集団的自衛権に関する憲法解釈の変更について

いよいよ安倍は日本を名実ともに米国との軍事同盟国にする道へ踏みだそうとしています。これまでの自民党政権では、日本の国土を独自に守る日本単独の自衛権はあるという認識でした。

しかし、集団的自衛権の行使を合憲とすれば、世界で最も多くの紛争地域に軍事介入している米国の軍事同盟国として、世界中のあらゆる紛争地帯に軍隊としての自衛隊を派遣することが容認されることになり、全く次元の違う段階に踏み込むことになります。これは、日本国憲法で禁じている紛争の解決手段として武力を用いることであり、到底憲法解釈によって変更できるものではありません。これだけ無謀な安倍政権の暴挙に対して、この国の国民はなんと静かなのでしょうか?!

安倍は、集団的自衛権がないことによるデメリットという抽象的な表現でごまかしていますが、一体どんな不利益が生じているというのでしょうか?むしろ集団的自衛権を認めれば、米国の軍事同盟国として、あるいは国連の平和維持軍として武力行使を伴う出兵を拒むことができなくなり、軍事予算は爆発的に大きくなり、日本の財政的な破綻が現実の問題となることは必定です。

軍事国家が経済的に利益を生むのは、巨大な武器輸出国=死の商人となって武器を売りまくるか、軍事侵攻によって米国流に傀儡政権を樹立して、そこから利益を搾り取る以外にないのです。単に米軍の肩代わりや国連平和維持軍に手弁当で自衛隊を派遣すれば、見返りのない財政支出が膨れ上がるだけだということが、平和ぼけしてしまった日本の愚かな国民には理解出来ないようです。

カテゴリー: 政治・経済・軍事 | 2件のコメント

NHKの偏向放送が止まらない?!

御存知の通り、NHK日本放送協会は、ほとんど保守党ないし国の広報機関であり、たとえば原発推進、人為的CO2地球温暖化仮説盲信の番組を大量に垂れ流し続けています註)

註)例えば、東北大学の有働恵子准教授を使ってIPCC盲信の報道を続けています。一方で、最近は人為的CO2地球温暖化仮説について、その信憑性が揺らぎ始め、世界の気温動向も思うように上昇してないため、そろそろ逃げの準備に入ったのか、JAMSTECの中村元隆(地球環境変動領域主任研究員)を登場させて、こっそり寒冷化の可能性にも触れています。大したバランス感覚です。

報道においては、報道しないという選択にも思想性があります。NHKは本質的に体制擁護の大量宣伝を行い、それに対峙するような内容の報道を(エクスキューズ程度以外には)行いません。その立場は明確です。少なくともNHKは民衆の側ではなく、保守・体制側の利益代表だということです。

さて、現在東京都知事選の最中です。選挙というのは対立政策を提示して、有権者がその内容を吟味して選択するものです。不偏不党のNHKならば(笑)、あらゆる候補の政策を平等に報道し、関連する情報を提供することが必要です。どう見てもそうはなっていないのが現実です。

2014年1月30日の夕刊に次のような記事がのりました。

ogs20140130

NHKは筋金入りの原発推進派です。かつて、ホームページの「HP管理者から」のコーナーでも、NHKの報道局の人間が原子力文化振興財団の理事に名を連ねていたことを取り上げたことがあり、これについてNHKの不偏不党性の信条とどのような整合性があるのか回答を求めているのに、未だに何の回答もしてくれません。その結果、私はNHKと受信契約が結べないでいます(笑)。

今回の東京都知事選では、東京電力の福島第一原発事故を受けて、東京電力の株主でもある東京都の原発との向き合い方が最大の争点の一つであることは間違いありません。本来ならばNHKは推進・反対双方の立場からのできるだけ多くの判断材料を提供すべきです。やはりNHKはNKHに名称変更すべきだと考えます。

 

カテゴリー: マスコミ・報道, 地球温暖化, 政治・経済・軍事 | コメントする

ブログ名称変更のお知らせ

これまで、『日々の雑感』という名称にしていたのですが、ふと、こういう名称のブログは多いのではないかと思い、検索をしてみたところ、あるわ、あるわ・・・(笑)。まあ、安直なネーミングだと反省しました。

というわけで、急遽、ブログの名称を『管理者の雑記帳』に変更することにしました。ご迷惑をお掛けしますが、今後ともよろしくお付き合いください。

カテゴリー: HPの運営について | コメントする

試論、NHK(日本放送協会)改め、NKH(日本国営放送)へ改組

NHKの新会長籾井勝人の就任記者会見以降、各新聞、民放のニュース番組では連日籾井の歴史認識、政治姿勢について批判報道が流されています。当然ですが、NHKには反省の意図・自浄能力など無いですから(笑)、抜き差しならないことになるまではこの問題には触れないでしょう。近隣アジア諸国、特に中国・韓国は籾井の体質について強い警戒感を示しています。

NHKの政府べったり、体制迎合の報道姿勢は今に始まったことではありません。放送法や予算・人事で縛られていることから、冷静な判断能力があればわかりきっていたことです。環境問題や温暖化問題でも、国や権威組織の非科学的な主張を平気で垂れ流してきたことは、ホームページで繰り返し指摘してきた通りです。

むしろ問題は、特に脳天気な多くの中高年層は、NHKこそ日本で最も公正な放送だと勘違いしている人が多いことです。大衆から金をむしり取って、その金で大衆を管理し、国家・体制の擁護を行うNHKをのさばらせるのは何とも気分の悪い話ではないですか?尤も、私は既に放送料金など払ってはいませんが(笑)。

NHKの実態は中国や北朝鮮の国営放送と同じで、政府のプロバガンダを行う組織だということです。籾井氏は、歴代のNHK会長と比較するとつい本音を喋ってしまった軽率な人物であったということです。安倍ファッショ政権が高い支持率を得ていることから、少しはしゃいでつい本音が出てしまったというところでしょうか。これはNHKに対するこれまでの誤解をとくためには、大変有意義であったと考えます。

そこで提案です。NHKが公共放送などという中途半端な看板をかけるから誤解が生まれるのです。この際、放送料金は廃止して、名称をNKH=日本国営放送にすべきだと考えます。税金で運営されるのも腹立たしいですが、せめてこれが国の広告塔だということが明確になるだけでも、精神的にはかなりストレスが解消されます(笑)。

カテゴリー: マスコミ・報道 | コメントする

NHK、安倍ファッショ政権の広報部!

NHKの会長が交代しました。このNHK会長というやつが一体どのように決められるのか…。

今度の会長、籾井勝人という人物は、三井物産副社長から日本ユニシスに移り、社長、相談役などを務めた人物であるそうです。それはさておき、彼の歴史観・価値観は、正に安倍ファッショ政権の広報担当として、あまりにもハマり過ぎのような気がする。新聞記事を紹介しておく。

img043

報道機関は、権力とは独立の立場で、民衆の側に立ってその利益を侵害するような権力機構の行動を監視し、大衆に情報を伝達することを任務としています。しかも、NHKは民衆から受信料金を徴収して運営されているのですから、尚更その責任は大きいはずです。

ところが籾井氏は初めから権力批判は行わず、政府の主張に沿った報道をすることを宣言しているのです。これでは政府の広報機関、あるいは前大戦で日本軍の提灯記事を書いて民衆を戦争に駆り立てた従軍記者と同じです。実にふざけた話です。

カテゴリー: マスコミ・報道 | コメントする

沖縄への政府自民党からの実弾攻撃が始まる・・・

昨日の沖縄県名護市市長選挙で、辺野古への基地移設に反対する現職の稲嶺さんが大差で当選しました。恥知らずの日本人が多い中、名護市民はかろうじて平和国家の良心を示しました。

しかし、早くも政府自民党は、市長の権限は限定的で特に問題にならないとして、地元住民の民意を無視する態度を明らかにしました。同時に、沖縄への国税の傾斜投入によって、民意を札束(実弾)で買い取ることを明らかにしました。

政府自民党の対応は、誠に卑劣なものですが、名護市民の意見を国民の意見としなければ、名護市民は孤立し、やがて政府自民党の実弾攻撃に耐えられなくなることは必定です。今こそ反自民党、反安倍政権の声を大きくしなければ…。

カテゴリー: 政治・経済・軍事 | コメントする

原子力発電は石油文明の出来の悪いサブシステム

前回までで、エネルギー技術を評価する上での基本的な視点や評価の基準がある程度ご理解いただけたと思います。今回からは具体的な事例について考えることにします。

1. 原子力文明は幻 ~原子力は基本エネルギーになり得ない

現在は工業文明、中でも石油文明の時代です。石油文明とは石油を基本エネルギーとして利用する文明です。石油は有限の資源なので、工業文明を維持するためには石油に変わる基本エネルギー資源ないしエネルギー供給技術を開発しなければならないという主張があります。この主張そのものにも大きな欠陥がありますが、とりあえずそれは棚上げしておくことにします。

石油代替エネルギーとして、原子力(発電)を挙げるグループがあります。その妥当性を検証することにします。まず、基本エネルギー供給システムの必要十分条件を再掲します。

  1. エネルギー産出比>1.0
  2. ある程度の広がりを持つ地域に対して、文明が成熟するのに十分な期間、継続して供給出来るほど十分な量がある。
  3. 扱いやすく、リスクが小さい。

原子力の本質は、核分裂性物質の核分裂反応を制御して熱エネルギーを利用する技術です。要するに熱源です。熱エネルギーという意味では石炭や石油と同じです。ところが、石炭や石油は極めて単純な器具を用いて燃やすことが出来ますが、原子力はそういうわけには行きません。

核分裂反応を制御して利用するためには大規模で複雑・繊細な制御システムが必要です。しかも、核分裂反応は生体にとって極めて危険な放射線を放出し、同時に放射能を持つ核分裂生成物を生成します。そのため、核分裂反応による放射線や、核分裂生成物を環境から遮蔽・隔離するために強靭なバリアー=圧力容器や格納容器などを作ることが必要になります。また核分裂反応の熱交換に用いる媒体や遮蔽構造物自体も放射化します。

従って、原子力を生活の身近な場所で直接熱源に用いたり、原子力エンジンで小型の運搬手段を動かすことは不可能です。動力として直接原子力を用いているのは、経済性・安全性よりも戦略的な意味を重視する潜水艦や航空母艦などの極一部の特殊な条件下で原子力外燃機関を利用しているだけです。かつて日本では原子力商船を開発しようとしていましたが、初めから成り立たないことは明らかでした。結局、原子力の商用あるいは民生用の利用とは原子力発電以外に存在しないのです。

軽水炉原子力発電については前回検討したように、熱効率は0.3程度に過ぎません。しかも、前述のとおり、原子力発電では核分裂反応という制御が難しいばかりでなく生体にとって危険な反応を熱源とするために、同じ熱出力の火力発電所に比較して、はるかに大規模な発電所設備が必要になります。おそらく軽水炉原子力発電はエネルギー産出比<0.1程度の極めて効率の低いエネルギー供給システムなのです。

原子力発電によるエネルギー供給システムが工業文明を支える基本エネルギー供給システムとなるための必要条件は、総合的なエネルギー産出比>1.0となることです。そのためには、原子力発電で得た電力1単位をウラン燃料の生産工程(ウラン鉱の採掘、精錬、濃縮、転換、燃料加工などの各工場の建設・運用)に投入することで、熱出力10単位分の軽水炉核燃料を生産することが出来るかどうかということになります。

ウラン燃料の製造では、天然ウラン含有率0.2%程度のウラン鉱石を採掘します。天然ウランの内、99.3%は非核分裂性の238Uであり、核分裂性の235Uはわずか0.72%しか含まれていません。軽水炉核燃料では核分裂性の235Uを4%程度にまで濃縮しなくてはなりません。単純計算ではウラン鉱石に含まれる235Uを2778倍程度に濃縮しなければならないのです。

原油から石油燃料を生産する過程のエネルギー産出比は10程度です。軽水炉核燃料の製造コストについては、核濃縮技術が軍事技術であることから、十分な情報が開示されていません。しかし常識的に考えれば、軽水炉核燃料の複雑で長大な製造過程のエネルギー産出比は、単純な分留操作によって製造できる石油燃料生産のエネルギー産出比よりも遥かに小さいと考えられます。つまり、ウラン鉱石採掘~原子力発電によるエネルギー供給システムの総合的なエネルギー産出比は1.0を超えることはなく、工業文明を支える基本エネルギー供給システムとしての必要条件を満足することは出来ないのです。原子力文明は幻なのです。

註)エネルギー産出比<1.0とは、言い換えれば自ら生み出すエネルギーだけを使って自らを単純再生産出来ないということです。石油文明下の原子力発電では石油の優れた能力によって原子力発電システムが運用されているために、この基本的な問題が見えにくくなっているのです。

2. 石油文明下の有効なサブシステムの必要条件

前回、石油文明下でなぜ石炭や炭化水素ガスを利用するのかを検討しました。ここではこれを一般化して、石油文明下で利用するエネルギー供給サブシステム導入の合理性の判断基準をまとめておきます。

  1. 石油にはない資源特有の優れた能力がある。
  2. 石油をそのまま使用する場合と、石油を使ってサブシステムを運用した場合を比較した時、総合的な効果(供給エネルギー量や経済コスト)として後者のほうが優れている(=石油を節約できる)。

3. 原子力発電のサブシステムとしての導入に合理性はない

既に検討した通り、軽水炉原子力発電には工業文明を支える基本エネルギー供給システムを担う能力がないことは明らかです。それでも、石油文明下の電力供給サブシステムとして利用することには意味があるかもしれません。

軽水炉原子力発電を電力供給サブシステムとして導入することに合理性があるのは、同量の石油を、石油火力発電システムと軽水炉原子力発電システムに投入した場合、軽水炉原子力発電システムの方がより多くの電力を供給する能力がある場合です。ここでは、投入エネルギーの経済コストを比較することによって推定することにします。

一般に、工業製品の原価には、その生産過程に投入されたエネルギーの費用が含まれています。工業製品原価に含まれる投入エネルギーの費用の割合を20%と仮定しておきます。

石油火力発電の場合、電力の発電原価は10円/kWh程度です。その内、燃料石油費用は電力原価の60%、6円/kWh程度です。残りの4円/kWhは製造設備(=火力発電所)の建設・運用・補修費用と考えることが出来ます。製造設備も工業製品ですから、4円/kWhの20%は投入エネルギー費用だと考えられます。結局、6円/kWh+4円/kWh×20%=6.8円/kWhが発電過程で投入された総エネルギーに対する費用だと考えられます。

これに対して、福島第一原発事故以前の軽水炉原子力発電の発電原価は、東京電力の申請値で20円/kWh程度でした。しかし、日本の原子力発電システムに対しては電力会社の発電原価に含まれていない莫大な国費が投入されています。また軽水炉原子力発電のバックエンドの費用も含まれていません。これらを算入した本当の意味での発電原価ははるかに高額になります。ここでは控え目に見て、40円/kWhだとします。原子力発電では、軽水炉核燃料も工業製品ですから、40円/kWh全てが工業製品価格と見なすことが出来ます。軽水炉原子力発電システムの発電過程で投入された総エネルギーに対する費用は40円/kWh×20%=8円/kWhになります。

以上から、石油火力発電電力は電力量1kWh当たり6.8円分のエネルギー(≒石油燃料)が投入されているのに対して、軽水炉原子力発電電力では電力量1kWh当たり8円分のエネルギー(≒石油燃料)が投入されているのです。つまり、同量の石油燃料があった場合、石油火力発電の方が軽水炉原子力発電よりも多くの電力を供給できるのです。軽水炉原子力発電システムに石油を投入することは石油の浪費であり、軽水炉原子力発電は石油文明のサブシステムとしても導入することに科学的な合理性は存在しないのです。

4. なぜ原子力発電が存在するのか?

これまでは、純粋にエネルギー供給システムとしての原子力について考えてきました。しかしその範囲では軽水炉原子力発電の合理的な存在理由はありませんでした。

原子力の初めの実用的な利用は、第二次世界大戦末期のマンハッタン計画によって実現した原子爆弾です。中でも安上がりなプルトニウム爆弾を製造するためには原子炉を運転することが必要です。平時に原子炉技術=プルトニウム爆弾製造能力を安上がりに維持するために、原子炉の廃熱を使った蒸気タービンによる発電が考えられたのです。歴史的に見て、プルトニウム爆弾製造が主要な目的であり、廃熱利用による発電はそれに付随した技術なのです。

日本でもそれは同じです。日本において原子力発電の導入に先鞭をつけたのは核武装論者の保守党議員でした。戦後保守政権は一貫して核武装を目指してきました。保守系の国会議員の多くが核武装容認しているのはご存知の通りです。極右安倍政権の再登場によって、日本の脱原発の可能性は遠のいたと考えています。日本の原子力発電の存在意義は核兵器製造技術を獲得すること以外に合理的な理由はないのです。

註)東電福島第一原発事故後に於いて、原子力の監視体制の見直しの一環という名目で『原子力規制員会設置法』が制定されましたが、その第一条(目的)において「我が国の安全保障に資することを目的とする」という文章が書き込まれました。要するに原子力の安全保障=核兵器への利用を公認したのです。その後も自民党の石破は安全保障のために核燃料サイクルは維持する意向を明言しました。

 

カテゴリー: エネルギー・核技術 | コメントする

基本エネルギーとサブシステム

1. 基本エネルギーの必要十分条件

前回、工業文明を支えることの出来る基本エネルギーの必要条件を示しました。エネルギー産出比>1.0は必要条件であって、十分条件ではありません。工業文明を支える基本エネルギー(資源)の必要十分条件を以下にまとめておきます。

  1. エネルギー産出比>1.0
  2. ある程度の広がりを持つ地域に対して、文明が成熟するのに十分な期間、継続して供給出来るほど十分な量がある。
  3. 扱いやすく、リスクが小さい。

この3条件を満たすエネルギー(資源)として、現在の社会は石油を基本エネルギーとして工業文明のあらゆる局面で利用しています。条件1、2を満足するエネルギー(資源)は石油以外にも、固体の石炭や気体の炭化水素系のガスがありますが、扱いやすさにおいて液体である石油が最も優れているから石油が基本エネルギー資源として利用されているのです。石炭を採掘するためにも、天然ガスを採掘するためにも石油燃料が使われています。その意味で、石炭や天然ガスは石油の二次製品とも言えます。

それならば、石炭や天然ガスの利用など不要ではないか、という意見もあるでしょう。なぜ石油文明の下で石炭や天然ガスが利用されるのでしょうか?その理由は以下の通りです。

  1. 製鉄業における還元剤としての石炭乾留コークスの様に、代替の難しい資源特有の優れた能力がある。
  2. 石油は有限の資源である。
  3. 石油をそのまま使用する場合と、石油を使って石炭や天然ガスを生産して利用した場合を比較した時、総合的な効果(供給エネルギー量や経済コスト)として後者のほうが優れている場合。

石油文明を延命するためには、最も使用価値の高い石油はできるだけ節約して温存することが望ましいので、同じ効果が得られ、しかも石油を節約できるならば石油以外のエネルギー資源に代替することが望ましいのです。例えば、石炭は移動用動力としては適用の限界がありますが、定置式の熱源として用いるならば、石油と遜色はありません。そこで少量の石油燃料を石炭採掘に投入して大量の石炭を掘り出し、これを火力発電所の熱源として用いれば、石油を直接火力発電所の熱源として用いるよりもはるかに大量の電力が供給できます。ここで重要なのは、カロリベースで見た石炭の確認埋蔵量が石油よりもはるかに多いことです。

現状では石炭や炭化水素系のガスによるエネルギー供給システムは石油によるメインシステムに対して、これを補完するサブシステムです。しかし、石炭や炭化水素系のガスは、石油には劣っているといっても基本エネルギーとしての必要十分条件を満足していますから、石油が枯渇すれば第二次石炭文明、あるいは炭化水素ガス文明という工業文明が可能でしょう。最も可能性が高いのは第二次石炭文明であろうと考えられます。

2. 石油文明下のエネルギー供給サブシステム、特に発電

基本エネルギーとして石油を利用している今日の石油文明下では様々なエネルギー供給のサブシステムが存在しています。現在の高度な石油文明を特徴付けているのが、最終エネルギー消費における電力量の割合の上昇です。これは、現在の高度な石油文明では、情報通信網を構成する電子機器の普及と、微細で清浄な使用環境を必要とする機器の普及によって、その駆動のため電気エネルギーへの需要が大きくなっているからです。

ここで少し言葉の整理をしておきます。電気≒電荷と考えてよいでしょう。マイナスの電荷を持つ電子の流れが電流(単位:A、アンペア)です。電流が単位時間にする仕事=仕事率が電力(単位:W=J/秒、ワット)であり、ある時間内の電力による仕事の合計が電力量(単位:Wh=3600J、ワットアワー)です。

電力の製造過程が発電です。発電とは、何らかの形で得た運動エネルギーによって発電機を回すことで、運動エネルギーを電気的なエネルギーに変換することです。運動エネルギーを得る手段によって様々な発電方式があります。水の位置エネルギーあるいは運動エネルギーを利用する水力発電、何らかの高温熱源を利用して蒸気タービンで回転運動を作り出す汽力発電等があります。汽力発電は、熱源の種類によって石炭火力発電、石油火力発電、LNG火力発電、そして原子力発電も汽力発電の類型に含まれます。

水力発電と汽力発電は大きな質的な違いがあります。水力発電では、水の位置エネルギーあるいは運動エネルギーの内、発電機の摩擦によって失われる以外の大部分が電気エネルギーに変換できます。

これに対して、汽力発電では熱源から得た熱が動作物質である水(水蒸気)に引き渡され、水蒸気の熱運動を蒸気タービンを回すエネルギーとして使います。気体の持つ熱エネルギーから運動エネルギーへの変換では、大量の熱エネルギーが環境中に散逸します。蒸気タービンのような熱機関における投入熱エネルギーの内、有効に運動エネルギーに変換できる割合を表す指標が熱効率ηです。理想的な熱機関(カルノー・サイクル)の熱効率は次の式で表すことが出来ます。

η=(Th-Tl)/Th ここに、Th:高温熱源の温度(K),Tl:低温熱源の温度(K)

低温熱源の温度は環境の温度で定まるため、高温熱源の温度が高いほど熱機関の効率は高くなります。

現在の火力発電では高温熱源の温度は600℃(873K)程度、原子力発電では300℃(573K)程度です。低温熱源の温度を100℃(373K)と仮定すると、火力発電の理想的な熱効率は0.57、原子力発電では0.35程度になります。実際の火力発電の効率は0.4程度、原子力発電は0.3程度だと言われています。つまり、汽力発電では、投入した熱エネルギーの内、発電過程でその60~70%が廃熱となって環境に拡散していくのです。

汽力発電という工業生産プロセスを単体で見れば、運動エネルギー→電気エネルギーの変換効率を1.0だとしても、必ず

エネルギー産出比=(発電電力量)/(投入エネルギー量)<1.0

です。火力発電ではエネルギー産出比<0.4、原子力発電ではエネルギー産出比<0.3です。例として石油火力発電の電力生産図を示します。

石油火力発電

図の場合、石油火力発電に投入される石油の量は、高温熱源を作り出すためのボイラー燃料として0.88、発電所の建設・運転・補修に投入される石油燃料の償却分が0.12、合計で1.0です。この発電過程によって生産される電力量が0.35です。この時、発電の熱効率は0.35/0.88≒0.4、エネルギー産出比=0.35/(0.88+0.12)=0.35です。

 

電気エネルギーは、送電線によってどこにでも運ぶことが出来、送電線の末端に接続する器具によって熱、光、動力など様々な用途に利用することが出来ます。特に電子機器の駆動には不可欠なエネルギーです。

しかし、発電過程で見てきたように、発電過程で投入したエネルギー量の半分以上が環境中に散逸してしまうことになります。つまり、発電という工業生産過程は、有効に利用できるエネルギー量を犠牲にして、電気エネルギーという利便性の高い二次的なエネルギーに変換する過程なのです。電気が便利だからといって、電気以外のエネルギー(資源)で実現可能な機能を得るために徒に電気器具で代替することは、人間社会全体のエネルギー資源の利用効率を悪化させる愚かな行為だということを理解しなくてはなりません。

現在の石油文明では、石油燃料というエネルギー産出比=10程度という極めて優秀な基本エネルギー資源があるために、一部をエネルギー損失の大きな発電過程に投入しても、石油エネルギーによるエネルギー供給システム全体としてエネルギー産出比>1.0であり、工業文明を維持することが出来るのです。

現在、日本の電力化率(一次エネルギーの内で発電に投入される割合)は40%程度です。発電過程のエネルギー産出比の平均を0.35だと仮定します。日本における石油燃料などの一次エネルギーのエネルギー産出比=10.0とした場合、消費端におけるエネルギー産出比=10.0×(1.0-0.4)+10.0×0.4×0.35=7.4に減少します。一次エネルギーの40%を発電に投入することによって、有効に利用できる一次エネルギーの内26%が廃熱となって無為に環境中に拡散しているのです。

一次エネルギーをそのまま熱源のエネルギーとして使用すれば、90%以上の効率で利用できます。電気温水器などの低温熱源として電力を使うことは正に資源の浪費としか言えない愚行です。オール電化マンション、スマートシティーなど、実に近視眼的で愚かなエネルギー政策です。

カテゴリー: エネルギー・核技術 | 2件のコメント

工業文明を支えるエネルギー供給システムの必要条件

1. 工業文明とはなにか

はじめに、工業あるいは工業文明とは何かを定義しておくことにします。一般的に工業とは、原材料資源に何らかの加工を行って製品を作ることを指します。

人力文明や畜力文明においても日常的に使う道具を作っていました。道具を作ることに特化した職人や職能集団によって加工を行うことを手工業と呼ぶことにします。

やがて富の集積によって、職能集団が工場において大規模・組織的に製品を作り始めました。そこに、動力装置として蒸気機関が導入され、機械加工によって製品を作り出すようになりました。この機械加工による工業のことを狭義の工業という言葉で表すことにします。

工業製品が生活のあらゆる局面で利用されている人間の社会システム(ハードウェア)を工業化社会と呼ぶことにします。工業化社会における文化・経済システム・政治システムなどの上部構造を含む総体を工業文明と定義します。

2. 持続可能な文明と有限の文明

人力文明・畜力文明と石炭文明・石油文明は全く質的に異なる文明です。

人力や畜力は動物の運動能力です。人間や動物は地球生態系の中で世代交代を繰り返し、絶えず更新されてゆきます。生態系あるいは人類が絶滅しない限り人力文明や畜力文明は存続し続けることが出来ます。ただし、人力や畜力によって維持できる文明の規模はそれほど大きくはありません。

これに対して石炭や石油は鉱物資源=有限の資源です。有限の資源を使用すれば、有限の時間で枯渇することは自明です。つまり、石炭文明や石油文明は有限の期間で終焉を迎えることが初めから決まっているのです。また、有限の資源は沢山使うほど早く枯渇します。そのかわり、短期的には人力や畜力とは比べ物にならないほどの大きな力を発揮することが出来ます。石炭文明以降の文明を工業文明と呼ぶことが出来ます。

近年、国や行政のスローガンとして、“持続可能な発展”に類する言葉をよく聞きます。しかし、工業文明を前提とする限り持続可能な発展はあり得ず、必ず終焉が来るというのが自然科学的な結論です。まして“発展”=工業的生産の増大を求めれば求めるほど、必然的に終焉は早く来ることになるのです。

3. 工業生産の理論と基本エネルギー

工業生産とは、原材料資源に工業的なエネルギーや副次的な資源を投入して製品を製造する過程です。これを単純な模式図で表すと次の通りです。

工業生産図

左から右への矢印は、原材料資源の加工によって製品が出来る流れです。生産過程において投入したエネルギーが生産設備を駆動して最終的に廃熱となり、、低エントロピー資源が原材料資源から不純物を取り除き、製品が作られます。生産設備も次第に損耗して廃物へと変化します。

工業生産では、最終的に得られる製品の使用価値を得ることが目的です。一般的に、この使用価値を生産過程に投入した原材料や副次的な資源、工業的エネルギーによって絶対的に評価することは不可能です。同じ使用価値を持つ製品を作る複数の生産プロセスがある場合、生産過程に投入した原材料や副次的な資源、工業的エネルギーが少ないほど効率の高い生産システムだという相対的な評価が出来るだけです。

工業生産に利用される工業的なエネルギーも工業製品です。ここでは、燃料石油の製造を考えることにします。まず、エネルギー生産という工業生産過程においてエネルギー産出比を次のように定義します。

エネルギー産出比=(製品の持つエネルギー)/(生産のために投入されたエネルギー)

工業製品(商業的に流通するものという意味)としての原油を製造する場合、油田に油井を掘り、地下にある原油を汲み上げます。油田において、燃料石油1単位(カロリーベース)を原油を汲み出す生産設備の製造と運用のために投入したときに、原油50単位(カロリーベース)が得られるとします。カロリーベースで考えると、油田における原油生産のエネルギー産出比=50÷1=50です。ただしこの場合、投入する燃料石油と原油は質的に違いがあることに注意することが必要です。

原油から燃料石油を製造するためには、更に原油を石油精製工場まで運搬して分留しなければなりません。そのためには更に燃料石油を4単位投入することが必要だとします。最終的に、燃料石油製造のエネルギー産出比=50÷(1+4)=10になります。

註1)原油を精製する過程でアスファルトなど、燃料に利用しない成分が取り除かれるため、50単位の原油から得られる燃料石油の持つエネルギーは50単位よりも小さくなりますが、ここでは話を単純にするために無視することにします。

註2)同じ油田の原油から生産される燃料石油でも、油田から石油精製工場や消費地までの距離によって輸送に投入される燃料石油の量が異なるため、製品のエネルギー産出比は異なります。

つまり、燃料石油1単位を燃料石油生産に投入することによって10単位の燃料石油が得られるのです。その内1単位を石油燃料の再生産に投入することにすれば、残りの9単位のエネルギーは石油燃料製造以外の工業生産過程に投入することが出来ます。

これで、工業文明を支える基本的なエネルギー(資源)の必要条件が明らかになりました。工業的なエネルギーあるいはエネルギー資源(燃料)を、自らの持つエネルギーだけで再生産することが可能で、更に他の工業生産システムにエネルギーを供給する能力があることです。つまり、エネルギー産出比が1.0よりも大きいことが工業文明を支える基本エネルギーの必要条件です。また、エネルギー産出比の大きいエネルギー(資源)ほど絶対的に優れたエネルギー(資源)です。 エネルギー産出比<1.0のエネルギー(資源)は基本エネルギーとはなり得ません。

エネルギー供給という工業生産システムは、エネルギー産出比によって絶対的な評価が可能なのです。

カテゴリー: エネルギー・核技術 | コメントする

エネルギー技術と文明

chantooさんの問題提起について、少しづつ思いつくことを書き留めていこうと思います。まず、最新のエネルギー技術についてコメントする以前に、エネルギー技術と人間社会・文明との関係について考えることにしたいと思います。

人間の利用できる動力の大きさが食料生産に携わる人口を規定し、食料生産から開放された人間が食料生産以外の生産活動に携わり、都市社会を形成し、“文明”を築くことになります。文明とは、食料生産を主とする生物としての人間が生きるために必需の生産活動以外の余剰の生産活動によって生み出された物や、精神的、文化的な非物質的なもの、社会・政治・経済制度の総体と言えばよいでしょうか。

サルから人間になったばかりの頃には、道具や高度な意思疎通能力=言葉を身につけたとはいえ、利用できる動力は自らの肉体だけであり、ほとんど狩猟・採集による自給自足的な暮らしであったと考えられます。まだ文明と呼べるほどのものはなかったでしょう。

学習によって狩猟・採集のための道具が進化したでしょう。更に、食料用の植物を栽培することを始めました。特に重要だったのが長期間の保存に耐える穀物栽培の開始です。貯蔵可能な穀物によって、“富”の蓄積が可能となり、食料生産以外への労働の分化=職業の分化が起こり、階級が分化することになります。人力文明の始まりです。

人力文明

次に動物を飼いならして家畜とし、食料にすると同時に動力として利用し始めました。畜力の利用によって、食料生産性は飛躍的に大きくなりました。また、余剰生産物の増大と船や荷車の発明によって、食料を始めとする物資の広域流通量が飛躍的に大きくなりました。これが畜力文明です。おそらく、副次的には水車や風車などの自然エネルギーの利用が開始されたのもこの頃でしょう。

畜力文明

畜力文明において、更に道具と技術が進化し、富と自然科学的な知見の蓄積が起こりました。自然エネルギーの中で比較的安定的に動力の供給を行える水力は、工場生産機械の動力としても利用されました。機織り機の動力や製材所の帯鋸の動力などに用いられました。鉱山における坑内の排水にも水車の動力が使われました。

鉱物資源として特に重要だったのが鉄です。鉄は鋳物や鋼に加工され、色々な道具に用いられました。鉄の製造は鉱物として採取した鉄鉱石=酸化鉄を還元することによって生成されます。還元剤として木炭が使われていましたが、鉄の生産が増大することで欧州の森林が大規模に破壊されてしまいました。17世紀に石炭を乾留したコークスを還元剤に利用する製鉄法が開発され(1621年ダッド・ダドリー:英国)、18世紀のはじめに実用化(1709年エイブラハム・ダービー:英国)されました。

そして自然科学と技術の進歩によって18世紀に動力文明における画期的な出来事が起こりました。石炭の燃焼熱を用いた外燃機関=蒸気機関の発明です。人間は初めて自ら制御できる動力装置を手に入れたのです。蒸気機関は工場用動力を始めとして様々な方向に分化します。鉱山の排水ポンプの駆動にも用いられました。ここに、石炭を用いた蒸気機関によって石炭を拡大再生産するという、エネルギー資源の拡大再生産システムが初めて登場したのです。

石炭文明

18世紀の産業革命の本質は石炭火力を用いた外燃機関の登場でした。これが石炭文明です。その後、揮発性の石油を用いる内燃機関が開発されました。内燃機関は小型化が可能で、移動用動力として決定的に重要でした。また、石炭が個体で取扱いにくかったのに対して、液体の石油は取扱いやすい燃料です。その結果、石炭を利用する蒸気機関の用途は限られて行き、次第に石油を利用する内燃機関に取って代わられ、動力装置の主役は石油内燃機関になりました。これが現在の石油文明です。

石油文明

石油文明の特徴は、内燃機関は動力として小さなものから大きなものまで幅広いあらゆる用途に適用が可能となり、工業技術の進歩とも相まって、最早、主要な動力供給システムとしての人力や畜力は必要とされなくなったことです。石油文明下では、工業製品ばかりでなく石炭も農産品も石油を消費して作られる石油の二次製品だと言えます。

 

今回は、人間社会の利用する動力装置=エネルギー供給システムと文明社会の関わりについて考えてみました。エネルギー供給システムの能力や特性が文明社会の在り方を規定しているのです。エネルギー技術を考える時、単にエネルギー効率だけでその優劣を判断することは出来ないことをご理解いただきたいと思います。

次回は、ポスト石油文明について考えることにします。

参考:「研究ノート 石油文明の次はなにか」 槌田敦 名城論叢2001年3月

カテゴリー: エネルギー・核技術 | コメントする