がって、Aの資源に戻っています。動物、植物、微生物含めてですが。これが先ほどの養分の循環ということになります。全体として、太陽光と水が入って、廃熱と水蒸気が出て行く構造です。
 要するに、ある生物の廃物は他の生物の資源です。ですから、人間だけで資源を独占して使い、その廃物を人間だけで処理して、他の生物と切り離すのは間違っています。

3-7 廃棄物処分場は一切不要

 人間社会の廃物も野生動物をまねて捨てることです。野生動物は廃物を山野に捨てています。それによって山の養分は回復し、森林が維持されるのです。それと同じ事をすればよいのです。
 まず、生ごみは山のふもとに並べます。そうするとカラスやその他の野生動物がやってきて持っていきます。カラスが街の中に来るから嫌なので、カラスが来てもいいところに生ごみ置き場を作れば、カラスなど野生動物に生ごみを持っていってくれます。
 自然の循環の中で暮らすにはこういうような発想が大事なのではないでしょうか。場合によっては、ニワトリの放し飼いをしたっていいのです。飛べない程度に羽を切って放し飼いしておけば鶏肉・鶏卵・鶏糞が得られます。生ごみの始末は簡単で大都市を除いて大騒ぎする必要はありません。
 人間の糞尿は水田や池に流し込むのが一番です。病原菌の多くは嫌気性菌ですから、開放的に扱えば爆発的な増殖はありません。異常が発生した時だけ気をつければよいのです。臭いも嫌気状態で発生するのですから、好気状態で扱う限りあまり問題ではありません。
 死体や大都市の生ごみと糞尿は焼却すればよい。焼却は、物エントロピーを熱エントロピーに変えて、自然の循環に返す方法のひとつです。焼却灰は、煉瓦などに固化して人工岩石すればよいのです。ごみは分別せずひと括めして燃やすのがよいのです。廃棄物処分場は一切不要です。

§4 森林と農地の喪失をどうするか

4-1 森林と農地の喪失こそ最大で,深刻な環境破壊


 最後になりましたので、今一番深刻な問題は何かという議論をしようと思います。
 それは、世界の森林と農地の喪失です。発展途上国の森林や農地はどんどん砂漠化しています。先進国アメリカの農地もどんどん砂漠化しています。
 なぜそういうことになったのかといえば、それは科学技術の向上による穀物の過剰生産と自由貿易と累積債務の3つが原因です。
 まず、科学技術の向上でアメリカとヨーロッパで穀物を過剰生産してしまいました。穀物がたくさん取れるので、人類は飢えから救われた、という能天気な人がいますが、それが逆に将来の飢えの原因になっているのです。ここでも、経済学を忘れています。
 穀物の過剰生産によって、先進国で穀物価格は下落しました。需要を超えて供給したからです。そうすると、農民が失業することになります。しかし、自動車産業とかの工業部門でも合理化が進み、過剰になった農民を全面的には吸収できません。そこで、先進国の白人政府は、穀物は戦略物質であるから、農民を失業させてはならない。穀物が不足することになったら、未来の戦争に負けることになる。
 そこで、過剰生産した穀物に補助金をつけて自由貿易で世界中に売りまくることにしました。その第一の標的は日本でした。今、1億2千万の人口が外国の穀物で生きています。その理由は日本の穀物の値段はアメリカやヨーロッパのの値段より高いので簡単に穀物の流れができたのです。
 ところで、日本以外の発展途上国では、穀物の値段はアメリカやヨーロッパよりも安いのです。そこでアメリカとヨーロッパ諸国は穀物輸出に補助金をつけて相手の国の値段で売ることにしました。このように戦略物資としての穀物を維持するということと、農民の失業をなくすという2つの目的で売りつけることにしたのです。世界中に穀物を安い値段で売りつける。しかも援助物資として小麦を無料で配ることもしました。
 しかし、ただより高いものはありません。先進国から安い穀物が自由貿易で流れてきたために、発展途上国の農民は対抗できず失業することになります。先進国で農民が失業しない代わりに、発展途上国の農民が失業するのです。穀物の輸出は失業の輸出だったのです。発展途上国の農民が失業すると、農地は放棄され荒れることになります。土壌は雨によって流されてしまいます。そこは砂漠になります。
 アフリカの農民たちの食べ物はキビ(ミレット)でした。これを農民が生産して都市で売って生活していたのですが、援助物資で小麦が入ってきて、都市の人たちは小麦の美味さを知ってしまって食生活が変わってしまいました。そうすると、小麦しか買わなくなってしまいます。つまりアフリカ諸国の農村の穀物は、都市で売っても買ってもらえないことになりました。
 このことは、日本でも当てはまります。学校給食でパンばかりたべさせられた子供は、大きくなっても米に戻らず、パン食で、アメリカから小麦の輸入が続いています。日本は先進国ですが、穀物問題に関する限り、発展途上国なのです。かって、自給率が落ち込んでいたイギリスやドイツが、今では小麦輸出国であることに注目する必要があります。
 それから、第2次大戦後、あちこちで国が独立したというのが非常にまずい状態を引き起こしています。独立したとたんに、世界の金貸しが独立政府に金を貸してまわります。利息が欲しいからですね。
 国家は倒産しない、という前提があるので、いくらでも貸します。その結果、そのお金を返すことと利息を払うことのためにそこらのあちこちの国の貿易額の半分近く、返済と利息払いに使われました。
 1982年から先進国ら発展途上国へ流れる金額よりも、発展途上国から先進国に流れる金額の方が大きくなっているのです。富は貧しい国から豊かな国へと流れています。このように累積債務も砂漠化の大きな原因の一つとなっています。

4-2 自由賀易で,富は貧しい国から豊かな国へ流れる

 このように、穀物の過剰生産と自由貿易と累積債務が世界の砂漠化の原因ということになるのですが、その中でも自由貿易が最大の原因です。
 これまで、国際経済学では、この貿易の壁を無くして、自由貿易にすることが世界を幸福にすると宣伝してきました。
 しかし、これはごまかしでした。そのポイントは貿易商の存在を隠したことにあります。国際経済の本を開いてみて下さい。貿易商なんて言葉は1つも見当たりません。国家間の貿易と書かれています。しかし、そのような貿易は、バーター貿易の北朝鮮との貿易以外には存在しません。必ずそこには貿易商が存在します。国際経済学という学問は現実をまったく見ていないのです。
 なぜかというと、国際経済学という学問を支配しているのは貿易商だからです。現在の貿易商とは多国籍企業ということになります。彼らの存在を隠して、ボロ儲けできるように国際経済学は作られているのです。
 わたしは、物理学から経済学に転向したのは、経済学はそもそも商学の発展したものと思っていたからです。すでに、わたしは、日本の豊かな森林は、江戸以後の日本の商業が作ったものとの考えに到達していましたから、この議論を世界に広げてみようと思ったからです。
 ところが、商学はわたしの期待とは違うのです。マーケッティングという商業技術の研究をする人はいるのですが、商業そのものの研究がなされていないことが分かったのです。

4-3 商学の基礎から考える

 商業とは、営利を目的として所有権を交換し、または他人の行為を代行することなのですが、商業はなぜ儲かるのか、について明確に書いた教科書がありません。儲かるのは当たり前といったのでは学問ではありません。リンゴが落ちるのは「当然」ではなくて、これから万有引力論にまとめることで力学という学問になったのです。これによって力学の未来が開けました。
 そこで、商業はなぜ儲かるのかを考えてみることにしました。それには、商業史を勉強すればよいと思いました。出会ったのが三井の商法でした。三井は大坂で幕府の米を買い、江戸で支払うと約束し、米を大坂で売却して銀を得、その銀を持って京へ行き、呉服を仕入れて、江戸へ運び、これを売って小判を得て、この小判で幕府に米の代金を払って、残りで大儲けしたのです。これは、わらしべ長者の物語そのものです。
 すべて等価交換なのに、なぜ商人は儲かるのでしょうか。それはすべての人々に価値観の違いがあるからです。別の言い方をすれば、人々に需要の違いがあるのです。この違いが儲けの原因です(2,3)。
 たとえば、米と魚の干物の価値観が農村と漁村で違います。農村では米1升と干物1束が等しいとします。漁村では米1升と干物2束が等しいとします。
 ここで面白い事実に気が付きました。農村出の商人が商売をする場合と漁村出の商人が商売をする場合では違いがあるのです。1升の米が農村から漁村に移動する場合を考えますと、農村出の商人が商売すると干物は2束漁村から農村へ動きます。ところが、漁村出の商人が商売すると干物は1束しか動かないのです。
 町の商人がやってきて、この商売をしますと、1升の米が町から漁村へ流れ、漁村から農村へ2束の干物が流れ、2升の米が町へ流れます。商人のいる町は純利益として1升儲かるのです。要するに商人を出したところに財産が集まるのです。

4-4 富は発展途上国から先進国へ一方的に流れ出ている

 この問題を貿易に適用してみました。長崎貿易を例にして、絹、金、銀の出入りを考えてみたのです。そうすると、日本から一方的に金が流出した原因が分かりました。等価交換しても、貿易は対称ではないのです。
 どちらの国の商人が貿易するかで、結果はまるで違うのです。貿易商のいる国は儲かるのですが、貿易商のいない国は単なる等価交換です。これが、貿易商のいない発展途上国から、貿易商のいる先進国へ資産が移動する原因となっています。
 ところで、貿易商だけが利益を得るのではありません。貿易商を出している先進国は、貿易商に対して所得税や事業税をかけますから、利益が得られます。しかし、貿易商を出さない発展途上国は見かけ上の等価交換で損をする一方です。世界の貿易商のほとんどを所有するアメリカが高度の繁栄をするのは、このような秘密があったからです。日本やヨーロッパの繁栄の理由もここにあります。発展途上国がますます貧しくなるのは貿易商を持たないからです。
 これを解決する方法が関税です。これによって、貿易商を出さなくてもこの貿易で利益が得られることになります。関税は、所得税や事業税と同質の税金で、国が儲けの分け前を徴収する方法だったのです。先進国が貿易商に所得税や事業税をかける権利をもつのと同様に、貿易の相手国はこの貿易に輸出入関税をかける権利があるのです。これによって、貿易による利益は先進国だけでなく、発展途上国にも配分されることになるからです。
 ところが、WTOは、自由貿易と称して貿易規制だけでなく、関税の撤廃をかかげて発展途上国から財産を強奪しています。これが発展途上国をますます貧しくさせ、その環境をこれほどまでも破壊する最大の原因だったのです。
 しかも、自由貿易とは、資本と商品の移動を自由にすることですが、労働力の移動は不自由なままにしていることも大問題です。先進国では農民の失業を防ぐために穀物の輸出は発展途上国の農民の失業でした。この失業者を先進国は受け入れ制限し、その結果発展途上国はますます貧しくなったのです。(2,3)
 人口の移動の自由を伴わない商品と資本の自由化は、世界の富をますます片寄らせ、世界の環境をますます破壊し、正義ではありません。自由貿易というからには、労働の移動も自由でなければなりません。
 そして国は倒産しないという仮定のもとに貸し付けがなされ、その返済と利息払いが積み重なって累積債務となり、発展途上国はますます無理が強いられ、その自然環境を破壊し続けています。
 この自由貿易と債務をこのままにしておけば、世界の破滅は間もなくです。この世界砂漠化の出発点は、先進国での穀物の過剰生産でした。これは科学技術の向上の結果で、人力で穀物を生産する代わりに、石油に働かせて穀物を生産した結果です。世界の砂漠化を防ぐには、まず、穀物生産を調整する必要があります。
 日本の環境の歴史を学んで得られた結論は、社会と環境の間の物質の出入りが重要ということでした。社会が環境から養分を収奪したとき、環境は痩せてはげ山になりました。逆に、社会が環境に養分を戻したき、環境は豊かになりました。

4-5 日本は肥料を生産し、輸出する

 ここで、先進国に仲間入りしながら、穀物輸出にかかわっていない日本の進むべき道を考えてみようと思います。それは、他の先進国とは違う商業(貿易商)の道を歩むことです。つまり、江戸文明の商人の伝統を見習うことです(5)
 江戸文明の商人は、漁村から農村へ肥料を運びました。その肥料で米や綿を生産し、これを都市に届けました。そして都市から手工業製品を他の都市と農村や漁村へ運んで、利益を得ていたのです。
 現在、発展途上国の農民たちは、肥料を求めています。これがあれば、定住生活ができて、しかも焼畑で森林を焼く必要はないのです。しかし、発展途上国の農民には現金がなく、肥料を買う需要がないのです。そこで、日本商人の役割は、世界の農地に肥料を供給することです。その方法は、かつて江戸時代の商人がしたと同じように、農民やその政府に対して、肥料の掛け売りをすればよいのです。
 日本は、工業力を発揮して化学肥料を作ります。また、漁業加工品の廃物から得られる有機肥料を扱います。さらには、南洋の豊富なオキアミから魚油と肥料を作ります。商人が肥料を買うだけでなく、自家生産もすればよいのです。
 このようにして得た各種肥料を発展途上国に廉価で供給します。そのようにしても利益は確保できます。比較優位の手法というのですが、この肥料を安く売ることにより、相手国の貨幣を手に入れて、これで相手国の安い商品を購入し、日本に持ち帰り、高く売れば儲かるのです。
 さらに、これによって発展途上国の農地は回復し、先進国に対抗できる農産物を産出できることになりますから、比較優位の商品の生産力もあがることになります。日本の商人が儲けた上で、発展途上国の農地はだんだんに豊かになっていきます。
 しかも、江戸文明の経験が示すように、発展途上国の農地が豊かにになれば、野鳥などの野生動物が農地の周辺に森林を作ってくれますから、再び発展途上国に緑がよみがえることになります。
 日本人の祖先は武士の理不尽な支配下にあって揉み手で商談をまとめてきた江戸時代の商人です。その子孫の健闘を願います。


参考文献

(1)槌田 敦「CO2温暖化脅威説は世紀の暴論」(1999年) 環境経済・政策学会編 『地球温暖化への挑戦』 東洋経済 pp230〜255
(2)槌田 敦 『エコロジー神話の功罪』(1998年)ほたる出版
(3)槌田 敦「持続可能性の条件-資源と廃棄物で社会の循環と自然の循環をつなぐ」 名城商学 1999年3月号 pp79〜108
(4)加藤峰之、槌田 敦「市場経済による無理のないリサイクルを」 名城商学 1999年9月号 pp113〜155
(5)槌田 敦 日本商業学会 中部部会講演会 2000年7月8日


 

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