No.974 (2015/01/22)トヨタ=政商となった亡国の自動車メーカーANew!
炭化水素改質水素を用いた場合の燃料電池車の効率

 燃料電池というエネルギー供給装置の長所として吹聴されるのは主に2点です。
 一つは、発電時に排出される排気ガスは水蒸気であり、クリーンなこと。もう一つは、発電効率が高いことだと言われていますが、ことはそれほど単純ではありません。

水素という扱いにくい物質
 水素という物質は、日常の生活環境の中で使用するにはとても厄介な物質です。水素という物質は常温で気体であり、単位体積あたりのエネルギー量が小さすぎます。車のような移動手段の燃料として利用する場合には体積を小さくするために超高圧で圧縮して利用することになります。燃料電池車では350気圧(=35MPa=35×106N/m2)あるいは700気圧まで圧縮した水素を利用します。

 水素を350700気圧という超高圧で利用するためには、極めて特殊な耐圧容器や周辺システムが必要となります。気圧を高くすればするほど圧縮過程にそれだけ多くのエネルギーを投入することが必要になると同時に、耐圧容器などに要求される強度や耐久性の要求が高くなり、システムを維持するためにはさらに多くの資源とエネルギーの投入が必要になります。超高圧の水素を安全性を確保しながら保管することは大変難しいのです。
 その結果、水素ステーションの建設・維持・運用コストはガソリンスタンドと比べ物にならないほど高くなります。個人商店として運営されているガソリンスタンドのような普及は望めません。
 燃料電池車を普及させようとしたとき、それを支える社会的インフラを整備するための社会的なコストが極めて大きくなることも大きな問題です。こうした燃料電池車を運用するための水素ステーションなどの建設・運用・維持に投入される資源やエネルギーまでを含めて技術を評価する必要があります。
 水素の体積を小さくするためには液化する方法もあります。この場合、体積は
1/800程度に出来ます。しかし液化するためには−253℃にまで冷却し、この温度を維持し続けなければなりません。これも大変難しいことです。冷却に失敗すれば爆発する危険性もあります。

水素の製造
 一般に、燃料電池の発電効率という場合、“燃料”である水素
H2のもつ燃焼熱=“水の標準生成エンタルピー”に対して得られる電力のエネルギー量の比率として表されます。燃料電池の発電方式には反応温度の違いなどでいろいろな種類がありますが、発電効率は3070%程度です。燃料電池車用のシステムの発電効率は40%程度と言われています。既に、コンバインドサイクル火力発電の発電効率は50%台に達していますから、燃料電池の発電効率はさほど高いとは言えません。
 しかも、水素
H2は石油や天然ガスのように鉱物資源として存在するわけではなく、それ自体が高価な工業製品です。高価な工業製品ということは、その製造過程で生産システムの建設・運転に大量の工業的エネルギー(主に石油)の投入が必要だということです。
 
 したがって、燃料電池の発電効率を既存の発電システムと性能比較する場合には、水素の製造過程に遡って、全ての投入エネルギー量を積算しなければ無意味です。
 
燃料電池車用のシステムの発電効率は40%程度ですから、水素製造まで含めた場合の発電効率は更に相当低くなることは容易に推測できます。つまり、燃料電池の発電効率は、既存のコンバインド火力発電には遠く及ばないということです。この段階で燃料電池の高発電効率という主張は棄却されます。

炭化水素改質による水素製造
 今、環境技術としての燃料電池車が注目されているのは、人為的CO2地球温暖化の対策として、CO2を排出しない自動車だからです。
 確かに燃料電池による発電過程では排気ガスは水蒸気
H2Oだけです。しかし、燃料である水素H2は工業製品であり、その生産過程で大量の石油を消費しています。また燃料電池車自体が高価な工業製品であることからその製造過程では通常のガソリンエンジンを用いる自動車製造以上に大量の石油を消費していることが分かります。
 水素の製造方法には大きく分けて炭化水素を材料として化学的プロセスで水素を生産する方法(炭化水素改質)と水を電気分解する方法があります。現状では、コストから炭化水素改質による水素製造が主流です。
 炭化水素から水素を分離すれば、当然ですが廃棄物として二酸化炭素
CO2が生じます。これでは、人為的CO2地球温暖化対策として燃料電池車を利用する意味はありません。これは、原子力発電が発電所ではCO2を排出しないというのと同じまやかしということです。
 しかも、炭化水素そのものを利用する場合には炭素
Cの燃焼エネルギーを利用しますが、水素を製造する場合には単なる廃棄物としてCをムダに廃棄するだけですから、同量の炭化水素から有効に取り出される利用可能なエネルギーは減少します。つまり、炭化水素改質による水素生産を前提とした燃料電池車は全く無意味です。現実には燃料電池車を運用するためには前述の通りガソリンスタンドとは比較にならないほどの社会的な費用=鉱物資源、エネルギー資源の投入が発生しますから、ますます無意味ということです。

以下、炭化水素改質について具体例を示すことにします。

灯油改質による水素燃料を用いた燃料電池の発電効率
 灯油はC11H24C15H32の炭化水素の混合物です。燃焼熱は36.7MJ/リットル≒45.9MJ/kg程度です。
 
JHFC(水素・燃料電池実証プロジェクト:Japan Hydrogen Fuel Cell Demonstration Project=経済産業省が実施する燃料電池システム等実証試験研究補助事業)による報告からの数値を元に、灯油からの改質で製造された水素を用いた燃料電池システムのエネルギー効率を算定してみます。
 
JHFCの「水素ステーション領域・試験結果」による灯油改質の試験結果を以下に紹介します。
 水素
1kgを製造するために必要な灯油は4.85kgです。灯油を改質して350気圧高圧水素とするために投入される電気エネルギーは6.47kWhです。
 水素の燃焼熱=水の生成エンタルピーは
285.83kJ/mol142.9MJ/kgです。燃料電池車で利用される燃料電池はPEFC固体高分子形であり、反応温度は比較的低く100℃程度ですが、その反面発電効率は低く〜40%程度です。したがって、電力として供給可能なエネルギー量は142.9×0.457.16MJ/kg程度です。

 以上を350気圧高圧水素1kg当たりのエネルギー収支としてまとめると次のとおりです。

投入エネルギー量 灯油 4.85kg×45.9MJ/kg222.6MJ
電力 6.47kWh23.3MJ
産出エネルギー量 57.2MJ
エネルギー産出比(発電効率) 57.2÷(222.623.3)0.232

 電力供給という観点で見ると、燃料電池からの産出電力の内、23.3MJは350気圧高圧水素燃料生産で自家消費されるため、222.6MJの灯油から57.223.333.9MJの電力を得ているということになります。灯油投入量に対する発電効率はわずか33.9÷222.60.152に過ぎないということになります。最終的な高圧水素の圧力をトヨタのMIRAIの様に700気圧にすれば、たとえ航続距離が伸びたとしても、更に圧縮過程に投入する電力量が増加し、発電効率は0.15よりも更に小さくなります。 

 以上から、炭化水素≒天然ガス・石油を改質した水素燃料を用いる燃料電池車は、石油を燃料とする自動車用動力装置として最低の効率です。つまり、ガソリン自動車を燃料電池車に置き換えることで社会全体のCO2放出量は飛躍的に増大するということを示しています。

 エネルギー産出比から見れば、コンバインドサイクル火力発電を用いて発電し、その電力を蓄電池に貯めて利用する電気自動車の方がはるかに優れています。勿論、通常の内燃機関の自動車の方が電気自動車以上に優れていることは言うまでもありません。

参考:気体の等温過程としての理想的な圧縮仕事

例えば、1気圧、15℃の水素1モルを350気圧まで圧縮する仕事 

W1×8.314×288×ln(350/1)14.026kJ/mol

水素の分子量は2なので、1kgを圧縮するのに必要な仕事量は

W=14.026kJ/ 0.002kg
7013kJ/kg7.013MJ/kg

つまり、圧縮される気体の温度を15℃に保ちながら350気圧まで圧縮するという理想的な場合には、常温常圧の水素を350気圧までに圧縮する場合、水素1kg当たり7.013MJの仕事が必要だということです。
 JHFCの試験では、圧縮に投入された電力量は次のとおりです。 

18.0kWh/4.70kg18.0×3600kJ/4.70kg64.8MJ/4.70kg13.79MJ/kg

つまり、理想的な圧縮に必要な仕事量の2倍程度が必要だということです。実際の圧縮プロセスでは等温過程としての圧縮仕事に加えて、圧縮装置と気体からの廃熱を冷却するための仕事や損失があるためだと考えられます。

続く→

No.972 (2015/01/19) トヨタ=政商となった亡国の自動車メーカー@

No.973 (2015/01/21)起こるべくして起こったイスラム国による邦人誘拐New!

 昨日、イスラム国の配信した動画が公開されました。かねてから身柄を拘束されていた湯川遥菜氏と後藤健二氏と見られる二人の邦人に対する日本政府に対する身代金を要求する内容でした。72時間以内に支払いに応じない場合は殺害するとしています。これまでのイスラム国の行動から、日本政府が身代金支払いに応じない場合は二人は殺害される可能性が高いのではないでしょうか。
 湯川氏については、戦争にビジネスとして関わっている方であり、今回の事態は想定内のリスクであろうと考えます。しかし、報道に携わっている後藤氏に対する対応は理不尽と言わなければならないでしょう。

 今回の出来事は、事の非人道性という観点からは許されざることだと考えます。しかし、欧米諸国と武力対立しているイスラム国としては、欧米軍事同盟の中では最も弱い部分に対して圧力を掛けるという意味では最も効果的であり、正に必然的に起こった事件だと考えます。

→No.960 (2014/10/27) 日本とイスラム・テロは無関係ではなくなった

 小泉・安倍第一次政権、そして安倍第二次政権によって、日本は軍事的に積極的に世界の紛争地帯、就中、中東地域への軍事的な介入を強めています。
 小泉政権がアフガニスタンに介入した理由である大量破壊兵器は存在しなかったのであり、誤った判断による虐殺の兵站を維持することで遂行に協力した反省は一切行っていません。
 しかも、安倍第二次政権では積極的平和主義という名の軍事政策を積極的に推し進め、日本がこれまで堅持してきた平和憲法を事実上形骸化して、日米軍事同盟として世界中の紛争地帯に対して直接的に軍事介入することを表明しているのです。欧米諸国と軍事的に対立しているイスラム国が日本を標的とすることは合理的かつ効果的であることは紛れもない事実です。

 さて、日本では欧米諸国の中東への言われない侵略と無差別の大量虐殺は、最大でも事実として報道するだけであり、知らされない場合のほうが多いようです。一方、イスラム圏の武装した反欧米勢力による数名の殺害は非人道的で許されざる行為であると、ヒステリックと思われるほどに報道されます。
 わたしは何度もこのホームページで表明しているように絶対平和主義者です。武装したイスラム勢力による暴力や殺害には反対ですが、同時に欧米諸国による正規軍の武力行使にも絶対反対です。武力や殺戮によって自らの主張や目的を実現するという意味で、いわゆるイスラム武装集団の行動も欧米諸国の行動も区別する必然性はないのです。

 この欧米諸国とイスラム武装勢力の抗争を本当に収束させるには、日本国憲法の言うように、紛争の解決手段として、武力行使を否定する以外にこの泥沼状態を抜け出す道はないと考えます。欧米諸国が武力による鎮圧を続ける限り、イスラム武装勢力の大義は論理的に否定出来ないのです。中東地域の抗争の原因は、近世以降の欧米列強による手前勝手な軍事介入と虐殺の歴史に直接的な原因があり、むしろイスラムの反撃は欧米に対する抵抗運動の延長線上にあるのです。

No.292 (2007/09/25) シリーズ・テロ特措法批判@
No.293 (2007/09/27) シリーズ・テロ特措法批判A
No.294 (2007/09/29) シリーズ・テロ特措法批判B
No.295 (2007/10/01) シリーズ・テロ特措法批判C
No.296 (2007/10/03) シリーズ・テロ特措法批判D
No.297 (2007/10/12) シリーズ・テロ特措法批判E

 日本の安倍保守政権は、彼らの言う国際社会という欧米戦勝国同盟に牛耳られている国連の中で発言力を大きくし、安全保障理事会の常任理事国にモグリ込むことを“一等国のステータス”と考える無意味な自己満足のためには、欧米列強とつるんで軍事行動をしなければならないと考えているのです。その犠牲として、日本国民はこれまで関わりのなかったイスラム武装集団の標的となったのです。冗談ではありません。

 本当に日本の国民の生命・財産の安寧を守ることを最優先するならば、つまらぬ見栄など捨てて、身代金を払って人質二人の解放を第一にすべきでしょう。

 国家政策における最良の策とは、ある目的を得るために支出される国家予算を最小化することです。その文脈において、日本国民の安寧を実現するためには、日本の国土から米軍基地を全て排除し、自衛隊を武装解除する事で非武装中立を貫徹し、平和憲法の趣旨を実行すること、あらゆる国家集団から独立した等方位外交を確立することこそ、最良の安全保障政策だと考えます。

 

No.972 (2015/01/19)トヨタ=政商となった亡国の自動車メーカー@New!

 このホームページでは、燃料電池車が自動車技術として一般化することなど、科学技術的にあり得ないという立場を一貫してとっています。なぜなら、あまりにも迂回度が高く非効率的であるために、その結果として高価格であるからです(たとえば、 2-4 燃料電池自動車駆動系の評価)。燃料電池車の大規模導入を技術的に評価するなど、まともなオトナ(笑)のすることではないという“照れ”すら感じる事柄です。

 ところがこの日本という、常識が全く通用しない“裸の王様”の国では、そうとばかり言っていられないようです。昨年末に、トヨタが燃料電池車の量産車としてミライを販売開始するという報道が大々的に行われました。まあ、科学技術的な判断能力の欠如した日本の報道に期待するのは“野暮”ですが、批判的な報道は皆無でした。曰く、「将来の中核となるエコカーの本命」などというスットボケた評価がほとんどでした(笑)。

 燃料電池車に対しては、おそらくトヨタの強烈な政界工作によって、1台あたり200万円を超える購入補助金が出るという、全く馬鹿げた国家補助が決まっています。

→No.950 (2014/08/26) 愚かな税金バラ撒き亡国の燃料電池車への補助金政策

 この極めて劣悪な迂回技術による燃料電池車という非効率的で高価な自動車販売が開始されて、わずか1ヶ月程度で、トヨタの予想を大きく上回って1月14日には1500台を受注したというのです。全くこの国の愚か者たちは手が付けられません。これによって、トヨタは労せずして国税から30億円を掠め取ったということです!新聞報道を紹介しておきます。



 新技術マニアの成金が趣味で買うことに対しては文句を言うつもりはありません(笑)。ただしそれならば国家補助を受けずに全額自腹で購入してもらいたいものです。しかし、官公庁が購入するなど、全く国費の無駄遣いです。
 官公庁や企業が燃料電池車を購入する意味は、勿論燃料電池車の利便性にアドバンテージが有るはずはないわけで、環境問題に対する意識が高いというポーズを取るための宣伝費として莫大な費用を支払っているということです。

 しかし本当は、官公庁や企業は、環境技術の意味を科学技術的に全く理解していない・評価する能力のない大馬鹿者であることを示しているのです。

 トヨタは「燃料電池車は究極のエコカーであり、将来の自動車技術の中核となる技術である」という、全く非科学的な悪質な虚言で、脳天気な安倍自民党政権という愚かな“裸の王様”を騙して、ありもしない燃料電池車の価値のために、法外な国家資金を掠め取っているのです。いや、騙されているのは日本という国の国民全体かもしれませんが…。

 この話題について、TBS系列のひるおび!という番組で取り上げていました。その中でNEDOの研究員と思しき人物がいい加減なことを吹聴していました。概要を紹介しておきます。


ミライ

1989年公開の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャーPart2」。タイムマシンに乗って過去・未来を旅するSF映画の名作だ。主人公が向かった未来は2015年。まさに今年なのだ。約25年前の映画が描いた2015年の未来に登場しているのはタイムマシン「デロリアン」。タイムマシンとまではいかないが、究極のエコカーと呼ばれる車が昨日総理官邸に納車された。その名も「ミライ」。夢の燃料電池車だ。

先月トヨタが世界で初めて一般発売を開始。一昨日までに1500台が受注されている。ミライの燃料は水素。水素と酸素を反応させるときに発生する電気を使って走るため、排気口からは水しか出ない。そのため、究極のエコカーと呼ばれている。かつては1億円とも言われていた燃料電池車だが、ミライの価格は約723万円。国からの補助金が202万円出るため、実質の購入額は520万円程度になる。燃料に使用される水素の充填にかかる時間は3分程度で、1回の充填で650キロ以上走行が可能になっている。しかし、課題は山積みだ。水素ステーションはまだ全国に4箇所と少なく、莫大な設置費用の影響で、普及が遅れている。大平氏は「今後燃料電池車が増えていけば、インフラ整備もされていくはず」とコメント。政府は2015年度中に全国100か所設置を目標にしている。

昨日総理官邸に公用車として導入されたミライ。バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2では2015年の未来に行った話しが描かれている。デロリアンのようなタイムマシンは開発されなかったが、究極のエコカーが登場した。走行中に水しか出さないという。

同じカテゴリの電気自動車と水素自動車の違いを紹介する。水素自動車は出たばかりということで、電気自動車の2倍の値段が付けられている。またエネルギーを満タンにするには電気自動車は約300円、水素自動車は約5000円程度と言われている。価格だけを見れば電気自動車が人気が集まりそうだが、充電する時間は電気自動車は普通充電で約8時間程度かかる。それに対し水素自動車は約3分で充電ができるという。また、二つの自動車は災害の際に電源として使うことができるようになる。


 この大平というNEDO(独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構)の職員が言っているように、トヨタは自社の燃料電池車を売るために、国税を使って2015年度中に全国に100箇所の水素ステーションを建設することまで取り付けているということです。正にトヨタは政商となったのです。トヨタが燃料電池関係の特許を公開したのも同じ文脈であり、あくまでも自社の儲けを大きくするためです。

 燃料電池というエネルギー供給システム(…と呼べるかどうか、甚だ疑問ですが)のようなエネルギー資源を浪費するシステムを、仮に社会的なシステムとして普及させることを国家政策として本気で推進すれば、日本という国は確実に国家として弱体化して破綻することになります。
 確かに、使い道のない有り余った金があるような場合には、同じ機能を得るためにできるだけ高価なシステムを使えば、それだけ経済規模が大きくなり金が回ることになります。しかしそんなことは長くは続きません。エネルギー技術のような産業国家の根幹をなす技術が非効率的であれば、全ての製品コストが跳ね上がり、同時に国家の財政基盤を蝕むことになります。自社の儲けばかりを考えて、国家の財政破綻もいとわないトヨタは、正に亡国の自動車メーカーだという他ありません。
 冷静に見てください。NEDOによってもてはやされた太陽光発電の政策的な導入は早くも科学技術的な合理性がないことが露呈し、政府は実質的にこれ以上増やすことをやめようとしています。風力発電にしても同じことになるのは明らかです。これ以上不安定な電力を導入することは国家を破綻させると判断したのです。これは既に西欧諸国が経験したことであり、当初からこうなることは分かりきったことでした。

 今、日本が導入しようとしている燃料電池は、太陽光発電や風力発電を導入して失敗した西欧諸国ですら非現実的でバカバカしいというほど、非効率的なエネルギー供給技術です(“ひるおび!”の中でも、米国の電気自動車メーカーのテスラの技術者は燃料電池の非効率性を指摘して非現実的だとコメントしていると紹介していました。)。
 しかも、NEDOや日本の燃料電池の将来構想では、化石燃料の改質による水素生産ではなく、太陽光発電や風力発電によって得られるクリーンな電気によって水の電気分解によって水素を生産するという夢物語を描いているのです。これは論理矛盾です。こんなことを本気で行えば、日本のエネルギ価格は天井知らずに上昇して破綻することは分かりきっています。

 このような批判をすると、直ぐ聞こえてくるのが、「今は高価で非効率的でも、将来的には必要な技術なので先行投資として意味がある」という、訳知り顔の無能評論家の主張です。そうではなく、本質的に燃料電池という技術が無意味であるため、将来的にも使いものにならないことを理解しなければなりません。先行投資どころか、不良資産として国家財政を破綻に追い込むだけなのです。

続く→

No.971 (2015/01/07)自然エネルギー利用の高いコスト〜三井海洋開発New!

 このホームページでは、再生可能エネルギー発電の利用は高コストであることを述べてきました。その理由は主に3点に集約されます。

@エネルギー密度が低い→発電量に対する施設規模が極めて大きい
Aエネルギーが不安定→ロスが大きく、安定化のために更に付帯設備が必要
B自然災害を受けやすい→破損時の修理費を含む維持費が大きい

 これは全ての自然エネルギーについて避ける事の出来ない必然的な短所です。今回はBの例として三井海洋開発の風力・潮力の複合発電の実証実験装置の事故について紹介しておきます。

 この実証試験は佐賀県によると『佐賀県では、海洋再生可能エネルギー産業クラスター形成を目指すため、大学の専門家、 玄海漁業協同組合、造船、電力会社と協議会を設置し、国から海洋再生可能エネルギー「実証フィールド」に指定され、海洋再生可能エネルギーの普及とあわせて、漁業振興、産業創出、地域振興を目指しています。』ということです。

 実証試験に使用されている発電装置の構造は次の図のとおりです。

 佐賀県の実証試験を伝える朝日の記事を紹介します。


(佐賀)唐津沖、海洋再生エネルギー実験場に(2014年7月17日03時00分)

祝迫勝之

 唐津市呼子町の加部島北西海域が、海の潮流などを発電に使う「海洋再生可能エネルギー」の実証実験場に選ばれた。国が15日に発表した4県6海域の中に含まれた。

 実証実験の対象は、潮流と浮体式洋上風力。三井海洋開発(東京)が、風力、潮流のどちらでも発電できる世界初のシステムの実証実験を秋から始める。海上に浮き出た部分につけられた風車で発電すると同時に、海中の水車を潮の流れで回して発電する「ハイブリッド発電システム」だ。

 同社の実証実験は2015年度末までの予定で、実用化するためのデータ収集をする。発電した電力は、海底のケーブルを使って、約1・2キロ離れた加部島に送る。実験中のある段階で、九州電力に売電する計画という。県は、海底ケーブルや機材置き場などの整備は、国の負担でやるように要望していくという。


 蛇足ですが、三井海洋開発のホームページによると、このシステムはskwid(Savonius Keel & Wind Turbine Darrieus)と名付けられていますが、グッドデザイン賞を受賞しているとのことです。しかし、この実証試験用のシステムは現実的にはバッドデザインだったようです(笑)。
 今回の水没事故についての報道を毎日の記事から紹介しておきます。


 毎日新聞社 2015年1月6日 23時41分 (2015年1月7日 01時00分 更新)

 三井海洋開発(東京)は、佐賀県唐津市呼子町の加部(かべ)島沖で実証実験中の浮体式潮流・風力発電機(全長約70メートル・最大幅約30メートル)が水没したことを明らかにした。潤滑油の海洋流出など、周辺海域への汚染は確認されていない。

 同社によると、発電機は昨年12月18日未明に水没し、海底に横倒しになっている。今夏までに回収する見通しで、回収後に水没原因を調べ、今後の実験方針を決める。

 この実験をめぐっては、2013年10月にも、海上輸送中の潮流発電機が船から脱落するトラブルに見舞われた。その後、新造した発電機の取り付け作業を経て、15年中の発電開始を目指していた。【寺田剛】


 今回の事故について、技術屋として率直に感想を述べれば、実に情けない、みっともない事故だということです。今回の事故は、洋上の浮体構造物の耐風・対波浪安定性という構造的に満足すべき最も基本的な要件に対しての設計が失敗していることを示しています。極めて初歩的な設計の失敗であり、設計能力の低さを示していると考えます。

 三井海洋開発のシステムを特に批判するつもりはないのですが、一般論として、地上よりもはるかに過酷な自然環境である海洋における自然エネルギーの利用については、同一の発電量を得るための発電システムは、陸上以上に大きくなり、建設コストが大きくなります。
 更に常時海水あるいは潮風に曝されているために機械的な劣化が激しく、システム維持費が大きくなります。そして最悪の場合には今回のように“予測できない自然災害(笑)”で破損してしまうリスクも小さくないのです。

 陸上においてすら既存の火力発電システムよりもはるかに低効率(=鉱物資源・エネルギー資源の利用効率が低い)な自然エネルギー発電システムを、更に過酷な自然環境の海上で実施することには、科学・技術的な合理性は存在しないことを理解すべきです。

No.970 (2015/01/06)寒中見舞いNew!

 今日は小寒です。私は長らく年賀状というものを出していません。それでも年頭に年賀状をいただく事がありますので、これには寒中見舞いという形でお返事することにしています。

 今年受け取った年賀状の中に、大学時代の友人からのものが数通あり、「たまには同窓会に顔を出せ」と書き添えられていました。しかしながら、私の学生時代の級友の大部分は土木業界ないし公務員となっています。しかも、同窓会に出席する者の多くはその分野で比較的成功者の部類に近いでしょう。
 そのような場に参加して、昔話や自慢話、まして愚痴を聞くのは苦痛以外の何物でもありません。意見を求められれば彼らの行為を糾弾することになるのは火を見るよりも明らかです。実際には、お互いイイ年の大人(笑)ですから、喧嘩になるのを避けるべく行動することになるでしょう。しかし、互いに気を使って酒を飲むなどまっぴらです。
 そのようなわけで、現在の私の考えをのまとめた寒中見舞いの文面に、同窓会へのお誘いを断る理由を添えてはがきを出しました。

 まず、寒中見舞いの文面を紹介しておきます。

 寒中見舞いの文面でも書いた通り、国民主権の民主主義国家において、従順で何も考えない国民の在り方は、極論すれば、それ自体が犯罪だと考えます。
 私は環境問題、特にここ数年間は人為的CO2地球温暖化、再生可能エネルギーについて批判的に取り上げています。しかし、私の考えに賛同してくださる市民運動の中においてさえ、理論的な話は難しすぎて運動が広がらないという趣旨のお話を聞くことが多いのですが、それは本末転倒しています。訳も分からず、運動に参加するのでは、侵略戦争に加担した私の親たち、再生可能エネルギー導入促進の市民運動、原発再稼働賛成の原発立地自治体住民と同じ穴の狢にすぎないことを自覚してほしいと思います。

 

No.969 (2015/01/01)日本人の変わらぬ愚かな国民性New!

 日本人の従順な行動様式がしばしば美徳として取り上げられることがありますが、私は疑問を持っています。例えば災害が起こったときの避難所での整然とした行動などです。
 同じように、国家権力が戦争に突入しようとすれば、これまた従順に従い、一億玉砕さえ厭わない…。敗戦後はアメリカの文化や制度、正義をこれまた疑うことなく従順に受け入れる…。

 これは単に自ら考えることを放棄して、周囲を見ながら刹那的に楽な道を選んでいるだけにすぎないと私は考えています。勿論前大戦で戦争によって領土拡大の野望を持った軍国主義ニッポンの支配層や財閥は、大きな戦争責任をもっています。しかし、それを容認し、あるいは騙され(た振りをし)て戦争を遂行した一般国民には戦争責任はないのか?私は一般国民にも共同正犯としての重大な戦争責任が存在すると考えます。

 戦後、とりあえず制度としての国民主権の民主主義国家日本が誕生しました。この国において、再び戦争を遂行する国家体制が構築されるなど、愚かな国家政策が実施された場合、一般国民の責任は前大戦の場合以上に重大な責任を負うことになります。民主主義国家において、なにか誤った国家政策が採られた場合、国がやったことであり、我々一般国民は騙されただけの被害者であるなどという戯言は全く説得力がないのです。

 このホームページでは、人為的二酸化炭素地球温暖化仮説の問題について、論理的にその誤りを示してきました。またこのホームページ以外にも多くの客観的な資料が入手可能です。
 それにもかかわらず、騙されてしまった、国や科学者が正しいといったのだから仕方ないなどという言い訳は全く戯言です。国民主権というとき、国民には全ての政策に対して自分が責任をもって判断を下す権利・義務があるのです。重大な問題の判断をあなた任せにして誤った判断をしたのならば、それは完全な自己責任です。
 最近、太陽光発電の固定価格の無条件の買い取りをやめることになりましたが、こうなることは、多少でも西欧諸国の先例を調べ、自らの頭で考えていれば誰にでも最初から分かりきっていたことでした。これに対して今頃になって話が違うなどというすっとぼけた事を言う業者や個人は、己の責任を痛感すべきです。
 昨年このHPで紹介してきた娘の通う大分県の県立高校の教師たちの教科書の人為的二酸化炭素地球温暖化仮説の記述に対しての「わからない」などという無責任な発言は、若者を導く立場に在るだけにとてつもなく重大な責任があると認識すべきであり、万死に値する重罪だと考えます。

 この無責任な日本人の国民性は終戦直後も今も全く変わっていないようです。私は、重大な政治課題に対する国民の無知はそれ自身が犯罪ではないかと考えています。(例えば、No.723 (2012/02/17) 常識の欠如したお人好しの国民 年金・エネルギー問題/無知は犯罪

 今日、NHKスペシャル「不死鳥都市の100年」という番組が放送されていました。正月ということで、だらだらとテレビをつけて横目で見ていたのですが、その中で映画監督の伊丹万作の著作の一部が引用されていました。民主主義国家における国民の社会的な責任論において、共感できる内容でした。私は映画には疎く、万作の著作も読んだことがなかったのですが、ネット上で原本を見つけましたので全文を引用しておきます。


戦争責任者の問題

伊丹万作

 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじっているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになった。

 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとって、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。

 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」と。たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったといいきれる親がはたしているだろうか。

 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもったらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによってだまされたものの責任が解消するであろうか。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であって、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。

 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといってしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もっとさし迫った、いやおうなしの政治問題にちがいない。

 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。

 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであって、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によって判断する方法である。 現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によって決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。

 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱ったらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはっきりしているのである。

 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。

 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いったいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。

 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかったり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。

 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まってからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかった。そのためには何事でもしたいと思った。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。

 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。

 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行ってやるより仕方があるまいということだけである。

 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。

 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。

 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取った。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかった。

 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。

「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」

 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがったことをやっていないのである。もしも、どちらかに落度があったとすれば、それは私のほうにあったというほかはあるまい。

 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。

 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。

 しかし、これも今となっては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。

 要するに、このことは私にとって一つの有益な教訓であった。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。

 それが自分の意志の弱さから、つい、うっかり禁制を破ってはいつも後悔する羽目に陥っている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やっと持つことができたのである。

 最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。

「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであって、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかっていたら、また別答のしかたがあったと思います。

 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。

 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがって、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になったことを大変遺憾に存ずるのであります。

 しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましょうし、その都度、いちいち正確に連絡をとって意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。

 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこっけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。

 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)

(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)


底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
   1961(昭和36)年710日初版発行
   1982(昭和57)年5253版発行
初出:「映画春秋 創刊号」
   1946(昭和21)年8


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