No.513 (2010/12/20)増田耕一によるCO2濃度モデルM

5.結論 〜増田のCO2濃度モデルはTrompe-l'oeil(だまし絵)〜

 だいぶ連載も長くなってしまいました。前回まででお約束の増田耕一のブログの書き込み2編についての検討を終わりました。これまで、あまりに訳の分からない、掴み所のない増田の長文は読む気もしなかったのですが、この連載のために何度も読む羽目になりました。連載の初回にも書きましたが、増田の文章は一見科学を装っていますが、その実、科学の本質というべき主張に対する論証部分が全く存在しない誠に奇妙なものでした。
 科学的な内容にはまったく見るべきところのない文章でしたので、結論というよりも読後の感想を少し書いて、連載を終わることにします。

 皆さんは『Trompe-l'oeil(だまし絵)』をご覧になったことがあると思います。私は別に絵画鑑賞には特段造詣が深いわけではありませんが、元々構造屋ですから絵画に描かれた空間表現には多少興味があります。中でもエッシャーの立体表現は面白いと思います。

 彼の絵の面白さは、あるいはだまし絵一般の面白さかもしれませんが、部分的に見ると論理的な整合性が保たれているのですが、部分と部分を組み合わせた画面全体で見ると不合理で統一性を欠いているのです。その結果実に不思議な空間が出来上がる(実際には3次元空間では有り得ないのですが・・・)のです。

 増田耕一の人為的CO2蓄積仮説に対する今回検討した二つの書き込みは、科学論文におけるだまし絵と表現するのがぴったりのような気がします。部分部分に対する彼のコメントは、一見正しそうに見えるかもしれませんが、全体を繋ぎ合わせると至るところで論理的な整合性を欠いた支離滅裂なものです。
 増田のこの二つの書き込みでは、冒頭に『大気中のCO2量の変化のうちで人間活動起源のものがどのような部分をしめているのかの説明を、少し整理しなおして、複数回に分けて述べてみます。』としていますが、結局最後まで増田の大気中CO2濃度モデルについての直接的な説明は一切存在しません。断片的な科学的に見えるが、その実、支離滅裂なコメントを取り除くと正に中は空っぽであった、というのが率直な感想です。

 絵画におけるだまし絵のように、頭の体操としてはそれなりに面白い(?笑)かもしれませんが、科学的な論評としては全くお話にならない増田の書き込みですが、裏を返せば、いよいよこのような詐欺的な論者を使ってまで事実を糊塗しない限り人為的CO2地球温暖化仮説というものが維持できなくなったという証左であろうと考えます。

(連載@へ)

No.512 (2010/12/19)増田耕一によるCO2濃度モデルL

4.増田コメントの検討

コメント5


 観測事実を整理したもの(たとえば前の記事で紹介したIPCC第4次第1部会報告書の図7.3)から数値をもらって計算すれば、大気中のCO2の平均滞在時間は約3年であることがわかります。自然の準定常状態と人間活動の影響を受けた現状とでは数値が少し違ってきますが、大まかな近似として約3年であることは変わりません。

 このことから、やはり大まかな近似として「ある1年間に大気に出てきたCO2のうち、1年後に大気中に残るのは約3分の2である」と言うことができます。これを認めて、さらに同じことが続くとすれば、2年後, 3年後, ...に残るのは3分の2の2乗, 3乗, ...である9分の4, 27分の8, ...である、という理屈が成り立ちます。3年以上前に出てきたもののうち大気中に残っているぶんは、半分よりだいぶ少ないはずです。槌田(2008)の評論の中の炭素循環の議論は、このように「人間活動起源のCO2というものがどれだけ残っているか」という意味では理解できます。


 この増田耕一の主張は一体何なのでしょうか。私には、この行き当たりばったりの支離滅裂の主張をする増田耕一の精神構造は理解できません。はれほれ氏は憤慨したようですが、私はむしろ唖然とするばかりです(笑)。それはともかく、検討を続けることにします。

 まず『観測事実を整理したもの(たとえば前の記事で紹介したIPCC第4次第1部会報告書の図7.3)から数値をもらって計算すれば、大気中のCO2の平均滞在時間は約3年であることがわかります。自然の準定常状態と人間活動の影響を受けた現状とでは数値が少し違ってきますが、大まかな近似として約3年であることは変わりません。』において、増田は大気中におけるCO2の平均滞留時間が3年程度であることを認めています。これは一体どういうことか私には理解不能です。
 この平均滞留時間が3年程度という数値は、発生源の如何、放出年次の如何に関わらず大気中に存在する全てのCO2が同じ確率で地表環境に吸収される場合、つまり槌田の主張する循環モデルにおいて成り立つ値です。地表環境から放出された218.2Gt/年のうち、3.2Gt/年だけが大気中に留まり続け、215Gt/年については大気中のCO2存在量に影響しないという増田のモデルでは全く成り立たないのです。
 増田の主張では215Gt/年については大気中のCO2量と関わり無く単純に地表環境から放出された後に再びそのまま地表環境に吸収されるため、滞留時間は定義できません。蓄積モデルにおいて大気中に存在するCO2量の内、597Gtは少なくとも産業革命以前から大気中に滞留し続けていますから平均滞留時間は最低でも200年以上になります。更に産業革命以後に蓄積された165Gtについては平均滞留時間は数十年〜百年程度です。故に蓄積モデルのCO2の平均滞留時間は少なくとも100年以上のオーダーになります。IPCC第一次報告では平均滞留時間は50〜200年とされていたようです。これは蓄積モデルを前提にすれば、妥当な値であろうと考えます。蓄積モデルを主張する増田が平均滞留時間を3年程度というのは不合理です。

 更に増田は『このことから、やはり大まかな近似として「ある1年間に大気に出てきたCO2のうち、1年後に大気中に残るのは約3分の2である」と言うことができます。これを認めて、さらに同じことが続くとすれば、2年後, 3年後, ...に残るのは3分の2の2乗, 3乗, ...である9分の4, 27分の8, ...である、という理屈が成り立ちます。3年以上前に出てきたもののうち大気中に残っているぶんは、半分よりだいぶ少ないはずです。槌田(2008)の評論の中の炭素循環の議論は、このように「人間活動起源のCO2というものがどれだけ残っているか」という意味では理解できます。』と書いていますが、彼はこの循環モデルの特性と蓄積モデルを矛盾しないものとして統合できるとでも考えているような文章ですが、愚かな主張です。

 ここで引用されている槌田の主張を以下に引用しておきます。


 人間排出のCO2はどれほど大気中に溜まったのか

 ところで、CO2温暖化説で、「大気に放出された人為的CO2の約半分が大気中に溜まった」と考えることに、そもそも問題がある。それは化石燃料の燃焼で生じたCO2の半分が大気中に一旦溜まったとしても、それが永遠に溜まり続けることはないからである。
 大気中のCO2濃度は1960年以後45年間に65ppmも増加した。これについて、CO2温暖化説では、化石燃料の燃焼などにより排出したCO2の55.9%が大気中に毎年「溜まり続けたから」という。その量は人為的排出量の0.559×45年間=25.2年分に相当する。
 IPCCの採用した図(IPCC 2001 Fig3.1)によれば、大気中のCO2量は約730ギガトンであるが、毎年約120ギガトンを陸と交換し、約90ギガトンを海と交換している。つまり、大気中のCO2は毎年30%が入れ替わり大気中に残るのは70%である。
 人間が毎年排出するCO2についても、その30%は陸と海に吸収され、70%が大気中に残る。この量はCO2温暖化説で大気中に残るという55.9%よりも多い。
 しかし、今年残った70%の人為的CO2がいつまでも大気中に残ることはない。去年の分は70%の70%、つまり49%しか残っていない。一昨年の分は70%の70%の70%、つまり34.3%しか残っていない。
 この人為的CO2の大気中に残る量の最大値は、等比級数であって、
0.7+(0.7)2+(0.7)3+・・・=0.7/(1−0.7)=2.33
 と簡単に計算できて、人為的排出で溜まるCO2の量は本年分を加えても、最大で3.33年分でしかない。これは一定割合で目減りする(負の利息の)定額預金のようなものである。

(槌田敦「温暖化の脅威を語る気象学者のこじつけ理論」2008.3季刊at) 


 ここで槌田が論証しているのは、CO2温暖化説では、『人為的に放出されたCO2の半量程度が選択的に大気中に留まり続けている』と主張してきたわけですが(増田モデルは違うようですが・・・笑)、循環モデルで大気中に滞留するCO2量は最大でも年間放出量の3.33年分程度であるということです。
 循環モデルは、地表環境から放出されたCO2は急速に拡散・混合が進むため放出源毎のCO2を分離して取り扱うことは不可能であり、放出源の如何あるいは放出年次の如何を問わず、大気中に存在するCO2は全て区別なく同様の振る舞いをすることを前提に組み立てられています。
 これに対して、人為的CO2蓄積モデルは人為的に放出されたCO2だけは追跡可能で、その半量が選択的に大気中に蓄積するということです。

コメント6


 しかし、温室効果を通じて気候に影響を与えるのは大気中にあるCO2の総量であり、直接人間活動起源のものだけではありません。化石燃料起源の炭素原子が海または陸に行っても、同じ個数の炭素原子が海または陸から出てきたら、気候に影響する大気中のCO2は 減りません。気候への影響を考えるうえでまず必要な炭素循環の数値は、質量収支の立場のものなのです。炭素原子を追いかけた議論も、炭素循環を理解するうえで有用ではあるのですが、質量収支に貢献するためには、化石燃料から出てきた原子のほかに、自然の過程で出てきた原子も追いかけて、合計を議論しなければならないのです。


 増田の引用した文献における槌田の主張は、『標準のCO2温暖化説』では、大気中のCO2濃度の上昇は全て人為的に放出されたCO2の半量程度が大気中に蓄積した結果であると主張していることに対して、それに反対する循環モデルの立場から人為的な放出を起源とする大気中のCO2存在量(人為的な放出の3.33年分)は、大気中のCO2増加量(人為的な放出の25.2年分)の極一部(3.33/25.2=13%)でしかないことを論証しているのです。
 増田の『質量収支に貢献するためには、化石燃料から出てきた原子のほかに、自然の過程で出てきた原子も追いかけて、合計を議論しなければならないのです。』という主張は、正に語るに落ちたというところでしょう(笑)。
 循環モデルは人為的に放出されたCO2の流れを追跡しているのではなく、逆に大気中に放出されたCO2は一様に混合するため、発生源の如何にかかわらず、同様の振る舞いをするので、その結果として自然起源のCO2も人為的に放出されたCO2も大気中にそれぞれの年間放出量にして3.33年分程度存在していることを主張しているのです。
 つまり、槌田は循環モデルの結論として大気中のCO2存在量増加の主因が自然現象であるとを主張しているのであり、増加量の内で人為的な影響はその年間放出量の3.33年分に過ぎないとを論証しているだけです。
 ここで増田は大気中のCO2量の増加全てを考えるためには化石燃料起源以外の自然の過程で出てきたCO2も合計しなければならないと言っているのですから、これは標準的な人為的CO2蓄積モデルを否定しているのです。

 繰り返しますが、循環モデルは大気中に存在するCO2は区別がつかないので、放出源毎のCO2を追跡して検討することなど不可能という立場から、全てのCO2に区別をつけずにその量的な関係に着目して導出されたものであることは既に読者諸賢にはお分かりの通りであり、増田の『気候への影響を考えるうえでまず必要な炭素循環の数値は、質量収支の立場のものなのです。炭素原子を追いかけた議論も、炭素循環を理解するうえで有用ではあるのですが、質量収支に貢献するためには、化石燃料から出てきた原子のほかに、自然の過程で出てきた原子も追いかけて、合計を議論しなければならないのです。』は見当はずれの頓珍漢の批判です(笑)。

コメント7


 東京大学IR3S/TIGS叢書として出された『地球温暖化懐疑論批判』の第3章の「議論18」の「証拠1」の部分は、人為起源の排出のあるとき大気中CO2濃度はどうなるかに関する槌田(2008)の論点への反論です。Kikulogでの議論で気づいたことであり「批判」の本の原稿を書いた当時は意識していなかったのですが、槌田さんの議論はものを追いかけた議論とみなしたほうがよく理解できるのに、反論ではそれを質量収支の議論とみなしたので、議論がすれちがったと言えるかもしれません。今から思えば、ものを追いかけた議論と質量収支の議論の違いを認識したうえで、この文脈では質量収支の議論が必要なことを明示したほうがよかったと思います。

 もし人間活動による摂動がなくなれば、大気中のCO2の量は、準定常状態に近づいていくことになりそうです。どのような時間スケールで近づいていくかはひとことでは言えません。(わたしにはあまり詳しい知識はありませんが、次の記事で専門家の検討結果を紹介します。) あえてひとつの時間スケールで代表させればそれが3年よりも長いことは確かです。


 この記述から、東大IR3S『地球温暖化懐疑論批判』の中でも最低の出来だと考えていた『議論18』の著者はどうやら増田耕一であるようです。なるほど、納得です(笑)。

 『槌田さんの議論はものを追いかけた議論とみなしたほうがよく理解できる』は全く頓珍漢な主張であり、増田耕一が循環モデルを全く理解できていないことが分かります。
 『ものを追いかけた議論と質量収支の議論の違いを認識したうえで、この文脈では質量収支の議論が必要なことを明示したほうがよかった』という主張は、前段の文章から議論18証拠1『人間活動によって放出されたCO2のうち、大気中に長時間残存する量は等比級数の和として計算され、3.33年分の放出量に当たる量しか残存しない(槌田2007;槌田2008)』が増田の言う質量収支の議論ではないといっているようですが、一体何を言っているのでしょうか?私には理解不能です。
 まず、揚げ足を取っておきますが(笑)、証拠1は勿論槌田自身ではなく冊子の著者が引用文献を参考にして書いたものですが、その中で『長時間残存する量は等比級数の和』は数学的に誤りであり『長時間残存する量は無限等比数列の和』あるいは『長時間残存する量は等比級数』とすべきです。また、槌田は大気中のCO2は平均滞留時間3.33年で絶えず循環しているのであって、決して長時間残存することはないことを主張していることを付言しておきます。この際、『長時間残存する量』という表現は適切ではなく『大気中の存在量』とすべきです。

 『もし人間活動による摂動がなくなれば、大気中のCO2の量は、準定常状態に近づいていくことになりそうです。』はまったく何の科学的な裏づけのない戯言です。

(続く)

No.511 (2010/12/18)増田耕一によるCO2濃度モデルK

4.増田コメントの検討 〜コメント4(続き)〜

 おそらく増田は、人為的に放出されたCO2がその他のCO2と混合しないというモデルのあまりにも不自然な仮定を回避するために、大気中に増加しているCO2が必ずしも人為起源のCO2でなくても良い、量だけが問題なのだと主張しはじめたのだと思います。しかし、それは同時に人為的CO2蓄積仮説を本質的に否定することになることに思い至らなかったようです。
 標準の人為的CO2蓄積モデルでは否定していましたが、地表環境から放出されたCO2は、放出源の如何を問わず急速に混合が進みます。一旦大気中に放出されてしまえば、元々大気中に存在しているCO2であっても、新たに加わった自然起源CO2放出であっても、そして人為起源のCO2であっても、大気と地表を巡る循環構造の中では同じ効果を持つのであって発生源ごとに区別することは出来ません。

 そこで、一度CO2の混合を認めてしまえば、
@人為起源のCO2の振る舞いと自然起源のCO2あるいは元々大気中に存在していたCO2を独立な過程として取り扱うことは不可能であり、その結果
A放出量の比率が3%程度の人為的なCO2放出によって大気中CO2濃度の上昇を説明することは不可能
というのが必然的な結論にならざるを得ないのです。つまり、増田は自分では気付いていないようですが(笑)人為的CO2蓄積モデルを自ら否定したのです。

 増田の主張を整理すると、
@大気中CO2濃度上昇の主因は人為的に放出されたCO2である。
Aただし大気中に増加したCO2は必ずしも人為起源のCO2である必要はない。
というものですが、Aの条件を満足することはCO2の混合を容認することを意味し、@を否定することによって成り立っており、彼の主張は支離滅裂ということになります。
 あるいは、増田には私のような凡人には予想だにしない、CO2の混合を許しながらも人為的CO2が大気中のCO2量を増大させる主因となる魔法のような、あるいは画期的なCO2濃度モデルを持っているのかもしれませんが・・・。

 残念ながら私にはそのようなモデルを構想する能力がありませんので、放出源毎のCO2の混合を容認する蓄積モデルで具体的に以上の結果を示すことにします。


このモデルは連載Hで示した蓄積モデルにおいて、発生源毎の区別を取り除いたモデルです。この場合、地表環境からのCO2放出速度は、自然起源が211.8Gt/年(97%)、人為起源が6.4Gt/年(3%)、合計で218.2Gt/年です。
 一方地表環境のCO2吸収は発生源毎の区別はなく、合計で215Gt/年です。放出量に対する吸収量の割合は、215/218.2=98.5%です。以上から、大気中に蓄積されるCO2量の内訳は次の通りです。
自然起源:211.8×(1−0.985)=3.165(Gt/年)
人為起源:6.4×(1−0.985)=0.096(Gt/年)
 つまり、大気中のCO2の年間増加量に対する人為的CO2の寄与度は当然、0.096/3.2=0.03=3%なのです。

 さて、ではこの蓄積モデルにおいて産業革命から現在までに大気に蓄積された人為的なCO2の総量を推計してみます。ただし、地表環境からのCO2放出量に対する人為的放出量の比率を平均で1.5%と仮定しておきます。IPCCによるとこの間の大気中CO2増加量の炭素換算重量は165Gtなので、その中の人為起源のCO2は165×0.015=2.475(Gt)になります。
 つまり、発生源毎のCO2を区別しないとすれば、現在の大気に含まれるCO2総量に対する産業革命以後に蓄積された人為的CO2の割合は、わずか2.475/762=0.00325=0.325%に過ぎないことになります。これは私たちの循環モデルよりもはるかに小さな値なのです。

 増田の主張は、蓄積されたCO2が人為起源でなくてもかまわないが、蓄積されるようになったきっかけは人為的なCO2放出の増加であるという主張です。しかし、この主張には大きな誤魔化しがあります。
 産業革命以前では、循環していたCO2の炭素重量は190.2Gt/年であったのが、現在では放出量は218.2Gt/年に、吸収量は215Gt/年に増大しているのです。放出側では28Gt/年、吸収側で24.8Gt/年の増加があるのです。ここで示した現在の蓄積モデルの炭素循環における年間3.2Gt/年の蓄積の原因は放出側の28Gt/年の増加に対して、吸収側が24.8Gt/年にしか増加しなかったことです。増加した28Gt/年の放出側の増加に占める人為的な増加分は6.4Gt/年であり、率にして6.4/28=22%です。つまり主要な原因は放出側増加量の78%を占める自然起源のCO2放出量の増加であると考えるべきです。

 さて、ではこの蓄積モデルにおいて、現在のCO2放出量が215Gt/年を下回るとどのようになるのでしょうか?蓄積モデルのもう一つの欠陥は放出量が減少する場合の変化が全く示されていないことです。蓄積モデルでは、大気中に蓄積されているCO2が地表環境に吸収されるパスが全くないのです。ここから推測すると、単純に考えると大気中のCO2量は変化せず、CO2循環量だけが215Gt/年より小さい値で放出・吸収が釣り合うことになるのではないでしょうか?
 仮に、現状においてCO2放出量が215Gt/年を下回る場合、これは人為的なCO2放出量が現状の50%を下回ることに対応しますが、大気中に蓄積されたCO2が地表環境に吸収されるということになるというのでしょうか?しかしそれは容認することは出来ません。もしこれを認めるならば、人為的蓄積モデルは言うに及ばず、蓄積モデルそのものを否定すること、つまり循環モデルを認めることになるからです。

(続く)

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