HP管理者 近藤 邦明
§0 はじめに
原子力発電の技術的な問題点については、既に多くの分析が行われています。ここでは少し視野を広くして、日本のエネルギー政策全体から見た原子力利用、プルサーマルの位置づけについて考えてみたいと思います。
§1 『資源小国』日本のエネルギー政策
戦後日本のエネルギー政策は、まず第一に主要なエネルギー資源の石炭から石油への転換から始まりました。この転換の過程で、国内の炭鉱では劣悪な労働環境での事故や労働争議が頻発しましたが、結局相次いで閉山されました。その結果、日本には大きな油田がないために、産業を支えるエネルギー資源は、ほとんど全て海外に依存することになりました。
個人的な体験としては、昭和40年代初頭、私が小学校の低学年であった頃までは、小学校の冬の暖房と言えば石炭ストーブが利用されており、朝一番に当番が石炭置き場からバケツに石炭を取ってくることが日課でした。それが小学校を卒業する頃には、灯油ストーブが普及してきたように記憶しています。この時期を境に、日常生活から石炭が徐々に姿を消していったようです。
さて、この国内の炭鉱をスクラップ化して行われたエネルギーの石油への転換を通して問題になったのが、エネルギーの海外依存という問題でした。これ以後、日本は『(エネルギー)資源小国』というトラウマに取り付かれることになりました。そこで、政府はエネルギー資源小国日本の長期的なエネルギー戦略を立てることになりました。
日本のエネルギー長期戦略は、まず石油を利用しつつ、並行して脱石油を目指す新しいエネルギー技術を開発していくことになります。まず第一段階は、原子力発電の実用化であり、第二段階は高速増殖炉の導入によって核燃料サイクルを確立し、更に核融合を実用化し、最終的には『無限のエネルギー』である太陽光エネルギーの利用を実用化するというものでした。
ここで少し脇道に反れますが、原子力技術と言うものは、前大戦末期に米国のマンハッタン計画における兵器製造から始まったことは周知の事実でしょう。特に日本は最初に実戦においてその洗礼を受け、兵器としての原子力の威力を最も身近に知っている国です。戦後言われ始めた原子力の平和利用とは、平時における米国の核兵器維持のための戦略です。同様に、わが国における原子力利用は、常に好戦的な勢力の核兵器保持への欲求と表裏一体なのです。
その後、1970年代のオイルショックを経て、石油代替エネルギー論は広く市民権を得て、更に環境問題という新たな問題を受けて、現在に至っています。
§2 物理エネルギーと使用可能エネルギー
原子力発電が始まった当初、よく耳にしたのが『ウラン(235)1グラムは石油2トン分のエネルギー』と言う謳い文句です。これは、物理学的な意味において、1グラムの核分裂性のウラン235が完全に核分裂反応した場合に放出する熱エネルギーが石油2トンが燃焼した場合の熱エネルギーに匹敵すると言う意味で、間違いではありません。しかし、現実の社会で、私たちが有効に利用できるエネルギーとは、物理学的な意味とは全く別のものであることを理解しておかなくてはなりません。
最終的な出力として私たちが使用可能なエネルギー量に対して、それを得るために一体どの程度の『手間』がかかるのかが問題なのです。直接的なエネルギー利用技術だけではなく、エネルギーを使用可能にするために必要な設備、装置、あるいは社会的なインフラ全てを製造・運営・廃棄するために必要な、全ての仕事・投入資源量・投入エネルギー量を積算した上で、産出される単位エネルギー当たりのコストを比較することによって、初めてエネルギー供給技術としての優劣が比較できるのです。部外者にとってこうした積算によって技術評価することは現実的には不可能です。
現在の工業化社会の基本的なエネルギー資源は石油であることに疑問の余地はないでしょう。原子力発電とて、この石油の使用を前提とした工業生産システムの中にあります。極めて特殊な技術や美術品のような特殊価値は別として、工業化社会における製品コストとは、投入資源量とエネルギー量(≒石油量)を反映していると考えられます。つまり、最終的に供給可能なエネルギーの発電コスト(経済コスト)を比較することによって、エネルギー技術の優劣の目安とすることが出来ます。主な発電方式による発電コストの推定値を以下に示しておきます。
■火力発電 6〜8円/kWh
■原子力発電 20〜30 ? 円/kWh
■風力発電 25円〜/kWh
■太陽光発電 70円〜/kWh
火力発電が圧倒的に優れた発電方式であることは明らかです。原子力発電に関しては、発電後に放射性廃物と言う極めて特殊な毒性を持つ廃物を『生産』するために、その処理コストは、安全性に対する要求が高まるにつれて、今後ますます増大する可能性があります。
資源として優れている条件の一つとして、エントロピーが小さいことが挙げられます。ウランはどこにでも存在する鉱物です。しかしこれは資源として不利な条件です。どこにでも存在する鉱物とは、拡散した鉱物だということです。これはエントロピーが非常に高い状態にあることを意味しています。エントロピー増大則から、エントロピーは単調に増加しますから、高エントロピー状態の物質ないしエネルギーから有用なエネルギーを得るためには、低エントロピー資源(=石油と水)を大量に投入してエントロピーを除去しなくてはなりません。
原子力発電に使われるウラン鉱石の原石のウラン含有率は、平均的な品位のもので0.2%程度です。更に、天然ウランの中で原子力発電の燃料となるU235の存在比率は0.7%程度です。放射能を持つ危険なウラン鉱石を精錬して、U235を3〜5%程度にまで濃縮したウラン燃料を製造する工程が、それだけでもいかに大変な作業か、言い換えるといかに多くの資源とエネルギー(石油)の投入が必要かを暗示しています。
現在流行の自然エネルギー発電について考えてみます。太陽光(光エネルギー)や風(運動エネルギー)はどこにでも存在しているエネルギーです。また、大気や海水もその温度に応じた熱エネルギーを持っています。これらの物理エネルギーはどこにでもあるが故に、工業的に利用するにはエネルギー密度が低すぎます。こうした『拡散したエネルギー』を工業的に有用な電気エネルギーにするためには、原子力発電同様、大量の資源とエネルギー(≒石油)の投入が必要になります。更に、自然エネルギーは制御不能な出力変動が不可避であり、これだけでも工業的な利用はほとんど絶望的です。
現在の環境問題におけるエネルギーに関する論議では、自然エネルギーを工業的に利用するために必要な莫大な資源とエネルギーの投入と、制御不能な出力変動に対する認識が希薄なために、自然エネルギーが環境問題とエネルギー問題を同時に解決すると言う誤った幻想に取り付かれているのです。自然エネルギーの工業的な利用を前提とする限り、これもまた石油消費に支えられた工業化社会の枠内でしか存在できないことを確認しておきたいと思います。
このように、前節で示した『エネルギー資源小国』日本の長期エネルギー政策は、構想の段階で既に理論的に破綻していたのです。脱石油を標榜しながら、原子力、核融合、そして究極のエネルギー太陽光も、石油の消費によって成り立っている工業生産システム無しには実現不可能な技術だったのです。それどころか、この間の『実践』の経験から、これらの技術は石油の節約に役に立たないばかりでなく、大量の鉱物資源を『浪費』するものだということが分かったのです。更に、現在の工業化社会を根幹で支えている移動あるいは輸送手段の動力として、電気は全く不適格であることも重要です。
§3 核燃料サイクルの破綻
もう少し原子力利用について考えてみることにします。原子力発電を進めるひとつの根拠として、原子力発電は安上がりであると言われてきました。しかし、実際には火力発電に比較して、全く安くないことは電力会社も認めざるを得ない状況になっています。
次に、U235だけを使っていたら安くはないけれども、原子炉の運転によって非分裂性のU238がプルトニウムになり、使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出して、これを高速増殖炉の燃料とすることによって、核燃料サイクルを確立すれば安くなると言いました。
原子力図面集より
ところが、使用済み核燃料の再処理には予想以上のコスト(=資源とエネルギー)が掛かり、再処理しないほうが安上がり(=エネルギー効率が良い)だということが分かってきました。
つまり、原子力発電システム全体で見た場合、ウラン燃料はワンウェイで使い捨てにしたほうが、使用済み核燃料を再処理して核燃料サイクルを行うよりも安上がり=エネルギー(=石油)利用効率が高いと言うことです。
工業的リサイクル一般について言えることですが、廃物は捨てるより再利用するほうが良いに決まっていると言う、謂れのない理論が信じられています。これは既に述べた自然エネルギーの工業的利用と同じように、資源あるいはエネルギーから有用な部分を取り出すために、どれだけ追加資源とエネルギーを投入しなければならないのかと言う視点が欠落している誤った認識です。リサイクルが意味のあるのは、再処理段階で投入する資源・エネルギー量よりも、再処理する事によって得られる価値のほうが大きい場合にのみ有効なのです。
核燃料サイクル〜高速増殖炉システムは、天然ウランの99%以上を占める非分裂性のU238を捨てるのが『もったいない』から何とか利用したいという理由から発したものであり、エネルギー・コストの視点が欠落していたのです。これまでの原子力発電システム運用の実験から、再処理はエネルギーを浪費することが実証されたのですから、核燃料サイクルという構想は、この段階で棄却することが『科学的な判断』です。更に、通常の原子力発電だけでも火力発電よりも高コストで、資源・エネルギー浪費的であることが実証されているのですから、エネルギー供給技術として原子力そのものを全て放棄することが科学的に見た(同時に経済的にも)唯一の合理的な選択肢なのです。
これ以上の検討は蛇足ですが、肝心の高速増殖炉は、技術的な困難さ、安全確保の困難さから現在地球上で1台も営業運転されていないのです。高速増殖炉では、プルトニウムを『効率的』に生産するために、一次・二次冷却系に水ではなくナトリウムを使用しますが、最終的に水と熱交換を行うことになります。
電気事業連合会のHPより
ナトリウムは非常に反応性の高い物質であり、配管にピンホールでも開いて水に接触すれば、たちまち大爆発事故になり、プルトニウムを環境にばら撒くことになります。核融合炉に至っては、未だ影も形も存在しません。核融合炉に関しては、既に30年ほど前に、当時理化学研究所にいた槌田敦氏の分析によって、エネルギー供給システムとして物理的に成り立たないことが示されています。
将来的にもこれらの技術が確立することはありませんし、このような事故と隣り合わせの社会など、誰も望んではいません。
§4 原子力利用におけるプルサーマルとITER誘致
前セクションまでの検討で、原子力にエネルギー供給技術としての科学的な合理性がないことを述べました。同時に経済的合理性もなく、莫大な国家予算の注入で、かろうじて維持している原子力の実体とは何なのでしょうか?
日本は核拡散防止条約において、核兵器の保有を禁じられています。そのため、『商用』原子炉の燃料とする以外に軍事物資であるプルトニウムを保持することは問題になります。日本がプルトニウムを合法的に保持するためには、プルトニウムを燃料とする商用原子炉を運転することが必要です。
つまり現在の日本の原子力利用は、プルトニウムを保持するための合法的な理由と再処理技術を確立することだけを目的としているとしか考えられないのです。莫大な国家予算を投じて、エネルギー供給技術として科学的・経済的な合理性のない核燃料サイクルを保持する目的とは、日本の将来的な核兵器保有をにらんだ、原子力施設と再処理技術を担保しておく軍事目的以外に合理的な説明はありません。
こうした国家戦略の中で、現状では核兵器の保有が禁じられている日本において、軍事用プルトニウム製造・保有は出来ませんから、再処理プルトニウムを燃料とする『商用』原子炉が必要なのです。当面実現の可能性の薄い高速増殖炉に変わって、プルトニウムの処理のために登場したのが、U238などの通称『劣化ウラン』と、使用済み核燃料の再処理によって得たPu239とで作られるウラン・プルトニウム混合酸化物(Mixed
OXide)燃料、通称『MOX燃料』を軽水炉で使用するプルサーマル方式の原子力発電なのです。
電気事業連合会のHPより
そして、核兵器保有のための次の段階として、すぐに兵器への転用が可能な核兵器級プルトニウムの製造を目論んでいるのが高速増殖炉『もんじゅ』の運転再開とITER(International Thermonuclear Experimental Reactor=国際熱核融合炉実験炉)の日本への誘致なのです。
§5 結論 〜プルサーマルは、原子力平和利用の終焉と軍事利用への第一歩〜
米国のアフガニスタン・イラク侵略以来、世界情勢は一気に緊張を高めつつあるように感じられます。日本を含む東アジア地域においても、小泉政権の自衛隊イラク派兵と米国盲従の一極外交、東アジア近隣諸国との関係軽視ないし敵視政策によって、ベトナム戦争後、最も危険な状況になりつつあります。
このような中で、日本の小泉・安倍をはじめとする好戦的な勢力が勢いを増し、平和憲法改悪、自衛隊の軍隊化の動きを強めています。また、米国は近い将来、日本の核武装化を容認する可能性も指摘されています。
日本における原子力平和利用の『実証試験』は、科学・技術的な見地からは、ほぼ完全に失敗に終わったと言って良いでしょう。原子力の商用利用と言う観点に立てば、プルサーマルとは最後の悪あがきです。しかし、別の見方をすれば、プルトニウムの国内保有を合理化する、原子力の軍事利用の第一歩と言うことも出来ます。
エネルギー問題としての原子力利用については、既に破綻は明らかであり、これ以上の検討の必要性はないと考えます。原子力の現在の問題は、日本が核兵器保有への道へ向かうのか、それとも全ての原子力を放棄して平和国家へ向かうのかという政策判断の問題ではないかと考えます。