No.1161 (2016/12/26)日本の学校教育の崩壊が止まらない
部活偏重・英語重視の新自由主義による教育が知的水準を崩壊させる

  このHPでは、数年前、私の娘が大分県のとある県立高校に入学したことから学校教育についての記事を書きました。その中で、公立の高校教育の中で行われている運動部を中心とする部活動の異常な状況についても触れました。その中で、同じ大分の県立高校である竹田高校の剣道部における顧問による暴行致死事件について触れました。刑事事件としてはこの顧問らは不起訴となりましたが、ご両親の粘り強い努力の結果、民事事件として剣道部顧問の重過失が認定されました。これを報じる大分合同新聞の記事を紹介します。

  さて、公立の高等学校とは、中等教育の最終段階であり、教科の内容を学ぶことが本分です。部活動とは教育課程で使用する以外の時間において、空いている学校施設を使って高校に在籍する生徒の自発的な意志による文化活動を支援するものです。生徒が学校教育以外の余暇を使って自発的に文化活動を行うこと、それを無理のない範囲で公立高校が支援することは、誠に結構だと考えます。
  しかしながら、高校が生徒の保護者を中半騙しながらPTA会費などで、本来公立高校に通うためには必要のない資金を詐取し、そのお金を部活動に投入してセミプロ的な選手を養成して全国での上位入賞を果たし、高校の売名行為に利用するようなあり方は本末転倒であり、常軌を逸しています。竹田高校の事件を含めて、全国の高校の部活動で発生している事件の多くは、公立高校で行われている部活動のこうした異常な構造的問題だと思います。
  全国での好成績を求めることなど考えずに、未経験者、初心者でも気軽に参加できる誰にでも開かれた文化活動の場として公立高校の部活動を再構築することが必要です。また、これは部活動で疲弊している高校教員の問題でもあることを付言しておきます。この点につきましては拙著『公立高校とPTA』(不知火書房、2015年)にも触れましたので、興味のある方は是非ご購入ください(笑)。

  さて、本題です。私が会社に就職した1980年代ころから、あらゆる労働のマニュアル化、単純化が開始されました。それと同時に労働現場へのコンピュータの導入が開始されました。企業は長期間をかけて熟練労働者を育てるよりも、労働をマニュアル化、単純化し、さらにコンピュータの導入によってシステム化することによって、人件費の削減による市場における価格競争力を獲得することを目指し始めました。
  またその頃から派遣労働者が増加しはじめ、これを追認する形で派遣労働者法が制定され、次第に労働現場における派遣労働が増加し始めました。

  労働のシステム化によって、労働者に求められる能力は2極分化することになりました。一つは、システム化された大部分の単純な日常的な労働を忠実にこなすことのできる程度の能力を持つ、取替自由の安い給料で雇える従順な労働者です。そしてもう一つは企業の中枢で経営管理や技術開発などを行うコアな部分を形成する少数の優秀な幹部労働者です。
  その結果、企業は70年代まで主流であった終身雇用制を見直し、コアを形成する優秀な人材以外のシステムを操作する比較的な単純な労働に従事する労働者を出来る限り安価で、しかも必要な時に必要な量だけ雇うことにしました。アウトソーシングなどという外来語が登場したのもこの頃です。大部分の労働者の側から見れば、これは賃金の引き下げと労働の不安定化の拡大を意味していました。

  一方、日本の経済状況は1970年台には二度のオイルショックを経験し、第二次世界大戦後の輸出の拡大による高度成長期は終焉を迎え、財政出動による内需拡大政策によって国内インフラへの投資が増大し、赤字国債の増発による財政赤字の恒常化が起こりました。米国との貿易摩擦の解消のための内需拡大政策による過度の国内への投資の結果、1980年台には不動産バブルが膨らみ、土地価格の高騰が起こりましたが、ついに1991年にはバブルの崩壊が起こり、日本経済は長期の低迷状態に入ります。

  2001年、経済の立て直しを目指した小泉保守党政権以降、保守党政権はレーガノミックス、サッチャリズムという1980年台の米英の保守強硬派政権が採用した新自由主義的な経済政策を導入することにしました。この時から現在のアベノミクスに繋がる規制緩和と公共サービスの縮小、市場原理の重視、そして世界市場における勝ち組になることを目指してグローバリズムを積極的に推し進めることになりました。

  こうした時代背景から、新自由主義的経済政策の下での日本の学校教育は崩壊をはじめました。
  労働現場の労働の質の二極分化と時を同じくしてゆとり教育が開始され、教育内容の平均的なレベルは低下し、基礎的な学習能力の低下が進みました。その一方で、教育までが商業化されました。その結果、比較的裕福な家庭の子供達は学習塾に通って、低下した学校教育に於ける教育の質の低下を補うようになり、経済格差による学習能力の二極分化が進むことになりました。

  新自由主義経済のもとにおける教育に対して企業経営者が求めることは、少数の企業経営の継続のために必須の優秀な労働者の育成と、大多数の従順で日常業務を無難にこなせる程度の知的レベルを持った取り替え自由の労働者を育てることです。

  このHPでも以前紹介した数学者の小島順さん(早稲田大学名誉教授)は新自由主義による上から流される「数学無用論」、それに迎合する文科省の言い分を次のようにまとめています(数学教室、2007年08月  また、数学者の立場から、槌田による大気中CO2濃度の離散モデルを「CO2循環を理解するための数学的枠組み」において連続量を用いた形に拡張してくださいました。)。

1.旧い知識はすぐ役立たなくなる。知識を与えることの重要性は減った。
2.電卓があるから九九はいらない。
3.情報収集能力のほうが大事。
4.「学び方」だけ身につけておけばよい。

日本の学校における理科学教育行政はこうした企業の要請を体現する形で進んでいます

  その結果、例えば娘の通った大分県の公立高校の理科教師のレベルは、信じ難いほど低下していました。理科の教科内容として教えていることと明らかに矛盾している人為的CO2地球温暖化という仮説について、何の疑問も持たずに教科書に書いてあることをそのまま生徒に垂れ流しているのです。この点については、「高校生のための地球温暖化論」をご参照ください。

  昨夜のテレビのバラエティー番組でたまたま見かけたのですが、小学校の算数の教育現場で信じがたいことが起こっているそうです。番組で取り上げられたのは2つの事例でした。
  一つは、小数の足し算の問題でした。

3.9 + 5.1 = 9.0

としたら、減点されるというのです。この足し算の正解は「9.0」ではなく「9」でなければならないと教師が指導するというのです!
  理系の人間としては、小数というものは、最小位の数値には誤差を含んでいるものであって、計算上、少数点以下がすべて「0」になったとしても答えが整数になるとは考えません。小数点以下の「0」には整数ではないという主張があるのです。
  これは有効数字の考え方からも言えることで、小数の加算の場合、加え合わす数の中の末位が最大のものに合わせます。例題の場合、いずれも小数点以下第一位が末位ですから、回答も小数点以下第一位を最小位とすべきです。

  もう一つは直方体の体積の問題です。おそらく公式として

(直方体の体積)=(たて)×(横)×(高さ)

と教えているのでしょう。仮に「たて=5」、「横=3」、「高さ=2」だとした場合、

3×5×2=30

として、掛け合わせる順序が公式通りではないと減点の対象になるというのです。これは、教師が教えるべき内容の本質を理解していないのか、あるいは公式通りに何も考えずに従順に従うことを生徒に強制するとんでもない教育だと考えます。
  科学の本質とは疑問を持つことです。疑問を持つことを許さず、ただ与えられた知識に従順に従うという態度は科学の対極であり、もはや宗教と呼ぶべきものです。
  このような教育を小中高校で行われれば、若者の自ら考える能力は失われていくのはほとんど必然でしょう。

  このところ、ユニクロや楽天などでは企業内公用言語を英語にするなどというとんでもない動きがあります。新自由主義経済、グローバリズムを無条件に肯定して、世界市場で勝ち組になることを考えている楽天の三木谷らの要望を受ける形で、日本語や日本の歴史文化さえ身に着けていない小学生から英語教育を開始し、中学以上では英語の授業を英語だけを用いて行うことになります。
  新自由主義の世界市場で勝ち組になることを考えている大企業経営者にとっては、大多数の従業員は命令に従順で、そこそこの知性があればそれ以上の能力は必要なく、それよりも世界市場で仕事ができる程度の英語会話能力のほうが重要だということを反映しているのです。

  既に日本では知的に高度な労働者と取替自由の派遣労働者の間の労働の二極分化が起こっていますが、今後は更に英会話能力による選別が持ち込まれることになるのでしょう。

  低年齢からの英語教育は、確かに英会話能力だけに限定すれば有効かもしれません。しかし、ネイティブスピーカーのように自由自在に英会話ができたとしても、日本の歴史や文化、そして科学的な知識を持たずに育つことは果たして長期的な日本の戦略として正解なのでしょうか?

  既にゆとり教育以来、日本の教育水準、知性は危険レベルにまで低下しているように感じていますが、更に他の教科を犠牲にした英語偏重の教育課程の改訂で人間としての知的レベルは更に低下することが考えられます。

  かつて近代日本の平均的大多数の国民は驚くほど高い知識・見識を持っており、その優秀な国民の存在が戦後短期間の経済復興に絶大な力を与えました。新自由主義の経済的要請に迎合した教育は、高い知性を持つ良質な大多数の平均的な国民を減らし、ごく一部のエリート富裕層と中間層のない大多数の知的レベルの低い貧困層を作り出すことになる危険性があります。

  施光恒(せ てるひさ)著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(集英社新書、2015年7月)によると、明治維新の後、既に英語教育についての論争があったといいます。極端な英語導入論者は西欧列強に追いつくためには、公的機関の言葉を英語にすべきだと主張した者もいたようですが、否定されたようです。
  その後の日本の近代化の成功は、西欧の技術・制度を積極的に日本語に翻訳し、必要な専門用語を創造し、日本語を豊かにすることで、日本語によって高度な議論ができるようにしたことによるのです。

  例えばインドやフィリピンのように植民地支配下において生活する上での必要性から宗主国の言葉を話すことが必要だったために日本よりも遥かに英会話に堪能な国民が多くても、西欧の先端的な技術や制度を母国語に翻訳することを行ってこなかった国では、高度な内容を母国語で自由に議論できなかったことで、自律的な近代化が進まなかったと考えられます。

  これらの歴史的な経験からも、英語を母語としない国において英語化を進めることは、英語を母語とする国に対して従属することになり、自らの文化を破壊して、自ら植民地化されることにほかならないでしょう。
  新自由主義・グローバリズム下の多国籍企業の短期的な利益獲得に迎合した、全般的な教育の質の低下と、それと引き替えに進められる英語教育の偏重が日本の教育、そして国民の平均的知的水準を崩壊させるのだと思います。日本の長期的な国家戦略を考える上において、大きな禍根を残すことになるのではないでしょうか。

 

No.1160 (2016/12/22)安倍自民党政権は脱原発路線を完全に放棄した
福島第一原発事故、もんじゅの失敗にも反省のない日本の原子力政策

  このところ、福島原発事故以降の日本の長期原子力政策の方向性を決める大きな2つの動きがありました。

 一つは、福島原発事故の影響による土壌の放射能汚染の除去=除染に対して、無制限に国税をつぎ込み、あるいは東電を救済するために全ての電力消費者に対して福島第一原発事故処理費用の分担を課すことが決定されたことです。

 このHPでは繰り返し述べていますが、福島原発事故とは、営利を目的として発電事業を行う民間企業の一事業所が起こした事故であり、本来、損害賠償、汚染地域の除染=原状復帰のすべての経費負担を含めた全ての責任は東電が負うべきものです。その事故処理に対して国税を無制限に投入するばかりか、送電事業を通じて新電力消費者を含めた全ての電力消費者に福島原発事故処理費用の負担を押し付けながら、事故を起こした東電は一切刑事責任を負わないまま安穏と左うちわで存続するのです。これは商業倫理から見て許されざることです。あまりにも被害が甚大であること、初めて経験した原発の重大事故であることを勘案して、緊急避難的かつ例外的に国税を投入するのならば、その前提として東電はすべての資産を売却して国の原発処理のために全額を国庫に納めた上で廃業し、その上で国が直轄で処理を行うべきです。
 福島原発事故の経験を真摯に受け止めるならば、事故を起こし環境を汚染した事業者が全責任を追うことを定めている法体系から見て、将来的に原発事故が起きた場合には、その全責任は事業者にあることを明確化した上で、事故に対する事業者の賠償能力、原状復帰能力(経済的、技術的)を何らかの形で担保できない限り、原発の運転再開は許すべきではありません。
 今回の決定は、次に原発事故が起きたとしても、なし崩し的に国費をつぎ込み、国民に負担を押し付けることによって事業者を救済するという枠組みを作るものです。

 福島原発事故を経験したにも関わらず、原発を所有する発電事業者は手厚い国家補助の旨味のある原発事業から撤退することはないでしょう。 また、発電事業からのCO2放出量の削減政策としての再生可能エネルギー導入は、あまりにも非効率であり、したがって高コストであることから、発電事業者としては短期的には手っ取り早い原発再稼働に力を注ぐことにもなるでしょう。
 既に、日本政府は原子炉の新安全基準を新たな安全神話とし、新基準に合致することだけで原発の運転再開を許しています。福島第一原発事故の本当の教訓は、事故は想定外の状況で起こり得るものであるから、たとえ安全基準を満足したとしても、その上で事故は起こりうることを前提に、最悪の事故の発生を想定した事故処理体制を構築することです。事故発生時の発電事業者の責任を曖昧にしたまま原発の再稼働を許すことはあってはならないことなのです。

 一方、日本の長期的な原子力によるエネルギー供給システムの中核技術である高速増殖炉の原型炉『もんじゅ』が廃炉になることが決定しました。もんじゅは1992年に運転が開始されましたが、度重なる事故によってまともな運転は行えないまま、1995年にナトリウム漏れの事故を起こし、事実上運転を停止していました。この24年間でわずか50時間ほどしか運転しておらず、この間につぎ込まれた事業費は1兆円を超えています。まず廃炉決定を報道する記事を紹介します。 

 現在広く利用されている日本の原子炉は軽水炉です。軽水炉とは冷却材に水=軽水を用いる原子炉です。軽水炉では、核燃料の核分裂反応から放出された中性子が冷却水(軽水)によって減速され、得られた熱中性子を利用して核分裂反応を行います。

 高速炉とは、核燃料の核分裂反応によって放出される高速中性子をそのまま利用して核分裂反応を起こす原子炉です。そのために、冷却材としては高速中性子を減速しない物質を用いることになります。もんじゅはナトリウム冷却高速炉であり、冷却材として金属ナトリウムを使用します。
 金属ナトリウムは極めて反応性の高い金属であり、空気中に暴露された場合、空気に含まれる水分子と反応して水素を発生し、爆発的な反応が起こります。1995年のもんじゅのナトリウム漏れ事故は、冷却材として金属ナトリウムを使用することの潜在的な危険性を示したものでした。
 もんじゅは高速増殖炉です。増殖炉とは、原子炉の運転で核分裂反応で消費する核燃料よりも多くの核燃料を新たに生成する原子炉のことを指します。

  高速増殖炉ではプルトニウムと劣化ウラン(主に238U)の混合酸化物(MOX)を核燃料にしています。また核燃料とは別に劣化ウランのブランケットが燃料集合体の周囲に配置されます。高速増殖炉の運転によって核燃料に含まれるプルトニウムの核分裂反応で放出される高速中性子を劣化ウランの主成分である非核分裂性の238Uが吸収し、2回β崩壊することによってプルトニウムが生成します。

 その結果、理論上は、運転で消費されるプルトニウムよりも238Uから生成するプルトニウムのほうが多い=増殖するのです。

 天然ウランの内、軽水炉で使用することの出来る核分裂性の235Uの比率は0.7%、非核分裂性の238Uの比率は99.3%です。エネルギー資源小国日本の原子力政策は、軽水炉では核燃料として使い物にならない238Uを、高速増殖炉でプルトニウムに変換することで自前で莫大なエネルギー資源を作り出すことが出来ると考え、これを日本の原子力発電システムの中核として構想されたのです。つまり、日本の核燃料サイクルの本質とは高速増殖炉核燃料サイクルだったのです。

 今回、高速増殖炉原型炉もんじゅの廃炉が決定し、日本の原子力政策から高速増殖炉の実現がなくなったのです。したがって、高速増殖炉の実用化とそれを中核とする高速増殖炉核燃料サイクルからの撤退によって、日本の原子力政策の基本設計は完全に破綻したのです。
 これは軽水炉の運用にも重大な影響を与えます。軽水炉は高速増殖炉の実現を前提に運転されてきました。軽水炉の使用済み核燃料は高速増殖炉で利用することを前提に、プルトニウムを生み出すための原料であり、莫大な資産でした。ところが、高速増殖炉からの撤退によって、使用済み核燃料は極めて危険で毒性が強い、しかも極めて処理の難しい放射性を持つゴミ=不良資産と化したのです。軽水炉による発電の経済性は一気に悪化し、ただでさえ高価だった原子力発電電力は決定的に価格競争力を失うことになります。
 日本は早急に原子力から撤退することこそ最も懸命な選択であることは言うまでもないことです。

 ところが、日本政府は、高速増殖炉もんじゅの廃炉と同時に、新たな高速炉の開発計画を開始することを決定しました。なんと愚かな判断でしょうか!

 具体的には、当面はフランスと共同で高速炉のプロトタイプ炉ASTRIDを実現する計画です。フランス原子力・代替エネルギー庁の説明によると「ASTRIDはナトリウム冷却高速炉の原子力発電プラントのプロトタイプとなるものであり、電気出力で50万kWから60万kWで、技術上及び設計上の技術革新の実証を目指すとともにアクチノイドの燃焼を段階的に実証する物である。」というものです。

 ASTRIDはナトリウム冷却高速炉ですから、本質的な核分裂機構としては失敗したもんじゅと同じ炉型です。したがって技術実現の難しさはもんじゅと何ら変わるものではありません。また、たとえ技術的な困難を克服して安定運用が可能になったとしても、もんじゅの開発でも経験した通り、技術的な困難さの反映として、発電用の原子炉としては軽水炉に比較して遥かに高価なものになることは避けられません。また、金属ナトリウムという極めて反応性の高い冷却材の使用は潜在的な危険が大きいと言わねばなりません。
 また、ASTRIDは高速炉ではありますが、増殖炉ではないため、日本の増殖炉を基本とした核燃料サイクルからの撤退であることは変わりません。
 その代わりに日本政府が言い出したのは、高レベル核廃棄物処理を困難にさせている使用済み核燃料に含まれる強い放射能を持つ長寿命核種の削減です。これはフランス政府が「アクチノイドの燃焼を段階的に実証する」と説明している点です。ここで言うアクチノイドとは一般的には『原子番号89から103まで、すなわちアクチニウムからローレンシウムまでの15の元素の総称』ですが、重要なのは使用済み核燃料に含まれるマイナーアクチノイドであるネプツニウム237, アメリシウム241, アメリシウム243, キュリウム242から248とカリホルニウム249から252 です。

高速増殖炉の劣化ウランのブランケットの代わりに使用済み核燃料に含まれているこれらの長寿命核種を高速炉内に配置して、中性子を照射して別の核種に変換するというものです。しかしこれについても、高速増殖炉同様、全くの理論的な発想の域を出るものではありません。

 高速炉の開発に対して、原子力委員会の岡芳明委員長も次のように批判しています。 

 

 福島原発事故処理に対する国家負担、国民負担の決定、もんじゅ廃炉に対して何の根本的な総括を行わないままに新たな高速炉計画の開始という無節操な日本政府の政策決定をみると、深刻な原子力事故、日本の原子力政策の中核技術である高速増殖炉からの撤退という現実を真摯に受け止めることすら出来ないことがよく分かります。
 日本の原子力利用は経済的にも技術的にも根本的に破綻しているのです。それにもかかわらず、福島原発事故を契機に段階的に原発を廃止するという国民的な合意は既に反故にされ、日本政府は今後とも原子力発電を進めていくという意思を明確に表明したのです。その理由は主に次の3点でしょう。

@核兵器開発能力の担保
A発電システムからの温室効果ガス放出量の削減(笑)
B原発保有9電力会社の短期的な利益保護

・・・バカバカしい!

 

No.1159 (2016/12/21)オスプレイ墜落で見えた安倍米国傀儡政権の実態A
オスプレイ飛行訓練中止の申し入れを無視された?無力な総理大臣安倍晋三

  既に御存知の通り、沖縄駐留米軍のオスプレイの飛行訓練が再開されました。沖縄県は政府に対して墜落事故の原因の徹底的な究明、沖縄配備撤回を申し入れたにもかかわらず、またしても稲田朋美は『19日、米側からオスプレイの機械系統や機体構造に問題がないと説明を受け「防衛省、自衛隊の知見、そして専門的見地、経験則などから合理性がある」と理解を示した。(琉球新報)』そうです。呆れ果てたものです。日本国内で起きた駐留米軍の事故について、自ら一切の直接的な事故捜査を行わずに、米軍の発表をそのまま鵜呑みにするとは、主権の放棄に他なりません。

  安倍晋三は、12月16日夜のTBSの報道番組において、飛行訓練の中止を申し入れ、徹底的な原因究明を申し入れたと発言したそうです。19日の稲田朋美の発言とは全く整合性がありません。

 この件について報道した大分合同新聞2016年12月20日朝刊の記事を紹介します。

 記事にある通り、安倍晋三が飛行訓練の中止を申し入れたとしていますが、墜落事故二日後の16日の段階で既に米軍は19日に飛行訓練を再開することを日本政府に通告していたというのです。これは一体どういうことでしょうか?

 安倍の発言が事実であったとすれば、米軍は日本国政府総理大臣安倍晋三の申し入れなど歯牙にもかけずに無視して、オスプレイの飛行訓練を再開したことになります。これは全くふざけた対応であり、独立国家の対等な条約相手国の対応として異常です。日本国政府は米軍の傍若無人な振る舞いに対して断固抗議すべきです。
 ところが、記事にあるように、日本国政府から米軍に対して日本政府の申し入れを無視して再開されたオスプレイの飛行訓練について、抗議した形跡がないというのです。
なんという情けない国なのでしょうか!

 このオスプレイ墜落事故をめぐる日本政府の対応から、骨の髄まで安倍政権は米国の傀儡であり、実質的には米国の意志に対して何も言えないということがよく分かります。ロシアにすれば、確かに米国のいうがままの安倍傀儡政権を見る限り、北方領土を日本に返還した場合のリスクを問題視するのもよく分かります。

 日本は現在も実質的には米国の植民地状態から開放されていない事がよく分かります。日本政府の言う沖縄の負担軽減と日本国内の他の基地への機能の移転とは、日本全体の沖縄化にほかならないと考えます。米国内の人口密集地では決して行わないオスプレイの飛行訓練ですが、そのうち日本のあらゆる場所でオスプレイが飛び交うことになるのでしょう。

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