No.510 (2010/12/17)増田耕一によるCO2濃度モデルJ

4.増田コメントの検討(続き)

コメント3


 この図では、まず自然の準定常状態の代表値が黒で示され、現状(実際は1990年代の状態ですがこう表現しておきます)が人間活動の影響を受けて自然状態からずれている量が赤で示されています。気象庁の図の説明の「赤は人間活動により大気中へ放出された炭素の循環をあらわしている」という表現は残念ながらまぎらわしいですが、この図は「人間活動によって放出された炭素」というもの(物体)を追いかけたものではありません。(ものを追いかけた議論と量の収支の議論との概念的区別については、追って記事(2)として述べます。)

(中略)

 なお、人為起源の上向きの炭素の流れのうちに土地利用変化によるもの(1.6ギガトン/年)があげられていますが、これと、自然状態で存在する大気と陸との間の炭素の流れが人間活動の影響を受けて変化すること(図では正味下向きにまとめて2.6ギガトン/年という数値が示されている)とは厳密には区別できず、数値の切り分けはなんらかの約束によることになります。切り分けが変わっても正味の収支は変わらないはずですが、人為起源の流れの量に注目した詳しい議論をする際にはどの文献の約束によるかを明確にしておく必要があるでしょう。


 この増田耕一のコメントは、連載Aの冒頭に示したIPCCによる炭素循環図についての記述です。

 まず冒頭の『この図では、まず自然の準定常状態の代表値が黒で示され、現状(実際は1990年代の状態ですがこう表現しておきます)が人間活動の影響を受けて自然状態からずれている量が赤で示されています。』は、例によって人為的CO2蓄積モデルが正しいとした場合の結論を述べているものです。同じことの繰り返しになりますので、これ以上の解説は行いません。
 次の文章『切り分けが変わっても正味の収支は変わらないはずですが、人為起源の流れの量に注目した詳しい議論をする際にはどの文献の約束によるかを明確にしておく必要があるでしょう。』は、前段の文章を受けて、彼の二つ目の書き込みへの導入というところでしょうか(笑)。特にここではコメントを控えておきます。

コメント4


 わたしも含めて多くの人が、

『人間活動によって排出された二酸化炭素の約半分が大気中にとどまっている』...(1)

のようなことを言うことがあります。発言者にとって、その意味は明確です。人間活動によって大気へ出てくる二酸化炭素の質量の流れの数値と、大気中にある二酸化炭素の質量の増加分の数値とを比べて、「後者が前者の約半分である」ということです。質量保存(物質不滅)の法則(前の記事で簡単ながら説明しました)に基づく質量収支の話です。

(中略)

『人間活動によって排出された二酸化炭素の量の約半分が大気中にとどまっている』...(2)

と述べた場合には、質量収支の議論であることを読み取っていただきたいと思います。


 さて、ここからが連載の初回に紹介した、気象予報士のはれほれ氏が憤慨している部分の記述になります。また、増田耕一の主張と標準的な人為的CO2蓄積仮説との違いなのかもしれません。

 長らく、おそらく東大IR3Sの冊子までは、あくまでも人為的CO2蓄積モデルでは『産業革命以後の大気中CO2濃度上昇の大部分は人為的に放出されたCO2そのものの半量程度が大気中に蓄積した結果』であると主張しています。それ故、東大IR3Sの冊子の議論16においてわざわざ『(前略)この累計で約350Gtというのは、産業革命以前の大気中二酸化炭素存在量の約7割であり、自然界の炭素循環過程での変動では吸収不能な量である。』と書いてあるのです。
 増田耕一は、ついにここで人為的CO2蓄積仮説から宗旨替えして、新たな増田モデルを提唱し始めたということでしょう。まあ、それはそれで全くかまいません(笑)。
 それはともかくこの文章の意図は、通常の日本語であれば、『大気中にとどまっている』のは『人間活動によって排出された二酸化炭素』であると解釈します。増田が言うように『人間活動によって大気へ出てくる二酸化炭素の質量の流れの数値と、大気中にある二酸化炭素の質量の増加分の数値とを比べて、「後者が前者の約半分である」ということです。』と解釈する人は普通はいません。改宗したことを素直に認めれば、はれほれ氏を激怒させることもなかったと思いますが(笑)。
 揚げ足を取るようで心苦しいのですが(笑)、ここで増田は日本語の修辞法について述べているので触れておきますが、この文章の主張は論理的に誤りです。増田の言う『流れの量』とは時間当たりの変化量であり、単位は例えば『Gt/年』で表される量であるのに対して、『大気中にある二酸化炭素の質量の増加分』は量を表すものであり単位は例えば『Gt』です。もしこれを比較するのであれば、『大気中にある二酸化炭素の質量の時間当たりの増加分』とでもするべきです。
 色々問題はありますが、このコメントによって、増田耕一は従来の人為的CO2蓄積モデルを廃し、新たなモデルに乗り換えたことが確認できます。
 つまり増田の主張は『人為的に放出されたCO2の増加が原因となって、大気中のCO2存在量は人為的に放出されたCO2量の半量に見合う量だけ増えている。』ということです。これは、ごくわずかな違いのように思われるかもしれませんが、決定的に重大なモデルの変更が必要になります。
 従来の蓄積モデルは自然起源のCO2と人為起源のCO2、そして元々大気中に存在していたCO2が全く独立の法則に従うものとして構成されていました。この点に対して、この連載のDの中において『同じ対流圏大気に放出されたCO2が互いに背反な独立な事象に分離できるというこのモデルは、物理学の基本法則であるエントロピー増大の法則に反するものです。』と述べました。
 ところが、ここで増田は産業革命以後に大気中に蓄積されているCO2量は、人為的に放出されたCO2量の半分程度に見合う量であるが、必ずしも人為的なCO2そのものである必要はないという主張に変更したのです。これは別の視点から見ると、人為的に放出されたCO2は、それ以外の自然起源のCO2や大気中に元々存在するCO2と混合することを認めたことになるのです。
 これによって、確かに増田の主張は『エントロピー増大法則違反』を回避できます。しかし、人為起源のCO2が自然起源のCO2放出や大気中に元々存在するCO2と混合するのならば、大気中に存在する全てのCO2には区別をつけることが出来ず、従って、循環モデルか蓄積モデルかにかかわらず、地表環境からのCO2放出量の3%程度にすぎない人為的なCO2によって、産業革命以後の大気中CO2濃度上昇の主因を説明することは不可能になるのです。
(続く)

No.509 (2010/12/16)増田耕一によるCO2濃度モデルI

4.増田コメントの検討(続き)

コメント2


 理論的根拠の第2は、地球環境の状態を、定常状態にそこからのずれ(摂動)が加わったものとしてとらえる考えかたです。ただし、この考えかたが現実に適切かどうかの判断は現実の証拠をもとにする必要があります。

(中略)

 産業革命以来、人間活動起源の排出が上向きの流れに加わりました。それは、これまでの準定常状態を乱すように働く「摂動」(英語では perturbation)となります。産業革命以後も前に述べた負のフィードバックは働いていますので、摂動が小さい一定値ならば、気候システムの炭素循環は自然の準定常状態から少しずれた準定常状態に落ち着くでしょう。実際には、少なくとも20世紀後半以後は、摂動がかなり大きくしかも増加しつづけて いるので、負のフィードバックは摂動の一部を打ち消していますが全部打ち消すほど強くはなく、大気中のCO2はたまり続けています。


 さて、増田耕一の言うこの『理論的根拠の第2』は理由でも何でもありません。全くの無駄な言葉を積み重ねただけの虚仮威し(こけおどし)の空論です(笑)。

 摂動(perturbation)とは聞きなれないことばですが、ある状態に対して加えられる微小な乱れ程度に考えておけばよいでしょう。
 構造工学の分野でも摂動を加えて現象の変容を追跡するという(数値)実験を行うことがあります。典型的なのが弾性不安定現象=座屈現象と呼ばれるものです。
 最も簡単な例として、両端をヒンジで支持された細長い棒の軸方向に力を加える場合を考えます。加える力Pの値が小さいうちは棒は長さ方向に縮むことになります。ところが、荷重Pを大きくしていくとある荷重(座屈荷重)に近づくと急激に棒の軸と直角の方向に変形が進み棒は大きく曲がることになります。

 仮に完全に真直ぐな棒に、完全にその軸方向に力を加えたとしたならば、棒は軸方向に縮むだけで、座屈を起こすことはないはずです。しかし現実的には完全に真直ぐな棒など存在しませんし、荷重を完全に軸方向に作用させることも出来ません。
 この現象を数値的に追跡する場合、棒の初期形状に微小なたわみ(棒の軸に対して直角方向の変形)を与えておきます。そうすると、棒は荷重が増加して座屈荷重に近づくと急激にたわみが大きくなり、座屈現象を再現することが出来ます。

 少し長くなりましたが、座屈の例のように、真直ぐな棒に微小なたわみ、つまり摂動を加えることによって、荷重Pが座屈荷重という限界状態に近づくと、真直ぐな棒の場合(軸方向の伸び縮み)とは全く異なる変形モード(軸直角方向のたわみ)を示す劇的な変化が起こります。
 摂動によって現象に劇的な変化が生じるような場合、摂動は劇的な変化を引き起こす一つの要因ではありますがそれだけでは何の意味もありません。摂動が重要な意味を持つのは、その系のモードが変わるような限界的な状態に近づく場合なのです。本質的に重要なことは加える摂動ではなく、系の状態がモードの変わるような限界点に達するかどうかなのです。

 既にお分かりのように、増田の『理論的根拠の第2は、地球環境の状態を、定常状態にそこからのずれ(摂動)が加わったものとしてとらえる考えかたです。』という主張は何の意味もありません。『理論的根拠』が『摂動が加わった』ことだとは全く意味不明です。どうせ言うのならば『人為的CO2放出という摂動が加わったことによってこれまで○○であった状態が××という状態に変化した。』はとすべきでしょう。ここで重要なのは、○○というのが限界的な状態であり、××という状態に変化することであって、その原因として人為的CO2放出という摂動がどのような役割を果たしたのかということです。
 既に述べたとおり、元の系が限界的な定常状態にあれば、微小な摂動が加わることによって系のモードが変化する可能性があります。しかし、元の系が安定した定常状態にあれば、摂動が加わったところで系のモードが変化することはありません。
 連載B「2-2 CO2循環モデルによる非定常過程の解釈」冒頭で述べたとおり、現在の地球大気組成から見てCO2は極めて希少気体であり、地表からのCO2放出量の摂動によって大気中の存在モードに劇的な変化が起こる可能性は全く考えられません。

 増田は『産業革命以来、人間活動起源の排出が上向きの流れに加わりました。それは、これまでの準定常状態を乱すように働く「摂動」(英語では perturbation)となります。』と述べます。ここで彼の言う『準定常状態を乱すように働く「摂動」』という表現は、限界的な定常状態を不安定化させるような擾乱と主張しているのであろうと思います。これを主張するためには、乱す対象となる定常状態がどのように実現されていて、人間活動起源の摂動がどのようにこの定常状態を変化させるのかを具体的に示さない限り、単なる彼の願望による空論です。
 既に述べてきたように、私たちの主張する循環モデルでは、大気中のCO2存在量は、

Q(t)=qin(t)/r(t), (tは時間を表す変数) ・・・(6)

で表現され、このモードは安定しており人為的なCO2放出の追加は、単に変数qin(t)の変化量として扱えば十分であると主張しているのです。
 人為的CO2蓄積仮説が主張するように、定常状態のCO2放出量を100とした場合に3に相当する増加によって、それまで定常状態にあった系が、突然発散する系に極端な変化を起こすことは非常に考えにくいことです。

 『産業革命以後も前に述べた負のフィードバックは働いていますので、摂動が小さい一定値ならば、気候システムの炭素循環は自然の準定常状態から少しずれた準定常状態に落ち着くでしょう。実際には、少なくとも20世紀後半以後は、摂動がかなり大きくしかも増加しつづけて いるので、負のフィードバックは摂動の一部を打ち消していますが全部打ち消すほど強くはなく、大気中のCO2はたまり続けています。』についても、変化前の定常状態がどのように実現されているかを説明していないので、どうして『摂動が小さい一定値ならば、気候システムの炭素循環は自然の準定常状態から少しずれた準定常状態に落ち着く』のか、なぜ『20世紀後半以後は、摂動がかなり大きくしかも増加しつづけて いるので、負のフィードバックは摂動の一部を打ち消していますが全部打ち消すほど強くはなく、大気中のCO2はたまり続けています。』のか全く意味不明です(笑)。なぜそのように解釈できるのかを論証することが必要なのです。

 仮に増田の言うように、産業革命以降に加わったCO2放出量に対する摂動(笑、ここでは変化の意味に過ぎませんが・・・)によって、大気システムのCO2存在量に劇的な変化が起こったとしても、量的に見て自然環境からのCO2放出の増加量のほうが人為的なものよりはるかに大きいのに、『なぜ人為的CO2』の変動のみが原因と主張できるのか、全く不可解です(笑)。
(続く)

No.508 (2010/12/15)増田耕一によるCO2濃度モデルH

4.増田コメントの検討 〜コメント1(続き)〜

 さて、私たちの循環モデルと人為的CO2蓄積モデルの大気中のCO2存在量の地表環境からのCO2放出量の変化に対する変動の特性を模式図に表してみます。

 図のA点は産業革命以前の定常状態を表す点です。私たちの主張する循環モデルでは、地表環境の吸収率が一定の場合、Q=qin/rで示される直線で定常状態が表されます。より一般的にはrは環境条件によって変化しますので、原点0を通り勾配1/rが異なる無数の直線で表されることになります。
 一方、人為的CO2蓄積仮説では、A点は共有しますが、定常状態を示すA点の状況よりもqinが減少する場合にはどのような状態になるのか、全く不明です。それは彼らのモデルでは、定常状態が現象的にどのように実現されているのかを全く示していないからです。その結果qinの減少による影響を考慮できないからです。
 A点からqinの値が増大する場合、私たちの循環モデルでは直線0〜Aの延長線上あるいはA点で直線0〜Aに接する曲線(吸収率rが変化する場合)上を移動することになります。いずれにしてもQ=qin/rを満足する有限確定値が存在することになります。

 ところが人為的CO2蓄積モデルでは、全く状況が異なります。もしqinの増加が人為的なCO2放出であった場合には、図の赤の矢印で示した半直線のように大気中のCO2量は定常値に収まらず時間の経過とともに無限大に発散することになります。ところが、qinの増加が自然環境の変動である場合には、大気中のCO2量は変化せず、A点から青の線で示すように水平方向右側へと移動することになります。
 このような状況を実現するようなシステムは現実にはありそうにもないのですが、とりあえず、次のようなモデルで表されるのではないでしょうか。

 つまり、増田らの蓄積モデルでは自然起源のCO2放出・吸収は自己完結しており、大気中のCO2濃度を変化させることはありません。これに対して、人為的な化石燃料によるCO2に関しては半量は大気中に蓄積し、半量は地表面環境に吸収されるのです。上の図はA点の定常状態を示していますので、人為的なCO2放出は0にしています。
 このモデルで、とりあえずqinが増加する場合の状況は表すことが出来ます。しかし、次の疑問が残ります。

@大気中のCO2存在量はどのように決まるのか?
A自然起源のCO2の放出・吸収量はなぜ平衡し、しかも大気中のCO2量に変化を与えないのか?
Bなぜ人為起源のCO2放出だけが大気中に蓄積され、しかも放出量の半分なのか?

 こうした基本的な問題について増田耕一は一切口をつぐんだままで何も説明しておらず、並べられた文章は空論の羅列でしかありません。

 最後に、蓄積モデルの現在の状態の模式図を示しておきます。産業革命前の定常状態と比較して、自然の炭素循環量は190.2Gt/年から211.8Gt/年に増加していますが、増田の蓄積モデルでは『そして、炭素の上向き・下向きそれぞれの流れの量が大きくても、打ち消しあっていれば、たまっている量の変化にはつながらないのです。』に従って、大気中のCO2存在量に全く影響を与えることはありません。

 儔=3.2Gt/年は、年率の増加量なので、Qの経年変化は次式で表されます。

Q=762+3.2t (t:経過年数)、∴Q→∞ (t→∞)

(続く)

No.507 (2010/12/14)増田耕一によるCO2濃度モデルG

4.増田コメントの検討

 さて、増田耕一のコメントを検討することにしますが、まずはじめに全体的な私の感想を述べておきます。

 増田は冒頭部分で『大気中のCO2量の変化のうちで人間活動起源のものがどのような部分をしめているのかの説明を、少し整理しなおして、複数回に分けて述べてみます。』と宣言しています。この書き込みは彼らの主張する人為的CO2蓄積モデルの現象的な背景を説明するのではないかという期待を抱かせるものでした。しかし、残念ながらついに最後までこの根幹部分に関する説明はなく、まったく無内容な空論を費やしているだけでした。
 また、現象的な背景説明を除いたとしても、彼の主張を全て満足するようなCO2循環モデルを想定することすら困難な、極めて支離滅裂なコメントが並んでいます。
 結論的には、基本的な人為的CO2蓄積仮説の構造を示していないので、議論は正に砂上の楼閣であり、思慮の浅い読者を煙に巻くことだけのために書かれた文章であることはまことに残念です。以下、具体的な記述について検討することにします。

コメント1


人間活動がなかった場合の海・陸を合わせた上向きの流れと下向きの流れの大きさはほぼ同じだったと考えられていますが、これを仮に100とすると、人間活動によって追加された上向きの流れは3にあたります。そして、人間活動の影響を受けた環境での自然の流れの変化が、正味下向きで1.5だけあり、残りの1.5に相当する分が大気中のCO2量の増加となっています。そこで、「人間活動起源のCO2はCO2[の上向きの流れ]全体の3%にすぎないので、大気中のCO2増加の大部分は自然の原因によるのではないか」という疑問が出されました。

 ところが、温室効果の強化によって気温などの気候状態に影響を与えるのは、大気中にたまったCO2の量であって、CO2の流れの量ではないのです。人間活動起源の排出の重要性を評価するには、上向きの流れのうちでの割合ではなく、大気中にたまることへの寄与を見るべきです。 そして、炭素の上向き・下向きそれぞれの流れの量が大きくても、打ち消しあっていれば、たまっている量の変化にはつながらないのです。


 さて、このコメントに増田耕一の理論展開の本質が示されています。以後のコメントでも同じことが繰り返されていますので、少し詳しく触れておきます。

 CO2の循環構造について、一体何を議論しているのでしょうか?私たちは、一貫してその現象的に考え得るモデルを提示し、その結論として循環モデルを主張しています。その帰結として、人為的なCO2放出の増加が大気中のCO2濃度上昇の主要な原因では在り得ないことを導きました。
 しかし、増田耕一をはじめとする人為的CO2蓄積モデルを主張する者たちは、現象的な解釈を一切抜きにして、いきなり人為的なCO2放出量の半量程度(に見合う)CO2が大気中に蓄積されているというモデルを提示し、これが真実であることを前提に議論を行っているのです。つまり、初めから論証すべき結論を正しいとする仮定の下に議論を行っているのですから、これは科学的な論証としては最初から破綻しているのです。彼らの主張には、巧妙にこの種の詭弁がちりばめられています。

 まず冒頭の文章で『人間活動がなかった場合の海・陸を合わせた上向きの流れと下向きの流れの大きさはほぼ同じだったと考えられていますが、これを仮に100とすると、人間活動によって追加された上向きの流れは3にあたります。』と述べています。前半部分は産業革命以前の定常的な炭素循環についてのコメントですが、本来ならばまず定常状態がどのように実現されているのかを考察しなければなりません。変化以前の状態がどのように定まっているのかを分析せずに変化の影響を論理的に考察することは不可能です。
 次に『そして、人間活動の影響を受けた環境での自然の流れの変化が、正味下向きで1.5だけあり、残りの1.5に相当する分が大気中のCO2量の増加となっています。』と述べています。これは読み流してしまいそうな文章ですが、この文章は既に人為的CO2蓄積仮説が正しいことを前提にした内容になっています。前段の文章から、彼は現在(IPCC2007年)の炭素循環を念頭にこの文章を書いているわけですが、産業革命以前の大気を巡る炭素循環の定常状態と現状の違いを何の論証もなく『人間活動の影響を受けた環境での自然の流れの変化』としているのです。
 私たちは全くそのような理解をしていないことは既に述べたとおりです。私たちは、『正味下向きで1.5』の主因は炭素循環に関連する自然環境の変化であると考えています。勿論『残りの1.5に相当する分が大気中のCO2量の増加』の主因も同じです。それが循環モデルから導かれた結論です。
 この増田の示した数値には巧妙なからくりが仕組まれています。

  産業革命前 現在
Gt Gt
CO2放出量 自然 190.2 100 211.8 111.4
化石燃料 0.0 0 6.4 3.4
合計 190.2 100 218.2 114.7
CO2吸収量 190.2 100 215.0 113.0

 増田の言う『人間活動がなかった場合の海・陸を合わせた上向きの流れと下向きの流れの大きさはほぼ同じだったと考えられていますが、これを仮に100とする』という内容は、産業革命以前の定常状態における炭素循環量190.2Gt/年を100とすることに相当します。これに対して、現在の人為的な化石燃料の燃焼に伴うCO2放出量は6.4Gt/年ですから、小数点以下を四捨五入して3%というのは良いでしょう。しかし、この間の自然環境の変化で自然起源のCO2放出量は1割以上増加し、211.8Gt/年、111.4%になっています。合計放出量は218.2Gt/年、114.7%になっているのです。同様に吸収量も215Gt/年、113.0%になっているのです。
 増田は、敢えて化石燃料起源のCO2放出量の変化にしか言及せず、そのほかの自然環境による変化要因を無視しているのです。産業革命以前の炭素循環量190.2Gt/年を基準にするならば、『人間活動がなかった場合の海・陸を合わせた上向きの流れと下向きの流れの大きさはほぼ同じだったと考えられていますが、これを仮に100とすると、現在の上向きの流れの増加量は14.7、下向きの流れの増加量は13にあたります。』とすべきでしょう。
 しかしこのように正確な表現をすると、なぜ増えたCO2放出量14.7の内の1.5だけが大気中のCO2濃度の上昇に寄与するのか(=なぜ地表環境の吸収率が13に増えるのか)、またその1.5の起源がどうして人為的な化石燃料の燃焼の影響だと確定できるのかという疑問が当然生じることになります。
 増田は、産業革命以前の炭素循環量を100とし、化石燃料起源のCO2放出量を3であるという事にだけ触れ、放出量の自然変動11.4に触れないことによって、問題を『人為的なCO2放出の影響で放出量が100から103になり、増えた3の内の1.5は環境の吸収増で処分され残りの1.5が大気に蓄積される』と敢えて勘違いさせようとしている意図がありありと読み取れます(笑)。
 増田は、どうして自然環境の変化の影響を無視して『そして、人間活動の影響を受けた環境での自然の流れの変化が、正味下向きで1.5だけあり、残りの1.5に相当する分が大気中のCO2量の増加となっています。』と主張できるのかを論証しなければこの文章は全く空論になってしまいます。

 さて、『ところが、温室効果の強化によって気温などの気候状態に影響を与えるのは、大気中にたまったCO2の量であって、CO2の流れの量ではないのです。人間活動起源の排出の重要性を評価するには、上向きの流れのうちでの割合ではなく、大気中にたまることへの寄与を見るべきです。』は、ここでの主題である炭素循環とは直接かかわりのない記述ですが、槌田-近藤による気象学会誌「天気」への第T論文との関係で興味深いものです。この論文の結論として、私たちは『気温と大気中CO2濃度の時間に対する一次の変化率(ここで増田の言うところのCO2の流れの量)が線形関係にあり、気温が原因となって大気中CO2濃度変化率が変動する』という結論に達しました。これに対して査読者は「原因と結果は逆である可能性も否定できない、即ち、大気中CO2濃度変化率が気温を変動させる可能性もある。」として私たちの結論を非合理的としましたが、少なくとも増田耕一は私たちの主張を支持してくれることだと思います(笑)。

 『 そして、炭素の上向き・下向きそれぞれの流れの量が大きくても、打ち消しあっていれば、たまっている量の変化にはつながらないのです。』は非科学的な主張です。連載のEで述べたとおり、CO2の発生源の如何を問わず、上向きの流れの量、つまり大気中へのCO2放出量と下向きの流れの量、つまり大気からのCO2吸収量は自動的に釣り合うわけではないのです。
 私たちの主張する循環モデルでは、CO2吸収量が増大するためには大気中のCO2分圧(=CO2濃度=CO2存在量)が上昇しなければならないのです。上向き・下向きの流れの量と大気中のCO2存在量は密接に関連しており、地表環境の吸収率が不変であれば、定常状態において上向き・下向きの流れの量と大気中のCO2存在量は比例関係にあるのです。
 増田の主張では、『(準)定常状態においては、CO2の上向き・下向き流れの量と大気中のCO2存在量は独立である』ということになりますが、現象的にそのような変化の過程を合理的に説明出来ない限り、彼の主張は単なる戯言です。このような無理なこじ付けを必要としたのは、産業革命以前から現在の間の自然起源の炭素循環量の約20Gt/年の増加の影響を無いものにし、大気中のCO2濃度の増加の全ての原因を人為的なCO2放出の影響とするための布石なのであろうと考えます。
 また、流れの量と独立な大気中のCO2存在量は一体どのような過程によって決まるのかも説明する必要があります。

(続く)

No.506 (2010/12/13)増田耕一によるCO2濃度モデルF

 少し前置きが長くなりましたが、大体準備が整いましたので、掲題の増田耕一の主張の検討に入ることにします。検討に入る前に今回はブログ『気候変動・千夜一話』に書かれた彼の書き込みをそのまま転載しておきます。青文字にした部分は次回以降に検討する内容です。


2010年09月25日03:13     地球温暖化に関する科学地球温暖化懐疑論について

炭素循環の中での人為起源二酸化炭素(1) たまりと流れ

「ニセ科学批判」で知られる物理学者の菊池誠さんのブログKikulogで、東京大学IR3S/TIGS叢書として出された「地球温暖化懐疑論批判」の本の話題が、Kikulog 2009年10月28日の記事と続きのKikulog 2010年4月3日の記事にわたって続けられ、たくさんのコメントがついています。わたしは1つめの途中の3月から参加し、おりにふれて気候の科学の説明を試みてきました。 Kikulogの議論の参加者は物理や工学の背景知識をもつ人が多いのですが、気象学など気候に関する科学の常識が必ずしも知られていなかったり、用語の意味がずれて理解されていたりすることがあるので、基本に立ちもどって説明する必要がありました。また、参加者のみなさんのご指摘から学ぶことも多くありました。

 そのうちから、ここでは、大気中のCO2量の変化のうちで人間活動起源のものがどのような部分をしめているのかの説明を、少し整理しなおして、複数回に分けて述べてみます。

 わたしはたびたび「地球温暖化の認識は理論が先行した」と述べていますが、これは「『大気中のCO2濃度がふえれば気温が上がる』という認識は、物理・化学に基づく理論が先にできたのであり、気温が上がったという事実を見てから理由を考えたのではない」という意味です。他方、『人間活動によって大気中のCO2濃度が上昇した』という認識のほうは、理論というよりは観測事実の総合的解釈によっていると言えます。

 ただしこの場合も、不完全ながら理論的根拠はあるのです。まず、質量保存(物質不滅)という基本的物理法則です。物質が出入りできる箱についての質量保存は「箱の中の質量の増減(増加が正)は、箱の壁を通る正味の質量の出入り(入りが正)に等しい」と表現できます。地球上で主要元素の質量に注目した場合は核反応で元素が変わることは無視できますので、炭素原子だけに注目してその質量保存を考えることができます。またCO2は大気全体のうちでは微量でありそれが加わっても大気の総質量の変化はわずかなので、大気中のCO2濃度は大気中のCO2の形になっている炭素総質量に比例するとみなせます。

 継続観測のある1958年以来、大気中のCO2量は(季節変化をならすと)増加しつづけており、その増加量は化石燃料の燃焼によって大気中に出て行った量の約半分です。大気・海(海水および海洋生物)・陸(植生と土壌)を合わせた仮称「気候システム」の箱の中の炭素の質量は、化石燃料からつけ加わった分だけふえているはずです。(海底堆積物に行くものや、火山からの供給、岩石の風化反応など、固体地球との相互作用もありますが、その動きは遅いので単位時間あたりの流量は小さく、気候システムの炭素の収支勘定にとってはこれを無視する近似でもよさそうです。) それだけで、化石燃料燃焼が大気中CO2濃度の増加の主要な原因だと納得する人も多いでしょう。しかし、次のように考えて、納得しない人もいます。

 人間活動がなくても、大気と海・陸との間には炭素のやりとりがあります。陸上の植物が光合成をすれば炭素の下向きの流れがあり、その有機物が分解すれば上向きの流れがあります。人間活動がなかった場合の海・陸を合わせた上向きの流れと下向きの流れの大きさはほぼ同じだったと考えられていますが、これを仮に100とすると、人間活動によって追加された上向きの流れは3にあたります。そして、人間活動の影響を受けた環境での自然の流れの変化が、正味下向きで1.5だけあり、残りの1.5に相当する分が大気中のCO2量の増加となっています。そこで、「人間活動起源のCO2はCO2[の上向きの流れ]全体の3%にすぎないので、大気中のCO2増加の大部分は自然の原因によるのではないか」という疑問が出されました。

 ところが、温室効果の強化によって気温などの気候状態に影響を与えるのは、大気中にたまったCO2の量であって、CO2の流れの量ではないのです。人間活動起源の排出の重要性を評価するには、上向きの流れのうちでの割合ではなく、大気中にたまることへの寄与を見るべきです。 そして、炭素の上向き・下向きそれぞれの流れの量が大きくても、打ち消しあっていれば、たまっている量の変化にはつながらないのです。

 たまりと流れとを関連づけるのは、質量保存の法則です。

 理論的根拠の第2は、地球環境の状態を、定常状態にそこからのずれ(摂動)が加わったものとしてとらえる考えかたです。ただし、この考えかたが現実に適切かどうかの判断は現実の証拠をもとにする必要があります。

 産業革命前の状況では、大気中のCO2量の変化は小さかった、つまり炭素循環は準定常状態だったと考えられています。「準」と入れたのは、完全な定常状態ではなくゆらぎを含んでいるという意味です。

 大気中のCO2濃度の変化が小さかったという事実の裏づけとしては、南極の氷の気泡中のCO2濃度の分析結果があります。最近数百年のうちの変化を見るには、南極大陸のうちでも海岸に近く降雪量の比較的多いところの氷が使われます。たとえばLaw Dome (ロードーム)という場所のサンプルをオーストラリアの研究者が分析した結果がアメリカのCDIAC (Carbon Dioxide Information Analysis Center)のこのページにあります(Graphicsというリンクの先に図があります)。気泡が閉じるのに30年から50年の時間がかかるので、それよりも細かい時間スケールの情報はならされていると見るべきですが、産業革命前の約千年にわたって大気中のCO2濃度は280±10 ppmの範囲だったことがわかります。

 大気自体のCO2濃度の分析値のうちにはもっと大きな値を示すものがあり、それを根拠として今のようなCO2濃度の高さは産業革命以後に限られたものではないと主張する人が少数ですがいます。(今月亡くなったそうですがドイツの高校教師だったE.-G. Beckという人が主張していました。) しかし、多くの科学者は、昔の大きな値は工業や都市などの発生源の影響を大きく受けていて大気全体に対する代表性が乏しいと考えています。それは1958年以来の継続観測を始めた C.D. Keeling (キーリング)氏(2005年に亡くなった)がその前の1950年代なかばに明らかにしたことで、その判断をうけて継続観測の場所としてハワイ島や南極が選ばれたのです。(この件はワート『温暖化の<発見>とは何か』(第2章)やその詳しいウェブ版(英語)でも紹介されています。Keelingさん自身の回顧は、たとえばブループラネット賞受賞者の記録のうち1993年のLecture (英語)にあります。)

 また、濃度の変化が小さかった(つまり、上向きと下向きの流れが平均としてほぼつりあっていた)原因の候補としては、まず、大気と海の間の交換量が濃度の差に依存していることがあげられます。海水中の濃度が変わらずに大気中の濃度だけがふえれば、下向きの流れがふえ、あるいは上向きの流れが減り、このような流れの変化は大気中の濃度の変化を減衰させる負のフィードバックとして働くのです。 大気と陸の間の交換の一部も、濃度の差に依存して変わると考えられます。

 産業革命以来、人間活動起源の排出が上向きの流れに加わりました。それは、これまでの準定常状態を乱すように働く「摂動」(英語では perturbation)となります。産業革命以後も前に述べた負のフィードバックは働いていますので、摂動が小さい一定値ならば、気候システムの炭素 循環は自然の準定常状態から少しずれた準定常状態に落ち着くでしょう。実際には、少なくとも20世紀後半以後は、摂動がかなり大きくしかも増加しつづけて いるので、負のフィードバックは摂動の一部を打ち消していますが全部打ち消すほど強くはなく、大気中のCO2はたまり続けています。

 IPCC第4次第1部会報告書の図7.3[原本HTML版][説明文をわたしが仮に日本語訳したもの]は、炭素の質量収支についての知見をまとめたものです。気象庁の「海洋の炭素循環」のページの図も、数値の単位の桁が変更されていますが、同じ情報です。これは基本的にはわたしが「気候システム」と呼んだところを部分に分けての質量収支ですが、そのシステム外にある「化石燃料」と「(海底の)表層の堆積物」という炭素のたまりの箱もかかれています。

 この図では、まず自然の準定常状態の代表値が黒で示され、現状(実際は1990年代の状態ですがこう表現しておきます)が人間活動の影響を受けて自然状態からずれている量が赤で示されています。気象庁の図の説明の「赤は人間活動により大気中へ放出された炭素の循環をあらわしている」という表現は残念ながらまぎらわしいですが、この図は「人間活動によって放出された炭素」というもの(物体)を追いかけたものではありません。(ものを追いかけた議論と量の収支の議論との概念的区別については、追って記事(2)として述べます。) IPCCの原本の図の説明では「人間活動による」または「人為起源の」に相当するanthropogenicということばには引用符がついていて、ここでの独特な意味づけは本文7.3.1.2節で 説明されています。化石燃料からの排出以外の赤数字は現状と自然の準定常状態(黒数字)との差をとりだしたものです。現状(1990年代)の実体は黒と赤の合計なのです。現状は流れがつりあっておらず、化石燃料の炭素が減るぶん大気などいくつかの箱の炭素がふえつづけていますが、それが赤だけを見てもわかるようになっています。

 なお、人為起源の上向きの炭素の流れのうちに土地利用変化によるもの(1.6ギガトン/年)があげられていますが、これと、自然状態で存在する大気と陸との間の炭素の流れが人間活動の影響を受けて変化すること(図では正味下向きにまとめて2.6ギガトン/年という数値が示されている)とは厳密には区別できず、数値の切り分けはなんらかの約束によることになります。切り分けが変わっても正味の収支は変わらないはずですが、人為起源の流れの量に注目した詳しい議論をする際にはどの文献の約束によるかを明確にしておく必要があるでしょう。

 持続可能性が望ましいという価値判断のもとで考えると、流れの量のうちの赤で示された部分が0に近い(ただしたまりの量の赤の部分が0になるとは限らない)自然の準定常状態にもどしていくのが望ましいのだと思います。(人間には地球の炭素循環全体を管理してこれと違った準定常状態を維持する能力はないのです。) 自然の準定常状態にもどしていく手段として人間の意志でできそうなのは、化石燃料消費を減らすことと、土地利用改変による正味の炭素排出を減らすことであり、それは今の経済活動のしかたを大きく変えていくことをせまるのです。(人工的に陸による炭素吸収をふやすことや、海洋の表層から中層・深層への炭素の流れをふやすことは、いわゆるジオエンジニアリング(geoengineering)の課題としては考えられますが、もし実行の提案をするならばその前に、その具体的方法は原理的に可能か、炭素排出を伴わないエネルギー資源が利用できるか、有害な副作用はないかなど、多くの疑問に答えることが必要です。)

(この記事も一つ前のものと同様、知識を整理することをブログの履歴を明示することよりも重視しますので、とくにことわらずに改訂する可能性があります。)

masudako


2010年09月26日15:30     地球温暖化に関する科学地球温暖化懐疑論について

炭素循環の中での人為起源二酸化炭素(2) 質量収支の議論とものを追いかけた議論
前の記事に続く話題です。

 わたしも含めて多くの人が、

『人間活動によって排出された二酸化炭素の約半分が大気中にとどまっている』...(1)

のようなことを言うことがあります。発言者にとって、その意味は明確です。人間活動によって大気へ出てくる二酸化炭素の質量の流れの数値と、大気中にある二酸化炭素の質量の増加分の数値とを比べて、「後者が前者の約半分である」ということです。質量保存(物質不滅)の法則(前の記事で簡単ながら説明しました)に基づく質量収支の話です。

 なお、「約半分」とした数値は、「人間活動による排出」をどう定義するか(前の記事でもふれた土地利用変化の扱いなど)や、対象となる時期をどうとるかによって、たとえば「約60%」となることもありますが、ここではそこまで含めて「約半分」としておきます。

 ところが、この(1)の表現のすなおな解釈は、発言者の意図とちがうものになりがちであることがわかりました。そして、その解釈は大気・海・陸の間の炭素循環の事実と違います。したがって、(1)のような発言は避けるべきであることがわかりました。しかし、わずかな違いですが、

『人間活動によって排出された二酸化炭素の量の約半分が大気中にとどまっている』...(2)

と述べた場合には、質量収支の議論であることを読み取っていただきたいと思います。このような発言をするたびに質量保存の法則を説明しなければならないとすると、入り口の段階で話が長くなりすぎて大事なことに進めないことがあるのです。

 上の(1)の表現を、「人間活動によって排出された二酸化炭素」という「もの(物体、たとえばCO2分子)を追いかけた議論」だと思うのが、すなおな受け取りかたなのかもしれません。

 実際には、二酸化炭素には人間活動によって排出されたという印はついていないので、それを追いかけた観測値はありません。ただし、同位体比が違いますので (たとえば放射性の炭素14に注目すると、生きている生物の有機物は最近大気中で窒素14に宇宙線があたって作られた炭素14を含んでいますが、化石燃料の炭素14は事実上崩壊しつくしているので)、確率的な意味で印がついているということはできます。また、風などの観測値あるいは理論的計算値をもとに、 大気中に出てきた物体を追いかけた理論的計算をすることもできます。したがって、物体を追いかける発想での炭素循環に関する科学的情報がないわけではありません。

 そのうち簡単なものとして「平均滞在時間[注]」という考えかたがあります。 大気中のCO2の場合について言えば、大気全体をひとつの箱と考え、大気にはいってきたCO2の分子が、出て行くまでにどれだけの時間が経過するかを考えます。もちろんその時間はまちまちです。しかし、現在大気中にCO2の形で存在する炭素の質量の総量を、大気にはいっていく(または大気から出て行く、どちらか一方だけの)炭素の流れの量(単位時間あたりの質量)で割って得られた時間が、大気中のCO2の平均滞在時間であると言うことができます。

[注]ここで「平均滞在時間」としたことがらは「平均滞留時間」という表現のほうがふつうに使われていますが、「滞留」は「対流」と聞いて区別がつかないので、わたしはそれを避け、「滞在」でも意味が変わらないと判断してこのような表現を採用しました。

 平均滞在時間の概念は準定常状態を前提として考えられたものです。たまっている量が変化しつづける状態では、はいる側と出る側のどちらの流れの量を使うかによって数値が違ってしまいます。しかし、出入りの差が出・入りそれぞれに比べて小さいならば、出・入りのどちらを使っても似た値が得られますので、どちらかを一貫して使えばよいでしょう。なお、平均滞在時間に比べて短い時間スケールでの流れの量の変化をもとに平均滞在時間の変化を論じるのは不適切です。

 観測事実を整理したもの(たとえば前の記事で紹介したIPCC第4次第1部会報告書の図7.3)から数値をもらって計算すれば、大気中のCO2の平均滞在時間は約3年であることがわかります。自然の準定常状態と人間活動の影響を受けた現状とでは数値が少し違ってきますが、大まかな近似として約3年であることは変わりません。

 このことから、やはり大まかな近似として「ある1年間に大気に出てきたCO2のうち、1年後に大気中に残るのは約3分の2である」と言うことができます。これを認めて、さらに同じことが続くとすれば、2年後, 3年後, ...に残るのは3分の2の2乗, 3乗, ...である9分の4, 27分の8, ...である、という理屈が成り立ちます。3年以上前に出てきたもののうち大気中に残っているぶんは、半分よりだいぶ少ないはずです。槌田(2008)の評論の中の炭素循環の議論は、このように「人間活動起源のCO2というものがどれだけ残っているか」という意味では理解できます。

 しかし、温室効果を通じて気候に影響を与えるのは大気中にあるCO2の総量であり、直接人間活動起源のものだけではありません。化石燃料起源の炭素原子が海または陸に行っても、同じ個数の炭素原子が海または陸から出てきたら、気候に影響する大気中のCO2は 減りません。気候への影響を考えるうえでまず必要な炭素循環の数値は、質量収支の立場のものなのです。炭素原子を追いかけた議論も、炭素循環を理解するうえで有用ではあるのですが、質量収支に貢献するためには、化石燃料から出てきた原子のほかに、自然の過程で出てきた原子も追いかけて、合計を議論しなければならないのです。

 東京大学IR3S/TIGS叢書として出された『地球温暖化懐疑論批判』の第3章の「議論18」の「証拠1」の部分は、人為起源の排出のあるとき大気中CO2濃度はどうなるかに関する槌田(2008)の論点への反論です。Kikulogでの議論で気づいたことであり「批判」の本の原稿を書いた当時は意識していなかったのですが、槌田さんの議論はものを追いかけた議論とみなしたほうがよく理解できるのに、反論ではそれを質量収支の議論とみなしたので、議論がすれちがったと言えるかもしれません。今から思えば、ものを追いかけた議論と質量収支の議論の違いを認識したうえで、この文脈では質量収支の議論が必要なことを明示したほうがよかったと思います。

 もし人間活動による摂動がなくなれば、大気中のCO2の量は、準定常状態に近づいていくことになりそうです。どのような時間スケールで近づいていくかはひとことでは言えません。(わたしにはあまり詳しい知識はありませんが、次の記事で専門家の検討結果を紹介します。) あえてひとつの時間スケールで代表させればそれが3年よりも長いことは確かです。

(この記事も前のものと同様、知識を整理することをブログの履歴を明示することよりも重視しますので、とくにことわらずに改訂する可能性があります。)

文献
" 槌田 敦, 2008: 温暖化の脅威を語る気象学者のこじつけ論理。一物理学者からの反論 -- CO2原因説批判。季刊 at (あっと) 11号 (2008年3月, オルター・トレード・ジャパン、発行:太田出版), 65-83.

masudako


(続く)

No.505 (2010/12/12)増田耕一によるCO2濃度モデルE

3-1 人為的CO2蓄積モデルの登場(続き)

 人為的CO2地球温暖化仮説を支持する人々の間には、自然起源(=直接的に人為的な活動を起源としない)CO2放出は、完全な循環構造を形成しているという、何の科学的な根拠もない暗黙の前提があるようです。例えばバイオマスを燃料にして燃焼させても大気中のCO2濃度は増加しないなどという愚かな信仰があるようです。この考え方を敷衍して、“自然現象”である海洋からのCO2放出速度の増加分は、完全に地表環境に吸収されるので、大気中のCO2濃度は変化しないと言うのです。なんという愚かな主張でしょうか。
 これは、例えれば容積の変化しない容器に入口と出口を設けて、この容器に非圧縮性の流体を流しているようなモデルということが出来るでしょう。入力を変化させると自動的に出力もこれに連動して常に入力流量=出力流量の関係が成り立つことになります。このようなモデルであれば、出力の変化の原因は単に入力が増えたからであるということであり、それ以上の説明は不要です。
 しかし、大気を巡る炭素循環では状況が本質的に異なります。気体である大気の容積や圧力はいくらでも変化することが可能であり、まして大気中の希少ガスであるCO2量は10倍になっても大気システムは何の支障もありません。このような状況では、地表環境から大気へのCO2放出という現象と、大気から地表環境へのCO2吸収という現象を直接関連付けることは困難であり、CO2吸収現象は大気中のCO2濃度に関連する生物・化学過程と考えるべきです。
 つまり、大気へのCO2放出速度が上昇すれば、例外なく大気中に存在するCO2量は増加するのです。CO2量の増加は大気という混合気体中のCO2分圧(=CO2濃度)を増大させ、CO2吸収反応の反応速度が早くなることで地表環境からのCO2放出速度と釣り合うことで定常状態を回復するのです。

 自然の炭素循環は大気中のCO2量を変化させないという主張は、歴史的な記録ともまったく矛盾します。少なくとも、南極氷床などに残された過去の大気中CO2濃度の痕跡から、人為的な影響がなくても大気中のCO2濃度は大きく変動しているのです。では、彼らの言う自然の炭素循環における大気中CO2濃度は一体何によって決まるのかを明らかにしなければならないでしょう。

 それと、単純な話ですが、式(15)で表される炭素量モデルでは、人為的なCO2放出速度が有限な値である限り、その速度が一定値であっても時間の経過とともに大気中のCO2量は無限大に発散してしまうのです。

 以上のように、人為的な化石燃料の燃焼によって放出されたCO2の半分程度が大気中に選択的に蓄積したことによって大気中のCO2濃度が上昇するというモデルは科学的に評価するには値しない非現実的なモデルなのです。

3-2 東大IR3S『地球温暖化懐疑論批判』

 この冊子の出版には増田耕一も直接関わっています。この冊子の中で、大気を巡る炭素循環あるいは大気中のCO2濃度を決定する基本構造をどのように解釈するかについて直接的に関連しているのは議論16と議論18です。この二つの議論について簡単にコメントしておきます。

議論16


炭化水素燃料の燃焼によって大気に付加される二酸化炭素による炭素の供給量は6Gt程度であって、年間に大気と生態系・海洋表層水と交換される二酸化炭素による炭素量200Gtのわずか3%に過ぎない(近藤 2006)。


 この私の主張は既に前回までに説明した循環モデルからの当然の帰結です。これに対して人為的CO2蓄積モデルを持つ彼らの主張は『(前略)この累計で約350Gtというのは、産業革命以前の大気中二酸化炭素存在量の約7割であり、自然界の炭素循環過程での変動では吸収不能な量である。』ということだけです。しかしこれは噴飯ものです。
 彼らの言う350Gtという累計量は、200年間で平均すれば、年間わずか1.75Gt/年に過ぎず、まったく問題になりません。これは、年間放出量を累計放出量に言い換えることで莫大な量であるという印象操作によって読者を煙に巻く詭弁です。そんなことを言えば、同期間に放出された自然起源のCO2量は40,000Gtにも及びます(笑)。こんな主張で私たちの循環モデルを論理的に否定することは出来ません。
 彼らに必要なのは、自然起源の年間交換量200Gt/年は完全に循環するが、なぜ1.75Gt/年の内の、しかも半量だけが大気中に蓄積するのかを科学的に論証することによって蓄積モデルの合理性を主張し、循環モデルを論理的に否定することです。冊子の彼らの主張は全てそうなのですが、『私たちは正しい、故に対立する意見は誤りである』としか言っておらず、ではなぜ蓄積モデルが正しいのかを一切説明していないのです。このような主張をする者の見識を疑いたくなります。
 彼らは、産業革命以降に放出された炭素重量にして累計350Gtの化石燃料起源のCO2の半量程度165Gtが大気中に蓄積した結果、IPCCの炭素循環図に示すように大気中のCO2量が増加したと言いたいようですが、私たちが問題にしているのは、増加した165Gtがなぜ化石燃料起源のCO2の蓄積によると解釈できるのかという点なのです。冊子を執筆したメンバーには残念ながら科学的な議論の論点を理解できる者がいないようです。実に低レベルの冊子というほかありません。

議論18


人為的に排出された二酸化炭素の大気中滞留時間は短い。


 これは循環モデルにおける平均滞留時間τ(年)は大気中に存在するCO2量Q(Gt)を地表環境の吸収速度qout(Gt/年)で割ることによって次のように求めることができます(数値はIPCC炭素循環図による)。

τ=Q/qoutτ=1/r=1/0.282=3.55(年)

 ここの議論18における冊子の記述にはあきれ果てます。彼らには私たちのモデルの意味するところがまったく理解できないようです。私たちは蓄積モデルを誤って理解しているのではなく、まったく異なる循環モデルを提案しているのであって、モデルが異なるのですから内容が異なるのは当然です。問題とすべきはいずれが論理的により現実を表現するかどうかという点を論証することです。
 『反論』冒頭部分の槌田の主張に対する彼らの解釈はまったく誤っており、これにコメントする必要はありません。私たちの主張は既に『2.循環モデルによる大気中CO2濃度』に紹介している通りです。

 彼らの蓄積モデルの構造に触れた部分を以下に引用しておきます。


 したがって、人間活動によって放出されるCO2量をQ、森林や海洋による吸収量のQに対する割合をrとし、Qとrは時間変化しないと仮定すれば、大気中に残存するCO2量の正しい計算方法は、

Q×(1−r)+Q×(1−r)+Q×(1−r)+・・・

 ということになる。この数列は収束せず、人間活動によるCO2放出が続く限り大気中のCO2量は増えていくことになる。


これは、経過年数をt年と考えれば、式(15)で示した蓄積モデル

Q(t)=Q0+C・t=Q0+0.5・qin1・t ・・・(15)

において、Q0=0、0.5=(1−r)とした場合と等価です。故に彼らの蓄積モデルに対する私の解釈は正しいものと思われます。また、彼らは、自ら『この数列は収束せず、人間活動によるCO2放出が続く限り大気中のCO2量は増えていくことになる。』と述べていますので、この発散するモデルの不合理性をまったく理解していないようです。

 さて、彼らのモデルは放出量と吸収率が一定であっても大気中のCO2存在量は単調に増加し続け発散するという、誠に滑稽なモデルです。私たちの循環モデルは既に述べたとおり、放出量と吸収率が一定であれば、大気中のCO2量は有限確定値が一意的に決まります。

図14は、大気中CO2量の初期値を0とした場合の式(2)

Q= qin+qin×(1−r) + qin×(1−r)2+・・・+ qin×(1−r)n= qin×{1−(1−r)(n+1)}/r, (nは経過年数) ・・・(2)

の収束状況を模式的に描いたものですが、これは定常解を求めるためのプロセスであって、意味があるのは式(3)で表される定常解

Q=qin/r  ・・・(3)

です。既に述べたように、実際の地球環境の炭素循環では、地表環境からのCO2放出量と吸収率はステップ関数的に急激に変化することはなく滑らかな連続関数として表現できると考えられますから、非定常な場合においても私たちの循環モデルは近似的に式(6)で表されるのです。

Q(t)=qin(t)/r(t), (tは時間を表す変数) ・・・(6)

 図14の槌田説を示す曲線を描いた著者は、循環モデルの非定常な変化が図の曲線で表されると勘違いした頓珍漢な理解のようです。放出量、吸収量が一定値であれば、槌田説は大気中のCO2存在量も一定値(水平線)になることを主張するものなのです。
(続く)

No.504 (2010/12/11)増田耕一によるCO2濃度モデルD

2-2 CO2循環モデルによる非定常過程の解釈(続き)

 IPCCの炭素循環図についての前回までの議論をまとめると次の通りです。

項目 産業革命以前 現在(1990年代)
CO2放出速度(Gt/年) 自然起源CO2 190.2 211.8
化石燃料CO2 0.0 6.4
地表環境の吸収率(1/年) 0.319 0.282
大気中CO2の炭素重量(Gt) 自然起源CO2 597 751.1(97%)
化石燃料CO2 0 22.7( 3%)
合計 597 773.8

 表から分かるように、現在の大気中に含まれるCO2量に対する人為的な化石燃料の燃焼による影響は、高々3%にすぎず、たとえ化石燃料燃焼に伴うCO2放出を0にしたとしても、大気中のCO2量は22.7Gt減少するに過ぎないのです。大気中のCO2量を減らすために化石燃料の消費抑制を行うという対策の効果はまったく無意味といってよいでしょう。

3.人為的CO2蓄積説 〜Keelingから東大IR3S『地球温暖化懐疑論批判』まで〜

 歴史的に、大気中のCO2濃度を高精度で継続的に観測したデータは、南極とハワイのMauna Loaにおいて故C.D.Keelingが1958年に開始したのが始まりです。現在、大気中のCO2濃度に関する科学的な議論が行えるのは彼の功績によると言ってよいでしょう。まずはじめに、1958〜2010年にわたるMauna LoaにおけるCO2濃度の月平均値を示しておきます。

 

 概略を説明しておきますと、1958年当初のCO2濃度は315ppm程度、その後52年間で2010年には390ppm程度に上昇しました。この間の大気中CO2濃度の年上昇率は平均で1.442ppm/年程度です。

3-1 人為的CO2蓄積モデルの登場

 C.D.Keelingは、彼の大気中CO2濃度の連続観測データと同時期の化石燃料の燃焼によって大気中に放出されたCO2量を比較して、大気中のCO2の増加量は化石燃料燃焼起源のCO2の半量程度であるという報告をしました。これを契機に、いわゆる人為的CO2蓄積仮説が広く支持されるようになりました。大気中のCO2量Q(t)を、時間tに関する一次関数で近似する人為的CO2蓄積モデルを数式で表すと次の通りです。

Q(t)=Q0+C・t=Q0+0.5・qin1・t ・・・(15)

 ここに、
Q0:1958年の観測開始時点のCO2濃度の初期値(Gt)
C:近似関数の勾配(Gt/年)
qin1:人為的な化石燃料燃焼によるCO2放出速度(Gt/年)

 この式(15)の意味は、大気中のCO2濃度を時間tの一次関数とした場合の傾きCが、人為的な化石燃料の燃焼によって放出されるCO2放出速度qin1の半分で近似できるというだけのことです。C=0.5・qin1だということに現象的にどのような意味があるのかは、いまだかつて合理的な説明を聞いたことがありません。C=0.5・qin1に現象的に必然性がない限りCをqin1で表す必要はなく、例えば、qin2を用いて、C=0.16・qin2と表現しても何の不都合もありません。
 なぜ大気中に蓄積されるCO2量は『人為的な化石燃料の燃焼によって放出されるCO2放出速度qin1の半分』なのでしょうか?残りの半分はどこに行ったのでしょうか?これがこの蓄積仮説に対する当初からの疑問であり、ミッシング・シンクと呼ばれてきました。蓄積仮説の妥当性を主張するためにはこの問題を説明しなければなりません。

 式(15)が物理現象を表現しているのだと主張するのであれば、Q0(これは、工業化以前の“自然の”炭素循環の定常状態と解釈してよいでしょう)が現象的にどのように決まるのかについてまったく何の情報もありません。それだけでも式(15)はCO2循環構造を説明する式としては既に破綻しています。
 更に、産業革命以前の炭素循環構造を示す第一項と人為的な影響によるCO2濃度の上昇を示す第二項の線形結合で表されていることから、二つの現象は独立した事象である事を主張しています。同じ対流圏大気に放出されたCO2が互いに背反な独立な事象に分離できるというこのモデルは、物理学の基本法則であるエントロピー増大の法則に反するものです。

 以上の示した点からだけでも人為的CO2蓄積仮説は自然科学的に破綻しています。更に問題なのは産業革命以前の大気中CO2濃度Q0について、何の論理的な解釈も行っていないことです。産業革命以後の地表環境からのCO2放出速度の変化が人為的な化石燃料の燃焼だけであれば、Q0についての現象的解釈を行わなくても、人為的CO2蓄積仮説で説明することも可能だったかもしれません。
 ところが、IPCCの炭素循環図で示されているように、産業革命以後に人為的な化石燃料の燃焼以外に海洋からのCO2放出速度が20Gt/年程度増加しているのです。この海洋からのCO2放出速度の増加は、勿論、蓄積部分に加えることは出来ませんから、式(15)の第一項であるQ0に何らかの形で考慮すべきです。ところが、人為的CO2蓄積仮説は産業革命以前の炭素循環構造を明確に説明していないために、海洋からのCO2放出速度の増加の影響を無視する以外にないのです。量的に人為的な化石燃料の燃焼によるCO2放出速度よりもはるかに大きな海洋からのCO2放出速度の増加分の影響をどのような合理性があって無視できるというのでしょうか?
(続く)

No.503 (2010/12/10)増田耕一によるCO2濃度モデルC

2-2 CO2循環モデルによる非定常過程の解釈(続き)

 前回示したとおり、人為的な化石燃料の燃焼起源のCO2放出の追加だけでは到底この200年間の大気中CO2濃度の上昇を説明することはできません。
 さて、IPCCによる炭素循環図では、産業革命以後に増加した地表環境からのCO2放出速度の増加には化石燃料の燃焼以外に、海洋からの増加分冫in2=20Gt/年と陸域からの増加分冫in3=1.6Gt/年が計上されています。これらによる大気中CO2の増加量は以下の通りです。

2=冫in2/r=20.0/0.319=62.70(Gt)
3=冫in3/r=1.6/0.319=5.02(Gt)

 以上をまとめると、産業革命以後のCO2放出速度の増加による大気中のCO2の増加量の合計は、

儔=儔1+儔2+儔3=20.06+62.70+5.02=88.32(Gt) ・・・(11)

 内訳を見ると、当然のことですが、この間、大気中のCO2量の増加に最も寄与しているのは海洋からのCO2放出速度の増加なのです。

註2) IPCCの炭素循環図の解説では『「人為起源の」フラックスを赤で示す』と説明していますが、これは人為的CO2地球温暖化仮説が正しいという立場からの恣意的な解釈を含んでいます。最も寄与度の大きい海洋からのCO2放出速度の増加が人為起源のフラックスであるという事実は存在しません。増田耕一はこの図に対する『補足』として『ここで「人為起源の」フラックスとは、「自然」の状態からの量の差を示すものであり、人為起源の炭素を別に数えているわけではない。』と微妙にその意味を変更していますが、では彼の言う『自然』の状態とは一体何をさすのか、これまたどこにも定義されておらず意味不明です。
 おそらく解説の『「人為起源の」フラックスを赤で示す』の意味は、人為的な影響によるという意味だと考えられます。CO2地球温暖化仮説に立てば、人為的に大気に付加されたCO2による大気の温室効果の増大による気温上昇がもたらした海水温の上昇によって海域からのCO2放出速度が増大したからというシナリオなのだと考えられます。しかし、これは人為的CO2地球温暖化仮説による解釈であって、いまだ推測にすぎません。
 ここでは炭素循環について考えているので、炭素循環図の解説としては『産業革命以前の海域からのCO2放出速度に比較して、現在のCO2放出速度は海水温の上昇によって20Gt/年程度増加している』とすべきでしょう。

 IPCCの炭素循環図によると、現在の大気中に存在するCO2の炭素重量は、産業革命以前の597Gtから165Gt増加して762Gt程度になっているとしています。
 既に示したように、産業革命以前と現在の条件の違いとして地表環境からのCO2放出速度の増大だけを考えた場合には、大気中のCO2の増加量は式(11)で求めたように88.32Gtであり、IPCCの炭素循環図に示された増加量165Gtの半分程度でしかありません。

 さて、産業革命以前と現在の地表環境の環境条件の違いを考えてみることにします。産業革命の起こった18世紀後期は、地球の気候の歴史で見れば14世紀から19世紀の小氷期に当たります。その後の地表環境は全般的には小氷期からの気温の回復過程にあり、徐々に気温は上昇しています。これがこの間の環境変化の特徴の第一です。
 次に、産業革命以後の産業化の進行に伴い、食糧生産の増産や木材資源の消費拡大、都市化の進行などによって陸域の森林減少が顕著です。これが特徴の第二です。
 こうした地表面環境の変化によって、大気からのCO2吸収能力はかなり変化していることが考えられます。気温の上昇は海水表層の水温の上昇を起こし、海洋表層水のCO2溶解度を減少させます。また、陸域では土壌の有機成分の分解を早めることになります。更に、陸域の森林の減少は伐採された樹木の分解、光合成能力の減少を引き起こします。
 こうした変化によって、同一の大気中のCO2濃度に対する地表環境のCO2吸収能力は産業革命以前に比較して低下していると考えられます。これは、循環モデルにおける吸収率rの減少として現れることになります。
 以下、IPCCの炭素循環図の数値から、現在の地表環境のCO2吸収率を算定すると以下の通りです。

r=(190.2+22.2+2.6)/762=0.282<0.319 ・・・(12)

 式(12)で求めた現在の吸収率rを使って、大気中のCO2の炭素重量と、それに対する人為的な化石燃料の燃焼による寄与を以下に求めてみます。

Q=(190.2+20.0+1.6+6.4)/0.282=773.8(Gt)≒762(Gt) ・・・(13)
1=冫in1/r=6.4/0.282=22.70(Gt) ∴儔1/Q=0.029≒3% ・・・(14)

 式(13)で求めた炭素重量の値はIPCCの炭素循環図の値より少し大きくなっています。これは、IPCCの炭素循環図では、qin=218.2Gt/年であるのに対して、qout=215Gt/年であり、現状が非定常であることに起因しています。しかしその誤差は高々

(773.8−762)/762=0.015=1.5%

程度ですから、循環モデルの(準)定常解を用いて非定常な状況を推定しても問題ないと考えます。
(続く)

No.502 (2010/12/08)増田耕一によるCO2濃度モデルB

2-2 CO2循環モデルによる非定常過程の解釈

 さて、前回は大気中CO2濃度モデルの構造を説明しました。準定常状態(qin、rは滑らかに変化し、その時間に対する変化率は小さい)の循環モデルを表す式を再掲しておきます。

Q(t)=qin(t)/r(t), (tは時間を表す変数) ・・・(6)

 実際の大気中のCO2量は炭素重量にして800Gt程度、その濃度は高々〜400ppm程度にすぎません。大気はまだまだCO2をいくらでも収容する能力があると考えられます。地表環境のCO2吸収の主要な生物過程である光合成において、現在の大気中CO2濃度は低すぎるくらいであり、CO2濃度が数倍になったとしても光合成を阻害する要因になることはありません。
 つまり、qin(t)やr(t)が多少変動しても、式(6)で表される循環モデルを構成する物理量の間に成り立つ基本構造はかなり安定したものであり、急激な変化が起こる可能性はほとんど考えられません。

 ここで、地表環境の吸収率rは変化せずに、地表環境からのCO2放出速度qinが変化する場合を考えることにします。変化量を明示するために凾付けて表示することにします。

 地表環境のCO2放出速度はqinから(qin+冫in)へと変化します。これによって、大気中に存在するCO2量は式(6)にしたがって、

Q+儔=(qin+冫in)/r, ∴儔=冫in/r ・・・(7)

に変化することになります。大気中のCO2量が変化することによって、地表環境のCO2吸収速度は式(1)に従って次のように変化します。

qout+冫out=(Q+儔)r, ∴冫out=儔・r=冫in ・・・(8)

以上の過程が進むことによって、大気中のCO2濃度は再び定常状態に落ち着くことになります。定常状態に達した大気について、式(6)と式(7)から次の関係が成り立ちます。

Q:儔=qin:冫in ・・・(9)

 つまり、大気中に元々含まれていたCO2量に対する増加量の比率は、地表環境からの元のCO2放出速度に対する増加した速度の比率に等しくなるのです。

註1) 注意すべきことは、冫inの変化による大気中に存在するCO2の変化量儔について、儔は冫inそのものが滞留しているという意味ではない。あくまでも冫inというCO2放出速度の変化によって、大気中に存在するCO2量が儔だけ増加するという量的な関係を示している。例えば、冫inの発生源が化石燃料の燃焼だとしても、必ずしも化石燃料燃焼起源のCO2が儔だけ増加している必要性はない。
 ただし、対流圏大気のように常に激しく攪拌されている空間に放出されたCO2は、発生源の如何にかかわらず急速に一様に拡散・混合すると考えられる。発生源毎の偏りのない一様に混合した状態であれば、発生源毎の放出速度比率と大気中に存在する発生源毎のCO2量比率は等しくなる。

 ここで、連載の冒頭で示した炭素循環図に基づいて、定常状態におけるCO2放出速度 qin=190.2(Gt/年)、産業化に伴って人為的な化石燃料の燃焼によるCO2放出速度の増加量を冫in1=6.4(Gt/年)として、現在の大気中に含まれる化石燃料の燃焼を原因として増加した大気中のCO2量を算定してみます。ただし、ここでは定常状態における吸収率 r=0.319 をそのまま使うことにします。

儔1=冫in1/r=6.4/0.319=20.06(Gt) ・・・(10)

 Q=597(Gt)ですから、化石燃料の燃焼を原因とする増加量は 20.06/597=0.034=3.4%(=6.4/190.2)になります。つまり、人為的な化石燃料の燃焼に伴うCO2放出速度の増加では、大気中のCO2濃度はわずかしか変化しません。CO2の炭素重量2GtがCO2濃度1ppmに対応するとすれば、高々10ppm程度の増加にすぎないのです。

(続く)

No.501 (2010/12/06)増田耕一によるCO2濃度モデルA

 さて、今回から本題に入ることにします。まず最初に、大気と地球表面環境との間の炭素循環の概略から紹介することにします。ただ、ここで注意すべきことは、実際の炭素循環について、その全体像を定量的に確定するだけの観測データは存在するわけではないので、いわゆる炭素循環図は推定を含んだあくまでも概略であり、細かな数値にそれほど重要な意味はありません。

1.炭素循環

 炭素循環図として、IPCC第4次報告書からの図と増田耕一の解説を紹介します。


炭素循環の概略(http://macroscope.world.coocan.jp/ja/edu/clim_sys/warming/carbon_cycle.html)
2009-06-22改訂したが、まだ暫定版。
IPCC第4次報告書(第1部会)図7.3

 

[図の説明: IPCC第4次第1部会報告書(Solomonほか, 2007)の英語から増田が仮に訳したもの。ただし角かっこ内は増田による補足。]

図7.3。 1990年代の全球の炭素循環。主要なフラックス(流量)を、「GtC/yr」 [つまり年あたり炭素としてのギガトン= 109 t = 1012 kg = 1015 g] を単位として示す。そのうち、工業化前の「自然」のフラックスを黒で、「人為起源の」フラックスを赤で示す。 [また、主要な貯留量を「GtC」つまり炭素ギガトンを単位として示す。] (Sarmiento and Gruber 2006をもとにし部分変更。貯留の大きさについてはSabineほか(2004a)によって変更。)

[(2010-03-08 補足) ここで「人為起源の」フラックスとは、「自然」の状態からの量の差を示すものであり、人為起源の炭素を別に数えているわけではない。]

陸からの総損失 -39 GtCは、化石燃料(fossil fuels)からの排出量の累積値から、大気中の増加量と、海への蓄積とをひくことによって推算されたものである。

「植生、土壌、枯死物」(vegetation, soil & detritus)の部分の損失 −140 GtCは、土地利用変化(land use change)による排出量の累積値(Houghton, 2003)を表わし、同時に陸上生態系への[累積]吸収 101 GtCがあることを想定している。 (根拠はSabineほかの文献だが、そこで示されているのは、前者は −140から−80 GtC、後者は 61から141 GtCという幅をもった形でであり、そのほかの不確かさは彼らの表1に示されている。)

大気との間の人為起源の正味交換量は[IPCC第4次第1部会報告書の] 表7.1の第5列「AR4」に示されたものである。

総計されたフラックス値は一般に±20%以上の不確かさをもつが、川(rivers)による輸送、風化(weathering)、海底への堆積などの項の見積もられた値はGtC/yrの小数点以下の値であるため、これらを含む収支を全体として合わせるために多めの桁数をとっている項もある。「GPP」は(陸上生態系の) 1年間の総一次生産量である。 [Respirationは呼吸である。]

大気(atmosphere)中の炭素貯留量と1750年から累積されたフラックス値は、 1994年末現在のものである。

[注意] 炭素量 12 gが、二酸化炭素量 44 gに対応する。


 さて、このIPCCの炭素循環図、ないしその解説には『人為的CO2地球温暖化仮説』に基づく非科学的説明が含まれていますが、この連載の中で明らかにしていきます。この問題はここではおいておくことにします。
 この炭素循環図の主張は、黒の矢印で示された炭素循環は産業革命以前の大気中CO2濃度が定常的であった当時の炭素循環を示し、赤の矢印を含んだ炭素循環は現在の炭素循環を示すものだということです。この主張はとりあえず承認しても良いでしょう。

2.循環モデルによる大気中CO2濃度

2-1 循環モデルの導出

 さて冒頭に示したIPCCによる炭素循環図から、工業化以前の定常的な炭素循環についてまとめてみます。

陸域のCO2放出量=119.6Gt/年=qin1
陸域のCO2吸収量=120.2Gt/年=qout1
海域のCO2放出量=70.6Gt/年=qin2
海域のCO2吸収量=70.0Gt/年=qout2

 以上をまとめると、

大気への年間CO2流入量=qin=qin1+qin2=190.2Gt/年
大気からの年間CO2流出量=qout=qout1+qout2=190.2Gt/年

 また、大気中に存在するCO2量は、Q=597Gtです。では、この状態をどのように解釈すればよいでしょうか?

 地表環境(海域を含む)から大気へのCO2の放出は、陸域における風化現象あるいは海域におけるCO2放出という無機化学的な過程と、地表生態系における呼吸という生物化学的な過程によって生じています。同様に、地表環境の大気からのCO2の吸収も無機化学的な過程と、光合成生物による炭酸同化作用によって実現されていると考えられます。
 しかしながら、大気中CO2濃度の定常状態、つまり『qin=qout』という条件はいつでも自動的に満足されるわけではありません。地表環境からのCO2放出という生物・化学的な過程と地表環境のCO2吸収という生物・化学的な過程は直接関係付けられているわけではなく、『大気に含まれるCO2』を介して間接的に関係付けられているからです。
 さて、生物・化学的な過程だと考えられる地表環境によるCO2吸収現象ですが、これは大気中のCO2濃度に直接的に関係していると考えられます。一般的に化学反応の反応速度は対象物質の濃度に比例すると考えられます。また、現在の大気中CO2濃度レベルでは、光合成反応も大気中CO2濃度に比例すると考えられます。
 ところで大気中のCO2濃度は300〜400ppm(ppmは百万分の一を示す単位)、つまり 0.03〜0.04%という微量なので、CO2濃度は大気中に含まれるCO2量に比例するとしてかまいません。比例定数をrとすると地表環境の年間CO2吸収量の一次近似を次のように表すことが出来ます。

qout=Q・r (r:比例定数,0<r<1)  ・・・(1)

 比例定数rの意味は、地表環境が大気中に存在するCO2量Q(Gt)の内、1年間にどれほどのCO2を吸収するかという割合であり、現象的にはCO2を吸収する生物・化学過程の活性度をあらわすものと考えることが出来ます。

 槌田は、この関係に基づいて一年当たりの離散的な表現を用いて、大気中に存在するCO2量の定常状態における値を、Qの初期状態を0とした場合の級数として次のように求めました。

Q= qin+qin×(1−r) + qin×(1−r)2+・・・+ qin×(1−r)n= qin×{1−(1−r)(n+1)}/r, (nは経過年数) ・・・(2)

この級数は急速に収束し、定常状態(n→∞)では次式が得られます。

Q=qin/r ∴ qin=Q・r=qout ・・・(3)

 あるいは、大気中に含まれるCO2量Qと地表環境の年間CO2放出量qinの関係は次の微分方程式で表すことが出来ます。

dQ/dt=qin−qout=qin−Q・r ・・・(4)

この微分方程式においてqin、rが定数の場合の初期値0に対する解は次のように求めることができます。

Q=qin(1−e-rt)/r, (tは時間を表す変数) ・・・(5)

この解のカッコ内の第二項はtの経過とともに急速に0に収束し、定常解(t→∞)は次のようになります。

Q=qin/r ∴ qin=Q・r=qout ・・・(3)

(あるいは、微分方程式(4)に定常条件であるdQ/dt=0とすることで、ただちに定常解を求めることができる。)

 定常解において、τ=1/rを平均滞留時間と呼びます。大気中に放出されたCO2の内、平均滞留時間が経過した後に大気中に残留する量はe-1=0.368、平均滞留時間の2倍が経過した後の残留量はe-2=0.135、平均滞留時間の3倍が経過した後の残留量はe-3=0.050と急速に減少していきます。つまり、大気中にCO2が一様に拡散しているとすれば、平均滞留時間の3倍も経過すれば、大気中のCO2はほとんど全量が入れ替わることになるのです。

 では、実際に工業化以前の炭素循環に対して循環モデルを適用してみます。qin=190.2Gt/年、Q=597Gtより、

r=qin/Q=190.2/597=0.319、τ=1/r=3.139年

つまり、3τ=9.417年も経過すれば、大気中のCO2はほとんど全て入れ替わっていたのです。

 以上、CO2循環モデルにおける定常状態を表す関係を示しました。実際の大気を巡る炭素循環では、地表環境から放出される年間CO2量であるqin、そして吸収率rは、いずれも地表面環境や大気の物理的性状の変化に伴って非定常に変化すると考えられます。しかし、いずれの物理量も、ステップ関数的な不連続で急激な変化はなく、滑らかに変化し、その時間に対する変化率は十分小さいため、非定常な場合においても準定常状態として、次の関係を利用してもさほど大きな誤差は生じないと考えられます。

Q(t)=qin(t)/r(t), (tは時間を表す変数) ・・・(6)

(続く)

No.500 (2010/12/06)異様な日本社会 そのF
日本は米国傀儡政権

 戦後日本は、侵略戦争の敗北を期に、国際紛争の解決手段として軍事的な手段を放棄すると言う、正に画期的な憲法を持つことになりました。
 しかし、日本を占領した米国の第二次世界大戦後の世界戦略の東アジアにおける前線基地として今日に至っています。残念ながら、形式的には独立国でありながら、本質的にはいまだに米国の属国としての地位から抜け出すことの出来ない状況が続いています。
 平和憲法の下、一旦は武装解除した日本でしたが、米国の朝鮮戦争を期に警察予備隊が創設され、これが自衛隊へと拡大されました。自衛隊は明らかに軍隊組織であり、その存在そのものが平和憲法違反であることは論を俟ちません。自衛隊は、平和憲法との整合性を主張するための狗肉の策として、自民党政権は『専守防衛』の軍隊であるとしました。
 しかし、国連のPKOへの協力と言う名目で自衛隊の海外派兵が正当化され、日米軍事同盟の下、東アジアに展開する米軍の補完部隊として米国の世界戦略に組み込まれて抜き差しならない状況になってしまいました。
 親米の前原らに代表される新保守主義的な色合いの強い民主党政権が登場し、更に東アジア外交を重視する鳩山が退陣し、露骨な親米、米国追従路線を持つ菅政権の登場によって、もしかすると自民党保守政権以上に日米同盟は危険な段階に向かいつつあるのかもしれません。
 北朝鮮を巡る情勢は、米韓の挑発的な対応が続いています。朝鮮戦争の当事者である韓国と米国とは異なり、日本はこの戦争には直接的には関係がないばかりでなく、まがりなりにも平和憲法=国際紛争の解決手段として軍事的な手段を用いないとしているのです。ところが今、日本は日米軍事同盟によって、正に当事者として朝鮮戦争に軍事的に加担しているのです。
 このような状況に対して、何ら批判することなく現状を追認するしか脳のない新聞・報道機関は既に前大戦の戦時下における大本営発表をそのまま伝えたのと同様に、国民を洗脳する装置になってしまっているのは、恐るべきことです。

 さて、WikiLeaksによる米国機密文書の漏洩が騒がれています。日本の尖閣諸島のビデオ映像の流出、そして米国機密文書の流出などについて、国家を不安定化させる犯罪・テロ行為などということが言われていますが、なんと愚かな主張でしょうか。外交・軍事における機密とは、国民大衆には知られてはまずい権力者にとって都合の悪い情報の謂いでしかありません。個人的なプライバシー情報は別として、可能な限りこのような機密を必要としない国家こそ本来のあるべき姿であり、報道機関は出来る限りこのような機密を白日の下にさらすことこそが重要なのだと考えます。
 さて、WikiLeaksによる流出文書によると、このHPにおいて『灰色の国の事務局長 どうする日本の核武装準備』で報告したIAEAの事務総長に就任した天野氏が、事務総長就任前に米国の核戦略に賛成することを約束していたことが明らかになりました。また、民主党政権が唐突に言い始めた日本の武器輸出三原則の撤廃に関しても、米国の意向が強く反映していることが明らかになりました。我が日本の歴代政権は、自民党が民主党に変わろうとも、戦後一貫して米国の意向によって踊らされているのです。いつになったら米国の圧力から脱した、真の独立国家になれるのでしょうか。

No.499 (2010/12/01)増田耕一によるCO2濃度モデル@

 東京大学IR3S『地球温暖化懐疑論批判』が発行されて1年余りが経過します。この冊子(以下、単に冊子と呼ぶ)が発行されて以後、人為的CO2地球温暖化仮説を主張する研究者からの発言は何故か激減しているようです。
 そのような中で、冊子の執筆者の一人である増田耕一氏(現在、海洋研究開発機構[JAMSTEC]地球環境フロンティア研究センター 水循環プログラムサブリーダー、慶応義塾大学環境情報学部非常勤講師)は、菊池誠氏(大阪大学サイバーメディアセンター大規模計算科学部門、(兼)大学院理学研究科物理学専攻、(兼)大学院生命機能研究科 )のブログ『kikulog』や、増田氏と同じく冊子の執筆者の一人である吉村純氏(気象庁気象研究所)と共同で運営していると思われるブログである『気候変動・千夜一話』の中において、ほとんど破綻しかけている人為的に放出されたCO2による地球温暖化仮説を擁護する立場からの発言を盛んに行っています。しかし、残念ながら増田氏の主張は様々なレトリックを用いた意味不明の主張であり、自然科学的には無内容な主張であるのは残念です。
 増田氏の記事に対して、気象予報士のはれほれ氏は彼のツイッターの中で次のように論評している。


人為起源CO2。http://bit.ly/bqRTty温暖化論者も自分たちの主張のおかしさにようやく気づいた模様。槌田近藤説を認めた?しかし、もともと「こういう意味で言っていたのだ」と解釈の仕方が悪い!という論調。ここまで強弁するかっ!普通。科学者としても人間としても論外。


 増田氏の文章は、過剰なレトリックによって非常に論点が分かりにくく、非論理的な文章であるため、読者を煙に巻くものになっています(むしろそれを狙った文章であるのかもしれません・・・。)。

 このコーナーでは数回にわたって、彼のブログの記事『炭素循環の中での人為起源二酸化炭素(1)』『炭素循環の中での人為起源二酸化炭素(2)』を検証することによって、彼の論理の非合理性を明らかにしていくことにします。
(続く)

No.498 (2010/11/30)異様な日本社会 そのE
原爆被爆国の核兵器開発

 このHPでは、エネルギー供給技術としてまったく無意味、つまり石油・石炭資源の節約につながらず、したがってCO2排出量削減にもまったく寄与しない、小回りの利かない木偶の坊である原子力発電の廃止を主張しています。また、非経済的で莫大な国家予算をつぎ込んで行われてきた原子力発電の本当の目的は、すぐに軍事転用できる核関連技術の保有であり、日本は潜在的な核兵器保有国なのです。この点については、昨年の鳩山政権発足直後の国連での『日本は核兵器を製造する能力を持っているが、製造しなかった』という発言が端的に示しています。

 現在でも、原子力発電の唯一の存在意義は軍事転用可能な核関連技術を温存することであることは明らかであり、これを見て見ぬ振りをする日本の反核運動やマスコミ報道のあり方は理解できません。

 さて、『過去の歴史において』ということで、日本の核武装の準備が現実のものであったという新聞記事が出されました。しかし、状況はまったく変わっておらず、現政権においても日本の原子力政策は本質的に不変であることを理解しておかなければならないと考えます。

 

参考:核開発に反対する会ニュースNo.36 6頁New!

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